はじめに、以下の記事は映画のネタバレを含むことをお断りしておきます。
イアンが自殺した日の前日、1980年5月17日の土曜日の夜に「シュトロツェクの不思議な旅」を見ていたことは、彼が電話でそう話していた、という証言によるものです。デボラ・カーティス『タッチング・フロム・ディスタンス』p.147には、次のように記されています。
まず、この記述にある『シュトロツェクの不思議な旅』が「二人の女性のどちらかを選ぶのではなく自殺」という筋ではないことを注記しておきます。そういうストーリーではないので、これはどちらかの聞き間違いか記憶違いだと思います。そして、「『スティル』に漏れたものが何故、……」以下の記述ですが、分かりにくいと思います。これは何を指しているかというと、『スティル』のLPレコードに、レコードの溝と中央のラベルの間にある部分にメッセージが刻まれていて、それが「ニワトリは止まろうとしない(The chicken won’t stop)」「ニワトリはここで止まる(The chicken stops here)」というものだということのようです。『スティル』のライナーノートから、これに関する記述を引用します。
このグルーヴ・ノーテーションの写真は、次のサイトの左下あたりにあるので参照してみてください。レコードの中央部分を拡大した写真を見ると、「The chicken won’t stop」と刻まれているのがわかります。
リンジー・リードとミック・ミドルスの共著『Torn Apart - The Life of Ian Curtis』は、イアンが最後に話した人物はアニーク・オノレだった、と記し、アニークが17日の晩、夜9時ごろ電話でイアンと話したこと、その際にイアンが「ヘルツォークの映画を見ていた」と言っていたという証言を記しています。(p.255)
テレビで放映されていた映画を、イアンがどの程度しっかり視聴していたのかはわかりません。しかし、自殺の前日にこの映画を見ていたということが、関係者たちの間で特に印象に残るエピソードであったということは言えると思います。私も、映画を見て、関係者たちがこの映画を気にしている理由が納得できました。
映画のあらすじを簡単に書いてみましょう。
ベルリンの刑務所を出所したブルーノ・シュトロツェクは、やくざの情婦エーファが、情夫に捨てられ、殴られているのを助け、自分のアパートに来ればいいと誘い、一緒に暮らしはじめます。アパートでは刑務所にいる間部屋を管理してくれていた友人で隣人の、シャイツ老人と再会を喜び合います。友人となった三人は、助け合って生活するようになりますが、ある日、エーファの情夫が仲間とアパートにやってきて、エーファに金を返せなどと因縁をつけて殴り、ブルーノもひどい暴行を受けます。そんな暮らしから逃れようと、ブルーノとエーファは、甥を頼ってアメリカへ行くというシャイツに同行することに決めます。“誰でも大金持ちになれる国アメリカ”へ、3人は旅立ちます。
シャイツの甥が暮らしているウィスコンシンの片田舎で働きはじめ、テレビもあるトレーラーハウスを手に入れ、喜ぶ3人ですが、それらはローンの山によって得られたものでした。ブルーノとシャイツは英語が読めず、英語が読めるエーファに任せているのですが、山のような誓約書を不安に思い、ブルーノはエーファに大丈夫なのかと念を押します。エーファは自分が何とかするから大丈夫と答えます。じきにローンは支払えなくなり(これは私の想像ですが、最初から無理なローンだったようです)、エーファはトラック運転手と駆け落ちしてカナダへ行ってしまい、家は競売にかけられます。借金だけが残る結果に“自分たちは陰謀にかけられた”と主張するブルーノとシャイツですが、銀行は相手にしません。2人は当座の金を得るため町の床屋をライフル銃でおどして少しばかりの金を奪います。
しかし、シャイツはすぐに逮捕され、ネイティブ・アメリカンの居住区に逃げ込んだブルーノはライフル銃を片手に山頂に向かうリフトに乗ります。そして銃声がとどろき……という、ブルーノの旅の果てまでが描かれています。
前回の記事で紹介したこちらのサイトには、次のようにあります。
主人公ブルーノの破滅する果ての地が「アメリカ」であったということは、この映画のポイントでもありますが、この映画とイアンとの関連という点において、私がまず気になったことでもあります。それから、同じサイトから次の解説を引用してみましょう。
この「ショッキングな登場をする動物」とは、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』にあったニワトリです。主人公のブルーノが最後に逃げ込んだネイティブ・アメリカンの居住区のアトラクション施設に、からくり人形のミュージックボックス(オートマタの一種といえばいいでしょうか)があります。からくり人形の代わりに本物のニワトリや鴨、ウサギが中にいて、スイッチを入れると音楽が流れ、ピアノを弾いたりドラムを叩いたりダンスを踊ったり……ブルーノはスイッチを入れっぱなしにし、ライフル銃を持ってリフトに乗り込み、やがて銃声が鳴り響いて映画は終わります。ブルーノを追いかけてきた警官が「動物は踊りっぱなしだ」と言うように、ニワトリは小さな箱の中でくるくる回りながら踊り続けます。ブルーノが乗り捨てたトラックが無人のままロータリーを延々と回り続ける映像と交互に映し出され、それが「永久運動を思わせる〈回転運動〉」ということになるのでしょう。この回転運動は、永久に抜け出せないブルーノの哀しい運命を象徴しているように私は感じたのですが、とりわけ踊り続けるニワトリの映像は強烈で、これを見たとき、もしかしたらこのニワトリに、イアンは自分の姿を重ねたのではないかと思ってしまいました。個人的に、イアンの自殺は過労死のような面もあるのではないかという印象を私は持っていて、『Atrocity Exhibition』の「「Asylums with doors open wide(ドアが広く開かれた収容所)/Where people had paid to see inside(人々は金を払って中を見た)/For entertainment they watch his body twist(娯楽として彼らは彼の身体がよじられるのを見る)/Behind his eyes he says, I still exist(瞳の奥で彼は言う、「僕はまだ生きている」)」という詩の一節を、ぎりぎりの状態でステージに立っていたイアン自身の描写のように感じてしまうのです。そのイメージと、音楽にあわせて踊り続けるミュージックボックスの中に閉じ込められたニワトリとが、どうしてもシンクロしてしまいます。
そして、主人公ブルーノ・シュトロツェクを演じている俳優、ブルーノ・Sの持っている独特の雰囲気。この存在感はこの映画の根幹ではないかと思います。このブルーノ・Sは、前掲の映画の紹介サイトの説明にあるように、かなり特異な経歴の俳優です。ナチが知的障碍者を集めていろいろな実験をするという施設に23年間もいたということですが、映画の後半に、ブルーノが施設にいた時のことを語る場面があり、主人公ブルーノは俳優ブルーノ・Sと重なり合う存在であることが窺えます。
映画が始まってすぐに、この俳優の特異性を思わずにはいられませんでした。どことなくズレた間の取り方、ふと見せる無垢な表情、どこか遠くを見ているようなまなざし、等々。エーファの情夫とその仲間がアパートに押しかけ、部屋を荒らし、ブルーノを暴行する場面で、抵抗する様子はほとんど見せず、されるがままに暴力を受けているところなど、彼がずっと弱者で、虐げられる側で生きてきたということを象徴しているように思えました。一方『アギーレ/神の怒り』のクラウス・キンスキーは、虐げる側の象徴のような人物です。以前書きましたが、イアンは、障害者のための就活支援センターで働いていて、彼らに異常な興味を示し、懸命に尽くしていました。おそらく、このブルーノにも、彼らと似たものを感じ取ったのではないでしょうか。
それでは、個人的に印象に残った場面を映画のストーリーに沿って振り返りながら、イアンを思い起こさせるところなどをもう少し細かく見ていきたいと思います。
イアンが自殺した日の前日、1980年5月17日の土曜日の夜に「シュトロツェクの不思議な旅」を見ていたことは、彼が電話でそう話していた、という証言によるものです。デボラ・カーティス『タッチング・フロム・ディスタンス』p.147には、次のように記されています。
イアンがロブ・グレットンに次のように話したことは聞いた。イアンはマックルズフィールドに来ていて、もし一緒に見たら父親を狼狽させてしまいそうなテレビ映画を見ているんだ、と言っていたという。その映画とは『シュトロツェクの不思議な旅』のことで、アメリカに渡った一人のヨーロッパ人が、二人の女性のどちらかを選ぶのではなく自殺するまでを描いたヴェルナー・ヘルツォークの作品だ。ケーブルカーの中で死んだ主人公と、ずっと踊り続けているニワトリを描く最後のくだりは、それがアルバム『スティル』に漏れたものが何故、「ニワトリは止まろうとしない」、「ニワトリはここで止まる」、そして溝の間の足跡を含んでいるかの理由でもある。
まず、この記述にある『シュトロツェクの不思議な旅』が「二人の女性のどちらかを選ぶのではなく自殺」という筋ではないことを注記しておきます。そういうストーリーではないので、これはどちらかの聞き間違いか記憶違いだと思います。そして、「『スティル』に漏れたものが何故、……」以下の記述ですが、分かりにくいと思います。これは何を指しているかというと、『スティル』のLPレコードに、レコードの溝と中央のラベルの間にある部分にメッセージが刻まれていて、それが「ニワトリは止まろうとしない(The chicken won’t stop)」「ニワトリはここで止まる(The chicken stops here)」というものだということのようです。『スティル』のライナーノートから、これに関する記述を引用します。
伝えられるところによると、トニー・ウィルソンはA4の紙にLP2枚組分のグルーヴ・ノーテーション(訳注:レコードの録音帯と、中心のラベルの間の無音部に刻まれたメッセージ)を書き出したとのこと。そこから選ばれたのは「チキンは止まらない/チキンはここで止まる」だった。これらは『シュトロツェクの不思議な旅』からの直接的な引用である。
このグルーヴ・ノーテーションの写真は、次のサイトの左下あたりにあるので参照してみてください。レコードの中央部分を拡大した写真を見ると、「The chicken won’t stop」と刻まれているのがわかります。
リンジー・リードとミック・ミドルスの共著『Torn Apart - The Life of Ian Curtis』は、イアンが最後に話した人物はアニーク・オノレだった、と記し、アニークが17日の晩、夜9時ごろ電話でイアンと話したこと、その際にイアンが「ヘルツォークの映画を見ていた」と言っていたという証言を記しています。(p.255)
テレビで放映されていた映画を、イアンがどの程度しっかり視聴していたのかはわかりません。しかし、自殺の前日にこの映画を見ていたということが、関係者たちの間で特に印象に残るエピソードであったということは言えると思います。私も、映画を見て、関係者たちがこの映画を気にしている理由が納得できました。
映画のあらすじを簡単に書いてみましょう。
ベルリンの刑務所を出所したブルーノ・シュトロツェクは、やくざの情婦エーファが、情夫に捨てられ、殴られているのを助け、自分のアパートに来ればいいと誘い、一緒に暮らしはじめます。アパートでは刑務所にいる間部屋を管理してくれていた友人で隣人の、シャイツ老人と再会を喜び合います。友人となった三人は、助け合って生活するようになりますが、ある日、エーファの情夫が仲間とアパートにやってきて、エーファに金を返せなどと因縁をつけて殴り、ブルーノもひどい暴行を受けます。そんな暮らしから逃れようと、ブルーノとエーファは、甥を頼ってアメリカへ行くというシャイツに同行することに決めます。“誰でも大金持ちになれる国アメリカ”へ、3人は旅立ちます。
シャイツの甥が暮らしているウィスコンシンの片田舎で働きはじめ、テレビもあるトレーラーハウスを手に入れ、喜ぶ3人ですが、それらはローンの山によって得られたものでした。ブルーノとシャイツは英語が読めず、英語が読めるエーファに任せているのですが、山のような誓約書を不安に思い、ブルーノはエーファに大丈夫なのかと念を押します。エーファは自分が何とかするから大丈夫と答えます。じきにローンは支払えなくなり(これは私の想像ですが、最初から無理なローンだったようです)、エーファはトラック運転手と駆け落ちしてカナダへ行ってしまい、家は競売にかけられます。借金だけが残る結果に“自分たちは陰謀にかけられた”と主張するブルーノとシャイツですが、銀行は相手にしません。2人は当座の金を得るため町の床屋をライフル銃でおどして少しばかりの金を奪います。
しかし、シャイツはすぐに逮捕され、ネイティブ・アメリカンの居住区に逃げ込んだブルーノはライフル銃を片手に山頂に向かうリフトに乗ります。そして銃声がとどろき……という、ブルーノの旅の果てまでが描かれています。
前回の記事で紹介したこちらのサイトには、次のようにあります。
ヘルツォークといえば、代表作とされる『フィツカラルド』や『アギーレ 神の怒り』が代表作とされることが多く、誇大妄想を抱いた主人公が〈未開の地〉に乗り込んでいって文明の押しつけ、あるいは逆に自然の驚異にさらされて滅びて行く、主人公が挫折するという〈大きな物語〉の印象が強いかと思います。『シュトロツェクの不思議な旅』は、そういった作品群とは一線を画す作品です。ドイツで行き詰った主人公がアメリカに行く。しかし、そこで彼を待っていた「憧れの国」は、若者たちが夢見たような夢の国ではなく、いかにも薄っぺらい、イメージとしてのアメリカの〈残骸〉、もしくは戯画のようなものでしかない。そのようなアメリカが映画のなかでどのように描かれているか、これからご覧いただきたいと思います。
主人公ブルーノの破滅する果ての地が「アメリカ」であったということは、この映画のポイントでもありますが、この映画とイアンとの関連という点において、私がまず気になったことでもあります。それから、同じサイトから次の解説を引用してみましょう。
また、ヘルツォーク映画ではかならず動物が出てきて観客に強い映画を残します。この作品でも、ある動物がショッキングな登場をいたしますので、注意してご覧いただければと思います。さらに、彼の作品では、ほとんどの場合、永久運動を思わせる〈回転運動〉が見られることがよく知られています。この映画でも、終盤で〈回転するもの〉が登場するので、やはりご注目ください。
この「ショッキングな登場をする動物」とは、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』にあったニワトリです。主人公のブルーノが最後に逃げ込んだネイティブ・アメリカンの居住区のアトラクション施設に、からくり人形のミュージックボックス(オートマタの一種といえばいいでしょうか)があります。からくり人形の代わりに本物のニワトリや鴨、ウサギが中にいて、スイッチを入れると音楽が流れ、ピアノを弾いたりドラムを叩いたりダンスを踊ったり……ブルーノはスイッチを入れっぱなしにし、ライフル銃を持ってリフトに乗り込み、やがて銃声が鳴り響いて映画は終わります。ブルーノを追いかけてきた警官が「動物は踊りっぱなしだ」と言うように、ニワトリは小さな箱の中でくるくる回りながら踊り続けます。ブルーノが乗り捨てたトラックが無人のままロータリーを延々と回り続ける映像と交互に映し出され、それが「永久運動を思わせる〈回転運動〉」ということになるのでしょう。この回転運動は、永久に抜け出せないブルーノの哀しい運命を象徴しているように私は感じたのですが、とりわけ踊り続けるニワトリの映像は強烈で、これを見たとき、もしかしたらこのニワトリに、イアンは自分の姿を重ねたのではないかと思ってしまいました。個人的に、イアンの自殺は過労死のような面もあるのではないかという印象を私は持っていて、『Atrocity Exhibition』の「「Asylums with doors open wide(ドアが広く開かれた収容所)/Where people had paid to see inside(人々は金を払って中を見た)/For entertainment they watch his body twist(娯楽として彼らは彼の身体がよじられるのを見る)/Behind his eyes he says, I still exist(瞳の奥で彼は言う、「僕はまだ生きている」)」という詩の一節を、ぎりぎりの状態でステージに立っていたイアン自身の描写のように感じてしまうのです。そのイメージと、音楽にあわせて踊り続けるミュージックボックスの中に閉じ込められたニワトリとが、どうしてもシンクロしてしまいます。
そして、主人公ブルーノ・シュトロツェクを演じている俳優、ブルーノ・Sの持っている独特の雰囲気。この存在感はこの映画の根幹ではないかと思います。このブルーノ・Sは、前掲の映画の紹介サイトの説明にあるように、かなり特異な経歴の俳優です。ナチが知的障碍者を集めていろいろな実験をするという施設に23年間もいたということですが、映画の後半に、ブルーノが施設にいた時のことを語る場面があり、主人公ブルーノは俳優ブルーノ・Sと重なり合う存在であることが窺えます。
映画が始まってすぐに、この俳優の特異性を思わずにはいられませんでした。どことなくズレた間の取り方、ふと見せる無垢な表情、どこか遠くを見ているようなまなざし、等々。エーファの情夫とその仲間がアパートに押しかけ、部屋を荒らし、ブルーノを暴行する場面で、抵抗する様子はほとんど見せず、されるがままに暴力を受けているところなど、彼がずっと弱者で、虐げられる側で生きてきたということを象徴しているように思えました。一方『アギーレ/神の怒り』のクラウス・キンスキーは、虐げる側の象徴のような人物です。以前書きましたが、イアンは、障害者のための就活支援センターで働いていて、彼らに異常な興味を示し、懸命に尽くしていました。おそらく、このブルーノにも、彼らと似たものを感じ取ったのではないでしょうか。
それでは、個人的に印象に残った場面を映画のストーリーに沿って振り返りながら、イアンを思い起こさせるところなどをもう少し細かく見ていきたいと思います。