「Shadowplay」は、ジョイ・ディヴィジョンの初のTV出演の際(1978年9月20日)に演奏された曲です。その際、4人が演奏する映像に、グラナダ・テレビの報道番組で、凶悪事件や汚職事件などをリポートする「ワールド・イン・アクション」からの、モノクロの都市の映像がかぶせられました。
歌い出しの「To the centre of the city where all roads meet, waiting for you,」からは、都市の風景が視覚的に印象付けられます。それは、ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』で描かれていた、かつての繁栄の残像のような、コンクリートの塊だらけの、無機質なマンチェスターだったり、あるいはどこか他の、似たような都市の風景かもしれません。とにかく、具体的で、視覚的なイメージを与えていると思います。
次の2行目「To the depths of the ocean where all hopes sank, searching for you, 」から、その印象は一転します。「全ての望みが沈む海の底」「動きの無い沈黙」など、都市が抱える闇と、その中にいる「僕」の絶望が描かれます。表面的な都市の風景の背後に、深い闇の世界が広がっていきます。TV出演の際に使われたモノクロの都市の映像は、そんなイメージを触発するものとして効果的だったのではないでしょうか。マーティン・ハネットの施した、サイケデリックで独特な浮遊感を持つ音も、表層と深層、現実と非現実、そういったものが交錯する微妙な感覚を引き立てていると思います。
そんな中で、この詩において重要な意味を持つと考えられる「僕」と「君」の関係が描かれていきます。前述したように、その関係はとても親密です。その「君」がいる場所ですが、それは現実の世界なのでしょうか。それとも、「僕」の心の中なのでしょうか。これは、どちらにもとれるように思います。いずれにせよ、二人の関係を象徴していると思われるのが、第2連1行目の、「In the shadowplay, acting out your own death, knowing no more, 」です。
影絵芝居で「僕」によって演じられる「君」は、「僕」の影のような存在で、都市の闇や「僕」の心の闇の象徴のようにみえます。「death」をはじめとして、詩の中には「君」の死を暗示する言葉がちりばめられています。「君」と「僕」は、「生か死か」という極限において強く結びついています。二人の存在は、別個のものではなく、支え合い、響き合っている、そんな風に思えます。そうしたところから、法月綸太郎の小説のように、ドッペルゲンガーを連想することもできそうです。
「僕」が「君」を待っている場所、探している場所は、「全ての道が交差する街の中心」、「全ての望みが沈む海の底」、「動きの無い沈黙」ですが、これらは、通常は気付かない「影」のような存在に出会う場所なのではないでしょうか。ふだんの生活では意識から切り離されているけれども、実は、「僕」の存在に密接に関わっているもの、そうしたものとの関係を見据える、それが、「In a room with a window in the corner I found truth.」という、「僕」が見つけた真実ではないかと思います。
光には必ず影ができるけれども、ふだんは、明るく照らされている方ばかりを見がちです。例えば死は、常に生の影にあるものですが、ふだん意識することはあまりなく、忘れがちです。極限状態に陥ってはじめて意識される死は、実は「Atmosphere」でイアンが歌っているように「See the danger,(危険に目を向けろ)/Always danger,(常に危険は存在する)」というものではないでしょうか。
また、繁栄には必ず影が存在します。詩の中に出てくる暗殺者は、権力とか、体制とか、「力」の象徴として捉えられるように思うのですが、その影には、その力に虐げられている人達がいます。「僕」は「力」に迎合してはいないようですが、「君」を犠牲にしてしまったようです。同じように、人がたまたま生きているということには、誰かの犠牲が、影がつきまとっている――例えばイアンは、成功のためにデボラを犠牲にした、とも考えられますし、ロックスターとしての自分のために、平凡な自分を犠牲にした、とも考えられます。これは、自分と家族とか、自分と友人とか、あるいは自分の中の正義感といったように、いろいろなものに置き換えて考えさせられます。
イアンはナチスのホロコーストをはじめとして、人類の受難ということについて非常に関心があり、そういったことについてばかり、読んだり考えたりしていました。これは、『An Ideal For Living』とドイツ第三帝国――⑦の記事でも紹介しまたが、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』の第8章のデボラの記述から窺えます。ペーパーバックだとp.90に載っていますが、邦訳本では脱落してしまっている部分なので、拙訳で引用します。
第8章は、『Unknown Pleasures』が発表された頃のことが主に書かれていますが、デビュー作『An Ideal For Living』に顕著なドイツ第三帝国への関心からみても、こうしたイアンの傾向は、それ以前からあったと思われます。
人間の苦難――そうした過去の犠牲の上に、現在の人類の存在はあり、そして今後も繰り返されないとは限らない、とも考えられます(例えばイングランドは、かつて犠牲にした植民地の人々の犠牲の延長上に存在している、そんなふうに考えることができるでしょう)。
一人の人間が生きているということに必ず寄り添っている影――その影との関係を描いたのが「Shadowplay」ではないかと思います。自分の存在に関わる、そんな縁を凝視することで自覚される「truth」は、個の意識だけを増長させ、自分と他の関係に無頓着だと、気付き得ないと考えさせられます。
歌い出しの「To the centre of the city where all roads meet, waiting for you,」からは、都市の風景が視覚的に印象付けられます。それは、ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』で描かれていた、かつての繁栄の残像のような、コンクリートの塊だらけの、無機質なマンチェスターだったり、あるいはどこか他の、似たような都市の風景かもしれません。とにかく、具体的で、視覚的なイメージを与えていると思います。
次の2行目「To the depths of the ocean where all hopes sank, searching for you, 」から、その印象は一転します。「全ての望みが沈む海の底」「動きの無い沈黙」など、都市が抱える闇と、その中にいる「僕」の絶望が描かれます。表面的な都市の風景の背後に、深い闇の世界が広がっていきます。TV出演の際に使われたモノクロの都市の映像は、そんなイメージを触発するものとして効果的だったのではないでしょうか。マーティン・ハネットの施した、サイケデリックで独特な浮遊感を持つ音も、表層と深層、現実と非現実、そういったものが交錯する微妙な感覚を引き立てていると思います。
そんな中で、この詩において重要な意味を持つと考えられる「僕」と「君」の関係が描かれていきます。前述したように、その関係はとても親密です。その「君」がいる場所ですが、それは現実の世界なのでしょうか。それとも、「僕」の心の中なのでしょうか。これは、どちらにもとれるように思います。いずれにせよ、二人の関係を象徴していると思われるのが、第2連1行目の、「In the shadowplay, acting out your own death, knowing no more, 」です。
影絵芝居で「僕」によって演じられる「君」は、「僕」の影のような存在で、都市の闇や「僕」の心の闇の象徴のようにみえます。「death」をはじめとして、詩の中には「君」の死を暗示する言葉がちりばめられています。「君」と「僕」は、「生か死か」という極限において強く結びついています。二人の存在は、別個のものではなく、支え合い、響き合っている、そんな風に思えます。そうしたところから、法月綸太郎の小説のように、ドッペルゲンガーを連想することもできそうです。
「僕」が「君」を待っている場所、探している場所は、「全ての道が交差する街の中心」、「全ての望みが沈む海の底」、「動きの無い沈黙」ですが、これらは、通常は気付かない「影」のような存在に出会う場所なのではないでしょうか。ふだんの生活では意識から切り離されているけれども、実は、「僕」の存在に密接に関わっているもの、そうしたものとの関係を見据える、それが、「In a room with a window in the corner I found truth.」という、「僕」が見つけた真実ではないかと思います。
光には必ず影ができるけれども、ふだんは、明るく照らされている方ばかりを見がちです。例えば死は、常に生の影にあるものですが、ふだん意識することはあまりなく、忘れがちです。極限状態に陥ってはじめて意識される死は、実は「Atmosphere」でイアンが歌っているように「See the danger,(危険に目を向けろ)/Always danger,(常に危険は存在する)」というものではないでしょうか。
また、繁栄には必ず影が存在します。詩の中に出てくる暗殺者は、権力とか、体制とか、「力」の象徴として捉えられるように思うのですが、その影には、その力に虐げられている人達がいます。「僕」は「力」に迎合してはいないようですが、「君」を犠牲にしてしまったようです。同じように、人がたまたま生きているということには、誰かの犠牲が、影がつきまとっている――例えばイアンは、成功のためにデボラを犠牲にした、とも考えられますし、ロックスターとしての自分のために、平凡な自分を犠牲にした、とも考えられます。これは、自分と家族とか、自分と友人とか、あるいは自分の中の正義感といったように、いろいろなものに置き換えて考えさせられます。
イアンはナチスのホロコーストをはじめとして、人類の受難ということについて非常に関心があり、そういったことについてばかり、読んだり考えたりしていました。これは、『An Ideal For Living』とドイツ第三帝国――⑦の記事でも紹介しまたが、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』の第8章のデボラの記述から窺えます。ペーパーバックだとp.90に載っていますが、邦訳本では脱落してしまっている部分なので、拙訳で引用します。
彼はナチスドイツについて書かれた一組の本を買って帰ってきたが、主に読んでいたのはドストエフスキー、ニーチェ、ジャン・ポール・サルトル、ヘルマン・ヘッセ、J・G・バラード、J・ハートフィールドによる反ナチスの合成写真本“Photomontages of the Nazi period”、この本はヒトラーの理想の蔓延を生々しく証明したものだ。J・G・バラードの“Crash”は、交通事故の犠牲者の苦しみと性衝動を結びつけたものだ。イアンは空いた時間の全てを人間の苦難について読んだり考えたりすることに費やしているように感じられた。歌詞を書くためのインスピレーションを求めていたことは分かっていたが、それらは皆、精神的肉体的苦痛を伴う不健康な妄想の極みだった。私は話をしようと試みたが、記者たちと同じように扱われた――無表情で、沈黙するだけ。イアンが唯一それについて話した人物は、バーナードだった。
第8章は、『Unknown Pleasures』が発表された頃のことが主に書かれていますが、デビュー作『An Ideal For Living』に顕著なドイツ第三帝国への関心からみても、こうしたイアンの傾向は、それ以前からあったと思われます。
人間の苦難――そうした過去の犠牲の上に、現在の人類の存在はあり、そして今後も繰り返されないとは限らない、とも考えられます(例えばイングランドは、かつて犠牲にした植民地の人々の犠牲の延長上に存在している、そんなふうに考えることができるでしょう)。
一人の人間が生きているということに必ず寄り添っている影――その影との関係を描いたのが「Shadowplay」ではないかと思います。自分の存在に関わる、そんな縁を凝視することで自覚される「truth」は、個の意識だけを増長させ、自分と他の関係に無頓着だと、気付き得ないと考えさせられます。