トーキング・マイノリティ

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エドワード・サイード その二

2015-12-20 22:06:05 | 読書/ノンフィクション

その一の続き
 サイードは何故ルイスを批判の対象にしたのだろう?池内氏はその理由は容易に想像がつくという。ルイスこそが実証史学や文献学的な中東史・イスラム思想研究と、米国の対外政策の立案と結び付いた中東地域研究との結節的に位置する、象徴的な人物だから、と。手堅い実証的研究を行ってきて、そのテーマが現代の政治情勢を長期的な視野のもとで理解する際にも参照し得るがゆえに、彼が政治的に重きをなすという可能性はある、とも云う氏。
 手堅いが、全く現代の政治情勢には無縁というタイプの碩学も数多くいるそうだ。反対に政策と結び付き過ぎ、学術研究とは離れていると見られる研究者も多い。その両方を兼ね備える位置にあり、高い社会的威信や知名度を確保しているという意味でルイスは稀有な存在である、と批評している。

 研究者としてのルイスが属する“地味な”中東世界の研究は、政策論としては直接結びついてこないものの、イスラム世界の文化遺産や社会構造の深部に迫るような研究を重ねているという。私が見たルイスの著書は、『イスラーム世界の二千年―文明の十字路中東全史』と『イスラム世界はなぜ没落したか?』の2冊のみだが、やはり中東史の権威と呼ばれるだけある内容だと感じたし、見解は鋭かった。
 実際、欧米の中東研究はアラブ世界やイスラム世界の知識人が自分の社会や文化を論じる時にも依拠せざるを得ないような蓄積を残しており、その成果にかなり頼っていて、アラブ・イスラム世界の自己認識も成り立っているそうだ。

 また、過去の「オリエンタリズム」と言われるものの中でも、例えばドイツの実証主義的な文献批判学の蓄積などは、イスラム教やイスラム思想を理解する時の基本的なインフラを整備してくれたという面で功績が大きいという。西欧の学者たちこそが基本的な写本の収集、文献校訂、テキスト確定などの作業を行ってきたのだ。
 こちらの方が実際には中東研究の基礎になっており、いわゆる西洋の中東認識の基礎になっているだけではなく、中東内部での中東をめぐる研究や議論の前提になっている。しかし、これらの地味な成果を、サイードのオリエンタリズム批判では検証していないのだ。学問の世界では参照されることもないような、通俗的なオリエント論を取り上げ、あたかも学問の世界もその程度の言説を生産しているかのような議論を行い、欧米の非西洋社会の認識の総体に負の烙印を押してしまうとか。

 つまり、実証的にしっかりしている部分については批判していない(出来ない)にも関わらず、過去の研究の総体を批判するかのように見せる。そうすると欧米や日本の読者は、中東やアジアの専門家でない限り、それを検証する術がない。そしてサイードにとっては検証されてしまうと困るのだ。
 ルイスというのは、サイードにとってきっと“眼の上のたんこぶ”なのだろう、とも言う池内氏。実証史学・文献学の面では中東研究の本筋にしっかりと位置しつつも、「近代化」の重要な局面を研究してきたがゆえに現代政治に関連しても参照されうる。サイードが何が何でも(学術的な実証性などかなぐり捨ててでも)、この大物だけは論破しておきたいと考える理由は、心理的には分る。しかしそれは、学問に内在した問題ではないことは知っていた方がいい、というのが池内氏の言い分なのだ。

 実は私は未だにサイードの『オリエンタリズム』を読んでいない。パレスチナ人というだけで欧米人の中東に対する見解を、何でも“オリエンタリズム”というカテゴリーに結び付ける傾向が強い人ではないのか…というイメージが漠然とあったのだ。欧米人の思い込みや幻想、無知に基く偏見を“オリエンタリズム”として正すのはいいが、被害妄想のバイアスが入ると、学術的とはかけ離れた論争に陥りがちになる。そのため何となくサイードを私は敬遠していたのだ。
 これは私自身の“偏見”も少なからずあるし、池内氏のサイード批判も言いがかりに近いものと感じた人もいるはず。しかし、多くのアラブ人が自分たちの“没落”の原因を4世紀に亘り支配したトルコや植民地支配した西欧列強、第二次世界大戦後はアメリカ・イスラエルに帰しているだけで、サイードの主張への全面信用は再考する方が賢明かもしれない。
その三に続く

◆関連記事:「世界史の中のアラビアンナイト

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