愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

「Digital」に見るイアン・カーティスの詩と生活――(2)

2010-07-28 20:27:47 | 日記
 この曲で印象深いのは、何度も繰り返されるサビの部分の「Day in, day out(明けても暮れても)」というフレーズです。連続する時間を区切る「Day in」と「day out」という単位が、無表情に際限なく続いていく感じが、「デジタル」というタイトルと呼応しているように感じられます。また、1970年代の後半は、ちょうどコンピューターが一般に普及しはじめ、「デジタル化社会」における人間の在り方が問題となりはじめた時代です。
 イアンが心酔していた作家、J・G・バラード(1930-2009)は、テクノロジーと人間の関係をテーマにした作品を多く書いています。2009年5月20日付の朝日新聞に掲載された追悼文、柳下毅一郎「汚染される人間の生を予言――英SF作家J・G・バラードを悼む」には、こうあります。

 『残虐行為展覧会』や『クラッシュ』といった作品の中で、バラードはメディアとテクノロジーに汚染されたあらたな人間の生を描きだした。それはSFという文学が生み出したもっとも輝かしく、もっとも恐ろしい知見である。
 バラードはテクノロジーと人間の関係について、それまでどんな作家も書かなかったことを書いたのだ。バラードがしばしば現代の予言者と呼ばれたのは、誰よりも早く的確に現代社会の生のありかたを指摘してのけたからである。それこそが二十世紀最大の作家が残したものなのだ。

 『残虐行為展覧会』は1970年刊で、原題は『The Atrocity Exhibition』。イアンは自身の詩に「アトロシティ・エキシビション」のタイトルをつけています。『クラッシュ』は1973年刊。これは、「Disorder」の歌詞に影響が見られます。
 このバラードに影響を与えたのがウィリアム・バロウズ(1914-1971)です。バロウズもまた、イアンが心酔する作家です。この二人は、イアンに限らず、ジャンルを超えて多くのアーティストに影響を及ぼしていました。こうした背景を踏まえて考えると、「デジタル」というタイトルには、ハネットの最新式の音響機器だけではなく、テクノロジーやデジタル化社会の象徴としての意味も見出せるのではないかと思うのです。
 ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」で、ジョン・ウォーゼンクロフト(1958-)は、次のように語っています。ウォーゼンクロフトは、イギリスを代表するインディペンデント・レーベル、Touchの創設者です。グラフィック・デザイナーで、ジョイ・ディヴィジョンについての批評文も書いています。

「デジタル」の歌詞はまさに、“デジタル”だ。オン・オフ、イン・アウト、“明けても暮れても”。この切り替えはカーティスの人格そのものとどこか奇妙に一致している。彼は二面性を兼ね備えていた。一つは仲間と一緒にパブへ行ったり遊び回る若者。その一方で詩集を愛読する唯美主義者。憧れのポップ・スターになるという高い望みを抱いていた。

 「仲間と一緒にパブへ行ったり遊び回る若者」という一面に関しては、ピーター・フックの次のようなコメントがあります。

 バーナードと僕が(初めて)イアンに会った時、彼はとてもおとなしくて真面目なやつだった。パンクにハマったのは、彼を知ってた人たちから見ればキャラに合わなかった、でも、数週間、そして数ヶ月、数年僕たちと過ごして、イアンは自分の殻から出て、エネルギッシュなやつになったんだ。自分自身を見つけたようだった。僕たちはイアンに酒、女、悪ふざけ、そしてロックンロールを教えたんだ。あいつはよく、僕たちがいろんな人にしかけたイタズラで大笑いしてた。……病気になってそういうことができなくなって、彼は失望したんだ。いつも思うけど、イアンはほんとに普通だよ。ビールが好きで、笑うのが好きで、バンドのために立ち上がる。みんなはイアンが知的で、本を読んでいて、というイメージを持っている、でも、そんなじゃなかったんだ。(『NME』2010年5 月22日号)

 ピーター・フックもイアンの性格の二面性を指摘し、自分たちと一緒にいた時のイアンが本当の姿だ、と言っているのですが、『クローサー』コレクターズエディションに収録されているバーナード・サムナーとスティーブン・モリスとの鼎談では、こんなふうに言っています。

アニークの前では(イアンは)感受性の強いアーティストであり、僕らは道化者だった。おそらく彼はデビーといた時の自分に戻ったんだろう。物静かで、面白みのないやつに……。僕らの前だと彼はおふざけに加わった。分からないけど、たぶん、それが彼の本当の姿――彼はただ僕らに対して、粗野な男の世界に入り込んだ男であるフリをしていたんだよ。いや、もしかしたら、アニークに、そしてデビーに対して装っていたのかもしれない。イアンはそんなヤツだったよ。彼はあらゆる人に対してあらゆるものになれたんだ。いつも無理をして、人に合わせてマスクを変える。彼はそれができたけど、それは彼にとって問題でもあった。プレッシャーになったんだ。

同じ鼎談でスティーブンはこう言っています。

 イアンが全て隠していたんだ、と言ってしまえばそれまでだけど、実際彼はそうしていたんだ。彼は平静を装うのが、物事を偽るのが得意だった。彼はすぐに自分の殻に閉じこもった。だけど、見方によれば、それなら彼がただ物静かで、深く傷つくことはなかったのだろう、と思うかもしれない。彼はイタズラや悪ふざけを一緒になってやることも、子供じみたバカな行為に夢中になっているふりもできたんだ。だから極めて正常に見えるんだ。そして突然発作を起こす。その後は正常に戻るのさ。

 デボラ・カーティスは『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』で、イアンがデボラを避けるようになったのは「彼の人格の二面性を知っている私を無視したかったのかもしれない」からだと書いています(邦訳本の脱落部分)。私が「Digital」の歌詞から感じるのは、「明けても暮れても」という連続した時間が、区切られ、切り替えられる、そうした時間の在り方とイアン自身の人格との関わりです。ウォーゼンクロフトはここに、切り替えられる人格の二面性を指摘しています。イアンの生活や周囲の人々のコメントを見ていると、彼にはいろいろな面があり、対する人や場所にあわせて、その時々でうまくマスクを切り替えていたようです。例えば公務員としての顔とステージでの顔を昼と夜で切り替える、というように。確かに「Day in, day out」の切り替えには彼の人格の二面性を見ることができると思います。さらに、私はこれに加えて、こうした日常で切り替えられる様々な人格の顔とは異なる、深層心理の中にあるもう一つの人格が表れているのではないかと思います。シンプルな歌詞ですが、やはり意味が取りにくく、抽象的で象徴的です。

「Digital」に見るイアン・カーティスの詩と生活――(1)

2010-07-21 20:22:22 | 日記
『An Ideal for Living』に続いてジョイ・ディヴィジョンがリリースしたレコード『 A Factory Sample』は、1978年の10月に録音され、翌1979年の1月に発売されました。ジョイ・ディヴィジョンを含む、ドゥルッティ・コラム、キャバレー・ヴォルテール、ジョン・ドウイのバンド4組がそれぞれ2曲づつ提供した2枚組のシングル盤で、「Digital」と「Glass」が収録されています。
 この 『A Factory Sample』は、トニー・ウィルソン(1950-2007)に母親の遺産が入り、それを原資にして作られました。ファクトリー・レコードの記念すべき第一枚目のレコードで、レコード会社としてのファクトリーのスタートとなりました。

 ジョイ・ディヴィジョンとトニー・ウィルソンの出会いは、1978年の4月に行われた、地元マンチェスターのバンドが集まるイベントでした。このイベントには、英国音楽業界の関係者たちが集まり、名前を売る絶好のチャンスでした。グラナダTVの名物司会者だったトニーは、自らがホストを務める音楽番組で、周囲の反対を押し切り、新鋭のパンク・バンドを紹介していました。この番組にはセックス・ピストルズやイアンの憧れるイギー・ポップ、バズコックスなどシーンを代表するバンド、ミュージシャンが出演していました。何としても出演を果たしたいと望んでいたイアンは、この日初対面のトニーに向かって、「トニー・ウィルソンはクソだ」「俺たちをテレビに出さないじゃないか」などと悪態をつきます。トニーは「ワルシャワ」時代に、既に彼らのギグを見てはいましたが、この日のステージをきっかけにジョイ・ディヴィジョンに強い興味を持ちます。ステージを見て、「ただ有名になりたいだけの他のバンドとは違う何かを感じた」というトニーの番組に出演を果たしたのは1978年9月で、「Shadowplay」を演奏しました。
 このイベントでは、トニー・ウィルソンの他に、ジョイ・ディヴィジョンにとってもう一つ重要な出会いがありました。トニーの友人で、イベントが行われた店のDJをしていたロブ・グレットン(1953-1999)との出会いです。ロブは、ジョイ・ディヴィジョンのステージに惚れ込み、マネージャーに名乗り出ます。
 周囲の人々に「ジョイ・ディヴィジョンは凄い。今まで見たバンドの中で最高だ。マネージャーになって世界中に連れて行く」と話していたロブ・グレットンの熱心な仕事ぶりは、ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』で公開されていた、びっしりと書き込まれたメモからも窺い知ることができます。それまでは自分たちでギグのブッキングにつとめていましたが、彼らより3歳年上で、既に音楽ビジネスの世界でもまれ、熱意にあふれるやり手のロブ・グレットンがマネージャーになったことは、ジョイ・ディヴィジョンがプロのバンドとなるための大きな転機となりました。
 『A Factory Sample』のプロデュースは、バズコックスの1stアルバムをプロデュースし、その才能が注目されていたマーティン・ハネット(1948-1991)が担当しました。ハネットはこれを機にファクトリーのお抱えプロデューサーとなりました。
 ファクトリー・レコードの興亡を描いた映画『24アワー・パーティー・ピープル』に登場する、キレまくった登場人物たちの中でも際立って印象的なのが、奇才マーティン・ハネットの変人ぶりです。ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』で語られるエピソードからも、かなり独特な人物像が窺えます。荒削りでパンキッシュなジョイ・ディヴィジョンのサウンドは、ハネットのプロデュースにより、劇的に変わります。音は大胆に加工され、背景に加えられた様々な効果音により、曲に、サイケデリックで独特な浮遊感が与えられました。
 ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」では、1988年の5月に行われた、マーティン・ハネットのインタビューの一部を聞くことができます。聞き手は音楽評論家のジョン・サヴェージです。

ハネット「彼らは神からの贈り物だった」
サヴェージ「なぜです」
ハネット「無知だったから」
サヴェージ「なるほど」
ハネット「僕は細かい工夫をいろいろ施したが、彼らは議論も質問もしてこなかった」
サヴェージ「最初に作ったのは? 『ファクトリー・サンプル』?」
ハネット「そうだ“デジタル”という曲さ。天国からの贈り物だ」

 インタビューの最後の部分に関しては問題があります。映画で紹介された流れだと、マーティン・ハネットは「Digital」について、「天国からの賜り物だ(Heavens Sent!)」と語っているようにとれます。画面に表示される文字には、ハネットの最後のセリフが「It was Digital, it was Heavens Sent!」となっており、大文字で示された「Digital」は、明らかに曲のタイトルを指しています。しかし、他の資料を見ると、「Heavens Sent!」と呼ばれた「Digital」とは、どうも曲名のことではないらしいのです。
 『アンノウン・プレジャーズ』コレクターズエディションに収録されているジョン・サヴェージによるライナー・ノートには、こうあります。

“彼らは素晴らしかったよ”と1989年に彼(ハネット)は私にそう言っている。“サウンドにはたくさんの隙間があった。それはとても大きなものだった。それに彼らはまともな機材を持っていなかった。だけど、それでも彼らは工夫をし、なんとかまともなものにしようとしていたんだ”。ハネットは彼らをこう見ていた。“プロデューサーにとって好都合なものだったよ。なぜなら彼らは何も知らなかったからね、そして言い争うこともなかった。『A Factory Sample』が彼らとの初めての仕事だった。確かその2週間ほど前にアドヴァンス・ミュージック・システムズの新しいディレイラインを手に入れたんだと思う。デジタルと呼ばれていたやつさ。それはまさに優れものだった”。

 これは、年は1年ずれていますが、ドキュメンタリー映画にあるインタビューと同じ内容を指していると考えられます。そして、“Torn Apart―The Life of Ian Curtis ”97頁には、同じインタビューについてこう記しています。「ハネットは『A Factory Sample』の録音作業の二週間ほど前にAMS(Advanced Music Systems)社製の新しいDigital Delayを手に入れた。マーティンは、ライターのジョン・サヴェージにその新しい機械について聞かれ、「It was digital, it was heaven sent」と語っている。」AMS社は、「1976年に、Mark Crabtree と Stuart Nevison によってイングランド西北部のランカシャーにて発足されたレコーディング・スタジオ向けの音響用デジタル・プロセッシング・オーディオ・システムの設計開発と生産を行っていた企業」(ウィキペディア日本版)です。これらの記述から見ると、ハネットは、「デジタル」と呼ばれていた最新式の機械を「天国からの贈り物」だと言っていたようです。この最新式のテクノロジーを試す格好の対象がジョイ・ディヴィジョンだったのです。“Torn Apart―The Life of Ian Curtis ”は、曲のタイトル「Digital」は、この機械にちなんでつけられたと記しています。
 それまでの彼らの曲作りはテクノロジーとは無縁でした。カセット・レコーダーさえ持っていなかった彼らの曲作りでは、イアンの耳が重要な役割を果たしていました。ピーター・フックは「イアンが全てのリフ(注:フレーズ)を見付け出したんだ」と語っています(『アンノウン・プレジャーズ』コレクターズエディションに収録されているジョン・サヴェージによるライナー・ノートより)。バンドが即興演奏をやる、するとイアンが演奏を止めて「今のは良かった。もう一度やってくれ」と言う、そんな練習の中から「シーズ・ロスト・コントロール」などの数々の印象的なフレーズが生まれていったのです。「とても不思議だったよ。彼がいなければ、彼の耳なくしては、僕らはそれを一度演奏したきりで二度とやらなかっただろう。たいていは、それを演奏したことさえ覚えていなかったに違いない……だけど、彼は気付いていたんだ」と、ピーター・フックは語っています。
 そんなジョイ・ディヴィジョンにとって、ハネットとの出会いは、テクノロジーとの出会いでもありました。ハネットが「天国からの贈り物」だと語ったのが、「Digital」なのか「digital」なのかは、よくわかりませんが、「Digital」がジョイ・ディヴィジョンを代表する曲の一つであることは明らかです。イアンの最後のライブとなった1980年5月2日のバーミンガム大学でのステージではアンコールに応えて演奏されています。イアンがこの世で歌った最後の曲ということになります。このライブはアルバム『Still』に収録されています。最後の力をふりしぼるように歌う「Day in, day out」の一節が印象的です。

邦訳本『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』の脱落について――(2)

2010-07-07 20:53:01 | 日記
 第8章には、1979年の5月から8月にかけての出来事を中心に、デボラとイアンの間の距離が徐々に広がっていく様子が記されています。
 第7章の終わり、1979年の4月に一人娘のナタリーが誕生します。第8章のはじめには、デボラの生活の中心はナタリーの世話になり、イアンにも父親として生活の中心に娘を置いてくれるよう期待したけれども、そうはならなかったことが記されています。1979年の5月、ジョイ・ディヴィジョンは定期的に月4回のギグを行いますが、イアンはまだフルタイムで働いており、ハードスケジュールがたたって激しい発作を起こし、数日間入院します。6月、ファーストアルバムの『アンノウン・プレジャーズ』が発売されます。初回限定5000枚、広告費も抑えられていましたが、音楽誌からこぞって絶賛され、限定5000枚はあっという間に売り切れ、バンドは急速に世間から注目を集めます。
 脱落部分直前の記述は、8月にイアンが「NME」誌の表紙を飾ったことです。表紙に載るのは二度目で、前回(1979年1月)は一人でしたが、このときはバーナード・サムナーも一緒でした。「8月、イアンはもう一度「NME」誌の表紙を飾った。今回はバーナード・サムナーも一緒だった。イアンはレインコートと煙草は身につけず、」とあり、以下が脱落しています。原本では「驚くほどくつろいでいるように見えるが、バーナードはカメラから顔をそらし、ぴっちりした服装に小さめのネクタイを締め、いつにも増して男子学生のようだった。」と続いています。
 以下、脱落部分の要約を載せます。


 8月11日に、リバプールでギグが行われた。リバプールは私の生まれた街で、ギグに行くのを楽しみにしていた。しかし、ギグが終わった後、イアンから、今後誰かと一緒じゃない限りはギグに来ないように言われた。どうやら、彼女や奥さんをギグに呼びたくないし、バンドにあまり関わらせたくないというバンド側の方針が背景にあるようだった。妊娠していた時、ギグを見に行ったらトニー・ウィルソンが挨拶もなしに目をそらしたことを思い出した。かつてはギグの手伝いもして、公私にわたってイアンをサポートしてきたが、今は邪魔者扱いされているのだと分かった。
 スティーブン・モリスだけはこのルールを無視して自分のガールフレンドを連れてきていた。彼の場合、反論したりするわけではなく、ただ黙ってこの方針に従わなかった。
 私はイアンが高校時代、薬物の過剰摂取を起こしていたこと、若くして死にたいと言っていたこと、そして憂鬱な気分に陥りやすい傾向があることを知っていたので、彼が癲癇の治療薬に加えてドラッグを摂取することを恐れていた。以前私が楽屋に行った時、誰かが、マリファナをあわててトニー・ウィルソンに返し、イアンは決して触っていないという素振りをされたことがあったが、取り巻きの連中のことが嫌いな私は、そういったことについて彼らに話そうという気が起こらなかった。
 8月27日、ファクトリーと、リバプールのズー(ファクトリーと同じく当時のイギリスを代表するインディー・レーベル)が共同開催し、二つの都市とレーベルを代表するバンドが出演したロック・フェスティバル「リー・フェスティバル」が行われた(注:このライブはCDになっているようです)。一人で来るなと言われていたので、私はバーナードの妻、スー・サムナーを誘って車で出掛けた。このギグは、ほとんど宣伝されなかったせいもあって、私が記憶する限り最も観客が少なかった。警備の警官の方が観客より多いくらいだった。帰途、私の車は検問で止められ、車の中を警官に調べられた。腹を立てている私に、イアンは、「実はファクトリーの誰かが麻薬を持っていたけど、その車は止められなかった。僕とバーナードは難なく切り抜けた」と話した。
 「ジョイ・ディヴィジョン」という名前は、常にプレスの話題に上った。メンバーたちは確かな理由を話さずに、沈黙していた。彼らのうちの誰一人として、とりわけイアンがちゃんと答えないことに、私は驚いていた。そのうち4人はインタビューを受けなくなった。記者たちがイアンにばかり注目し、イアンがそれを嫌がったことも理由の一つだった。ジョイ・ディヴィジョンは4人の強い結合で成り立っていたのに、記者たちはジョイ・ディヴィジョンをイアンのバックバンドのように扱ったのだ。

この後、「今に至るまでに、イアンは私との間に、より精神的な隔たりを置いていた。」という一文があり、前に訳したイアンの読書傾向とバーナード・サムナーの発言の引用が入ります。その後に続く部分を要約します。

 バーナードはまた、イアンがニーチェの「永劫回帰」の思想に関心を持っていて、ナチズムはその一環だったのではないかと回想している。私は、イアンのナチへの関心は制服がきっかけだったと思う。イアンは子どもの頃にいろんな軍隊の制服を描くことが好きだった。まずナチの制服に関心を持ったのだろう。
 バーナードと同様、私(注:イアンとバーナードと同年齢)の子ども時代もまた、防空壕やプレハブの家、鉄の柵など、戦争を思い出させる物があちこちにあった。第二次大戦は家族の間で習慣的に話題になっていたし、私にとっても、戦争はごく身近なものだった。私の祖父はユダヤ人で、戦争で闘った6人の伯父についての新聞記事の切り抜きを見るのが子ども時代の私の楽しみだった。
 過去にたった一度だけ、戦争についてイアンと話し合ったことがあったが、それは北アイルランド紛争についてだった。イアンは政治的なことについては話さず、自分の祖先がBlack and Tans(1920年6月アイルランドの反乱鎮圧に英国政府が派遣した警備隊)に突き刺されるという空想の物語を話した。私は悲惨な出来事についてあまり考えたりしたくなかったけれど、イアンは違っていた。私より高いレベルの考えを持っていたようだ。ナチズムへの突然の興味を私が理解できなくても、イアンは説明しようとはしなかった。
 バンドの方針は私とイアンの関係を邪魔しているように見えた。イアンは私のことを見下すような態度をとった。もしかしたら、彼の人格の両面を知っている私を無視したかったのかもしれない。さらに悪いことに、イアンは自分の家族たちに対しても蔑視するような態度を取り始めたように見えた。
 ギグとそのための移動によって、イアンの発作は7月から8月を通じて頻発するようになった。私がイアンとコミュニケーションを取ることは、どんなサンドウィッチが食べたいかもわからないほど、困難になっていた。医者は薬の処方を変え、生活態度を改めるようしきりに説明していたようなのに、私はこうした問題からシャットアウトされていた。イアンは、自分がこんな状態なのは私のせいだと思っていたようだ。私はイアンが良くなることを望んでいただけで、イアンの治療は医師によって監視されていたのだから、どんなに不備があっても最終的には解決されるだろうと考えていた。

 ここまでが脱落部分です。この後、邦訳本では「イアンのネルおばさんとレイおじさんが一ヶ月の休みを取ってテネリフェ島からやってきた。」とあります。今のデボラとイアンの状態について相談し、助力してくれる人物として、イアンが幼い頃からなついていたネルおばさんに、デボラは最後の望みを託していました。しかし、ネル一人に話しかける機会は訪れず、イアンは実家では、まるで何の問題もないように完璧に振る舞ったため、その希望は叶いませんでした。ここで、第8章は終わっています。