以前、法月綸太郎の短編集『パズル崩壊』(1999年・集英社)に収録された「シャドウプレイ」というミステリーを紹介しましたが、そのときにも触れたように、この短編集には、「トランスミッション」というタイトルのミステリーも収録されています。以下、あらすじを紹介します。ネタバレになりますので読む予定の方は飛ばして下さい。
主人公は32歳のミステリー作家「僕」です。独身で、夜執筆し朝眠り、気ままな生活をしています。ある夏の日の午前中、眠っているところに一本の間違い電話がかかってきます。「ヤスナガ・カズヒコ」宛にかかってきた電話は、「あなたの子ども、トモユキ君を預かっています。現金五千万円を用意してください。」という誘拐犯からのものでした。寝ぼけながら電話を切り、再び眠りかけたところで、事態の深刻さに気が付いた「僕」は、ベッドからはね起きます。電話帳を見ると自分の電話番号と下二桁が違っているだけの「安永和彦」という人物がいることが分かりました。その番号に電話をかけると、妻らしき女性が出ます。用件を聞かれた「僕」は、とっさに誘拐犯の言葉を、伝言ゲームのようにそのまま復唱してしまいます。電話を切った後、気まずい思いを抱えながら、「僕」は誘拐された子ども「トモユキ」がどんな少年なのか空想します。実は「僕」は以前結婚していて、子どももいました。しかし、子どもは3歳で病死、その後離婚していたのです。
そして、二回目の脅迫電話が、また「僕」宛にかかってきます。「僕」は再び安永和彦宛に電話をかけます。今度は安永氏本人が電話に出ます。やはり「僕」は脅迫電話の内容をそっくりそのまま復唱し、電話を切ります。三回目の脅迫電話は、身代金の受け渡し場所と時間を指定するものでした。「僕」は再度、安永氏に電話をかけます。これで自分の役目は終わりだ、「僕」はそう思ったものの、どうしても子どものことが気にかかり、身代金の受け渡し場所である井の頭公園に、午後九時、出掛けていきます。そこで、犯人グループに、安永氏が雇った私立探偵と間違えられて捕まってしまった「僕」は、間違い電話のいきさつを説明します。すると、犯人たちは「僕」の話をでたらめだと断言し、自分たちが録音した脅迫電話を「僕」に聴かせます。そこには、「僕」の声ではなく、犯人グループと安永氏が直接やりとりする様子が録音されていました。犯人たちは取引のために「僕」と「トモユキ」を残していったんその場を立ち去ります。取り残された「僕」は、混乱します。自分は巻き込まれただけだと思っていたけれども、そうではなく、はじめから計画の一部に入っていたのか、それともこれは悪い夢なのか……そんな考えを巡らせていると、安永氏が雇った本物の私立探偵が二人を救出に来ます。助けられた「僕」は私立探偵から、「やつらを片付けてくるから、あんたはこの子を家まで送ってやってくれ」と頼まれます。「僕」は、「いったい自分がこの事件に巻き込まれたのは偶然なのか」と探偵に尋ねます。「今は話せないが、いずれわかる。とりあえず、あんたは踊り続けるしかない」と探偵は答え、「踊れ、踊れ、踊れ。ラジオの音楽に合わせて踊るんだ」と言います。「僕」は、その聞き覚えがあるフレーズが、「トランスミッション」の「Dance, dance, dance, dance to the radio」であることを思い出します。子どもを家に送り届けると、そこには母親からの置き手紙があり、訳あって自分たち夫婦はしばらく姿を消すので、その間その子を預かってください、と書かれています。置き手紙の筆跡は、「僕」の別れた妻の筆跡に非常によく似ていました。思い返すと電話の声も似ていたような気がします。そして、「トモユキ」は、自分の父親は本当の父親ではないこと、母親の名が「クミコ」であると話します。「クミコ」は、「僕」の別れた妻と同じ名前でした。
「トモユキ」を預かった「僕」は、まるで本当の親子のように楽しい時間を過ごす中で、ふと、この子が自分の子ではないかと思い始めます。そんなはずはない、自分は息子が息を引き取るのをこの目で見たのだから、もし別れた妻がこのことを仕組んだとしたら、どんな意図があるのか、色々なことを考えながら、「僕」は「この調子で踊り続けるしかない」と思うのでした。しめくくりの一節は「Dance, dance, dance, dance to the telephone」となっています。
この小説では、主人公が普段心の奥に押し殺している妻子への感情が、間違い電話をきっかけに露呈します。常識では有り得ない状況について、あれこれ考えることを遮らせる、有無を言わせぬ力が、「Dance, dance, dance, dance to the radio」に込められています。
「Transmission」のsilenceとdance――(1)の記事で、「silence」は、世間から疎外感を感じている「僕たち」を象徴しているのではないか、と書きましたが、あるいは、「僕たち」が押し殺している心の声を指しているのかもしれない、と思います。この小説では、主人公の妻子への感情が「silence」にあたり、それが、間違い電話に踊らされる中で響いてくる、という感じでしょうか。
既に書きましたが、理性を捨てて本能の赴くままに踊ろう、という呼びかけは、イアンの歌詞の中でも積極的で前向きなメッセージだと思います。
トニー・ウィルソンが、初めてジョイ・ディヴィジョンを見たのは、音楽業界の人々が集まってアマチュアのバンドのステージを見る、“バンド合戦”という企画でした。その時の印象を、トニーは、「ほかのバンドがあのバンド合戦に出た理由は、スターへの憧れや音楽業界に入るため。だがイアンらはもっと切実だった」と語っています(ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』)。『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』や『Torn Apart―The Life of Ian Curtis』には、バンドを売り込むためにメンバーの誰よりも熱心だったイアンの様子が記されています。最初私は、こうしたエピソードから、イアンが、ルー・リードやイギー・ポップといった彼の憧れのスターたちのようになろうという野心を持っていたのだと、単純に考えていました。しかし、トニー・ウィルソンの言葉や、「Transmission」の歌詞をよく読んで考え直してみると、イアンが抱いていた野望は、単にスターになって名声を得ることではなく、人々の心の奥を揺さぶり、眠っている何かを呼び覚ますこと、その中心に位置付けられるような存在に自分たちがなり得るはずだ、というものだったのではないかと思えてきました。イアンにとって、ルー・リードやイギー・ポップは、単に有名なスターではなく、自分の中の根源的な何かを揺さぶる存在だったはずです。また、ロックだけではなく、愛好していた文学、アートすべてが、「Touching from a distance, Further all the time.」というものだったのだと思います。その末端に自分も加わろうというのが、イアンの野望であり、夢だったのではないでしょうか。そんな意図が「Transmission」の歌詞から読み取れるように思うのです。
しかし、以後、こんなふうに聞き手に呼びかけるような詩はなくなります。詩の内容は、より自己の中に沈潜するようなものになり、そこに表れる孤独はますます深まっていくのです。
主人公は32歳のミステリー作家「僕」です。独身で、夜執筆し朝眠り、気ままな生活をしています。ある夏の日の午前中、眠っているところに一本の間違い電話がかかってきます。「ヤスナガ・カズヒコ」宛にかかってきた電話は、「あなたの子ども、トモユキ君を預かっています。現金五千万円を用意してください。」という誘拐犯からのものでした。寝ぼけながら電話を切り、再び眠りかけたところで、事態の深刻さに気が付いた「僕」は、ベッドからはね起きます。電話帳を見ると自分の電話番号と下二桁が違っているだけの「安永和彦」という人物がいることが分かりました。その番号に電話をかけると、妻らしき女性が出ます。用件を聞かれた「僕」は、とっさに誘拐犯の言葉を、伝言ゲームのようにそのまま復唱してしまいます。電話を切った後、気まずい思いを抱えながら、「僕」は誘拐された子ども「トモユキ」がどんな少年なのか空想します。実は「僕」は以前結婚していて、子どももいました。しかし、子どもは3歳で病死、その後離婚していたのです。
そして、二回目の脅迫電話が、また「僕」宛にかかってきます。「僕」は再び安永和彦宛に電話をかけます。今度は安永氏本人が電話に出ます。やはり「僕」は脅迫電話の内容をそっくりそのまま復唱し、電話を切ります。三回目の脅迫電話は、身代金の受け渡し場所と時間を指定するものでした。「僕」は再度、安永氏に電話をかけます。これで自分の役目は終わりだ、「僕」はそう思ったものの、どうしても子どものことが気にかかり、身代金の受け渡し場所である井の頭公園に、午後九時、出掛けていきます。そこで、犯人グループに、安永氏が雇った私立探偵と間違えられて捕まってしまった「僕」は、間違い電話のいきさつを説明します。すると、犯人たちは「僕」の話をでたらめだと断言し、自分たちが録音した脅迫電話を「僕」に聴かせます。そこには、「僕」の声ではなく、犯人グループと安永氏が直接やりとりする様子が録音されていました。犯人たちは取引のために「僕」と「トモユキ」を残していったんその場を立ち去ります。取り残された「僕」は、混乱します。自分は巻き込まれただけだと思っていたけれども、そうではなく、はじめから計画の一部に入っていたのか、それともこれは悪い夢なのか……そんな考えを巡らせていると、安永氏が雇った本物の私立探偵が二人を救出に来ます。助けられた「僕」は私立探偵から、「やつらを片付けてくるから、あんたはこの子を家まで送ってやってくれ」と頼まれます。「僕」は、「いったい自分がこの事件に巻き込まれたのは偶然なのか」と探偵に尋ねます。「今は話せないが、いずれわかる。とりあえず、あんたは踊り続けるしかない」と探偵は答え、「踊れ、踊れ、踊れ。ラジオの音楽に合わせて踊るんだ」と言います。「僕」は、その聞き覚えがあるフレーズが、「トランスミッション」の「Dance, dance, dance, dance to the radio」であることを思い出します。子どもを家に送り届けると、そこには母親からの置き手紙があり、訳あって自分たち夫婦はしばらく姿を消すので、その間その子を預かってください、と書かれています。置き手紙の筆跡は、「僕」の別れた妻の筆跡に非常によく似ていました。思い返すと電話の声も似ていたような気がします。そして、「トモユキ」は、自分の父親は本当の父親ではないこと、母親の名が「クミコ」であると話します。「クミコ」は、「僕」の別れた妻と同じ名前でした。
「トモユキ」を預かった「僕」は、まるで本当の親子のように楽しい時間を過ごす中で、ふと、この子が自分の子ではないかと思い始めます。そんなはずはない、自分は息子が息を引き取るのをこの目で見たのだから、もし別れた妻がこのことを仕組んだとしたら、どんな意図があるのか、色々なことを考えながら、「僕」は「この調子で踊り続けるしかない」と思うのでした。しめくくりの一節は「Dance, dance, dance, dance to the telephone」となっています。
この小説では、主人公が普段心の奥に押し殺している妻子への感情が、間違い電話をきっかけに露呈します。常識では有り得ない状況について、あれこれ考えることを遮らせる、有無を言わせぬ力が、「Dance, dance, dance, dance to the radio」に込められています。
「Transmission」のsilenceとdance――(1)の記事で、「silence」は、世間から疎外感を感じている「僕たち」を象徴しているのではないか、と書きましたが、あるいは、「僕たち」が押し殺している心の声を指しているのかもしれない、と思います。この小説では、主人公の妻子への感情が「silence」にあたり、それが、間違い電話に踊らされる中で響いてくる、という感じでしょうか。
既に書きましたが、理性を捨てて本能の赴くままに踊ろう、という呼びかけは、イアンの歌詞の中でも積極的で前向きなメッセージだと思います。
トニー・ウィルソンが、初めてジョイ・ディヴィジョンを見たのは、音楽業界の人々が集まってアマチュアのバンドのステージを見る、“バンド合戦”という企画でした。その時の印象を、トニーは、「ほかのバンドがあのバンド合戦に出た理由は、スターへの憧れや音楽業界に入るため。だがイアンらはもっと切実だった」と語っています(ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』)。『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』や『Torn Apart―The Life of Ian Curtis』には、バンドを売り込むためにメンバーの誰よりも熱心だったイアンの様子が記されています。最初私は、こうしたエピソードから、イアンが、ルー・リードやイギー・ポップといった彼の憧れのスターたちのようになろうという野心を持っていたのだと、単純に考えていました。しかし、トニー・ウィルソンの言葉や、「Transmission」の歌詞をよく読んで考え直してみると、イアンが抱いていた野望は、単にスターになって名声を得ることではなく、人々の心の奥を揺さぶり、眠っている何かを呼び覚ますこと、その中心に位置付けられるような存在に自分たちがなり得るはずだ、というものだったのではないかと思えてきました。イアンにとって、ルー・リードやイギー・ポップは、単に有名なスターではなく、自分の中の根源的な何かを揺さぶる存在だったはずです。また、ロックだけではなく、愛好していた文学、アートすべてが、「Touching from a distance, Further all the time.」というものだったのだと思います。その末端に自分も加わろうというのが、イアンの野望であり、夢だったのではないでしょうか。そんな意図が「Transmission」の歌詞から読み取れるように思うのです。
しかし、以後、こんなふうに聞き手に呼びかけるような詩はなくなります。詩の内容は、より自己の中に沈潜するようなものになり、そこに表れる孤独はますます深まっていくのです。