愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

『Unknown Pleasures』発表までの経緯――(4)

2011-02-16 20:34:12 | 日記
 Candidate――イアン・カーティスの愛犬(2)http://blog.goo.ne.jp/mstshp/e/90b34ef193623935ef1e752d63268ce8の記事に挙げたエピソードは、キャンディだけではなく、臨月のデボラをいたわる行為でもありました。

 イアンはフォームラバーが触るのも嫌なほど大嫌いだったが、……愛犬キャンディのいたずらを始末した時に、この苦手を克服した。それはある日の午後、病院の健康診断から家に帰って来た私は、居間一面が足首までフォームラバーで埋まっているのを見た。身重の体でずっとあっちへ行ったりこっちへ行ったりしてすっかりへとへとになっていた私は、キャンディがソファの中身を全部出してしまったのを見て泣きたくなってしまった。するとイアンが四つん這いになって散らばった中身を拾い、クッションにすべてつめ直してくれた。それから外出すると、箱入りのチョコレートを私に買ってきてくれた。そんなことをしてくれるなんて、結婚して初めて見せてくれた最高のイアンだった。
(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』第7章)

 「最高のイアン」を「結婚して初めて見せ」ると同時に、家庭と音楽活動の間に、明らかに線が引かれ初めたのは、実はこの頃からでした。断片的ではありますが、妻の証言とバンド側の証言を見ていると、創作と日常生活はきっちりと切り替えられていたように見えます。それは「それが意図的であるかないかはともかく、メンバーの妻やガールフレンドは徐々にギグへ行くことから閉め出されるようになり、彼らには奇妙な男の絆が形成された」(同)というように、両者が決して相容れない世界であるとイアンに自覚されたことも示しているのではないかと思います。デボラは、第8章で次のように記しています。

 最初私は、『アンノウン・プレジャーズ』が好きではなかった。それは、バンドの“堅固な輪”から徐々に閉め出されたことに嫉妬していたからかも知れない。あるいは病的な葬送歌とも言えるこのアルバムを心から心配していたからかも知れない。このアルバムの詩に馴染んでくると、イアンが憂うつだった十代の頃に舞い戻ったのではないかと心配になった。彼は私が妊娠している間、過度に優しくしてくれたが、同時にこれらの詩を書いていたのだった。
 「だけど憶えているよ、僕らが若かった頃を」と、イアンはあたかも若い時を終えてしまったように年寄りじみて言った。私は「ニュー・ドーン・フェイズ」の歌詞をあれこれ考えた末に、イアンの前でその意味するところについて切り出した。つまり、これは歌の歌詞に過ぎず、彼の本当の気持ちではないことを確かめたかったのだ。しかし、この会話は一方通行に終わり、私が話題にしたことに肯定も否定もせず、彼は外へ出て行った。

 デボラの問いにイアンが答えられなかった、または答えなかったのは、単に詩が「本当の気持ちか否か」ということではなかったからではないかと思います。詩を書く時、「潜在意識に従って書く」とインタビューで答えていたイアンですが、「詩と現実」は、単純に「虚と実」という対立ではなく、それぞれが別世界のもので、各々の世界で「本当の気持ち」が存在するということではないでしょうか。
 スティーヴンはこんなことを語っています。 

 『アンノウン・プレジャーズ』でイアンがやっていたことは、キャラクターを演じることだったと思うよ。そして彼は他者の視点を通して詞を書いていたんだ。……当時は『クローサー』でも同じことをやっていると感じていた――今になって分かったんだけど、必ずしもそうじゃない。彼はもうキャラクターを描き出してはいなかった。それは全て、彼自身とその人生についてだったんだ。
 (スティーヴン・モリス『クローサー』コレクターズ・エディション収録のバーナード・サムナーとピーター・フックとの鼎談)

 『Unknown Pleasures』の時点では、「演じ」ていたのだとスティーヴンは見ていますが、私は、現実の生活と、創作上の虚構と、2つの世界をそれぞれリアルなものとして行き来していたのではないか、と想像します。そういう創作の方法が『Unknown Pleasures』で確立されたのだと思うのです。
 「私小説」にしてもそうですが、創作と現実の生活については、安易に「虚実」が一致するかしないかという問題ではないのではないか――イアンの詩を読んでいると特にそういう印象を持ちます。作者自身の心情は、量りかねるところはありますが、受け手の立場から見ると、魅力的な創作には、「虚か実か」といった問いかけが無意味になるような、特別なリアリティがある、ということはあると思います。
 『Unknown Pleasures』の音について、当時マンチェスターでファン雑誌を立ち上げていた、ライターのリズ・ネイラーはこう語っています。「あのアルバムが出た時まるで、私がいる場所の環境音楽だと思った。私にとって彼らはほとんど環境バンド。普通の音じゃないの、住んでる街の音(ノイズ)なの」(ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』)また、ポール・モーリーは「マンチェスターのSF的解釈だ」と表現しています。彼らが等身大の若者として現実に生きている場所、マンチェスターをリアルに感じさせる音楽が、同時に、SFのように不思議な世界への入口となる――この特徴は、イアンの歌詞にも良く表れています。
 「“僕の手を引く先導者をずっと待っていたんだ”その歌詞のまさに1行目から『アンノウン・プレジャーズ』は聴く者を深い闇の旅へと誘う」(ジョン・サヴェージ『Unknown Pleasures』コレクターズ・エディション版ライナー・ノート)という「Disorder」。既に述べたように、この詩はJ・G・バラードの小説を踏まえ、「普通の人間の感覚が無くなった」という不思議な心情を描いています。そして、「全ての道路が合流する街の中心で、君を待っていた」という「Shadowplay」、また、ウィリアム・バロウズの『裸のランチ』に出てくる架空の都市をタイトルに据え、「街の境界内をくまなく歩いた」という書き出しで始まる「Interzone」等々――歌詞に描かれる印象的な“街”の風景には、マンチェスターへのイメージを掻き立てられます。と同時に、そこにはどこかシュールな雰囲気が漂い、詩の主人公が架空の世界に迷い込んでいくような印象も受けます。全編を通じて共通するのは、デボラが「病的な葬送歌」と感じた憂うつな気分ですが、その心情も、「Disorder」のような不思議な感情と、「Candidate」のような、生活に即したようなものとがあり、日常と非日常の間を行き来しているような感じがします。

 こうして歌詞とサウンドの特徴をふまえつつ、改めて、イアンとマーティンの間に確かにあったと周囲が感じた「ある親密な関係」について考えてみます。マーティンは、イアンが作詞の際に掻き起こす深層心理に呼応したのではないでしょうか。そもそも、イアンが内面に持っていた世界、バラードが言うところの「内宇宙」は、ジョイ・ディヴィジョンのサウンドとともに成長していったという面があると思います。さらにそれを強調し、響き合う音を創り出したのがマーティンで、以後イアンは、その世界にますます沈潜していくようになったのではないでしょうか。
 「フック、モリス、サムナーは楽曲に連れていかれた場所から戻ってくることができた。しばらくの間はカーティスもそうだった。だが最終的には、曲が誘う夢の国から戻ってくるのが困難になっていったのだ。そこで彼は、自分が置き去りにしたものよりも遙かに啓示的な魅力をたたえたリアリティを創り上げていたのだ」と『クローサー』コレクターズエディションのライナー・ノートにポール・モーリーが書いているように、『Unknown Pleasures』以後、創作と私生活の切り替えは、イアンにとって次第に困難になっていったように思われるのです。


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