ジョイ・ディヴジョンの1stアルバム『Unknown Pleasures』に収録されている「Interzone」の解釈をめぐって、イアン・カーティスとウィリアム・バロウズについてのいくつかの覚書を綴ってみたいと思います。
「インターゾーン」はウィリアム・バロウズの『裸のランチ』に出てくる、架空の都市の名です。1952年に誤って妻を射殺してしまった後、バロウズが移住したモロッコのタンジールがモデルとされています。
『裸のランチ』は、1959年にパリで、1962年にニューヨークで出版されました。舞台となっているのは、超警察国家の“併合国(アネクシア)”、自由な“フリーランド”、そしてこの二つの国の境界にある都市“インターゾーン”です。“併合国”は共産主義国家(ソ連)をイメージさせ、“フリーランド”は資本主義国家(アメリカ)をイメージさせます。勿論、どちらが住みにくく、どちらが暮らしやすいといった単純な話ではありません。「ここの住人たちは順応性に富み、協力的で、正直かつ寛大、とりわけきれい好きだ。」というフリーランドも、実は「表面は衛生的に見えるが内部ではすべてが良好というわけではない」のです。
『裸のランチ』は、以前一度読んだことがあったのですが、その時読んだのは1987年に河出書房から出版された単行本(新装版)でした。この1987年の新装版には、本編の他に、訳者鮎川信夫氏による、1965年7月付の「解説」と、1971年2月付の「『裸のランチ』ノート(補)」が付されています。1965年に出版され(1971年に訳者のノートを追加)、1986年に鮎川氏が死去された後、1987年に私が読んだ新装版が出版されたのです。
そして今回、2003年に出版された河出文庫版で読みなおしました。この文庫版は、1992年に完全版と銘打って刊行されたものの文庫化のようです。従来(完全版以前)の単行本と文庫版との大きな違いは、1959年にパリで出版された後に加わった序文と補遺が、山形浩生の補訳により収録されていることです。さらに、1959年の初版本出版後に行われた加筆と構成変更も反映されています。山形氏の文庫版の解説によれば、1965年初版の単行本は、1959年にパリで出版された初版本を底本としているらしく、文庫版は1986年にイギリスで出版されたものを底本としています。
以前読んだ時の読後の率直な感想は、麻薬中毒患者の描写が非常に汚く、生理的に嫌悪感を催すこと、くらいでした。山形浩生『たかが、バロウズ本』(2003年 全文PDFファイル)の第2部第5章「他人の評価」に、バロウズの作品は「気持ち悪くて退屈でわけわからない」とある、まさにその通りでした。特に、生理的な気持ち悪さをかなり実感しました。また、分からなくて当然という前提で読んでいたようなところもありました。しかし、今回序文を読んだことで、かなり印象が変わり、この作品のテーマについて、自分なりに理解したいという意識が生じました。
序文の中から印象深かった一部を引用してみます。
麻薬ピラミッドは、あるレベルがその一つ下のレベルを食い物にするようになっていて、(麻薬取引の上のほうの人間がいつも太っていて、路上の中毒者がいつもガリガリなのは偶然ではない)それがてっぺんまで続いている。そのてっぺんも一人ではない。世界中の人びとを食い物にしているさまざまな麻薬ピラミッドがあるからで、そのすべてが独占の基本原理に基づいてたてられている。(略)麻薬は独占と憑依の原型だ。
序文 宣誓書――ある病に関する証言
単に麻薬患者の悲惨さを描くというだけならば、併合国やフリーランド、インターゾーンといった設定は不要なはずです。こうした悲惨な状況が生じ、あちこちで繰り返される世界の構造が、『裸のランチ』には示されているのではないかと思えてきました。麻薬中毒患者は、人間社会の悪の象徴のようにもみえます。併合国であろうとフリーランドであろうと、違うのはそのシステムの在り方だけで、どんな形態の国家であれ、人間は、大きな力によって操られ、支配され、中毒患者になっていく――そんな人間社会の構造が表されているように感じました。
「『現在』の牢獄にとじこめられた人間の醜悪さと現代文明の底に横たわる地獄の恐ろしさを大胆に描き出した。」「いかなる人間もジャンキーと変りないものだという認識は、現実を回避したがる多くの人びとに嫌悪を催させ、身慄いさせるかもしれない。」(訳者あとがき)ということは、例えば「ベンウェイ」と名づけられた章(従来の単行本では独立した章にはなっていませんでした。加筆により新たに立てられた章で、1987年の新装版では32ページから61ページ)から特に実感できました。
併合国で「完全道徳頽廃」という任務を遂行したベンウェイ医師は、フリーランドに顧問として招かれ、“再条件化更正センター”を管理しています。そこでは例えば精神分裂病患者をジャンキーに“更正”するという治療が行われています。それは、「私は長い医者稼業を通じて、精神分裂病の常用者を見たことは一度もない。常用者はたいてい肉体分裂病なのだ。だれかの何かを治したかったら、その何かを持っていない人間を見つけ出すことだ。では、精神分裂を持っていないのはだれだ? 常用者が持っていないではないか」(p.61)という理由からです(「常用者」に「ジャンキー」のルビが付されています)。
ここにはジャンキーの他にも、様々な「逸脱者」が患者として収容されていますが、ある日、その患者たちが外へ出されてしまうという事件が起きます。ベンウェイはその報告を聞き、「驚異的だ! すばらしい!」と、屋上からその光景を眺めます。患者たちは「レストランのテーブルの前を取り巻いて、あごから長いよだれをたらし、胃をごろごろいわせている。また、女たちの姿を見て射出する者もいる。(略)麻薬中毒者はドラッグストアの強奪をやって、いたるところの街角で注射を打ち……緊張病患者は公園の装飾物になり……興奮した精神分裂病症患者は、人間ばなれのしたわけのわからぬ叫び声を上げて、街路を走り回っている。」といった、「前代未聞の恐怖の光景」「フリーランドに跋扈している言語道断な状態」の描写が延々と続きます。そして、この章の最後は、この騒ぎを何とかくいとめようとする「商工会議所」の、「『どうか落ち着いてください。暴動を起こしたのは狂った場所からきた少数の狂った人間だけなんです』」という呼びかけで結ばれています。この言は、逆接的に、「こうした人々は一部の少数の人間だけということではすまされない」ということを示していると思われました。これらの人々は、“ピラミッドのてっぺんにいる人間”が意図的に作りだし、社会に送り出しているもので、不幸な偶然から生まれたものではなく、必然的な存在だとも読み取れます。こうしたことをふまえると、この小説に描かれているぞっとするような醜悪な人間の姿が、単なる嫌悪感だけではなく、もっと恐ろしい、身近なものとして捉えられてきました。
さて、ジョイ・ディヴィジョンの1stアルバム『Unknown Pleasures』に収録されている「Interzone」についてですが、バロウズの『裸のランチ』の影響であることは間違いないでしょう。タイトルに文学作品の影響が読み取れるのは、このほか「Dead Souls」(ニコライ・ゴーゴリの同名の小説、邦題『死せる魂』)、「Atrocity Exhibition」(J・G・バラードに同名の短編集、邦題『残虐行為展覧会』)があります。前記事「プラン・Kでのイベント」で紹介したバロウズのファンサイト、Reality Studioには「Ian Curtis, Reader」という項目があり、イアンの読書についてのいくつかの証言が書かれています。はじめに紹介されているのが、8 January 1980, in Alan Hempsell, “A Day Out With Joy Division,” Extro, Vol.2/No.5. で、 1980年1月8日付のアラン・ヘンプセルによるインタビューからの抜粋です(インタビューの全文)。
Reality Studioにはここまでしか引用されていませんが、元記事の方はこう続きます。
Reality StudioのサイトのIan Curtis, Readerの記事は続けて、イアンが高校時代に通っていた、マックルズフィールドの本屋について記しています。David Britton と Michael Butterworthが経営していたこの書店は、コミックやSF小説、ドラッグ関連、広告など、普通の書店にはない、ちょっと変わったものが置いてある書店だったようです。まず、ジョン・サヴェージが『ガーデン』誌に書いた記事からの引用で、「イアンはスティーブン・モリスとともに、店の常連だった。」「イアンは、バロウズやバラードが特集された雑誌『New Worlds』を中古で買っていた。」「口を開けばバロウズ、バロウズ、バロウズの話をした。」という、 Michael Butterworthのコメントが記されています。また、Michael Butterworth自身の、2008年4月付のEmailによる証言が載っていて、イアンの読書の好みについて、「カウンターカルチャーやSFを好んでいた」とあります。
一方もう一人の経営者David Brittonは、2008年3月13日付のEmailで、「イアンはジョン・サヴェージが言っているような読書家ではない、よく言っても“A skimmer(表面をざっと読む人) ”だ、しかし、本質をつかんで引用することに長けていた。マックルズフィールドの奴にしては大した能力だと思う。」とコメントしています。
熟読していたのか、斜め読みだったのかは分かりませんが、“自分が詩にこめた観念と文学作品の中にある観念が反応することがあり、時にその作品のタイトルをそのまま詩のタイトルにしていた”、という発言からみて、イアンが文学から受けた刺激をもとに詩を書いていたことは間違いないと思います。そして、バロウズはイアンにとって、最も刺激的な作家の一人ということなのでしょう。イアンが書いた「Interzone」と、バロウズの『裸のランチ』に描かれている都市「インターゾーン」は、表面上あまり共通しているようには見えません。『裸のランチ』との共通点を“ここだ”と指摘できるような箇所はありません。表面的な部分ではなく、内面的な観念が響き合っているのだと考えられます。
イアンの「インターゾーン」を読むと、描かれている都市はマンチェスターなのではないか、という印象を強く持ちます。また、「Shadowplay」と似ていると思われるところがいくつかあり、「Shadowplay」は「インターゾーン」を煮詰めたような作品ではないか、と感じます。
次に『裸のランチ』の「インターゾーン」の描写と比べながら、整理してみたいと思います。
「インターゾーン」はウィリアム・バロウズの『裸のランチ』に出てくる、架空の都市の名です。1952年に誤って妻を射殺してしまった後、バロウズが移住したモロッコのタンジールがモデルとされています。
『裸のランチ』は、1959年にパリで、1962年にニューヨークで出版されました。舞台となっているのは、超警察国家の“併合国(アネクシア)”、自由な“フリーランド”、そしてこの二つの国の境界にある都市“インターゾーン”です。“併合国”は共産主義国家(ソ連)をイメージさせ、“フリーランド”は資本主義国家(アメリカ)をイメージさせます。勿論、どちらが住みにくく、どちらが暮らしやすいといった単純な話ではありません。「ここの住人たちは順応性に富み、協力的で、正直かつ寛大、とりわけきれい好きだ。」というフリーランドも、実は「表面は衛生的に見えるが内部ではすべてが良好というわけではない」のです。
『裸のランチ』は、以前一度読んだことがあったのですが、その時読んだのは1987年に河出書房から出版された単行本(新装版)でした。この1987年の新装版には、本編の他に、訳者鮎川信夫氏による、1965年7月付の「解説」と、1971年2月付の「『裸のランチ』ノート(補)」が付されています。1965年に出版され(1971年に訳者のノートを追加)、1986年に鮎川氏が死去された後、1987年に私が読んだ新装版が出版されたのです。
そして今回、2003年に出版された河出文庫版で読みなおしました。この文庫版は、1992年に完全版と銘打って刊行されたものの文庫化のようです。従来(完全版以前)の単行本と文庫版との大きな違いは、1959年にパリで出版された後に加わった序文と補遺が、山形浩生の補訳により収録されていることです。さらに、1959年の初版本出版後に行われた加筆と構成変更も反映されています。山形氏の文庫版の解説によれば、1965年初版の単行本は、1959年にパリで出版された初版本を底本としているらしく、文庫版は1986年にイギリスで出版されたものを底本としています。
以前読んだ時の読後の率直な感想は、麻薬中毒患者の描写が非常に汚く、生理的に嫌悪感を催すこと、くらいでした。山形浩生『たかが、バロウズ本』(2003年 全文PDFファイル)の第2部第5章「他人の評価」に、バロウズの作品は「気持ち悪くて退屈でわけわからない」とある、まさにその通りでした。特に、生理的な気持ち悪さをかなり実感しました。また、分からなくて当然という前提で読んでいたようなところもありました。しかし、今回序文を読んだことで、かなり印象が変わり、この作品のテーマについて、自分なりに理解したいという意識が生じました。
序文の中から印象深かった一部を引用してみます。
麻薬ピラミッドは、あるレベルがその一つ下のレベルを食い物にするようになっていて、(麻薬取引の上のほうの人間がいつも太っていて、路上の中毒者がいつもガリガリなのは偶然ではない)それがてっぺんまで続いている。そのてっぺんも一人ではない。世界中の人びとを食い物にしているさまざまな麻薬ピラミッドがあるからで、そのすべてが独占の基本原理に基づいてたてられている。(略)麻薬は独占と憑依の原型だ。
序文 宣誓書――ある病に関する証言
単に麻薬患者の悲惨さを描くというだけならば、併合国やフリーランド、インターゾーンといった設定は不要なはずです。こうした悲惨な状況が生じ、あちこちで繰り返される世界の構造が、『裸のランチ』には示されているのではないかと思えてきました。麻薬中毒患者は、人間社会の悪の象徴のようにもみえます。併合国であろうとフリーランドであろうと、違うのはそのシステムの在り方だけで、どんな形態の国家であれ、人間は、大きな力によって操られ、支配され、中毒患者になっていく――そんな人間社会の構造が表されているように感じました。
「『現在』の牢獄にとじこめられた人間の醜悪さと現代文明の底に横たわる地獄の恐ろしさを大胆に描き出した。」「いかなる人間もジャンキーと変りないものだという認識は、現実を回避したがる多くの人びとに嫌悪を催させ、身慄いさせるかもしれない。」(訳者あとがき)ということは、例えば「ベンウェイ」と名づけられた章(従来の単行本では独立した章にはなっていませんでした。加筆により新たに立てられた章で、1987年の新装版では32ページから61ページ)から特に実感できました。
併合国で「完全道徳頽廃」という任務を遂行したベンウェイ医師は、フリーランドに顧問として招かれ、“再条件化更正センター”を管理しています。そこでは例えば精神分裂病患者をジャンキーに“更正”するという治療が行われています。それは、「私は長い医者稼業を通じて、精神分裂病の常用者を見たことは一度もない。常用者はたいてい肉体分裂病なのだ。だれかの何かを治したかったら、その何かを持っていない人間を見つけ出すことだ。では、精神分裂を持っていないのはだれだ? 常用者が持っていないではないか」(p.61)という理由からです(「常用者」に「ジャンキー」のルビが付されています)。
ここにはジャンキーの他にも、様々な「逸脱者」が患者として収容されていますが、ある日、その患者たちが外へ出されてしまうという事件が起きます。ベンウェイはその報告を聞き、「驚異的だ! すばらしい!」と、屋上からその光景を眺めます。患者たちは「レストランのテーブルの前を取り巻いて、あごから長いよだれをたらし、胃をごろごろいわせている。また、女たちの姿を見て射出する者もいる。(略)麻薬中毒者はドラッグストアの強奪をやって、いたるところの街角で注射を打ち……緊張病患者は公園の装飾物になり……興奮した精神分裂病症患者は、人間ばなれのしたわけのわからぬ叫び声を上げて、街路を走り回っている。」といった、「前代未聞の恐怖の光景」「フリーランドに跋扈している言語道断な状態」の描写が延々と続きます。そして、この章の最後は、この騒ぎを何とかくいとめようとする「商工会議所」の、「『どうか落ち着いてください。暴動を起こしたのは狂った場所からきた少数の狂った人間だけなんです』」という呼びかけで結ばれています。この言は、逆接的に、「こうした人々は一部の少数の人間だけということではすまされない」ということを示していると思われました。これらの人々は、“ピラミッドのてっぺんにいる人間”が意図的に作りだし、社会に送り出しているもので、不幸な偶然から生まれたものではなく、必然的な存在だとも読み取れます。こうしたことをふまえると、この小説に描かれているぞっとするような醜悪な人間の姿が、単なる嫌悪感だけではなく、もっと恐ろしい、身近なものとして捉えられてきました。
さて、ジョイ・ディヴィジョンの1stアルバム『Unknown Pleasures』に収録されている「Interzone」についてですが、バロウズの『裸のランチ』の影響であることは間違いないでしょう。タイトルに文学作品の影響が読み取れるのは、このほか「Dead Souls」(ニコライ・ゴーゴリの同名の小説、邦題『死せる魂』)、「Atrocity Exhibition」(J・G・バラードに同名の短編集、邦題『残虐行為展覧会』)があります。前記事「プラン・Kでのイベント」で紹介したバロウズのファンサイト、Reality Studioには「Ian Curtis, Reader」という項目があり、イアンの読書についてのいくつかの証言が書かれています。はじめに紹介されているのが、8 January 1980, in Alan Hempsell, “A Day Out With Joy Division,” Extro, Vol.2/No.5. で、 1980年1月8日付のアラン・ヘンプセルによるインタビューからの抜粋です(インタビューの全文)。
私はイアンに、彼がJ・G・バラードとウィリアム・バロウズの作品を愛好していることについて尋ねた。彼が、バラードの『クラッシュ』(私の個人的お気に入りだ)、『終着の浜辺』、『残虐行為展覧会』、『ハイ・ライズ』、バロウスの『ソフト・マシーン』、『裸のランチ』、といった作品を含む、二人の作家の選集を読んでいたことを私は知っていた。彼はまた、『APO-33 』と呼ばれるバロウズの小冊子をたまたま持参していた。私はそれをながめ、とても興味深いと思った。私はこれらの本がイアンの詩に与えた影響について尋ねた。
「たぶん、潜在的にこびりついていると思うけど、意識はしていない」
Reality Studioにはここまでしか引用されていませんが、元記事の方はこう続きます。
“Welcome To The Atrocity Exhibition”についてはどう?明らかにバラードの影響では?
「実は違う、あの詩は『残虐行為展覧会』を読む前に書いたもので、タイトルを考えていたんだ、時々、いいタイトルを思いつけないことがあって。とにかく、ちょうど本の冒頭のタイトルを見て、詩の観念とぴったりあうと思ったんだ。詩を書いた後や、歌が出来上がった後で本を読んで、本の中に詩と類似した観念があって、符号することは時々あるんだ。」
Reality StudioのサイトのIan Curtis, Readerの記事は続けて、イアンが高校時代に通っていた、マックルズフィールドの本屋について記しています。David Britton と Michael Butterworthが経営していたこの書店は、コミックやSF小説、ドラッグ関連、広告など、普通の書店にはない、ちょっと変わったものが置いてある書店だったようです。まず、ジョン・サヴェージが『ガーデン』誌に書いた記事からの引用で、「イアンはスティーブン・モリスとともに、店の常連だった。」「イアンは、バロウズやバラードが特集された雑誌『New Worlds』を中古で買っていた。」「口を開けばバロウズ、バロウズ、バロウズの話をした。」という、 Michael Butterworthのコメントが記されています。また、Michael Butterworth自身の、2008年4月付のEmailによる証言が載っていて、イアンの読書の好みについて、「カウンターカルチャーやSFを好んでいた」とあります。
一方もう一人の経営者David Brittonは、2008年3月13日付のEmailで、「イアンはジョン・サヴェージが言っているような読書家ではない、よく言っても“A skimmer(表面をざっと読む人) ”だ、しかし、本質をつかんで引用することに長けていた。マックルズフィールドの奴にしては大した能力だと思う。」とコメントしています。
熟読していたのか、斜め読みだったのかは分かりませんが、“自分が詩にこめた観念と文学作品の中にある観念が反応することがあり、時にその作品のタイトルをそのまま詩のタイトルにしていた”、という発言からみて、イアンが文学から受けた刺激をもとに詩を書いていたことは間違いないと思います。そして、バロウズはイアンにとって、最も刺激的な作家の一人ということなのでしょう。イアンが書いた「Interzone」と、バロウズの『裸のランチ』に描かれている都市「インターゾーン」は、表面上あまり共通しているようには見えません。『裸のランチ』との共通点を“ここだ”と指摘できるような箇所はありません。表面的な部分ではなく、内面的な観念が響き合っているのだと考えられます。
イアンの「インターゾーン」を読むと、描かれている都市はマンチェスターなのではないか、という印象を強く持ちます。また、「Shadowplay」と似ていると思われるところがいくつかあり、「Shadowplay」は「インターゾーン」を煮詰めたような作品ではないか、と感じます。
次に『裸のランチ』の「インターゾーン」の描写と比べながら、整理してみたいと思います。
今回の記事でバロウズに興味が湧きました!
「裸のランチ」読んでみたいです。
イアンの詩でも、表面としての文章の奥にある、入り組んだ心象、思考を感じるコトがあります。
やろうとしてできるコトではないように思えます。
バロウズやバラードの作品を読んでから、イアンの詩を読めば、また違った世界が見えるのかもしれませんね。
自分なりに再考してみたいと思います。