愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

「Insight」――夢の終わり(2)

2011-09-28 21:11:27 | 日記
 第2連1行目の「Those with habits of waste,」の「waste」は、金銭を無駄に使うというだけではなく、第3連5行目に「Yeah we wasted our time,」とあるように、時間の浪費という含みもあると思います。
 続く第2連2~3行目には「Their sense of style and good taste, /Of making sure you were right,」とあります。センスとか趣味の良さとか、うわべを飾るだけのことに時間やお金を費やす生き方を指し、4行目「Hey don't you know you were right?」には、そんな生き方に満足しているのは自己満足に過ぎないという批判が込められているようです。そして、第3連5行目「Yeah we wasted our time,」で「僕ら」といっているように、批判の対象には自分自身も含まれていて、「Hey don't you know you were right?」には、自嘲の念も込められているのではないでしょうか。
 さて、この詩の中で最も分かりにくく、また、印象深かった一節が、第3連3行目~4行目の「Reflects a moment in time, /A special moment in time, 」です。第3連1行目と2行目は、妻に向けた感傷的な言葉のように思われたのですが、続くこの一節との関係が不可解です。この「Reflects a moment in time, /A special moment in time, 」は、どう解釈したらよいのかと考えてみて、思い当たったのが、イアンが熱心に読んでいたというニーチェの思想です(『An Ideal For Living』とドイツ第三帝国――7で、デボラがイアンの愛読書を挙げた記述を紹介しましたが、そこにニーチェが挙げられています)。あくまで私の推測・妄想ですが、ニーチェの「永劫回帰」を参考に解釈を試みてみたいと思います。
 「永劫回帰」について、平凡社の哲学辞典にはこう説明されています。

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』Also sprach Zarathustra(1883-91)を構成する根本思想。宇宙は永劫にくり返す円環運動であるから、人間の生もこの地上の歓喜と苦悩をつつんだまま永劫に回帰して止まることがない。かれは「すべてのもの逝きすべてのもの再び還り来たる。存在の車輪は永劫に回帰する。すべてのもの死しすべてのもの再び花咲く。存在の歳は永劫に馳せ過ぎる」といっている。したがって来世も彼岸もあるわけでなく、ただ現世の瞬間瞬間の充実があるのみだとする。この思想は神、理想主義の徹底的な否定から生まれ、時間の不可逆性の表現として、運命論となる。一見、超人思想、権力意志説と矛盾するようにみえるので、この解釈には諸説がある。(以下略)

 永劫回帰の思想は、『ツァラトゥストラ』のうち、とくに第三部の第二「幻影と謎」で、様々な比喩や象徴を駆使して述べられています。「瞬間」と名づけられた門でのツァラトゥストラと小びとの“永劫回帰と現在の瞬間についての対話”や、“蛇にのどを噛まれ身もだえする牧人との出会い”など、魅力的な物語の形式をとっています。引用すると長くなりますので、ここでは、『ツァラトゥストラ』に先だって永劫回帰の思想が表明された『悦ばしき知識』(1882年)を引用します。これは『ツァラトゥストラ』の前年に書かれたもので、ニーチェは「この本の第四書の最後から二つ目の文にはツァラトゥストラの根本思想が示されている」(『この人を見よ』ちくま学芸文庫 ニーチェ全集15 p130)と書いています。以下、第四書の三四一を引用します。太字で示した部分は邦訳(ちくま学芸文庫 ニーチェ全集8)では傍点が付されているのですが、ブログでは傍点が付けられないので太字にしました。

 最大の重し。――もしある日、もしくはある夜なり、デーモンが君の寂寥きわまる孤独の果てまでひそかに後をつけ、こう君に告げたとしたら、どうだろう、――「お前が現に生き、また生きてきたこの人生を、いま一度、いなさらに無数度にわたって、お前は生きねばならぬだろう。そこに新たな何ものもなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思想と嘆息、お前の人生の言いつくせぬ巨細のことども一切が、お前の身に回帰しなければならぬ。しかも何から何までことごとく同じ順序と脈絡にしたがって、――さればこの蜘蛛も、樹間のこの月光も、またこの瞬間も、この自己自身も、同じように回帰せねばならぬ。存在の永遠の砂時計は、くりかえしくりかえし巻き戻される――それとともに塵の塵であるお前も同じく!」――これを耳にしたとき、君は地に身を投げだし、歯ぎしりして、こう告げたデーモンを呪わないだろうか? それとも君は突然に怖るべき瞬間を体験し、デーモンに向かい「お前は神だ、おれは一度もこれ以上に神的なことを聞いたことがない!」と答えるだろうか。もしこの思想が君を圧倒したなら、それは現在あるがままの君自身を変化させ、おそらくは粉砕するであろう。何事をするにつけてもかならず、「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」という問いが、最大の重しとなって君の行為にのしかかるであろう! もしくは、この究極の永遠な裏書きと確証とのほかにはもはや何ものをも欲しないためには、どれほど君は自己自身と人生とを愛惜しなければならないだろうか?――

 例えば、死後天国に行き神によって救われるとか、そういった来世の救いを一切想定せず、この人生が永劫に繰り返される――これは「最大の重し」のであり、徹底したニヒリズムと言えるでしょう。この一切の救いを否定するところにおいて、人間が救われる可能性はあるのでしょうか。「君は突然に恐るべき瞬間を体験し、デーモンに向かい「お前は神だ、おれは一度もこれ以上に神的なことを聞いたことがない!」と答える」という「恐るべき瞬間の体験」は、人間がニヒリズムを克服する瞬間です。「もしこの思想が君を圧倒したなら、それは現在あるがままの君自身を変化させ、おそらくは粉砕するであろう。」というように、この思想は単に時間が円環するという時間論ではなく、人間がいかに生きるべきかということを説いたものです。中公文庫の『ツァラトゥストラ』の第三部の第二「幻影と謎」の冒頭に付されている、この章についての短い説明の言葉を借りれば、「厭世観をも噛み切って、高く笑って生へと決意させる」ことがこの思想の中心だと思います。第三部「幻影と謎」の後半、ツァラトゥストラは“蛇にのどを噛まれ、けいれんし、身もだえする牧人”に出会います。ツァラトゥストラは牧人に向かって「かみ切れ、かみつけ!」と叫びます。ついに牧人は蛇の頭を噛み切り、遠くへ吐き捨てます。そして、牧人は、高く跳躍し、「一人の変化した者、一人の光に取り囲まれた者として、彼は笑ったのだ!」(ちくま学芸文庫 ニーチェ全集10 p.29~30)という状態に達します。これは、ニヒリズムを克服し、生を肯定する瞬間の体験の象徴だと思います。
 「今まで人に然り(ヤー)と言われてきたすべてのことに対して、あきれはてるほど否(いな)を言い、否を行なう者が、しかもなお、いかに否を言う精神の反対たりうるかという問題。最も重々しい運命をにない、使命という一つの宿命をになっている精神が、しかもなお、いかに最も軽快にして最も彼岸的なる精神でありうるか」(『この人を見よ』ちくま学芸文庫 ニーチェ全集15 p.143)というニーチェの思想は、イアンにとって魅力的なものだったのではないかと想像します。もし「Reflects a moment in time, /A special moment in time,」の背景に「永劫回帰」の思想をあてはめることが可能であれば、「ある特別な瞬間」はニヒリズムを克服し、真に生を肯定する瞬間のことであり、ここにイアンの、その瞬間を人生に反映させ、「upheaval(激変)」しなくてはならない、という意志が読みとれるのではないかと思います。 

「Insight」――夢の終わり(1)

2011-09-14 20:53:13 | 日記
 「洞察」という題が付けられたこの詩は、「夢は終わる」「希望は無い」という絶望を歌っていますが、悲しみにひたることはなく、心情が淡々と綴られている印象を受けます。題の示す通り、感情に溺れず、少し離れたところから見ているような雰囲気があるように思います。

Guess you dreams always end.       夢はいつも終わる。
They don't rise up, just descend,      叶うことはなく、ただ降りてくる
But I don't care anymore,          でも僕は構わない
I've lost the will to want more,       何かを求める意志を無くしてしまった
I'm not afraid not at all,           僕はもう何も恐くない
I watch them all as they fall,         落ちていく夢を見ている
But I remember when we were young.   だけど覚えている、僕らが若かった時のことを。

Those with habits of waste,         浪費する人々は
Their sense of style and good taste,    彼らのセンスや嗜好の良さで
Of making sure you were right,       自分たちが正しかったことを確かめている
Hey don't you know you were right?    自分が正しいと思っているんだろう?
I'm not afraid anymore,            僕はもう何も恐くない
I keep my eyes on the door,         ドアを見つめたまま
But I remember....                だけど覚えている……

Tears of sadness for you,          君を思い流した涙
More upheaval for you,            君のためにもっと変わらなくては
Reflects a moment in time,         早く、ある瞬間を反映させるんだ
A special moment in time,          ある特別な瞬間を
Yeah we wasted our time,          そう、僕らは時間を無駄にした
We didn't really have time,          本当に時間が無かったんだ
But we remember when we were young.  だけど覚えている、僕らが若かった時のことを。

And all God's angels beware,        神の天使たちよ、気をつけろ
And all you judges beware,         全ての裁く者たちよ、気をつけろ
Sons of chance, take good care,      強運の子たちも気をつけろ
For all the people not there,        そこにいない全ての人々のために
I'm not afraid anymore,           僕はもう何も恐くない
I'm not afraid anymore,           僕はもう何も恐くない
I'm not afraid anymore,           僕はもう何も恐くない
Oh, I'm not afraid anymore.         ああ、僕はもう何も恐くないんだ

 第一連の「落ちていく夢を見ている」という様子は、諦観のようにも見えます。そして、第一連の最後の「But I remember when we were young.」について、デボラは『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』で「『だけど憶えているよ、僕らが若かった頃を』と、イアンはあたかも若い時を終えてしまったように年寄りじみて言った。」(第8章)と書いています。まだ20歳を過ぎたばかりの青年の言葉としては大げさな感じもしますが、夢を見ていた頃――10代の頃や、バンドを始める前との間に、物理的な時間の差ではなく、精神的に、大きな断絶があったということなのだと思います。余談ですが、この詩を読んでいると、ニック・ドレイク(1948-1974)の「Chello Song」に、

Strange face, with your eyes               青く誠実な目をした
So pale and sincere                     見知らぬ人
Underneath you know well                 あなたにはわかっている
You have nothing to fear                  恐いものなど何もないのだと
For the dreams that came to you when so young   若い頃に見た夢が
Told of a life                          人生は
Where spring is sprung                    美しく活気に満ちたものだと教えてくれたから

とあるのを連想します。若い頃に見た夢が今は無く、そして、恐いものが何も無いというところが共通しています。希望を持たないから何も恐れないという理屈は分かります。しかし、どちらについても、気になるのは“夢を見ていた若い頃”と“今”との関係です。かつて夢を見ていた頃のことは、全く否定されているわけではありません。また、過去を懐かしんで嘆いているようでもありません。“夢を見ていた若い頃”は、“今”と切り離されているのではなく、確かな形で“今”に含まれている、そんな感じがします。
 ニック・ドレイクについては、『Torn Apart―The Life of Ian Curtis』で、イアンと比較されていたことをきっかけに興味を持ち、聴くようになったのですが、詩も曲も、聞き込むほどに魅力的で、大好きになりました。また、詩は、いくつかイアンの詩と発想が似ているように感じるものもあり、これもその一つなのですが、機会があれば二人の世界観を比較してみたいとも思っています。今回は、『Torn Apart―The Life of Ian Curtis』第10章「Unknown Pleasures」に出てくる、ニック・ドレイクの記述を紹介してみたいと思います。
 第10章は、「Unknown Pleasures」の制作過程について書かれている章です。マーティン・ハネットの仕事がサウンドにもたらした影響について述べられ、「『Unknown Pleasures』は、ハネットのビジョンとイアンのボーカルを凝縮させた作品」であるとし、「ハネットが試みたのは、リスナーと彼らが聴いている声の間にある親密さを示すことだった」と書かれています。そして、「楽器とボーカルの分離は、リスナーに、ボーカルに対して通常とは違った響きをもたらし、シンガーがリスナーに向かって一人で歌っているような印象を与えた。のちにこのテクニックは、ニック・ドレイクとジェフ・バックリィ(1966-1997)のレコーディングとしばしば比較される」とあります。「楽器とボーカルの分離」とは、イアンのボーカルは楽器とは別に録音されていて、例えば「Insight」では、『必要な距離感を得るためにシンガーの声を電話線を通して録音している』(「Unknown Pleasures」コレクターズエディションのライナー・ノート)というようなアレンジが施されている、ということです。さらにこう続きます。「前者(ニック・ドレイク)は、ジョイ・ディヴィジョンが誕生する前に死んでいる。彼らの人生の悲劇、そしてイアン・カーティスの人生の悲劇が比類なきものであることは議論の余地がない、とりわけドレイクについては。彼は生前メジャーでの成功を得ることはなかったが、ドレイクの声、基本的にLo-Fi(引用者注:「ウィキペディア」によると、「Lo-Fi(Low-Fidelity)とは、音楽のレコーディングの際の録音状態、録音技巧の一つで、極端に透過なものではない録音環境を志向する価値観。転じて、そういった要素を持った音楽自体を表す言葉。対義語はHi-Fi。」)でレコーディングされた、その忘れられない特性は、リスナーを魅了し続ける、この繊細でミステリアスなアーティストは、彼が生きていた時よりも、21世紀になって、よりいっそう、広くその真価が認めらたのだ。」
 録音の技術についてはよく分かりませんが、リスナーの一人として、「リスナーに対してボーカルが一人で歌っているような印象」というのは何となく分かる気がします。「Transmission」は、多くの聞き手に対して呼びかけるような印象がありますが、「Insight」は独白を聞いているような感じがします。それは音響の効果も手伝っているのだと思いますが、詩の内容からもそういう印象を受けます。自分の内面を見つめ、「僕はもう何も恐くない」という繰り返しは、自分に言い聞かせているようにも思えます。