イアン・カーティスの自殺の原因については、持病の癲癇の悪化、女性問題などが理由とされていますが、結局「遺書はなく、動機も不明なままであった」(小学館ジャパンナレッジ『日本大百科全書』「ジョイ・ディヴィジョン」項)としか言えません。しかし、残ったメンバーたちが、長い間多くを語らなかったこともあり、イアン・カーティスの死は様々な憶測をよび、《好きなように》語られてきたように思うのです。
「コントロール」でカーティスを演じたサム・ライリーは、「彼は普通の人間でした。人々を魅了したのは、彼が若くして死んだからです」と言っています。23歳という若さ、そしてアメリカツアーに出発する直前での謎の死によって、彼はまるでイコンのように神話化されました。現在でも一部にカルト的な人気を集めています。
1988年に、“Atmosphere”が再リリースされた際にアントン・コービンが撮ったプロモーションビデオは、イアン・カーティスの巨大な写真を宗教的な装束をまとった人たちが掲げ歩くという、イアン・カーティスを偶像として崇拝するような内容です。その過剰な思い入れに、マネージャーのロブ・グレットンが激怒した、とドキュメンタリー映画のパンフレットには記されています。
一方こうした偶像化に反発するかのように、自殺は突発的なもので「たいした意味はない」と軽く扱おうとするような傾向があるようです。例えば、「バーナード・サムナーが『イアンの自殺は単にドラッグのやりすぎだ』と片付けた」とか、「自殺の原因は単に女性問題なのだ、愛人アニック・オノレとの恋愛が破綻しただけなのだ」とする見方です。
事実の検証よりも前に、主観的な理解をしているという点では、どちらも共通しているのではないでしょうか。結局は「不明」なのだとしても、検証を試みる必要は、あるのではないでしょうか。
ドキュメンタリーでは、彼の持病の癲癇について、当時どれだけ偏見があったかを含めて伝えています。癲癇患者の苦しみについては、例えば、日本癲癇協会編『新・てんかんと私』に載せられている癲癇患者たちの手記が参考になるでしょう。発作の苦しみだけではなく、発作を他人に見られることが、患者にとっては発作以上に苦しいことなのです。カーティスが発病したのは22歳の時、自殺の1年5ヶ月前のことです。成人してからの発病は珍しく、過度のストレスのせいではないかと言われています。発作の症状は人それぞれなのですが、彼の発作は全身が痙攣し、意識が失われる重度のものでした。スタッフの一人が、「イアンには悪魔が憑いてる」と怯えたほどの激しい発作をしばしば起こしました。「イアンのダンスはオフステージの時の彼の発作の悲惨なパロディーのようになってしまった。目に見えない糸巻きを巻いているかのように腕を振り回し、足をぎこちなくピクつかせる姿は、無意識のうちにやる彼の動きとほぼ同じような印象を与えた。」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)とデボラ・カーティスが書く発作は、ギグの回数に比例して増え、症状も悪化していきました。安静で規則正しい生活をすることが発作を抑えるための大切な要素なのですが、彼の生活はそれとはほど遠く、ついにステージで発作を起こしてしまいます。大勢の人に発作を見られたことは、相当な負担となったようです。
当時も今も、癲癇に対しては基本的に薬で発作を抑えるという対処法が行われます。イアン・カーティスは、どの薬が効くか分かるまで大量の薬を毎日飲み続けるという治療を受けていました。バーナード・サムナーは、大量の投薬を受けるようになってから、カーティスの精神状態は不安定になり、癲癇の薬が、病気そのものよりも健康状態に悪影響をおよぼしたと主張して、「薬が彼を殺した」と語っています。これは、ドキュメンタリーでバーナード自身が語り、先に記した3冊の著作にも引用されています。先に挙げた「バーナード・サムナーが『イアンの自殺は単にドラッグのやりすぎだ』と片付けた」、という誤解は、この発言がゆがめられて伝わったものだろうと思います。
また、自殺の原因が単に女性問題なのだとすること――愛人アニック・オノレとの恋愛が破綻しただけだとすることが適当ではないことも、これらの事実を見ただけでも明らかでしょう。カーティスはちょうど死の一月ほど前に癲癇の治療薬を大量に飲み、自殺未遂を起こしていますが、ピーター・フックは、それよりも前に、リストカットによる自殺未遂をしていた事実をドキュメンタリーで語っています。当時カーティスが抱えていたのは女性問題だけではありません。他にも様々な問題を抱えていて、状況はもっと複雑です。精神状態といい体調といい、彼が鬱病であり休養が必要であったことは明らかですが、ジョイ・ディヴィジョンは新興で弱小だったレーベル、ファクトリー・レコードの看板であり、多くの人の生活もかかっていました。
“Bernard Sumner: Confusion”で、当時ローディーを務めていたテリー・メイソンという人物(バーナードとピーター・フックの中学の同級生で、のちにバンドからは離れることになります)がこんな発言をしています。以下要約します。「レコードの売り上げだけでは十分ではなく、何といってもギグをやらなければならなかった。体調を考えれば、もしイアンが「できない」と言えば誰も反論できなかっただろう。でも、彼はやらなければならなかった。自分の家族だけではなく、いろんなものが肩にかかっていた」。スティーブン・モリス(1957-)は、「彼(イアン)は人が聞きたいだろうと思うことを言った。自分は大丈夫だといつも言っていた。すると、なんとなく彼の言葉を信じてしまい、そのままやり過ごしてしまうんだ」(『クローサー』コレクターズ・エディション所収の、バーナード・サムナー、ピーター・フックとの鼎談)と語っています。
テリー・メイソンは、ドキュメンタリー映画でも関係者の一人として出演しています。DVDに特典としてついている、本編未収録のインタビューでは、「自分がかつてジョイ・ディヴィジョンに関わっていたことがわかると、周囲の人間が何か聞き出そうと大騒ぎになった。イアンにはなにかとんでもない秘密があると思って……そんなものはない。いい奴だったが追いつめられていた。それだけだ」と声をつまらせ、怒りを露わにしています。
イアン・カーティスは、いったいどんな状況に追い込まれていたのか、それを検証し、そして、「彼の意志と感情はすべて歌詞の中にあった」(デボラ・カーティス『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)という詩を理解することが、彼の死についてきちんと考えることに通じるのではないかと思っています。「よく分からないけれどすごかったらしい」過去のものとして風化させるのではなく、「Touching from a distance, Further all the time」(時を超えてより深く触れ合う)ことのできる作品の作者として捉えられれば、「イアンは死んだからカルトになったのではない。すばらしい歌をいくつも書いたからだ」(「ロッキング・オン」2008年4月号)というバーナードの言葉が、実感を持って受け入れられるのではないでしょうか。
「コントロール」でカーティスを演じたサム・ライリーは、「彼は普通の人間でした。人々を魅了したのは、彼が若くして死んだからです」と言っています。23歳という若さ、そしてアメリカツアーに出発する直前での謎の死によって、彼はまるでイコンのように神話化されました。現在でも一部にカルト的な人気を集めています。
1988年に、“Atmosphere”が再リリースされた際にアントン・コービンが撮ったプロモーションビデオは、イアン・カーティスの巨大な写真を宗教的な装束をまとった人たちが掲げ歩くという、イアン・カーティスを偶像として崇拝するような内容です。その過剰な思い入れに、マネージャーのロブ・グレットンが激怒した、とドキュメンタリー映画のパンフレットには記されています。
一方こうした偶像化に反発するかのように、自殺は突発的なもので「たいした意味はない」と軽く扱おうとするような傾向があるようです。例えば、「バーナード・サムナーが『イアンの自殺は単にドラッグのやりすぎだ』と片付けた」とか、「自殺の原因は単に女性問題なのだ、愛人アニック・オノレとの恋愛が破綻しただけなのだ」とする見方です。
事実の検証よりも前に、主観的な理解をしているという点では、どちらも共通しているのではないでしょうか。結局は「不明」なのだとしても、検証を試みる必要は、あるのではないでしょうか。
ドキュメンタリーでは、彼の持病の癲癇について、当時どれだけ偏見があったかを含めて伝えています。癲癇患者の苦しみについては、例えば、日本癲癇協会編『新・てんかんと私』に載せられている癲癇患者たちの手記が参考になるでしょう。発作の苦しみだけではなく、発作を他人に見られることが、患者にとっては発作以上に苦しいことなのです。カーティスが発病したのは22歳の時、自殺の1年5ヶ月前のことです。成人してからの発病は珍しく、過度のストレスのせいではないかと言われています。発作の症状は人それぞれなのですが、彼の発作は全身が痙攣し、意識が失われる重度のものでした。スタッフの一人が、「イアンには悪魔が憑いてる」と怯えたほどの激しい発作をしばしば起こしました。「イアンのダンスはオフステージの時の彼の発作の悲惨なパロディーのようになってしまった。目に見えない糸巻きを巻いているかのように腕を振り回し、足をぎこちなくピクつかせる姿は、無意識のうちにやる彼の動きとほぼ同じような印象を与えた。」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)とデボラ・カーティスが書く発作は、ギグの回数に比例して増え、症状も悪化していきました。安静で規則正しい生活をすることが発作を抑えるための大切な要素なのですが、彼の生活はそれとはほど遠く、ついにステージで発作を起こしてしまいます。大勢の人に発作を見られたことは、相当な負担となったようです。
当時も今も、癲癇に対しては基本的に薬で発作を抑えるという対処法が行われます。イアン・カーティスは、どの薬が効くか分かるまで大量の薬を毎日飲み続けるという治療を受けていました。バーナード・サムナーは、大量の投薬を受けるようになってから、カーティスの精神状態は不安定になり、癲癇の薬が、病気そのものよりも健康状態に悪影響をおよぼしたと主張して、「薬が彼を殺した」と語っています。これは、ドキュメンタリーでバーナード自身が語り、先に記した3冊の著作にも引用されています。先に挙げた「バーナード・サムナーが『イアンの自殺は単にドラッグのやりすぎだ』と片付けた」、という誤解は、この発言がゆがめられて伝わったものだろうと思います。
また、自殺の原因が単に女性問題なのだとすること――愛人アニック・オノレとの恋愛が破綻しただけだとすることが適当ではないことも、これらの事実を見ただけでも明らかでしょう。カーティスはちょうど死の一月ほど前に癲癇の治療薬を大量に飲み、自殺未遂を起こしていますが、ピーター・フックは、それよりも前に、リストカットによる自殺未遂をしていた事実をドキュメンタリーで語っています。当時カーティスが抱えていたのは女性問題だけではありません。他にも様々な問題を抱えていて、状況はもっと複雑です。精神状態といい体調といい、彼が鬱病であり休養が必要であったことは明らかですが、ジョイ・ディヴィジョンは新興で弱小だったレーベル、ファクトリー・レコードの看板であり、多くの人の生活もかかっていました。
“Bernard Sumner: Confusion”で、当時ローディーを務めていたテリー・メイソンという人物(バーナードとピーター・フックの中学の同級生で、のちにバンドからは離れることになります)がこんな発言をしています。以下要約します。「レコードの売り上げだけでは十分ではなく、何といってもギグをやらなければならなかった。体調を考えれば、もしイアンが「できない」と言えば誰も反論できなかっただろう。でも、彼はやらなければならなかった。自分の家族だけではなく、いろんなものが肩にかかっていた」。スティーブン・モリス(1957-)は、「彼(イアン)は人が聞きたいだろうと思うことを言った。自分は大丈夫だといつも言っていた。すると、なんとなく彼の言葉を信じてしまい、そのままやり過ごしてしまうんだ」(『クローサー』コレクターズ・エディション所収の、バーナード・サムナー、ピーター・フックとの鼎談)と語っています。
テリー・メイソンは、ドキュメンタリー映画でも関係者の一人として出演しています。DVDに特典としてついている、本編未収録のインタビューでは、「自分がかつてジョイ・ディヴィジョンに関わっていたことがわかると、周囲の人間が何か聞き出そうと大騒ぎになった。イアンにはなにかとんでもない秘密があると思って……そんなものはない。いい奴だったが追いつめられていた。それだけだ」と声をつまらせ、怒りを露わにしています。
イアン・カーティスは、いったいどんな状況に追い込まれていたのか、それを検証し、そして、「彼の意志と感情はすべて歌詞の中にあった」(デボラ・カーティス『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)という詩を理解することが、彼の死についてきちんと考えることに通じるのではないかと思っています。「よく分からないけれどすごかったらしい」過去のものとして風化させるのではなく、「Touching from a distance, Further all the time」(時を超えてより深く触れ合う)ことのできる作品の作者として捉えられれば、「イアンは死んだからカルトになったのではない。すばらしい歌をいくつも書いたからだ」(「ロッキング・オン」2008年4月号)というバーナードの言葉が、実感を持って受け入れられるのではないでしょうか。