愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

持病について――3

2010-10-27 21:54:10 | 日記
 ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』本編には収録されなかったインタビューで、ピーター・フックがイアンの発作について語っているものがあります。インタビュアーが「ボーンマスでは?」と聞いているところから、イングランド南部の都市、ボーンマスで1979年11月2日に行われたギグでのことだと思います。

 イアンの癲癇の発作が突然起きた。アホな照明係がフラッシュを使ったんだ。「フラッシュは禁止だ」とロブが何度もケンカした。聞き分けのない奴で、フラッシュで何度か発作が起きた。(「ボーンマスは?」という質問を受けて)あれはとくにひどかった。長時間付き添った。けいれんが激しくて、楽屋に寝かせてたが回復せず、俺は業を煮やして「病院へ連れてく」と。楽屋にいた俺とロブがイアンを車に乗せ街の病院へ向かった。医者が診てくれたが1時間半も苦しんでた。会場に戻ったあと皆に声をかけた。奴らは「1杯やれよ」と。周りを見回したがトゥイニー(※)がいなかった。不審に思って捜すと妙な場所にいた。舞台裏の戸棚の中だ。「何してんだ」と聞くと「イアンには悪魔が憑いてる」と。俺は奴を連れだした。ヴォーカルがいないなんて悪夢みたいだった。

※ローディーの一人

 この発言からは、病気のイアンを抱えながら、メンバーたちがどんなふうにステージをこなしていたかが窺えます。そして、「彼の発作は突然起こったし重症で強いものだった。放っておいても治まるとかいう、生易しいものじゃない。強くて強烈な大発作だ」(バーナード・サムナー ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』)という発作の激しさと、「てんかん患者の苦しみは症状だけじゃない。この病気への古臭い誤解や偏見、世間の恐怖感にもさらされる」(ドキュメンタリー映画で病気の解説をする医師の言)という偏見も。
 アニック・オノレも、ドキュメンタリー映画の中で、イアンの発作について率直にこう語っています。

 彼の発作を何度か見たことがあるけど、心底恐ろしかったわ。悪魔が憑いたようで。信じてもらえないでしょうけど本当に、体が地面から浮き上がるの。

 イアンはアニック宛ての書簡で、治療について「医者は薬を試すだけだ。」と記しています。デボラ・カーティスは、「徐々に、彼の処方箋は発作を抑制させるような薬に替わっていった。」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』第7章)と記していますが、かなりの量の薬を飲んでいたようです。スティーブン・モリスはドキュメンタリー映画の中で、「山ほど薬を飲まなきゃならず、本当に大変だ」と語っています。こうした大量の薬の副作用としては、眠気、めまい、興奮、混乱、緩慢な動作などがありました。また「癲癇の薬が癲癇そのものよりイアンを不幸にさせていたのではないか」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』第7章)と言うバーナード・サムナーは、ドキュメンタリー映画でイアンの薬について次のような印象を述べています。

 ある日は陽気に笑っていたかと思うと次の日には暗く落ち込んでシクシク泣く。そんなこと薬を飲む前にはなかった。感情の起伏が激しい奴じゃなかったんだ。

 ただし、アニック・オノレ宛の書簡にも書かれていたように、イアンの癲癇は「側頭葉癲癇」で、こうした感情の起伏の激しさ・攻撃性は、側頭葉癲癇の特徴的な症状でもあるようです。ともあれ、こうした持病の苦しみに加えて、発作がステージで起こるということへの不安を抱えなければならなかったことは、イアンにとって特別に不幸な状況だったと思います。「彼の世話はバンドのメンバーがしっかりやってくれた。彼らは、イアンの発作の前兆を見のがさないように人目を忍んでじっと見守り、とりわけ調子が悪くなったら彼が回復するのを手伝えるように常に側にいるか、すぐに病院へ連れて行けるように準備していた。」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』第9章)そうは言っても、深夜のステージをこなすこと自体が、体力的にも精神的にもハードなものであることは間違いなかったはずです。
 テリー・メイスンは「もし、ボクシングだったら、レフェリーはイアンに続けさせなかっただろう」と言っています("Bernard Sumner:Confusion " P.74)。しかし、「それは限界にきていた。僕らは言うべきだったんだ。『さあ、止めてくれ、僕らは降りるんだ』って。でも、誰が言うのかって? 誰が言えるというのだろう。『さあ、やめよう』なんて。」(バーナード・サムナー 『クローサー』コレクターズ・エディション収録のピーター・フックとスティーヴン・モリスとの鼎談)というように、止めることは不可能だった訳です。
 皮肉にも、この綱渡りのような状況で為されるイアンのパフォーマンスに人々はどんどん熱狂しました。

Asylums with doors open wide            ドアが広く開かれた収容所
Where people had paid to see inside        人々は金を払って中を見た
For entertainment they watch his body twist  娯楽として彼らは彼の身体がよじられるのを見る
Behind his eyes he says, I still exist        瞳の奥で彼は言う、「僕はまだ生きている」

という「アトロシティ・エクシビション」(『クローサー』に収録)の歌詞は、自分自身を風刺しているようにもみえます。イアンにとってステージは、文字通り生命との格闘だった訳なので、生半可な表現ではなかったことが想像されます。だからこそ多くのファンは、特別な何かをそこに見出したのでしょう。
 以上のように、病気についてのいくつかの事実を考え合わせてみると、アメリカ・ツアーなど到底無理だったのではないか、と思われてきます。デボラ・カーティスは、“イアンはアメリカ・ツアーについて悩んでいるように見えなかった”というメンバーたちの言に対し、「イアンは最終締め切りを守ったのだと私は信じる。……彼がアメリカ・ツアーについてまったく心配していなかった唯一の理由は、行かないことを決めていたからだ」(第12章)と記していますが、あるいはそうだったのかもしれない、とも思います。しかし、もし、アメリカ・ツアーを彼が何とかこなし、生き延びていたら、とも、ふと思わずにはいられません。前の記事に紹介した『新・てんかんと私-ひびけ、とどけ!34人の声-』には、大西八重子さんの「イアン・カーティスをご存知ですか」という文章があります。結びの部分を引用します。

 それにしてもイアンが自殺してしまったのは残念なことです。現在は芸能人などの著名人が、うつ病やパニック障害といった心の病にかかったことを公にするようになってきています。こうした動きは、心の病についての偏見を和らげることに大きく役立っていると思います。でも、てんかんを公にする著名人はまだいません(この病の発症率からいうと、絶対にいるはずなのですが)。イアンが今も生きていてくれたら、世界中のてんかん患者にとって、すばらしい希望の星になったと思うのですが。

持病について――2

2010-10-20 21:03:46 | 日記
 1980年3月5日、ブリストルで行われたギグで、ステージでのパフォーマンスの終了間際に、イアン・カーティスは癲癇の発作を起こしました。その場に居て発作を目撃したアニック・オノレに宛てて、後日、イアンはいくつかの書簡を送りました。"Torn Apart- The Life of Ian Curtis" にはそのうち、イアンが彼の病気についての不安を記した部分を三箇所引用しています(p.200~p.201)。
 デボラ・カーティスは、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』に、「イアンがアニックを内妻として選んだことで、てんかんの発作後の処置ができない、あるいはしたがらないために悲惨な結果を生んだ。アニックが戸惑いつつ拒絶したことが彼を深く傷つけた。」(p.135)と書いていますが、これに対する反論が書簡をもとに書かれています。

 癲癇の発作は恐怖になりつつある。月曜日の夜なんて、ガラスの扉を壊してしまった。気が付いたらガラスまみれで、扉に体を突っ込んだまま、尖った破片を見つめていた。たまに夜出掛けることも、クラブや映画館で発作が起こりはしないかと思うと怖くてできない。もっと不安なのは演奏の最中に発作が起こることだけど、その可能性は高いと思う。もし演奏中に大発作が起こるようなことがあったら、僕は二度とステージに立てないだろう。アメリカツアー(※1)は本当に不安だ。いや、正直に言うとこれから先ずっとだ。発作はいつかもっと激しいものになる、そう思わずにはいられない。そう、そうなったら僕はもう続けられないだろう。

 癲癇の発作は悪化するだろう。とても恐ろしい。「怖くない」と言ったら嘘になる。医者は薬を試すだけだ。ずいぶんいろんな薬の組み合わせを試した。医者が施す全ての検査を受けた、CTスキャンとか、脳波を調べたりとか。そして、トラブルが脳の側頭葉の前部にあることは判明した。だけど、多くの症例と同様、はっきりした原因はわからない。僕はまだ完全に把握しきれてはいない。でも、職場で癲癇患者と一緒に働いていたことがあるし、毎月仕事でデヴィッド・ルース・センター(※2)に行ってたからよく分かる。そこには、治療を受けるか、ただ世話をされるかだけの、最悪のケースの患者たちがいた。恐ろしい光景が頭の中にこびりついている。特別なヘルメットを被った男の子や女の子は、発作の時に自分を傷つけないよう、肘と膝にパッドを着けていた。何て絶望的な状況にいる、可哀想な子どもたちだっただろう。僕はこのことを君に話さなくては、と思った。もしそれが君の僕に対する感情を変えてしまうかもしれなくても。君を心から愛している、君を失いたくはない、でも、僕は最悪の場合どんな状態が有り得るのか、君に話すべきだと思った。……そうは言っていても、この発作が突然無くなって、二度と起こらなくなる、なんてことが起こり得るかも、とも思う。

 (ブリストルのギグで)発作が起こって、みんながそこにいて混乱した。まずい、と思って慌てたけど、君がいてくれて嬉しかった。意識を取り戻して君の顔を見た時、とても落ち着いたし、元気づけられた。君はこんなに影響力があるんだ。ロブでさえ、ヨーロッパツアーに君が同行したことは、僕にとって良かったって言っているんだ(※3)。君は僕にこれだけの効果を及ぼし、そして苛立ちを取り除いてくれるんだ。

 ※1イアンが自殺した5月18日にアメリカツアーに出発する予定でした。
 ※2デヴィッド・ルース・センターは、チェシャー州にある癲癇患者のための療養施設です。住居や教育など、様々なサービスを提供しています。(http://en.wikipedia.org/wiki/David_Lewis_Centre)
 ※3マネージャーのロブ・グレットンは、メンバーの妻や彼女がギグやレコーディングなどに来ることを避けたいという考えを持っていました。例えばピーター・フックは「ロブは断固として男っぽい、男だけの場にしようとした。これは作業だ、これは僕らの仕事なんだっていう雰囲気を作るために彼女や奥さんを連れてこないようにしたんだ」(『クローサー』コレクターズ・エディション収録のバーナード・サムナーとスティーヴン・モリスとの鼎談)と言っています。そのロブでさえ、アニックが居たことはイアンにとって良かったと言っている、ということだと思います。

 この書簡からは、イアンが自分の病気について、発作がどんどん悪化していることを感じ、もっと悪い状態になることをいかに恐れていたかが分かります。イアンは何よりもステージで発作が起こることを恐れていました。そして、それは一月後に起こりました。発作の苦しみは勿論ですが、発作を他人に見られることがいかに癲癇患者にとって苦痛であるかは、日本てんかん協会の編集している『新・てんかんと私-ひびけ、とどけ!34人の声-』に収録されている手記によっても、窺い知ることができます。
 4月4日、ロンドンのムーンライト・クラブで行われたギグで、オープニングから25分ほど過ぎた時、イアンのダンスはおかしくなりはじめ、「グロテスクなもの」になります。3000人の観客のうち何人かは、パフォーマンスの一部だと思ったようですが、多くの人は、恐ろしい発作がイアンに起こったことを目撃しました("Torn Apart- The Life of Ian Curtis" p.220~p.221)。この時ステージ上で起こった発作がすべての終わりだったと、バーナード・サムナーは語り(『Preston 28 Feburary 1980』ライナー・ノート)、バーナードとピーター・フックの同級生で、ローディーをしていたテリー・メイソンは、「彼は潰された……彼はあの晩、完全に壊れたんだ」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)と語っています。そして、その三日後、イアンは自殺未遂を起こしました。
 もう一つ、注目したことは、アニック・オノレに対して率直に、発作が収まって目が覚めた時に「君がいてくれて嬉しかった」と語っていることです。初めに記したように、デボラは、アニックがイアンの発作後の処置を拒否したことがイアンを深く傷つけたと書いているのですが、"Torn Apart- The Life of Ian Curtis"はこれに対し、「アニックはそういう人間ではない」と反論し、この記述を引用しています。アニックは、「どんなに親しい関係でも限界がある」と語り、イアンが発作を起こしている時、自分はそれをただ覗き見しているだけの「voyeur」(フランス語で「覗き見している人」の意)であるように感じていたといいます。イアンを背負うためには強くあらねばならなかったけれども、彼女は無力さを感じていました。慎重さと内気さは、ときに無関心であると誤解されるものかもしれない、ともアニックは語っています。("Torn Apart- The Life of Ian Curtis" p.201)
 デボラの主張は、彼女がイアンの病気を理解しようと努め、一生懸命尽くしていた、ということです。そして、自分はいつでもイアンの力になれたのに、疎外されてしまったという思いから、アニックが許せなかったのだと思います。物事はそれぞれの立場で語られるとき、時に全く違ったものになってしまいます。デボラの主張が一方的になものになってしまうのは仕方のないことでしょう。また、全く間違っているとも言い切れないと思います。イアンの気持ちはどうだったのでしょうか。イアンはアニックに対して「いてくれるだけで嬉しい」と言っています。ふと感じるのは、アニックの言うように、どんなに親しい間柄でも、結局皆発作を傍観するだけの第三者でしかない、ということです。彼はそこに孤独を感じたことはなかったのでしょうか。
 残されたメンバーたちの発言のいくつかから滲み出るのは、イアンが持病を抱えながらバンドを続けることは無理だと分かっていたけれど、誰も止められなかった、そして、何もできなかったという思いです。さらに、当時の状況下では、癲癇という病への偏見があったことも垣間見られます。

持病について――1

2010-10-13 20:08:22 | 日記
 癲癇は、大脳の神経細胞の規則正しい活動が突然崩れることにより、様々な発作が起こる病気です。頭部の外傷や脳卒中など、はっきりした原因があるもの(症候性癲癇)と、検査をしても原因が分からないもの(特発性癲癇)に分かれます。
 脳卒中を起こした高齢者が発病するケースも近年増えているようですが、幼少期に発病することが最も多く、80%は18歳以前に発病すると言われています。
 意識の消失とともに全身が痙攣するのが、「大発作」と呼ばれる最も激しい発作です。このほか、瞬間的に意識がなくなるだけのもの、意識はなくならずに体の一部に痙攣やしびれが起こるもの、幻覚などの精神症状が起こるものなど、様々なパターンがあります。 治療は薬物治療が中心となります。適切な治療を受け、規則正しい生活を心がけることにより、8割の人は日常生活に支障をきたすことなく発作を抑制することができます。しかし中には、薬を飲んでも発作をコントロールすることができない、難治性癲癇と呼ばれるものもあります。

 ジョイ・ディヴィジョンは1978年12月27日、初のロンドンでのギグを行います。しかし、観客は30人程しか入らず、期待外れの結果となり、イアンはかなり苛立っていたようです。帰途、初めて大発作を起こし、癲癇と診断されます。原因は不明、投薬治療を受けますが、その後も大発作を含め、発作は頻繁に起こりました。22歳という年齢での発病は珍しいケースです。母ドリーン・カーティスは、イアンは病気らしい病気をしたのはおへそに膿がたまって、それを取ってもらったことくらいで、健康優良児だった、4歳違いの妹キャロルの方がむしろ弱かったくらいで、癲癇の発病にとても驚いたと語っています("Torn Apart- The Life of Ian Curtis")。彼女はまた、イアンは10代のある時期に頭を打ったことがあるのではないか、そして、結婚生活でのストレスとステージでフラッシュを浴びたことなどが重なって発病したのではないか、と言っています。
 デボラは、イアンと出会った15歳の頃、しばしば幻覚が起こると彼が語っていたことについて記し、実はこれが癲癇の症状だったのではないかと推察しています。
 『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』を追っていくと、小康状態を保ったり、大発作を起こしたりを繰り返しながら、病状がしだいに悪化していく様子がわかります。以下、簡単にまとめてみます。

1978年12月末~1979年1月
 診断した開業医は、専門医に診てもらうよう指示したのみ。発作はかなり頻繁に起きた。週に3~4回の時と、全く起こらない時と、波があった。運転免許は条件付きとなり、身体障害者登録をした。
 専門医の診断を受け、抗癲癇薬としてフェニトインとフェノバルビトンを処方される。フェニトインは癲癇の治療に最もよく使用される長期の治療薬。フェノバルビトンは痙攣を抑える効果がある。薬についての様々な副作用とともに、このとき、ある決定的なことを言われる。それは、インポテンツを受け入れなければならないということだった。引きこもりがちになり、必要最低限のことしか話さなくなった。英国癲癇協会に入会。デボラは知っておくべき情報の把握につとめる。発作の前兆を見逃さないよう注意を払い、発作が起こってもすぐ対処できるようにする。ステージでのイアンのダンスは発作の前兆によく似ていた。まるで「発作の悲惨なパロディー」のようになっていった。(第7章)
3月
 1月から3月の間に何回か大発作を起こし、脳波を調べるが異常なし。フェニトインとフェノバルビトンに加え、新しく発作を抑制する効果のあるカルバマゼピンとバルプロ酸塩が投与される。新しい薬を受け取るたびに、イアンは今度こそこの薬が助けてくれるのではないかという熱意を取り戻す。大量の投薬を受けるようになってから、躁鬱状態が激しくなる。「癲癇の薬が癲癇そのものよりイアンを不幸にさせていたのではないか」とバーナードは指摘している。(第7章)
4月
 『アンノウン・プレジャーズ』の録音。ナタリー誕生。しかし、発作が起こって子どもを落とすことを恐れ、イアンは子どもを抱くのを嫌がった。(第7章)
5月
 ジョイ・ディヴィジョンはギグを定期的に行う。24日、自宅で4回にわたる大発作を次々に起こし救急車で運ばれる。そのまま数日入院。頭部のスキャンを撮るが、異常なし。(第8章)
6月
 『アンノウン・プレジャーズ』リリース。発作は一度も起きず。(第8章)
8月~9月
 何度も発作を起こし、9月の末、本番前に大発作を起こす。家庭にほとんど帰らなくなったイアンの世話は、デボラに代わってバンドのメンバーがみるようになる。(第9章)
10~11月
 アニック・オノレと出会う。11月にかけて発作は2回しか起こらなかった。(第9章)
12月
 イアンのエキセントリックな性格と精神分裂的な性格を、デボラは自分の手には負えなくなったと感じる。結婚生活は完全に破綻していた。(第9章)
1980年1月~2月
 ヨーロッパツアー。アニック・オノレが同行。ツアー中の病状はデボラが記していないため不明。"Torn Apart- The Life of Ian Curtis"にもこの間の発作について特に記されていないので、少なくとも大発作は起こらなかったとみられる。1月から2月にかけて、大発作が2回。このころ、不倫がデボラに知られる。(第10章)
3月
 メンバーやスタッフ、そしてアニック・オノレの前で大発作を起こす。初めて大発作を見たアニックに対し、病気についてきちんと話しておきたいと書簡で記している(この点からも、アニックがイアンの大発作を初めて見たのはヨーロッパツアー後のことと推察される)。書簡では、癲癇の発作が悪化していること、それについての恐怖、とくにステージで大発作が起こることへの恐怖が語られている。("Torn Apart- The Life of Ian Curtis")
4月4日
 ロンドンで行われたステージで大発作が起きる。(第11章)(この時ステージ上で起こった発作がすべての終わりだったと、のちにバーナード・サムナーは語っている。(『Preston 28 Feburary 1980』ライナー・ノート))
4月7日
 フェノバルビトンを大量に飲み、自殺未遂。入院。(第11章)
4月8日
 病院からギグに直行。2曲だけ歌ってステージから下がると観客が怒り、暴動が起こる。この後、自宅には戻らずトニー・ウィルソン夫妻と同居。(第11章)
5月2日
 最後のライブとなったバーミンガム大学でのギグ。(第12章)
5月6日
 精神科医の診察を受ける。問題なし、「人と歩調を合わせ人生を全うし、未来を期待する男性」と診断される。(第12章)
5月18日未明
 自殺。(第12章)

 イアンの病気の深刻さは、ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』でもメンバーや関係者の証言から窺い知ることができますが、彼自身の苦悩が率直に語られているのが、"Torn Apart- The Life of Ian Curtis"に収録されているアニック・オノレ宛の書簡です。