愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

『Unknown Pleasures』発表までの経緯――(2)

2011-01-26 20:58:43 | 日記
 マーティン・ハネット(1948~1991)の奇才かつ変人ぶりを描いているのは、何といっても映画「24アワー・パーティー・ピープル」です。録音の場面で、ドラムについて、「そういう叩き方は2万年前からやってて飽き飽きなんだ。もっとシンプルにやってみろ、速く、ゆっくり。」と指示し、ついにはドラムキットを解体し、スタジオの屋上に設置して叩かせる場面が印象的です。ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』でも、「堂々と謙虚に」とか、「ハッパのせいか禅の修行なのか分からない」とスティーヴン・モリスは語っています。
 映画『コントロール』では、殺虫剤を噴霧する音を録音する様子が描かれていますが、グラスが割れる音、エレベーターの閉まる音、誰かがポテトチップスを食べる音、さまざまな雑音を効果音として取り入れたこのアルバムは、「マーティンはfucking pop recordを作る気は全く無かった。彼は実験がしたかったんだ」(『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』に収録されているバーナード・サムナーの言)というように、ありきたりなポップ・ミュージックとも、当時流行していたパンクとも一線を画す作品となりました。
 マーティンは当時最先端の機材であったエフェクター、AMSを駆使して自在に楽器の音を変えました。スティーブン・モリスは、「彼がボタンを押し僕がスネアを叩くと音が箱の中に入る。魔法みたいで驚いた」と言っています(ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」)。そして、マーティンはAMSの開発にも深く関わっていました。

「AMS社の変人の切れ者二人にマーティンは見出された。彼らは月に一度荒野の岡の駐車場で会ってた。あいつはイカれたクスリ中毒だ。その彼が連中の車に乗り込み30分ほど話すわけだ。頭に描いてる音のイメージを」トニー・ウィルソン ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』

「ビートルズ、U2、ボウイ、ピンク・フロイド、歴史に残るアルバムには必ず偉大なプロデューサーがいる」と『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』にはありますが、マーティン・ハネットとの出会いによりジョイ・ディヴィジョンの世界観は確立したといえるでしょう。「マーティンはジョイ・ディヴィジョンの理解法を示した。彼らの中に何かを発見し、何かを感じ取った。それが何なのかを頭の中に投影してたんだ」というピーター・サヴィルの言(ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』)が印象に残ります。
 一方、バーナード・サムナーとピーター・フックはこのサウンドに当時かなり不満を持っていました。絶賛されたけれども、「世界中でバーナードと俺だけが気に入らなかった。皮肉だ。たまには気が合う」とピーター・フックはドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』で語っています。気に入らなかった理由は「こんなの暗くて誰も聴かないと思った。浸透しない、と。」(バーナード・サムナー)というサウンドの重苦しさに加えて、彼らがライブで演奏している音とあまりにもかけ離れていた、というところにありました。RCAレコードで録音された音源(これは海賊版と、4枚組のボックス・セット『Heart And Soul』のdisc3に収録されています)や、『Unknown Pleasures』のコレクターズ・エディション盤と『Heart And Soul』のdisc4に収録されている1979年7月13日にファクトリーで行われたライブの録音(『Unknown Pleasures』の発売直後のもの)と比べてみると、よく分かります。下手くそで荒削りな演奏ですが、激しく、エネルギッシュで、これはこれで強い印象を与えるとは思います。しかし、同時に、マーティン・ハネットのもたらしたジョイ・ディヴィジョンの“解釈”がどれほどのものかもよく分かります。初めてライブの演奏を聴いた時は、あまりにもスタジオ録音と違うので驚きました。とくにイアンのボーカルの激しさには圧倒されます。個人的に最も違いを感じるのが、『Closer』の冒頭の曲「Atrocity Exhibition」です。これは、前述の1979年7月13日のライブの他、『Still』のコレクターズ・エディション盤に収録されている1980年2月20日にハイ・ワイコム・タウン・ホールで行われたライブの録音を聴くことができます。どちらも鬼気迫るボーカルで、レコードの方の、空間をさまようような独特の静けさが漂うボーカルとは全く違います。
 「生身のジョイ・ディヴィジョンには身体的な激しさがあった。だが、マーティン・ハネットはベースとギターを抑え、イアン・カーティスのヴォーカルとスティーヴン・モリスのドラムにのみディレイとリヴァーブを施した」(『Unknown Pleasures』ライナー・ノート収録のジョン・サヴェージのレヴュー)というように、「ボーカルとドラム」の音は、マーティンが最も神経を費やしたところだったようです。例えば「インサイト」では、イアンの声は「必要な距離感を得るため」(同レヴューより)電話線を通して録音されています。
 『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』には、「ハネットは、カーティスのボーカルに明確に焦点を置いた」とし、「ハネットがジョイ・ディヴィジョンにほどこした優れた仕掛けは、リスナーとボーカルの間に親密な関係を提案した。楽器の音と切り離したことで(筆者注:ボーカルだけいつも別録りだったということを指していると思います)、リスナーは、ボーカルに独特な余韻を感じ、シンガーがリスナーに向かって独りで歌っているような印象をもたらした」とあります。そして、「ハネットは効果的に不安感を誇張し、意図的にジョイ・ディヴィジョンの太いサウンドを全く不自然な何かにモーフィング(人の顔を徐々に変化させて別の顔にする技法)した。本来のパワーは失われたかもしれないが、繊細で神秘的な共鳴を得た」(同)という繊細さ・神秘さは、イアンの詩が持っている雰囲気に通じているように思います。
 『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』は、「ハネットは、イアンの声から、誰もが、バンドのメンバーでさえ見落としていた何かを聴いた。恐らくカーティス自身も気付いていなかったのでは?」と記しています。『Heart and soul』にジョン・サヴェージが寄稿している文章の中に、マーティンのイアンについてのこんな言葉が記されています。「イアン・カーティスはそのゲシュタルト(形態)に近づく、ひとつの手段だったんだ。その時代、唯一僕がばったり出くわした存在だったね。ライティングの指揮者だったよ。」
 『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』には、マーティンとイアンの関係についての、関係者の証言が記されています。マーティンがイアンの声と歌詞から受けたインスピレーション、そしてイアンがマーティンから受けた影響について、考えてみたいと思います。

『Unknown Pleasures』発表までの経緯――(1)

2011-01-19 21:04:03 | 日記
 ジョイ・ディヴィジョンの1stアルバム『Unknown Pleasures』については、ウィキペディア(日本版)にも項目が立っており、また、このレコードをファクトリー・レコードから発表することになった経緯については、『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版のライナー・ノートやドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』などで知ることができます。ここでは特に、イアンの詩を理解するため、『Unknown Pleasures』制作過程でのイアンの生活に焦点を置いてまとめてみたいと思います。
 『Unknown Pleasures』は1979年4月に録音、6月にリリースされました。イアンが癲癇を発病したのが1978年12月27日、妊娠中の妻デボラのお腹はこの頃にはかなり目立ってきていました。ナタリーが誕生したのが1979年4月16日、私生活において大きな変化があった時期と重なっています。
 イアンはまだ公務員として働いていましたが、「後から考えてみると、家族を持ったのは分別のある行動と言えるものではなかった。私たちの経済状態はとても不安定な状況にあったからなおさらだ」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』第7章)とデボラが書いているように家計は楽ではなかったようです。しかし、「家族を持ちたいという私の願いはどんな金銭的な困難にも打ち勝つと思っていた」(同)というように、デボラにとっては母となることの喜びが将来への不安よりも勝っていました。イアンはデボラの妊娠を喜び、それは優しく接したようですが、予定日を目前にした4月のある日、突然「僕たちの他にもう一人ここに人がいる状態なんて想像できないよ」と言い出したというエピソードなどから、情緒不安定なところも窺えます。夫としての責任、父親としての責任、そしてバンドのフロントマンとしての責任を重荷に感じることもあったのではないでしょうか。
 こうしたイアンの私生活などをアルバム制作のエピソードと照らし合わせてみると、創作と生活の対立がよく分かるように感じました。『Unknown Pleasures』の制作については上記の資料などがあり、語り尽くされているようにも思いますが、簡単にまとめた上で、イアンの伝記『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』と『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』にある、当時のイアンの様子について、記してみたいと思います。前者は創作に没頭する姿が、後者には夫としての姿が描かれています。

 『Unknown Pleasures』は1979年6月にリリースされましたが、それより前の1979年1月に、ファクトリー・レーベル初のレコードとして発売された2枚組のEP『A Factory Sample』に、ジョイ・ディヴィジョンは2曲を提供していました。このレコードはトニー・ウィルソンのもとに入った母親の遺産を費用にあてて作られたもので、レコード会社としてのファクトリーの今後は、まだ未知数の状態でした。
 その頃、ジョイ・ディヴィジョンは、メジャー契約を取ろうとしていました。1978年4月にRCAレコードで数曲録音したけれども結局契約に至らなかったことは既に記しましたが、この他に、ロンドンにある大手レコード会社ジェネティック(ワーナーのサブレーベル)のオファーを受け、1979年3月にレコーディングを行っています。しかし、結局「ロブ・グレットンは、トニー・ウィルソンのところであくせく働くことのほうが、a)より興味深い、そして、b)よりストレスも溜まる、しかしながら、c)最終的には報われる、と判断したんだ」(ピーター・フック 『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版ライナー・ノート収録のジョン・サヴェージのレヴューより)ということになりました。
 ジェネティックが提示した4万ポンドの契約金を蹴ってファクトリーと契約したのは、お金よりも独立性を優先したためでした。ロブ・グレットンはメジャーレーベルではなくインディペンデント・レーベルのファクトリーから1stアルバムを出す方が、“パンクの論理”にかなっていると考えた、と『Bernard Sumner ―Confusion』には書かれています(p 68)。『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』は、〈イアンの母と妹はイアンのモチベーションはお金にはないと信じていたが、デボラにとってはそうではなかった〉という書き方をしています。総じてこの本はデボラに批判的ですが、これもその一つです。デボラの方は、ファクトリーと契約したことについての契約金の不満などについては特に記していませんが。
 ウィキペディア「アンノウン・プレジャーズ」項には「『メロディ・メイカー』誌には、ジョン・サヴェージによる「この年のどのLPよりも最高のものとなるだろう」という賛辞が掲載されたが、ヒットには結びつかず、グループのリーダーであったイアン・カーティスの死後の1980年8月に、ようやく全英チャート・インを果たす。」とあります。しかし、ここには事実誤認があって、『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版ライナー・ノートによれば、地方都市マンチェスターで設立されたばかりのインディー・レーベルからリリースされた1stアルバムは、宣伝費も最小限に抑えられ、しかも初回限定5000枚は即完売したものの、イアンの没後まで再プレスされなかったのです。そのため、ヒットチャートには上らなかったということなのです。
 このアルバムは、「前身グループ(筆者注:ワルシャワ)のパンク・ロック色の強いサウンドを内向的な方向へと深化させ、ぎくしゃくとつんのめるビートと覚醒的なギター・サウンド、内省的なボーカルによって、パンク以降のロック・ミュージックの新しい感覚を描き出し」(Web版『日本大百科全書』「ジョイ・ディビジョン」項)、続いて10月に発表されたシングル「トランスミッション」によって、「彼らは一躍ポスト・パンクの方向性を示したグループとの評価を受ける。」(同)ことになりました。こうしたパンク以後の流れを決定づけるバンドとして名を残すことになったジョイ・ディヴィジョンの成功をもたらした大きな要因として、必ず語られているのが、プロデューサーのマーティン・ハネットの存在です。
 ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』本編に収録されず、スペシャルエディションDVDに特典として収録されているインタビューで、トニー・ウィルソンは『NME』誌のライター、ポール・モーリィの本『Nothing』(自身の父親の自殺やイアンの死について綴った著)を「モーリィの最高傑作だ」と評し、その中でも特に「マーティン・ハネットは“地球を周る月の音を聴く男”、見事なフレーズだ」と賞賛しています。この「見事なフレーズ」で形容されるにふさわしい、天才マーティン・ハネットが創り出した音とジョイ・ディヴィジョンの融合が、「新しい感覚を描き出し」たといえます。

※『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』からの引用は、特に注記しない限り、第10章「Unknown Pleasures」からのものです。