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愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

「Interzone」――イアン・カーティスとウィリアム・バロウズ(4)

2013-07-24 22:18:32 | 日記
 「Interzone」で特徴的なのは「Trying to find a clue, trying to find a way to get out!」のシャウトのように、どこかへ向かっていこうとするエネルギーの強さです。内容を考えるにあたって、まず、「僕」の状況をまとめてみます。

1 街の境界をさまよっている。
2 何かわからない力に支配されている。
3 「彼女」がいた部屋で、部屋の中と外をながめている。
4 外は「鉄条網」「車」「ビル」など、マンチェスターを彷彿とさせる街。
5 あてもなくさまよっているのではなく、「友人を探す」という目的がある。

 この詩は、マンチェスターを思わせる都市が舞台( 4 )で、そこをさまよいながら誰かを待っている、あるいは探している( 5 )、という状況が共通しているところ、「部屋」と「外」との対比など、「Shadowplay」に似ていると私は思います。
ここで「Shadowplay」の「僕」の状況を同じようにまとめてみると、

1 全ての道が交差する街の中心で「君」を待っている
2 「隅に窓が一つある部屋」で真実を見つけた。
3 「君」は、暗殺者たちに存在をおびやかされている。
4 「僕」は「君」のことを利用し、そのことについて何らかの罪悪感を持っている。

となります。
 「Interzone」が書かれたのは1978年で、初期の作品です。1979年の「Shadowplay」が、ジョイ・ディヴィジョン特有の重苦しいサウンドであるのに対して、パンク・バンドだった頃の、世に出ていこうとする若いエネルギーを感じさせます。この曲調も詩の雰囲気に影響していると思われます。
ジョイ・ディヴィジョンが1978年の5月にRCAレコードで、デビューを前提にレコーディングを行ったことは過去記事に書きました
 このときレコーディングされた12曲のうち、11曲はオリジナル曲、そして1曲だけノーラン・ポーターの「Keep On Keepin' On」のカバーだったのですが、「Interzone」にはこの曲のリフが使われています。ノーラン・ポーターは、60年代から70年代にかけてイングランドの北部で流行したノーザン・ソウルのシンガーで、ポール・ウェラーもカバーしているようです(2004年発表のカバーアルバム「スタジオ150」の1曲目)。
 「Interzone」の「僕」は、境界と別の世界を行き来しているようです(1)が、そのために「集中」「目を閉じる」とあり、別の世界とは、意識下の世界のことではないか、と感じられます。詩には意識下のものが表れている、とは、「Interzone」――イアン・カーティスとウィリアム・バロウズ(1)の記事に引用したインタビューなどで、イアンが語っていることでもあります。「友人を探している」(5)というのは、詩のインスピレーションを探しているときの状況の比喩なのかもしれません。
 待っている対象が「君」だとはっきりしている「Shadowplay」(1)に対して、「Interzone」は探している友人(5)が1人なのか数人なのかはっきりしません。「Shadowplay」の「僕」と「君」との関係についてはいろいろと考えさせられるもので、過去に記事にしました。「Interzone」の「友人」からは、関係の密接さや深まりはあまり連想できません。全体にさまざまなイメージが盛りだくさんに記されていますが、一つの詩としての統一感や深みは、「Shadowplay」の方が優れているように思います。

 タイトルについてですが、「Interzone」――イアン・カーティスとウィリアム・バロウズ(1)の記事に引用したインタビューで、イアンが詩のタイトルと同名の書物とは直接関係はないと語っているように、バロウズの『裸のランチ』の「インターゾーン」と直接の関係を窺わせる部分はありません。「街の境界」が「インターゾーン」であると連想させますが、そこにタンジールのイメージはありません。
 「インターゾーン(インターナショナルゾーン 特定の国に属さない国際管理区域)」、また「境界」という言葉は、バロウズの『裸のランチ』を知らなくても、それだけで魅力的な響きを持っている、と思います。どこの世界にも属さない場所、普通だったら出会わないようなもの同士が出会う場所――古くから文学の世界でも「境界」は異界と出会う場所として設定されていたりもします。そこが「自由」を感じさせたり、今ある状況から解放されるような前向きなイメージをもつこともあります。バロウズが訪れる以前のタンジールがまさにそうであったように。しかし、バロウズにとっては、「タンジールはエネルギーがどこに向けても同じだけ発散しているため身動きがとれない。その結果、滅びかかっている宇宙のように衰えてきている」(「Interzone」――イアン・カーティスとウィリアム・バロウズ( 2 )の記事で引用した、『地の果ての夢 タンジール』p.220~221)という場所でした。死と隣りあわせの、死にかかっているような人々がこれでもかという負のエネルギーを発散させているところ、それがバロウズの描いた「インターゾーン」であり、バロウズにおける「境界」です。
 イアンがこの詩に「インターゾーン」というタイトルをつけたのは、前出のインタビューにあるように、詩の観念と合うところがあったからなのでしょう。単に「境界」(=インターゾーン)というだけではなく、この詩が「インターゾーン」というタイトルにふさわしいと思えるところ、バロウズの「インターゾーン」と通じていると思えるところは、いろいろな人や物が交わっているところ、そして、どこかへ向かっていこうとするエネルギーが強く表れているところにあります。「止まる場所もない 行く場所もない」という状況の中で、「やり続けなければならない」という、その行き着く先は、おそらくあまりいいところではなく、下降していくだけだろうという暗示を、バロウズの「インターゾーン」を知ると、感じざるを得ません。
 前々回の「Interzone」――イアン・カーティスとウィリアム・バロウズ( 2 )の記事で引用した、「『すべてはどんどん悪くなる』というバロウズの世界観」(『たかが、バロウズ本』p.114)ですが、これでもかという位の、醜悪な「インターゾーン」の表現は切実で、迫力があります。たとえば、ナチズムなどの歴史上の人類の負の遺産を題材にした作品には、それが単にツールとして利用されているように感じられるものもあります(具体的な作品名を挙げるのは控えますが)。一方『裸のランチ』に満ちている不快感を与える描写の数々は、バロウズが「作家が書くことができるものは、ただ一つ、書く瞬間に自分の感覚の前にあるものだけだ」(『裸のランチ』河出文庫版p.302)と書いている通り、実感に裏付けられています。イアンをはじめ多くのミュージシャンやアーティストが引きつけられたのは、バロウズのこの“ヌルくない”否定の力だったのではないでしょうか。遠くにあるものではなく、自分の足下を何の感傷もまじえずに有無をいわさず否定しつくしていく、そんな徹底した姿勢がバロウズの存在感ともなっているように思います。
 ここで、そうした切実で説得力がある言葉と、作品としての完成度について少し考えてみたいと思います。
 力のある言葉が思いつくままに並べられているだけでは作品として成立しません。一見思いのままに書き殴ったようにも見える『裸のランチ』には、「アネクシア」「インターゾーン」「フリーランド」という設定で示唆されていた世界の構造があります。壮絶な体験が説得力のある言語で表現されているというだけではなく、それをコントロールしながら世界の構造について描こうとする意志を確かに感じさせます。そのバランスの上に成立している『裸のランチ』は、どぎつい描写でショックを与えるだけではなく、自分たちのいる世界について、問い質してもいると思うのです。
 イアンについても、言葉と作品の関係については同じだと思います。『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』所収の詩集には、未発表の詩に加え、「Unfinished Writings」という、詩作の段階のノートの一部とみられるものが収録されています。一部抜粋してみると、「忘れる人々/帝国が分裂し出すと/忘れる人々が持ち出したのは/少数派の人々/いかなる正義も/いかなる思想も/苦味があり 分裂されがち……反応するのに強情を張る、人類の欠点。ハンディキャップはどんなこと?……」というような文句がかなり長く、大量に記されています。そこに羅列されている言葉の数々は、それぞれイアンの個性を感じさせるものですが、完成された詩と比べると、訴えてくる力はやはり弱いのです。こうした言葉が自在に浮かぶ才能だけでなく、さらにそれらを上手くコントロールすることができてはじめて詩になるのだということが、完成された詩と比べるとよく分かります。思いが強くて言いたいことほどうまく伝えられないという面は誰しもありますが、その葛藤とそれをコントロールする技術の絶妙なバランスにより、一つの作品が成立しているのだと改めて思います。
 イアンのそうした作家としての能力は短い間に進化していると思います。「Interzone」(1978年)と「Shadowplay」(1979年)だけを比較してみても顕著だと思います。「Interzone」のような初期の作品を見ていると、いろいろ盛り込みすぎな感もあります。例えばバロウズのように、世界の構造について描きたいという意志も感じるのですが、こういう傾向は、次第に影を潜め、自分にとって身近な何かとの関係を深く追究するような方向になっていったように思います。