愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

邦訳本『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』の脱落について――(2)

2010-07-07 20:53:01 | 日記
 第8章には、1979年の5月から8月にかけての出来事を中心に、デボラとイアンの間の距離が徐々に広がっていく様子が記されています。
 第7章の終わり、1979年の4月に一人娘のナタリーが誕生します。第8章のはじめには、デボラの生活の中心はナタリーの世話になり、イアンにも父親として生活の中心に娘を置いてくれるよう期待したけれども、そうはならなかったことが記されています。1979年の5月、ジョイ・ディヴィジョンは定期的に月4回のギグを行いますが、イアンはまだフルタイムで働いており、ハードスケジュールがたたって激しい発作を起こし、数日間入院します。6月、ファーストアルバムの『アンノウン・プレジャーズ』が発売されます。初回限定5000枚、広告費も抑えられていましたが、音楽誌からこぞって絶賛され、限定5000枚はあっという間に売り切れ、バンドは急速に世間から注目を集めます。
 脱落部分直前の記述は、8月にイアンが「NME」誌の表紙を飾ったことです。表紙に載るのは二度目で、前回(1979年1月)は一人でしたが、このときはバーナード・サムナーも一緒でした。「8月、イアンはもう一度「NME」誌の表紙を飾った。今回はバーナード・サムナーも一緒だった。イアンはレインコートと煙草は身につけず、」とあり、以下が脱落しています。原本では「驚くほどくつろいでいるように見えるが、バーナードはカメラから顔をそらし、ぴっちりした服装に小さめのネクタイを締め、いつにも増して男子学生のようだった。」と続いています。
 以下、脱落部分の要約を載せます。


 8月11日に、リバプールでギグが行われた。リバプールは私の生まれた街で、ギグに行くのを楽しみにしていた。しかし、ギグが終わった後、イアンから、今後誰かと一緒じゃない限りはギグに来ないように言われた。どうやら、彼女や奥さんをギグに呼びたくないし、バンドにあまり関わらせたくないというバンド側の方針が背景にあるようだった。妊娠していた時、ギグを見に行ったらトニー・ウィルソンが挨拶もなしに目をそらしたことを思い出した。かつてはギグの手伝いもして、公私にわたってイアンをサポートしてきたが、今は邪魔者扱いされているのだと分かった。
 スティーブン・モリスだけはこのルールを無視して自分のガールフレンドを連れてきていた。彼の場合、反論したりするわけではなく、ただ黙ってこの方針に従わなかった。
 私はイアンが高校時代、薬物の過剰摂取を起こしていたこと、若くして死にたいと言っていたこと、そして憂鬱な気分に陥りやすい傾向があることを知っていたので、彼が癲癇の治療薬に加えてドラッグを摂取することを恐れていた。以前私が楽屋に行った時、誰かが、マリファナをあわててトニー・ウィルソンに返し、イアンは決して触っていないという素振りをされたことがあったが、取り巻きの連中のことが嫌いな私は、そういったことについて彼らに話そうという気が起こらなかった。
 8月27日、ファクトリーと、リバプールのズー(ファクトリーと同じく当時のイギリスを代表するインディー・レーベル)が共同開催し、二つの都市とレーベルを代表するバンドが出演したロック・フェスティバル「リー・フェスティバル」が行われた(注:このライブはCDになっているようです)。一人で来るなと言われていたので、私はバーナードの妻、スー・サムナーを誘って車で出掛けた。このギグは、ほとんど宣伝されなかったせいもあって、私が記憶する限り最も観客が少なかった。警備の警官の方が観客より多いくらいだった。帰途、私の車は検問で止められ、車の中を警官に調べられた。腹を立てている私に、イアンは、「実はファクトリーの誰かが麻薬を持っていたけど、その車は止められなかった。僕とバーナードは難なく切り抜けた」と話した。
 「ジョイ・ディヴィジョン」という名前は、常にプレスの話題に上った。メンバーたちは確かな理由を話さずに、沈黙していた。彼らのうちの誰一人として、とりわけイアンがちゃんと答えないことに、私は驚いていた。そのうち4人はインタビューを受けなくなった。記者たちがイアンにばかり注目し、イアンがそれを嫌がったことも理由の一つだった。ジョイ・ディヴィジョンは4人の強い結合で成り立っていたのに、記者たちはジョイ・ディヴィジョンをイアンのバックバンドのように扱ったのだ。

この後、「今に至るまでに、イアンは私との間に、より精神的な隔たりを置いていた。」という一文があり、前に訳したイアンの読書傾向とバーナード・サムナーの発言の引用が入ります。その後に続く部分を要約します。

 バーナードはまた、イアンがニーチェの「永劫回帰」の思想に関心を持っていて、ナチズムはその一環だったのではないかと回想している。私は、イアンのナチへの関心は制服がきっかけだったと思う。イアンは子どもの頃にいろんな軍隊の制服を描くことが好きだった。まずナチの制服に関心を持ったのだろう。
 バーナードと同様、私(注:イアンとバーナードと同年齢)の子ども時代もまた、防空壕やプレハブの家、鉄の柵など、戦争を思い出させる物があちこちにあった。第二次大戦は家族の間で習慣的に話題になっていたし、私にとっても、戦争はごく身近なものだった。私の祖父はユダヤ人で、戦争で闘った6人の伯父についての新聞記事の切り抜きを見るのが子ども時代の私の楽しみだった。
 過去にたった一度だけ、戦争についてイアンと話し合ったことがあったが、それは北アイルランド紛争についてだった。イアンは政治的なことについては話さず、自分の祖先がBlack and Tans(1920年6月アイルランドの反乱鎮圧に英国政府が派遣した警備隊)に突き刺されるという空想の物語を話した。私は悲惨な出来事についてあまり考えたりしたくなかったけれど、イアンは違っていた。私より高いレベルの考えを持っていたようだ。ナチズムへの突然の興味を私が理解できなくても、イアンは説明しようとはしなかった。
 バンドの方針は私とイアンの関係を邪魔しているように見えた。イアンは私のことを見下すような態度をとった。もしかしたら、彼の人格の両面を知っている私を無視したかったのかもしれない。さらに悪いことに、イアンは自分の家族たちに対しても蔑視するような態度を取り始めたように見えた。
 ギグとそのための移動によって、イアンの発作は7月から8月を通じて頻発するようになった。私がイアンとコミュニケーションを取ることは、どんなサンドウィッチが食べたいかもわからないほど、困難になっていた。医者は薬の処方を変え、生活態度を改めるようしきりに説明していたようなのに、私はこうした問題からシャットアウトされていた。イアンは、自分がこんな状態なのは私のせいだと思っていたようだ。私はイアンが良くなることを望んでいただけで、イアンの治療は医師によって監視されていたのだから、どんなに不備があっても最終的には解決されるだろうと考えていた。

 ここまでが脱落部分です。この後、邦訳本では「イアンのネルおばさんとレイおじさんが一ヶ月の休みを取ってテネリフェ島からやってきた。」とあります。今のデボラとイアンの状態について相談し、助力してくれる人物として、イアンが幼い頃からなついていたネルおばさんに、デボラは最後の望みを託していました。しかし、ネル一人に話しかける機会は訪れず、イアンは実家では、まるで何の問題もないように完璧に振る舞ったため、その希望は叶いませんでした。ここで、第8章は終わっています。


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