愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

Candidate――イアン・カーティスの愛犬(2)

2010-12-22 20:03:41 | 日記
 イアンとデボラが犬を飼うことになったのは、デボラの実家で飼われていた犬、テスが死んだことがきっかけでした。映画「コントロール」の、高校時代のイアンがデボラの家を訪ねる場面で、イアンがテスと嬉しそうにじゃれあっています。このあたりは「イアンおたく」と言われる監督ならではの演出かな、と思います。
 『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』には、1978年の夏のギグの記述の後、老犬になったテスが安楽死させられることになってしまった、という記述があります。キャンディを飼うことになったのは、この頃のことだと思います。少し長くなりますが、引用します。

 ある午後イアンは椅子に座って私を待っていた。そして、「君の両親が老いぼれ犬のテスを安楽死させるはめになってしまったよ」と言った。……私は愛する人を亡くしたかのように泣きじゃくった。そのくらい愛していた犬だった。イアンはすべて分かってくれた。お昼が終わる頃、私たちはまた犬を飼うしかしょうがないという結論に達した。夜イアンの仕事が終わるのを待って、この土地の動物保護区域にあるウィンディウェイ・ケネルズまで車で丘を上っていった。コロコロと太ったボーダー・コリーの子犬の兄弟が何匹か新しいご主人のために用意されていて、私たちは人なつっこくよくじゃれるメス犬を選んだ。イアンが、ヴェルベット・アンダーグラウンドの曲「キャンディ・セッズ」から取って犬の名をキャンディと名づけた。イアンがものすごく喜んでキャンディと遊ぶので、今までどうして犬を飼うことを思いつかなかったのだろうと思った。キャンディのしつけと“おすわり”は私が教え込み、イアンは快く散歩を買って出てくれた。彼は強引にキャンディを服従させるようなことは一度もしなかった。私は今でも彼らの一緒にいる姿が目に浮かぶ。興奮してハアハア喘いでいる犬に、ひょろっとした若い男が腕を伸ばして引っ張られている姿が……。(第6章)

 この他にもキャンディのエピソードはいくつか記されています。
 キャンディは、家に来た日の夜中、しきりに吠えました。実は家に泥棒が入ったためで、朝になってそれが分かった時、イアンは取られたお金よりも、家に来たばかりのキャンディが吠えて知らせようとしたことをとても喜びました(第6章)。また、イアンはフォームラバーが触るのも嫌いなほど苦手でしたが(メンバーにいたずらの道具に使われるほど)、キャンディがソファを壊して中身を全部引っ張り出し、居間をフォームラバーでいっぱいにしてしまった時には、厭わずに一人で拾い集めて片付けました(第7章)。
 こうしたエピソードからイアンがキャンディをいかに可愛がっていたかが窺えます。そして、イアンの書簡のうち、キャンディについて記された部分には、キャンディに対する優しさが滲み出ています。“Torn Apart -The Life of Ian Curtis”から翻訳して引用します。

・1980年1月29日付アニック・オノレ宛書簡より
 雨の中犬を散歩に連れて行った。今日は早朝からずぶ濡れで、キャンディがグレーハウンドを追いかけて泥だらけになったから、お風呂に入れなければならなかった。キャンディはずっと僕の手をなめていて、それからすぐドアの側にリードをくわえて座ると、リードを頭の上にぐっと動かした、そこで早速僕は(入浴に)取りかかったんだ。(p 191)

・1980年2月17日午前1時付アニック・オノレ宛書簡より
 とても静かで寂しい夜、犬も火の側で眠っている。(p 191)

・1980年3月11日付アニック・オノレ宛書簡より 
 僕の犬は僕の隣で横になっている。今週が一緒にいられる最後の週だと思うととても悲しい。僕がロンドンに行くと、犬はよそへやられてしまう。信じられない。帰ってくるまでは考えたくない。キャンディは、ドアの前でしっぽをふって僕を出迎えてくれない。“……この世界の全ての、もの言わぬ生き物に涙を……(人間は含まない)”(p 204)

 キャンディを手放すことになった理由として、デボラは『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』に、「哀れにも私たちの犬は、贅沢なものになってしまった。お金がなくなってきたことによってキャンディでさえ適切な食事がもらえなくなり、毛が抜けだした。イアンは頻繁にいなくなってしまうので犬の散歩は夜中に私がやらなくてはならなくなり、しかしその間ナタリーを一人で家に置いておきたくはないというジレンマに直面した。時々両親が手伝って散歩してくれたが、最終的に、キャンディの住むところを他に見つけるしかないのではと提案してきた。イアンはこの提案にはとても心を傷めたが、だからといって家に帰ってくる回数をもっと増やそうという気になるわけではなかった。」(第10章)としています。キャンディはマックルズフィールドから北へ約40kmのロッチデールにある農場にもらわれていくことになりました。
 この事件について“Torn Apart -The Life of Ian Curtis”には、テリー・メイソンの、「イアンはいつも財布にキャンディの写真を入れて持ち歩いていた。デボラはイアンがこのことにどれだけショックを受けるか分かっていた。遠く離れた場所にもらわれていったキャンディにイアンは簡単には会えなくなった。僕が犬を飼うから、アメリカツアーから帰ったら会いにきて一緒に可愛がってほしい、と話した。」という主旨の発言が掲載されています。そして、ちょうどイアンの浮気がばれた後のことだったので、仕返しだったのではないか、と書かれています。
 人間同士の都合で犠牲になった「もの言わぬ生き物(dumb creatures)」が一番かわいそうなのですが、居心地の悪い家庭で、または、もしかしたら家の外でも、人間関係に疲れていたイアンにとって、キャンディは心の支えだったのかもしれません。しかし何よりも自分の責任で、キャンディを失うことになった事件は、大きな傷となったのではないかと思います。

Candidate――イアン・カーティスの愛犬(1)

2010-12-08 21:03:08 | 日記
 『Unknown Pleasures』3曲目の「Candidate」は、私小説のような内容で、とくに妻デボラとの関係が表れているように読める詩です。

Forced by the pressure,       プレッシャーで強制的に、
The territories marked,       生きる範囲が決められ、
No longer the pleasure,       もはや楽しみはなく、
Oh, I've since lost the heart.    ああ、それ以来僕は心を失った。

Corrupted from memory,       思い出から腐敗していき、
No longer the power,         もはや力はなく、
It's creeping up slowly,        ゆっくりと近づいてくる、
The last fatal hour.          最後の致命的な時間が。

Oh, I don't what made me,      ああ、何がそうさせたのか、
What gave me the right,       何がその権利を僕に与えたのか、
To mess with your values,      君の価値観を台無しにするなんて、
And change wrong to right.      過ちを正しく変えろなんて。

Please keep your distance,      少し離れていてくれ、
The trail leads to here,         ここまで来たのに、
There's blood on your fingers,    君の指には血が、
Brought on by fear.           恐怖による血だ。

I campaigned for nothing,        闘いはムダだった、
I worked hard for this,         必死に努力した、
I tried to get to you,          君に近づこうとしたのに、
You treat me like this.         こんなふうに扱われた。

It's just second nature,         それは生活の中で染みついた習慣で、
It's what we've been shown,      僕たちが見せられてきたもの
We're living by your rules,       僕たちは君のルールで生きている、
That's all that we know.        それが僕たちが知る全て。

I tried to get to you,           君に近づこうとしたのに、
I tried to get to you,           君に近づこうとしたのに、
I tried to get to you.           君に近づこうとしたのに。
I tried to get to you.           君に近づこうとしたのに。


 第4連と第5連は、映画「コントロール」に出てくるので、字幕の訳を載せました。映画では、ナタリー誕生の後、家計を助けるため、自分の両親にナタリーを預けてデボラが働きに出ることになった場面の後、この曲がかかります。デボラのバイトを見つけるため、家族三人でイアンがかつて勤めていた職業安定所に行き、「アルバムが出たら金が入る」と言うイアンに対し、明らかに怒りと不満をこらえながら乳母車を押すデボラの姿、そしてこの第4連と第5連の歌詞が流れると、この詩はまさに二人の間の距離の隔たりを綴ったものとして強く印象づけられます。

 冒頭の「Forced by the pressure,」ですが、「プレッシャー」という言葉はイアンの詩によく出てくるようです。例えば 「Glass」の「Hearts fail, young hearts fail,(心がくじける、若い心がくじける)/Anytime, pressurised, (いつでも、プレッシャーを受けて)/Overheat, overtired.(過熱し、疲れ果てる)」、「The Only Mistake」の「Led to pressures unknown, (計り知れないプレッシャーになる)different feelings and sounds,(異なる感情や音が)」のように。
 第2連の「Corrupted from memory,」は、現在だけではなく過去の美しい思い出さえも、全て腐敗してしまった、ということでしょう。
 第3連に「What gave me the right,」とありますが、これは、夫としての自分に与えられた権利により、妻の価値観を台無しにしてしまったという自省の念だと思います。そして、第4連の「Please keep your distance,」には、妻との距離感が感じられます。さらに、妻とのぎこちない関係、なかなか分かり合えない関係への愚痴のように思えるのが、〈努力したのにこんなふうに扱われた〉という第5連でしょう。
 第6連「It's just second nature, /It's what we've been shown,」は、生活する中で見せあってきた互いの性分、ということでしょうか。そして、「We're living by your rules,」というのですが、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』によると、結婚生活当初はデボラはイアンの音楽活動を献身的に支えていました。しかし、次第にバンド側から疎外されるようになり、イアンが音楽活動に専念するようになってからは、結婚生活そのものが破綻していました。そうした経緯を知ると、「君のルールで生きている」はイアンとデボラには当てはまらないことになります。歌詞のタイトル「Candidate」は「候補者」という意味ですが、イアンはどう贔屓目に見ても、夫としての資格を満たしていた〈候補者〉とは思えません。しかし、「他人に合わせ、他人の望むようにふるまう」傾向があると周囲の人から評されるイアンは、デボラが望むような夫になっていないということを、自分でもひしひしと感じていたのではないかと思います。それが第6連の「君(デボラ)のルールで」なのではないでしょうか。「デボラのルール」からの「プレッシャー」に、イアンは絡め取られていたのでは、と思われるのです。
 そうした家庭での彼の位置を示す一端として紹介したいのが、イアンの愛犬、キャンディのエピソードです。家庭で居心地の悪さを感じていた彼の心の拠り所が、キャンディだったようです。