トーキング・マイノリティ

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エドワード・サイード その三

2015-12-21 21:40:11 | 読書/ノンフィクション

その一その二の続き
サイードに批判されるルイス」という構図自体は、それなりに米国の政治的・文化的な背景に支えられているそうだ。米国で“多文化主義”が政治思想や政策的議論において重要な焦点になっていく中での、“文化闘争”のひとつの局面として面白い事例だ、といって見物している分にはいい。
 だが、これが文脈を切り離して日本に輸入され、日本の土着の文脈に置き直され、それ自体があたかも学問的な本筋の議論であるかのような誤解を固定化させて自己再生産されていくと、話は別だ、という池内氏。

 これは日本の学問全体に言える問題だろうが、と前置きした後、日本の学派の構造を氏は指摘する。例えばサイードが流行だ、ということになると、サイードの言説をその本来の文脈から切り離し、一字一句そのまま受け入れて「サイード学派」のようなものを形成し、それに従い日本で独自の小さなピラミッド状の言説の権力構造を作っていくことになってしまうそうだ。
 欧米の議論の対立が日本に移植されると、純化され、先鋭化されていく。サイードを少しでも批判する、或いはルイスのようにサイードが批判する相手を僅かでも肯定することは、この小さなピラミッド構造によって支配される世界の中では決して許されないという。

  アラブ・イスラム政治思想の専門家である池内氏の意見で、特に印象的だったのが以下の文章だった。
ルイスやサイードをめぐる日本の議論には、奇妙にアラブ世界やイスラム世界そのものの姿が希薄である。つまり、「アラブ」「イスラム」「中東」というものの理解のあり方をめぐって、日本人の間で対立が生じているように表面的には見えても、少し検討して見るとそれは「中東をめぐる問題」などではなく、何よりも「日本をめぐる問題」なのである。
 日本人が自らの近代、或いは近代そのもの、そして「近代化論」を考える際に、引き合いに出される対象としてしか「アラブ」も「イスラム」も存在していない。おそらく、日本の中東研究者の多くは今日に至るまで、絶えずひとつの幻想を追い続けてきたのではないか。「我々の近代ではないものが、きっと向こうにあるはずだ」という、西洋崇拝とは逆の幻想

 これには無名の一中東オタクの私にも耳が痛かった。中東専門家はもとより一介のオタクに至るまで、この地域には大なり小なりの西洋崇拝とは逆の幻想を抱いているはず。サイードは彼らの幻想に利用されたのであり、これからもされ続けるだろう。西洋を持ち上げて日本を貶しつける西洋崇拝者と、中東を称賛し日本をこき下ろす中東シンパの姿勢は全く同じなのだ。
 但し、単なる西洋または中東称賛一辺倒の日本人ばかりではないと思う。西洋専門家、中東専門家問わず、己の研究する地域を美化することなく、過小評価することもない人々こそが良心的な真の研究者ではないか?ブロガー「ブルガリア研究室」さんからも、長所、短所ともに書かないと、歴史を描いたことにはならない、というコメントを頂いたことがあった。

 サイードやイスラム世界を称賛・擁護する日本の知識人や思想界の現状を池内氏はズバリ、「オリエンタリストなき国のオリエンタリズム批判」と表現しており、言い得て妙だと思う。その理由はこうなのだ。
 中東に生じてくる思想と政治の事象を歴史の流れの中に正確に位置づけ、虚心にかつ犀利に分析し、次に生じてくる変動の予兆と結び付けようとしてきた者たちを、もし「オリエンタリスト」と呼ぶのであれば、日本は未だかつて1人のオリエンタリストも輩出していない。にも関わらず、サイードのいう「オリエンタリズム批判」だけが輸入され盛んであることに混乱の元がある。そして氏は次の提言をしている。
今後の日本の研究者に必要なことは、「オリエンタリスト」と謗られることをあえて怖れない蛮勇ではないだろうか

 池内氏の提言は他人よりも己自身に向けられた叱咤に感じたのは、私だけではないだろう。過去にブログで何度も言っているが、私が中東に関心を持ったのは、学生時代に映画「アラビアのロレンス」を見たことがきっかけだった。この映画に影響され中東研究家になった方も少なからずおり、西欧の学者たちの基礎的かつ地味な学術研究こそが、中東研究の基礎になっているのは日本の学界も同じなのだ。
 当然ながら「アラビアのロレンス」も、サイードはオリエンタリストとしてやり玉に挙げていたし、ロレンスこそが真のオリエンタリストだったのは否定しえない。池内氏の著書『イスラーム世界の論じ方』(中央公論社)には、第一次世界大戦後の1920年8月、ロレンスはアラブを統治することになった祖国と旧支配者トルコを比較、『サンデータイムズ』紙でこう述べていたという。

「わが政府のやっていることはかつてのトルコの体制以下だ。トルコは1万4千人を現地で徴発し、年平均2百人のアラブ人を殺して平和を維持していた。わが国は9万人の兵をおき、飛行機と装甲車と戦艦と装甲鉄道車輛を擁している。そのわが国は、この夏の蜂起に際し、約1万人のアラブ人を殺したのだ」

◆関連記事:「砂漠の反乱
 「大英帝国時代の知識人
 「アラビアのロレンス完全版

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