goo blog サービス終了のお知らせ 

愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

Disorder――イアン・カーティスとJ・G・バラード(3)

2010-11-24 21:39:23 | 日記
 バラードが描こうとする「内宇宙(インナー・スペース)」とは、どういうものなのでしょうか。『クラッシュ』(柳下毅一郎・創元SF文庫)の序文には、こうあります。

 わたしは自分が探求したいと思った新しい領域を、象徴的な目的からだけでなく、純理論的な、また予定的目的から内宇宙と名づけた。この心理学領域においては(例えばシュルレアリスム絵画に示されるように)精神の内部世界と現実の外部世界とが出会い、融け合うのだ。

 『クラッシュ』や『ハイ・ライズ』、または、あらゆるものが結晶化し凍り付いてしまう『結晶世界』といったバラードの小説は、ある特殊な環境を舞台としています。しかし、小説のテーマは、そうした環境における人間の心理に置かれています。テーマとなっているのは“テクノロジー 対 人間”とか“残虐行為 対 人間”という対立ではなく、そうした異常な世界と人間心理の「関係」、そうした世界と関わることによって変化していく人間の心理です。それは「テクノロジーは悪」あるいは「残虐行為は悪」などと、単純に「善悪」や「是非」の対立として解消されるものではありません。
 例えば、『残虐行為展覧会』にこんな記述があります。

 自動車衝突に潜む性的内容。たとえばジェイムズ・ディーン、ジェイン・マンスフィールド、アルベルト・カミュといった結果的には交通事故の死亡者として名を残した有名人たちの潜在的なセックスアピールを査定しようと、おびただしい数の研究がおこなわれてきた。政治家、映画スター、それにテレビの有名タレントたちを撮った模造ニュース映画を、(a)郊外に住む主婦たち、(b)末期脳梅毒患者たち、(c)ガソリンスタンド店員、から選んだ人びとに見せるのだ。交通事故の犠牲者を映しだすシークエンスは、脈拍および呼吸数の著しい増加をもたらす。志願被験者たちの多くは、死亡者たちがまだ生きていると確信するようになり、後には、夫や妻との性交の際に性的刺戟をもたらす焦点として、衝突事故犠牲者たちの誰かをこっそりと用いるのだった。(第12章「衝突!」)

 ヴェトナムでの戦闘を撮った、エンドレスのニュース映画を、(a)調査用に選ばれた観客、(b)精神病患者(第三期梅毒)、に見せる。いずれの場合にも、戦闘場面のフィルムは、拷問と処刑のシークエンスとは反対に、著しく緊張を緩和する働きを有し、血圧、脈膊数、呼吸数を適当なレヴェルに調節するということが判明した。これらの結果は、ありきたりな戦闘場面のニュース映画のもつ低調な劇的要素および興味と一致するものである。……ヴェトナム戦争継続の適否は自明のことであろう。(第11章「愛とナパーム弾/アメリカ輸出品」)

 こうした心理には、一見すると嫌悪感を抱かされます。しかし、読み進めていくうちに、しだいに自分の中にもこれと同様なものが潜んでいるのではないか、という恐ろしい問いかけが生じてきます。「衝突してひしゃげた五六年型キャデラックコンバーチブルの、折れたダッシュボードの亀裂と助手席で死んだ女の太股の角度にエロスがある、という指摘。これに共感できるのはよほどの変態なのだけれど、でもここには何かある。事故や災害を見て(胸をいためるふりをしつつ)興奮し、何度もそれを繰り返し見てしまう心理を説明できる何かがある。人々が廃墟に惹かれる心に通じる何かがある。」(山形浩生「J・Gバラード:欲望の磁場」太田出版『コンクリート・アイランド』に収録)というような、人間存在への問いかけが生じてくるのです。
 そこで、比較してみたいのが、『An Ideal For Living』でイアンが試みたナチズムの取り上げ方です。既出ですが『An Ideal For Living』とドイツ第三帝国――②の記事に載せたインタビューを引用します。

 評論家ミック・ミドルス(リンジー・リードと共著でイアン・カーティスの伝記“Torn Apart -The Life of Ian Curtis”を書いています)が1978年に行った、『An Ideal For Living』についてのインタビュー(ライブアルバム『Preston 28 February 1980』所収)で、イアンカーティスは「Leaders Of Men」について次のように話しています。

(バーナードの「イアンはいつもノートにたくさんの歌詞をあらかじめ書きためていて、できあがった曲に嵌めて歌う」という発言をうけて)
イアン:「例えば「Leaders Of Men」は、2~3年前に書いた詩に、少し付け加えてる。歌詞になるように少しだけ(言葉を)探しながら。」
ミック:「(歌詞は)何についてのもの?」
イアン:「いろんなことだよ、本当に。僕は特定の何かについて書くつもりはない。もし、何かに心を打たれたとしても。僕はしばしば、とても潜在的な意識に従って書く傾向があるから、それが何についてのことなのか、分からない。」
ミック:「例えば、このEP(『An Ideal For Living』)の歌だと、「Leaders Of Men」は何について?」
イアン:「かなりわかりやすい歌だ、かなり明白だよ、本当に。僕は(詩を)解釈のためにオープンする、ってことはしたくないんだ。特定のことについて書くのは無意味なことだ。そうしたら、それは時代遅れなものになっていくだろう」

 「潜在的な意識に従って」書かれたナチズムをテーマにした詩は、ナチズムを「善悪」という尺度で安易に捉えないものでした。ナチズムを礼賛している詩だとは思えない詩が、ネオナチだと批判されたのは、解りやすい批判が示されていなかったためでもあると思います。ナチズムを扱った映画や小説の中には、ナチズムを安易に物語のツールとして「極悪」の定位置に据えていると感じられなくもないものがあります。しかし、バラードの小説も、そして、恐らくイアンが試みていたことも、そうした類のものではない、と思われます。道徳とか常識とか信条といった、観念に覆い隠されて見えない人間の深層にある本質への、突き詰めた問いという危険な試みがなされているのではないでしょうか。

 ここで「Disorder」の歌詞に戻り、「僕」が失った“普通の人間の感覚や感情”とは何だろうとあらためて考えてみます。『クラッシュ』の序文でバラードは、「感覚と感情の死亡は、極めてリアルで優しい快楽へと道を拓いた――つまり苦痛と損傷への興奮だ。」と書いているのですが、「僕」が受けたショックは、例えばバラードの小説に描かれているようなショックと類似したもので、観念の底にある無意識、「内宇宙」へと達するものではないか、と思います。そこには、「普通の世界」と隔てられてしまった人間が感じる、底知れぬ「孤独」があるのではないでしょうか。
 バラードは、自身の代表作として、「時間が語りかけてくる」を挙げています。主人公は、水を抜いたプールの底一面に表意文字のような不思議な溝を刻んで自殺した生物学者の友人パワーズです。パワーズは遺伝子異常を起こし始める生物たちを研究しながら、電算機から打ち出される「96,688,365,498,695」「96,688,365,498,694」「96,688,365,498,693」……という不思議な数字のメッセージを受け取ります。この数字は終末に向かう世界をカウントダウンする「時の声」で、友人が聞いたものと同じメッセージでした。バラードは、この作品を自身の代表作だとする理由として、「私が扱うテーマのほとんどすべてが『時間が語りかけてくる』にあらわれているからである。」と述べています(『ザ・ベスト・オブ・バラード』ちくま文庫)。そして、そのテーマとは、「たとえば、宇宙の無限の時間と空間のなかで感じる孤独とか、生物に関するとりとめもない想像とか、水を抜いたプールや荒れはてた飛行場に秘められた複雑な記号の意味を解読しようとする行為とか。なかんずく、ますます無常感が強まる心理状態から脱出して、人間には見えない宇宙の力と、ある種の調和を個人の単位でつくり出そうとする決心」だとしています。

 「イアン・カーティスは孤独と絶望をうたった」とよく言われます。このイメージはともすればステレオタイプな悩めるロッカーとしての印象を与えがちです。一口に「孤独」といってもその「孤独」とはどういった心情なのだろうか、それはもしかしたら「宇宙の無限の時間と空間のなかで感じる孤独」「ますます無常感が強まる心理状態」のようなものではないだろうか、そんなことを考えます。「Disorder」に描かれたような、捉えどころのない心理状態をつきつめてみることで、少し、理解が深まるような気がします。

Disorder――イアン・カーティスとJ・G・バラード(2)

2010-11-10 20:18:45 | 日記
 イアン・カーティスはJ・G・バラードを愛読していました。「Disorder」のほかにその影響がみられるものとして、「Ice age」と「Atrocity Exhibition」が挙げられます。「Atrocity Exhibition」は、遺作となった2ndアルバム『クローサー』の冒頭を飾る曲です。「Ice Age」は、1978年の作品ですが、世に出たのはイアンの死後で、1981年に発売されたジョイ・ディヴィジョンの3rdアルバム『Still』に収録されています。『Still』は、イアンの死の2週間前に収録したライヴとスタジオ録音の未発表曲で構成されています。
 1978年1月に自主制作のデビュー・アルバム『An Ideal For Living』が完成した後の5月、ジョイ・ディヴィジョンはデヴィット・ボウイやイギー・ポップが所属する大手レコードレーベルのRCAレコードからのデビューを前提にレコーディングを行うことになりました。イアンがジョイ・ディヴィジョンを売り込むためにせっせとRCAレコードに顔を出しており、その甲斐あって掴んだチャンスです(RCAレコードは彼の職場に近かったようです)。5月の3日から4日にかけてレコーディングが行われ、「Ice Age」のほか「They Walked In Line 」「Novelty」「Transmission 」「Interzone」「Shadowplay 」などを含む12曲が録音されました。そのうちの1曲は、条件として、N.F.ポーターの「Keep On Keepin' On」のカバーをするよう指示され、イアンは、ソウル・シンガーのように、とくに「ジェームス・ブラウンのように歌え」と求められました。しかし、うまくできず、次第に苛立ち、感情をぶつけ始めます。また、意に添わないのにシンセサイザーを入れろと強要されたことなどが原因となり、結局契約には至りませんでした。ファクトリー・レコードの第一弾となる『 A Factory Sample』(「Digital」と「Glass」が収録)が録音されたのは、その5ヶ月後の10月です。翌1979年の1月に発売されました。
 「Ice Age」は、「直球のJ・Gバラードものか?」(ジョン・ウォーゼンクロフト『Still』ライナー・ノート)と評されています。「I've seen the real atrocities,(リアルな残虐行為を見た)/Buried in the sand,(砂の中に埋められ)/Stockpiled for safety,(わずかな者にだけ安全が蓄えられ)/While we stand holding hands.(その間僕たちは手をつないで立ちつくす)」という歌詞の、「リアルな残虐行為」「砂の中に埋められ」が、バラードの『残虐行為展覧会』に通じているとみられます。
 『残虐行為展覧会』(工作舎・1980年・法水金太郎訳)は、一貫したストーリーを持たず、小さなエピソードのつながりで成り立っています。その中に、「ヴェトナムでのナパーム爆撃」「イーザリィ」(注:広島への原爆投下爆撃隊に加わったパイロット。大戦後精神病院に収容された。)「チンタオの入り江の浜に乗り上げたUボートの錆びついた船体」「アルバート・アインシュタインの脳波図」「J・F・K」「コンゴの残虐行為」「女装したアイヒマン」(注:ナチスの将校。強制収容所内における残虐行為のために1962年イスラエルにおいて処刑)というように、“残虐行為”を連想させるフレーズがくり返し示されます。舞台となっているのは近未来のどこかの都市であることが想像されますが、そこは浜辺の砂地です。「ばらまかれた砂と裂けたセメント袋のあいだに、古いタイヤとビール瓶が転がっている。」「あらゆる種類のガラクタが砂地には転がっている。」「砂丘の背後に隠れてしまった小屋」といった風景が、崩壊していく都市とそこに生きる人間の心象を象徴するように描かれています。
 「Atrocity Exhibition」は、邦訳すると「残虐行為展覧会」で、バラードの小説『残虐行為展覧会』と同じタイトルです。こちらの方は、詩の中にはバラードの『残虐行為展覧会』を窺わせる部分は見られず、タイトルにだけ影響関係が見られます。しかし、「Asylums with doors open wide(ドアが広く開かれた収容所)/Where people had paid to see inside(人々は金を払って中を見た)/For entertainment they watch his body twist(娯楽として彼らは彼の身体がよじられるのを見る)/Behind his eyes he says, I still exist(瞳の奥で彼は言う、「僕はまだ生きている」)」という「僕」自身は、「残虐行為展覧会」の展示品の一つのようで、タイトルと詩の内容はどこか通じ合うものとして捉えられてきます。
 「Disorder」において、バラードの小説をふまえていると思われる部分は、前回指摘しましたが、第2連の「On the tenth floor, down the backstairs, into no man's land.(10階のフロアで、裏階段を見下ろすと、人気が全く無い。)」「Lights are flashing, cars are crashing, getting frequent now.(ライトが点滅している、車が衝突している、今や日常茶飯事。)」です。前者は『ハイ・ライズ』、後者は『クラッシュ』をふまえており、この二作と『コンクリート・アイランド』は、テクノロジーと人間の内面との関係を描いた「テクノロジー三部作」と言われていることは既に指摘しました。この「テクノロジー三部作」の特徴について、集英社『世界文学大事典』の「J・Gバラード」項は、「テクノロジーとメディアに浸食された現代人の荒涼たる心象風景を描き」「都市の荒廃と暴力と無気味さを、科学時代の現代人の心象風景として追究する」ものだと説明しています。「Disorder」の歌詞の内容と照らし合わせてみると、「Disorder」はとくにテクノロジーとの関わりといったテーマを持っているわけではありません。あくまで、「僕」の不思議な心情や感覚がテーマです。テーマとして密接に関わっているわけではありませんが、しかし、バラードの小説から借りた言葉が、表面的に詩を飾っているだけでもないと思います。この歌詞とバラードの小説の世界は、もう少し密接に関わっているのではないでしょうか。
 詩に描かれている「僕」の、通常の感覚ではない心情は、バラードの小説を彷彿させる言葉を重ねることでよりシュールなものになります。バラードは、「真のSF小説の第一号は……健忘症の男が浜辺に寝ころんで、錆びた自転車の車輪を見つめつつ、両者の関係性の究極的な本質をつきとめようとする、そんな物語になるはずだ」(山形浩生「J・Gバラード:欲望の磁場」太田出版『コンクリート・アイランド』に収録)といい、「人間の深層心理に潜む内宇宙を心象風景化した」(集英社『世界文学大事典』)作品を書きました。この「内宇宙(インナー・スペース)の探求」が、イアンがバラードから受けた影響ではないか、と思います。

Disorder――イアン・カーティスとJ・G・バラード(1)

2010-11-03 18:37:47 | 日記
 ジョイ・ディヴィジョンの1stアルバム『Unknown Pleasures』の1曲目、「Disorder」には、「a normal man(普通の人間)」としての感情を抱けなくなった人物が描かれています。とらえどころのない浮遊感が漂う「僕」の内的世界を表すのに、J・G・バラードの小説をふまえたフレーズが効果的に使われています。

I've been waiting for a guide to come and take me by the hand.
                           僕の手を取ってくれるガイドを待っていたんだ。
Could these sensations make me feel the pleasures of a normal man?
                           ある種の感覚が、僕に普通の人間としての喜びを感じさせてくれるだろうか?
These sensations barely interest me for another day.
                           この感覚はかろうじて僕に明日への興味を持たせてくれる。
I've got the spirit, lose the feeling, take the shock away.
                           僕は生き返ったけど、感情が無くなった、このショックを取り除いてくれ。

It's getting faster, moving faster now, it's getting out of hand.
                           それはどんどん速くなる、今やどんどん速くなって、手に負えない。
On the tenth floor, down the backstairs, into no man's land.
                           10階のフロアで、裏階段を見下ろすと、人気が全く無い。
Lights are flashing, cars are crashing, getting frequent now.
                           ライトが点滅している、車が衝突している、今や日常茶飯事。
I've got the spirit, lose the feeling, let it out somehow.
                           僕は生き返ったけど、感情が無くなった、何とか解放してくれ。

What means to you, what means to me, and we will meet again.
                           君にとっての意味、僕にとっての意味、そして僕たちは再び出会うだろう。
I'm watching you, I'm watching her, I'll take no pity from you friends.
                           僕は君を見ている、僕は彼女を見ている、君の友達の同情はいらない。
Who is right, who can tell and who gives a damn right now.
                           誰が正しい、誰が言える、誰が批判できる、今まさに。

Until the spirit new sensation takes hold, then you know.
                           精神と新しい感覚を得るまでだ、そうすれば君にもわかる。

I've got the spirit, but lose the feeling.    僕は生き返ったけど、感情が無くなった。

Feeling.                       感情が。

 「僕」はなぜガイドを待っているのでしょうか。それは、「a normal man(普通の人間)」としての喜びを感じられなくなっているからです。「these sensations」があれば何とかそれを取り戻せる、そのためのガイドを待っています。
 「I've got the spirit, but lose the feeling」は、何度も繰り返され、詩のイメージを掴む鍵となっていると思います。「生き返ったけど感情が無い」という「僕」の状態は、どんな感じなのか、実感として掴みにくいですが、抜き差しならない状況であることは分かります。「take the shock away.」とありますが、何か「ショック」を受けてこの状況に陥っているのです。

第2連の「On the tenth floor, down the backstairs, into no man's land.」「Lights are flashing, cars are crashing, getting frequent now.」は、J・G・バラードの小説をふまえています。前者は『ハイ・ライズ』、後者は『クラッシュ』の世界に通じているとみられます。この二作と『コンクリート・アイランド』は、テクノロジーと人間の内面との関係を描いた「テクノロジー三部作」と言われています。
 『ハイ・ライズ』は、40階建ての高層マンションが舞台です。最新の技術で造られた、至れり尽くせりの設備を持ち、誰もが快適に暮らせる住居のはずでした。しかし、「事実上マンションは、すでに上流、中流、下流という、三つの古典的な社会階層に分かれていた」(村上博基訳、ハヤカワ文庫SF p.72)という中、住民たちの心理は徐々におかしな方向へ進んでいきます。理性を無くした住民たちは暴力的な集団となり、恐ろしい事件が繰り広げられます。このマンションは、「十階のショッピング・モールを明瞭な境界として」(同p.72)とあるように、十階が分岐点となっています。「On the tenth floor, down the backstairs, into no man's land.」は、マンションが荒廃していく中、「十階のコンコースにひと気は絶えていた。」(同p.165)「十階までおりてきたとき、もうコンコースはほとんどからっぽだった。」(同p.121)という情景をふまえているとみられます。
 『クラッシュ』は、交通事故をきっかけに、車の衝突と性的興奮が結びつき、自動車事故に異常な魅力を感じる人々を描いています。「cars are crashing」は、『クラッシュ』の世界を彷彿させます。
 この詩の主人公「僕」は、バラードの小説の登場人物のように、アブノーマルな状況に追い込まれている、そんな想像が広がります。

 第3連の冒頭「君にとっての意味」と「僕にとっての意味」が違う、というのも、「僕」がノーマルな人間ではないからでしょう。しかし、「僕らは出会えるだろう」というのは、「手をとってくれるガイド」が現れて普通の人間としての感覚を取り戻せるかもしれない、そこに希望を見ているからだと思います。精神を取り戻し、感覚を得る、そうなってノーマルな人間になるから同情も批判も無用だ、ということではないでしょうか。

 「spirt」「sensation」「feeling」、この三つの言葉の繊細な意味の異なりは、詩の中で「僕」の内面を細やかに表現しています。生き返ったけど感情を無くし、ある感覚を取り戻し、ノーマルな人間に戻りたいという心理の不思議さは、バラードの小説のアブノーマルな人物たちのイメージと相俟って、より印象的なものとなっていると思います。