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愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

Glass――日常生活での摩滅(1)

2010-08-25 20:51:14 | 日記
『A Factory Sample』に「Digital」とともに収録されたのが「Glass」です。「Digital」は、日常と非日常の対立と葛藤が描かれ、意識の底に沈潜していくような趣があります。一方「Glass」は、冒頭のフレーズに「Hearts fail, young hearts fail(心がくじける、若い心がくじける)」とあるように、日常生活の中で神経をすり減らす若者の苦悩がリアルに表れています。一部分かりにくい表現はありますが、「Digital」よりも、実生活に即していて、私小説のような詩だと思います。
 第1連を読んでみます。

Hearts fail, young hearts fail      心がくじける、若い心がくじける
Anytime, pressurised,          いつでも、プレッシャーを受けて、
Overheat, overtired.           過熱し、疲れ果てる。
Take it quick, take it neat,       早くして、きちんとして、
Clasp your hands, touch your feet.  手を握って、足に触って。
Take it quick, take it neat,       早くして、きちんとして、
Take it quick, take it neat,       早くして、きちんとして

「Clasp your hands, touch your feet.」は、何のための指示かよく分かりませんが、指示されるままにあくせく動く姿が想像され、その姿は滑稽にも見えます。そして、「Take it quick, take it neat,」とあります。誰かにこれを言われてむっとするのは、時代や場所が変わっても同じなのではないか、と思います。パナソニックのマッサージソファPR事務局が20代~50代の男女400人に対して、2009年の3月に行ったインターネットによる調査では、「疲れているときに言われ、イラっとする言葉」の第1位は「これやって」、第2位は「早くして」となっています。「いつでも、プレッシャーを受けて」「疲れ果て」ている若者を一層うんざりさせる一言ではないでしょうか。
 第2連を読んでみます。

Hearts fail, young hearts fail,      心がくじける、若い心がくじける、
Anytime, wearing down,         いつでも、すり減らしていて、
On the run, underground,        逃亡する、地下に、
Put your hand where it's safe,     手を置いて、安全なところに、
Leave your hand where it's safe.   手を離して、安全なところから。

 「Anytime, wearing down, On the run, underground, 」――心をすり減らす日常から逃れて地下に隠れるとは、どういうことなのでしょうか。思い起こされるのが、「まるで地下活動のようだった」とドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」で語られている廃工場でのバンドの練習です。隠れ家のような場所で束の間の安心を得るような感じでしょうか。「Put your hand where it's safe, Leave your hand where it's safe.」は、全く反対の命令で、意図がよく分かりません。ただ、安心できる場所にいつまでも居られないことを表しているのではないかと思います。
 第3連はひたすら同じフレーズの繰り返しです。

Do it again,                もう一度やろう
Do it again and again and again.    もう一度やろう、
Do it again and again and again.    もう一度やろう、何度でも何度でも。
Do it again and again and again.    もう一度やろう、何度でも何度でも。
Do it again and again and again.    もう一度やろう、何度でも何度でも。 

 失敗してもくじけずに、何度でもやり直そうという気力を懸命に保ちながら、若い心を無情にくじく現実と対峙しているのです。何度やっても結局何も変わらないのかもしれない、たとえ不毛であってもやり続ける様子に、やるせなさも感じます。
 第4連、第5連を読んでみます。

Anytime, that's your right.       いつだって、自分が正しいとばかり。
Don't you wish you do it again,    もう一度やろうと思わないの?
Overheat, overtired.          過熱し、疲れ果てる。
Don't you wish you do it again,    もう一度やろうと思わないの?
Don't you wish you do it again,    もう一度やろうと思わないの?
Don't you wish you do it again,    もう一度やろうと思わないの?
Anytime, that's your right.       いつだって、自分が正しいとばかり。
Don't you wish you do it again,    もう一度やろうと思わないの?
Anytime, that's your right.       いつだって、自分が正しいとばかり。
Don't you wish you do it again,    もう一度やろうと思わないの?
Don't you wish you do it again,    もう一度やろうと思わないの?
I bet you we should do it again.    きっと、僕たちはもう一度やるべきだ。

Do it again.                もう一度やろう。
Do it again.                もう一度やろう。
Do it again.                もう一度やろう。
Do it again.                もう一度やろう。

 ここで、僕と一緒に何かを共に行っている「you」がクローズアップされてきます。「もう一度やろう」と、その人に対して何度も何度も呼びかけています。その相手としては、家庭生活では妻、職場では同僚、バンドではメンバー、などが考えられます。「you」をあてはめる人物を置き換えることで、いろいろな解釈ができそうですが、とにかくこの詩は、日々色々な役割をこなさなければならない若者が、日常生活で叱咤され、失敗しても何度でもやり直そうと奮起しながら神経をすり減らしていく様子を描いた詩として捉えられると思います。邦訳本は、第1連の「Take it quick, take it neat,」を女性の口調で、「さっさとやって、きちんとしてよ」と訳しています。まるで妻の小言のようです。確かに、イアンは早くから家庭生活にプレッシャーを感じていたようです。デボラは、「私の知らないところで彼は、ロブに家庭内での不愉快なところを話していた。」と記していますが、イアンにとって、家庭生活は心を摩滅させる最たるものの一つになっていったようです。

「Digital」に見るイアン・カーティスの詩と生活――(4)

2010-08-11 21:36:53 | 日記
 ジョン・ウォーゼンクロフトが「『デジタル』の歌詞はまさに、“デジタル”だ。オン・オフ、イン・アウト、“明けても暮れても”。この切り替えはカーティスの人格そのものとどこか奇妙に一致している。」と指摘しているように、日常生活において、イアンはいくつかの顔を切り替えていました。ピーター・フックは「人に合わせてマスクを変える」ことは、イアンにとってプレッシャーだったと語っています。
 もっとも、こういった面は、プレッシャーとまでは感じないとしても、実は多くの人が思い当たることではないでしょうか。
 イアンの場合はとくに極端すぎたのでしょうが、誰でも、常に同じ自分を保っているわけではありません。職場での自分、家庭での自分、様々な環境や人間関係の中で在り方は異なっています。状況に「合わせてマスクを変え」、その場にふさわしい自分を演じます。中にはこの切り替えを無意識にこなしてしまう人もいますが、多くの人はそんな切り替えに疑問を覚えたりしたことがあるのではないでしょうか。苦痛に感じる「自分」を演じているようなときには、「本当の自分ではない」と感じ、自分を偽っているという思いが強まり、ストレスが蓄積されます。かといって、「本当の自分」を回復しようと気にしすぎると、かえって、思いのままにならない自分の気持ちや環境に直面させられ、「生きにくさ」を感じます。
 よくある対処法は、自分が安らげる関係に身を置き、十分に休息することによって「嫌な自分」でいる時間を出来るだけ減らし、耐えられるようにする、ということになるでしょう。さらに、すべての自分を対立させず、それなりに肯定し、その変化に自分の感情が自然に従っていければ、さほど苦痛は生じないはずです。しかし、有無を言わさずデジタルのように切り替えなければならず、自分の感情がついていかない――そういった苦痛は、せわしない毎日を生きる現代社会の多くの人にとって身近なものではないかと思うのです。
 そういったせわしない日常での切り替え、それに伴う焦燥感を「Day in, day out,」は感じさせます。そして、さらにこの詩において最も興味深いことは、無意識下の、 非日常の世界の“it”という自己の存在です。この非日常の自己は、日常の自己とどう関わってくるのでしょうか。

 “it”の正体は「僕」の深層心理に時折現れる「君」です。周囲に合わせて使い分けるマスクとは異なり、イアンにしかその存在が分からないものです。この詩はそんな「君」との関わりを表現していると解釈すると、この詩に描かれている心理状態は内省的というだけでは収まらない、複雑で奇妙なものに見えます。
 この“it”という存在は、「僕」の深層心理に時折、日常とは別のところから現れるようです。恐ろしいものであると同時に、“you”とも呼ばれ、「消えないでくれ」と切実に呼びかけかられていることから、「僕」にとって大切な存在だと考えられます。「Atmosphere」で、「どうか行かないで」「背を向けないで」と呼びかけている「君」と同じで、単なる自問自答ではなく、独立した一個の人格として立ち現れてきます。これが、いつ、どんな時に現れるものなのかを考えると、そこで思い当たるのが、『An Ideal For Living』とドイツ第三帝国――�の記事で引用した、作詩についてのイアンのインタビューです。

ミック:「(歌詞は)何についてのもの?」
イアン:「いろんなことだよ、本当に。僕は特定の何かについて書くつもりはない。もし、何かに心を打たれたとしても。僕はしばしば、とても潜在的な意識に従って書く傾向があるから、それが何についてのことなのか、分からない。」

 この、詩を書くとき無意識下から現れたものが“it”ではないでしょうか。詩を書くときの精神状態を、「君」というもう一つの人格として表しているのがこの歌詞で、「君」と「僕」の関係は、イアンの詩と生活の関係と重なってくるのではないかと思います。

 詩の第2連までを見ていると、日常とは別のところから、しばしば近づいてくるもう一つの人格を、出現の「パターンが整ってくる」とか、「冷たくも暖かくも感じる」とか、冷静に、客観的に見つめています。しかし、第3連になって、最後に繰り返される「消えないでくれ」「消えていく」という節においては、かなり混乱しているように見えます。呼び方もこれまでの“it”から“you”に変わります。もう一つの人格は彼から完全に独立し、まさにコントロールできない、制御不能の相手となっていることを感じさせます。恐ろしいけれども、詩を為すためにもどうしても自分にとって必要なものが“it”なのです。詩を書くことで、イアンは、こうした手に負えないもう一つの人格と対峙することになっていったのではないか、周囲の人々が見た彼の様々な仮面とは別なところで、彼は一人、もう一つの人格と対立し、葛藤しなければならなくなっていったのではないか、それこそが彼の「孤独」だったのではないかと思います。「Digital」の歌詞はその予兆ではないか――特に遺作となった2ndアルバム『クローサー』の創作過程での精神状態について、いくつかの証言を追っていくと、そんな感想を持ちます。この頃はかなり精神的にも肉体的にも疲弊していて、彼の人格が崩壊していく最終段階ともいえる時期でした。デボラはこんなことを書いています。

 イアンは『クロ-サー』の詩を書いたりレコーディングしたりしている時は大体恍惚状態に入っているように見えた。緊張したり感情が高ぶっている時、彼は別世界にいた。

 ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」では、バーナード・サムナーが、『クローサー』の詩作について、イアンから聞いた言葉を証言しています。

 今でも覚えてるよ。ある夜イアンが俺に言った。「不思議だ。今回は歌詞が自然にすらすら書けた。いつも苦心して書き上げるんだ。出だしよりも終わりでもがく。でも、今回は全曲楽に書けた。だが、閉所恐怖症の感覚にも陥った。まるで渦巻く波に呑み込まれて、溺れてく感じだ」と。

 詩作において、それまではいつも、彼は苦心してある特殊な心理状態“it”を呼び出していたのではないかと思います。『クローサー』ではその心理状態にすんなり入り込み、持続することができたということではないでしょうか。しかし、その心理状態は「渦巻く波に呑み込まれて溺れてく」――“it”の中に「僕」が取り込まれてしまう「閉所恐怖症」のようなものだったようです。
 こうした詩作での心理状態が、ステージでの彼の異様な状態と似通っていたのか、また別のものだったのかはわかりません。また、レコードの録音の際、イアンの歌はいつも別録音で、「みんなから背を向けて、頭や肩に手を当てる仕草をして、独り自分の中に入っていく感じだった」と、ドキュメンタリー映画の中でアニック・オノレは証言しています。『NME』2010年5 月22日号にはマーティン・ハネットの右腕だったエンジニア、クリス・ネイグルのこんなコメントがあります。『NME』2010年5月22日号(からいくつかのコメントの訳を抜粋して掲載している『ロッキング・オン』の2010年9月号)から引用します。

 個人的に最も脳裏に焼きついているのは、録音中のイアンはいつものノリが出るまでにかなりの時間を要してたってことかな。彼が録音ブースに入り、ヘッドフォンを着けてミキシング音を確認した後、こっちがバック・トラックを流し始めても一向にVoが入ってこない。いくら待っても聞こえてくるのはタバコに火をつける彼のライターの音だけ、っていうね。で、業を煮やしたマーティンが「イアン、どうした?」って言うと、「紅茶が飲みたくなった」なんて声が返ってくる。あれは多分イアンにとって、ある特定の心理状態に達するため、集中するための儀式みたいなものだったんだろうね。どのレコーディングでも必ずそうだったから

 「ある特定の心理状態」は、原文では「mindset」で、“(習性となった)思考態度や心境”といった意味です。ジョイ・ディヴィジョンの一員として歌詞を書くこと、ステージで、レコードで歌い、歌の世界を表現することは、「別世界」のような特殊な心理状態を習性としてもたらすものだったと想像されます。こうした、日常とは別の、無意識下から呼び覚まされる、または自ずと沸き上がってくるデモーニッシュな詩魂ともいうべきものが、“it”ではないかと思えるのです。それは日常生活での仮面の切り替えといったプレッシャーどころではない負担を強いたのではないでしょうか。
 『クローサー』コレクターズエディション収録の鼎談で、バーナードは、イアンの破滅について述べる中で、「歌が彼の人生を支配していることに気付き」という言葉を使っています。恐ろしいけれども魅惑的な恍惚状態、バンド活動を続け、人々を非日常の世界に引きずり込むために必要なもの――イアンの生活はしだいに、「Digital」における“it”に支配されていったのではないかと思います。

「Digital」に見るイアン・カーティスの詩と生活――(3)

2010-08-04 18:33:19 | 日記
まず、第一連を読んでみます。

Feel it closing in,      それが迫ってくる、
Feel it closing in,      それが迫ってくる、
The fear of whom I call,  僕が呼んでいる、
Every time I call       僕がいつも呼んでいる恐ろしいもの。
I feel it closing in,      僕はそれが迫ってくるのを感じる、
I feel it closing in,      僕はそれが迫ってくるのを感じる、
Day in, day out,       明けても暮れても、
Day in, day out,       明けても暮れても、
Day in, day out,       明けても暮れても、
Day in, day out,       明けても暮れても、
Day in, day out,       明けても暮れても、
Day in, day out.       明けても暮れても。

 「Feel it closing in,」――今まさに何かが近づいてくる、逼迫した感じがします。近づいてくる、この“it”とは何なのかが、この詩を読み解く重要なポイントになると思います。
 そこで問題になるのが、「The fear of whom I call,」の解釈です。邦訳本は「誰かに叫びたいほどの恐怖」と訳し、「Every time I call, I feel it closing in」を「叫ぶごとに、それが迫ってくるのを感じるんだ」と訳しています。『ザ・ベスト・オブ・ジョイ・ディヴィジョン』や『クローサー』コレクターズエディションなどの歌詞カードも同様に訳しています。しかし、「whom」は関係詞で、以下の「I call, Every time I call」は修飾節なのではないでしょうか(「Every time I call」の後に、テキストでは原著でも邦訳本でも、ピリオドもコンマもないのですが、ピリオドが落ちていて、ここで切れると考えます)。そして、「僕が呼んでいる、僕がいつも呼んでいる」ところの「恐怖」であると解しました。「whom」は人物に使われますが、“it”=「恐怖」が擬人化されているとみなします。
 “近づいてくるもの”が「叫びたいほど恐ろしいもの」か、「僕が呼ぶもの」かでは、かなり違いがあります。前者では迫ってくるものは忌むべきものと感じられます。しかし後者は、恐ろしい存在だけれども、「僕が呼んでいる、いつも呼んでいる」もので、ただ恐ろしいだけのものではないようです。一体それは何なのだろう、そんな疑問が起こります。

 第2連を読んでみます。

I feel it closing in,       僕はそれが迫ってくるのを感じる、
As patterns seem to form.  パターンが整ってくるにつれて。
I feel it cold and warm.     僕はそれを冷たくも暖かくも感じる。
The shadows start to fall.   影が落ち始める。
I feel it closing in,       僕はそれが迫ってくるのを感じる、
I feel it closing in,       僕はそれが迫ってくるのを感じる、
Day in, day out,         明けても暮れても、
Day in, day out,         明けても暮れても、
Day in, day out,         明けても暮れても、
Day in, day out,         明けても暮れても、
Day in, day out.         明けても暮れても。

 「I feel it closing in, As patterns seem to form. I feel it cold and warm.」の訳ですが、邦訳本では「それが迫ってくるのを感じる/形が整ってくるにつれ/それが寒くも暖かくも感じる」と訳されています。しかし、コンマとピリオドに注目すると、「I feel it closing in, As patterns seem to form. 」で切れ、「I feel it cold and warm.」となっています。なので、「形が整ってくるにつれ」は、「それが寒くも暖かくも感じる」に続くのではなく、倒置となって「僕はそれが迫ってくるのを感じる」に繋がり、「僕はそれが迫ってくるのを感じる、パターンが整ってくるにつれて。」となるのではないでしょうか。「それ」はたびたび現れ、その「パターンが整って」きたため、「それが迫ってくるのを感じ」られるようになったと解釈します。そして「それ」は、「冷たくも暖かくも感じられる」存在なのです。
 ここまでの抽象的な表現から、近づいてくるものは、外面ではなく内面にある存在で、深層心理で捉えられたものだという印象が強まります。
 「The shadows start to fall.」は単に周囲が暗くなるというのではなく、心の中に闇が広がる様子を表していると思います。“it”がいよいよ「僕」に近付いてきて、影が差すようになってきた、そんな感覚ではないでしょうか。
 「開けても暮れても」夜であろうと昼であろうと、心の中を闇が覆うような時、「それ」が迫ってきて、時によって、「僕」の心情によって暖かくも冷たくも感じられるのではないでしょうか。

 第3連を見てみましょう。

I'd have the world around,    僕は世界をくまなく手に入れようとした、
To see just whatever happens, 何が起こるか、まさに見るために。
Stood by the door alone,     ドアの側に一人で立った、
And then it's fade away.     その時、それは消えた。
I see you fade away.        君が消えていくのが見える。
Don't ever fade away.       消えないでくれ。
I need you here today.       今日君にここにいてほしいんだ。
Don't ever fade away.       消えないでくれ。
Don't ever fade away.       消えないでくれ。
Don't ever fade away.       消えないでくれ。 
Don't ever fade away.       消えないでくれ。
Fade away, fade away.       消えていく、消えていく。
Fade away, fade away.       消えていく、消えていく。
Fade away, fade away.       消えていく、消えていく。
Fade away.              消えていく。

 「世界をくまなく手に入れようとした、何が起こるか、まさに見るために」は、詩作におけるイアンの姿勢に通じていると思います。『An Ideal For Living』の歌詞についての記事で述べたように、イアンが「人間の苦悩ばかり読んだり考え」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)、人類が犯した過ち、そうした悲劇が繰り返される構造を捉え、描こうとしたことが表れているのではないかと思います。
 そして、「その時、それは消えた。君が消えていくのが見える。」とあります。「それ」=「君」で、「消えないでくれ」と必死に懇願しています。
 第1連の「The fear of whom I call,」の訳し方に関連して、「それ」が忌むべきものなのか「僕が呼んでいる」ものなのかという違いについて述べました。単に「それ」への恐怖を言っているとすると、第3連で消えていく「それ」に対して「消えないでくれ」と懇願するところに矛盾が生じてきます。「それ」と「君」が別々のものだとすると、ここで突然「君」が出てくることは、唐突に感じられます。しかし、「僕がいつも呼んでいる恐ろしいもの」、「迫ってくるのを感じ」ていた、「それ」=「君」が消えてしまった、消えないでくれ、という感情の動きだとすると、筋が通ります。
 “it”の正体は「僕」の深層心理に時折現れる「君」で、この詩はそんな「君」との関わりを表現していると解釈することができると思うのです。

「Digital」に見るイアン・カーティスの詩と生活――(2)

2010-07-28 20:27:47 | 日記
 この曲で印象深いのは、何度も繰り返されるサビの部分の「Day in, day out(明けても暮れても)」というフレーズです。連続する時間を区切る「Day in」と「day out」という単位が、無表情に際限なく続いていく感じが、「デジタル」というタイトルと呼応しているように感じられます。また、1970年代の後半は、ちょうどコンピューターが一般に普及しはじめ、「デジタル化社会」における人間の在り方が問題となりはじめた時代です。
 イアンが心酔していた作家、J・G・バラード(1930-2009)は、テクノロジーと人間の関係をテーマにした作品を多く書いています。2009年5月20日付の朝日新聞に掲載された追悼文、柳下毅一郎「汚染される人間の生を予言――英SF作家J・G・バラードを悼む」には、こうあります。

 『残虐行為展覧会』や『クラッシュ』といった作品の中で、バラードはメディアとテクノロジーに汚染されたあらたな人間の生を描きだした。それはSFという文学が生み出したもっとも輝かしく、もっとも恐ろしい知見である。
 バラードはテクノロジーと人間の関係について、それまでどんな作家も書かなかったことを書いたのだ。バラードがしばしば現代の予言者と呼ばれたのは、誰よりも早く的確に現代社会の生のありかたを指摘してのけたからである。それこそが二十世紀最大の作家が残したものなのだ。

 『残虐行為展覧会』は1970年刊で、原題は『The Atrocity Exhibition』。イアンは自身の詩に「アトロシティ・エキシビション」のタイトルをつけています。『クラッシュ』は1973年刊。これは、「Disorder」の歌詞に影響が見られます。
 このバラードに影響を与えたのがウィリアム・バロウズ(1914-1971)です。バロウズもまた、イアンが心酔する作家です。この二人は、イアンに限らず、ジャンルを超えて多くのアーティストに影響を及ぼしていました。こうした背景を踏まえて考えると、「デジタル」というタイトルには、ハネットの最新式の音響機器だけではなく、テクノロジーやデジタル化社会の象徴としての意味も見出せるのではないかと思うのです。
 ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」で、ジョン・ウォーゼンクロフト(1958-)は、次のように語っています。ウォーゼンクロフトは、イギリスを代表するインディペンデント・レーベル、Touchの創設者です。グラフィック・デザイナーで、ジョイ・ディヴィジョンについての批評文も書いています。

「デジタル」の歌詞はまさに、“デジタル”だ。オン・オフ、イン・アウト、“明けても暮れても”。この切り替えはカーティスの人格そのものとどこか奇妙に一致している。彼は二面性を兼ね備えていた。一つは仲間と一緒にパブへ行ったり遊び回る若者。その一方で詩集を愛読する唯美主義者。憧れのポップ・スターになるという高い望みを抱いていた。

 「仲間と一緒にパブへ行ったり遊び回る若者」という一面に関しては、ピーター・フックの次のようなコメントがあります。

 バーナードと僕が(初めて)イアンに会った時、彼はとてもおとなしくて真面目なやつだった。パンクにハマったのは、彼を知ってた人たちから見ればキャラに合わなかった、でも、数週間、そして数ヶ月、数年僕たちと過ごして、イアンは自分の殻から出て、エネルギッシュなやつになったんだ。自分自身を見つけたようだった。僕たちはイアンに酒、女、悪ふざけ、そしてロックンロールを教えたんだ。あいつはよく、僕たちがいろんな人にしかけたイタズラで大笑いしてた。……病気になってそういうことができなくなって、彼は失望したんだ。いつも思うけど、イアンはほんとに普通だよ。ビールが好きで、笑うのが好きで、バンドのために立ち上がる。みんなはイアンが知的で、本を読んでいて、というイメージを持っている、でも、そんなじゃなかったんだ。(『NME』2010年5 月22日号)

 ピーター・フックもイアンの性格の二面性を指摘し、自分たちと一緒にいた時のイアンが本当の姿だ、と言っているのですが、『クローサー』コレクターズエディションに収録されているバーナード・サムナーとスティーブン・モリスとの鼎談では、こんなふうに言っています。

アニークの前では(イアンは)感受性の強いアーティストであり、僕らは道化者だった。おそらく彼はデビーといた時の自分に戻ったんだろう。物静かで、面白みのないやつに……。僕らの前だと彼はおふざけに加わった。分からないけど、たぶん、それが彼の本当の姿――彼はただ僕らに対して、粗野な男の世界に入り込んだ男であるフリをしていたんだよ。いや、もしかしたら、アニークに、そしてデビーに対して装っていたのかもしれない。イアンはそんなヤツだったよ。彼はあらゆる人に対してあらゆるものになれたんだ。いつも無理をして、人に合わせてマスクを変える。彼はそれができたけど、それは彼にとって問題でもあった。プレッシャーになったんだ。

同じ鼎談でスティーブンはこう言っています。

 イアンが全て隠していたんだ、と言ってしまえばそれまでだけど、実際彼はそうしていたんだ。彼は平静を装うのが、物事を偽るのが得意だった。彼はすぐに自分の殻に閉じこもった。だけど、見方によれば、それなら彼がただ物静かで、深く傷つくことはなかったのだろう、と思うかもしれない。彼はイタズラや悪ふざけを一緒になってやることも、子供じみたバカな行為に夢中になっているふりもできたんだ。だから極めて正常に見えるんだ。そして突然発作を起こす。その後は正常に戻るのさ。

 デボラ・カーティスは『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』で、イアンがデボラを避けるようになったのは「彼の人格の二面性を知っている私を無視したかったのかもしれない」からだと書いています(邦訳本の脱落部分)。私が「Digital」の歌詞から感じるのは、「明けても暮れても」という連続した時間が、区切られ、切り替えられる、そうした時間の在り方とイアン自身の人格との関わりです。ウォーゼンクロフトはここに、切り替えられる人格の二面性を指摘しています。イアンの生活や周囲の人々のコメントを見ていると、彼にはいろいろな面があり、対する人や場所にあわせて、その時々でうまくマスクを切り替えていたようです。例えば公務員としての顔とステージでの顔を昼と夜で切り替える、というように。確かに「Day in, day out」の切り替えには彼の人格の二面性を見ることができると思います。さらに、私はこれに加えて、こうした日常で切り替えられる様々な人格の顔とは異なる、深層心理の中にあるもう一つの人格が表れているのではないかと思います。シンプルな歌詞ですが、やはり意味が取りにくく、抽象的で象徴的です。

「Digital」に見るイアン・カーティスの詩と生活――(1)

2010-07-21 20:22:22 | 日記
『An Ideal for Living』に続いてジョイ・ディヴィジョンがリリースしたレコード『 A Factory Sample』は、1978年の10月に録音され、翌1979年の1月に発売されました。ジョイ・ディヴィジョンを含む、ドゥルッティ・コラム、キャバレー・ヴォルテール、ジョン・ドウイのバンド4組がそれぞれ2曲づつ提供した2枚組のシングル盤で、「Digital」と「Glass」が収録されています。
 この 『A Factory Sample』は、トニー・ウィルソン(1950-2007)に母親の遺産が入り、それを原資にして作られました。ファクトリー・レコードの記念すべき第一枚目のレコードで、レコード会社としてのファクトリーのスタートとなりました。

 ジョイ・ディヴィジョンとトニー・ウィルソンの出会いは、1978年の4月に行われた、地元マンチェスターのバンドが集まるイベントでした。このイベントには、英国音楽業界の関係者たちが集まり、名前を売る絶好のチャンスでした。グラナダTVの名物司会者だったトニーは、自らがホストを務める音楽番組で、周囲の反対を押し切り、新鋭のパンク・バンドを紹介していました。この番組にはセックス・ピストルズやイアンの憧れるイギー・ポップ、バズコックスなどシーンを代表するバンド、ミュージシャンが出演していました。何としても出演を果たしたいと望んでいたイアンは、この日初対面のトニーに向かって、「トニー・ウィルソンはクソだ」「俺たちをテレビに出さないじゃないか」などと悪態をつきます。トニーは「ワルシャワ」時代に、既に彼らのギグを見てはいましたが、この日のステージをきっかけにジョイ・ディヴィジョンに強い興味を持ちます。ステージを見て、「ただ有名になりたいだけの他のバンドとは違う何かを感じた」というトニーの番組に出演を果たしたのは1978年9月で、「Shadowplay」を演奏しました。
 このイベントでは、トニー・ウィルソンの他に、ジョイ・ディヴィジョンにとってもう一つ重要な出会いがありました。トニーの友人で、イベントが行われた店のDJをしていたロブ・グレットン(1953-1999)との出会いです。ロブは、ジョイ・ディヴィジョンのステージに惚れ込み、マネージャーに名乗り出ます。
 周囲の人々に「ジョイ・ディヴィジョンは凄い。今まで見たバンドの中で最高だ。マネージャーになって世界中に連れて行く」と話していたロブ・グレットンの熱心な仕事ぶりは、ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』で公開されていた、びっしりと書き込まれたメモからも窺い知ることができます。それまでは自分たちでギグのブッキングにつとめていましたが、彼らより3歳年上で、既に音楽ビジネスの世界でもまれ、熱意にあふれるやり手のロブ・グレットンがマネージャーになったことは、ジョイ・ディヴィジョンがプロのバンドとなるための大きな転機となりました。
 『A Factory Sample』のプロデュースは、バズコックスの1stアルバムをプロデュースし、その才能が注目されていたマーティン・ハネット(1948-1991)が担当しました。ハネットはこれを機にファクトリーのお抱えプロデューサーとなりました。
 ファクトリー・レコードの興亡を描いた映画『24アワー・パーティー・ピープル』に登場する、キレまくった登場人物たちの中でも際立って印象的なのが、奇才マーティン・ハネットの変人ぶりです。ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』で語られるエピソードからも、かなり独特な人物像が窺えます。荒削りでパンキッシュなジョイ・ディヴィジョンのサウンドは、ハネットのプロデュースにより、劇的に変わります。音は大胆に加工され、背景に加えられた様々な効果音により、曲に、サイケデリックで独特な浮遊感が与えられました。
 ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」では、1988年の5月に行われた、マーティン・ハネットのインタビューの一部を聞くことができます。聞き手は音楽評論家のジョン・サヴェージです。

ハネット「彼らは神からの贈り物だった」
サヴェージ「なぜです」
ハネット「無知だったから」
サヴェージ「なるほど」
ハネット「僕は細かい工夫をいろいろ施したが、彼らは議論も質問もしてこなかった」
サヴェージ「最初に作ったのは? 『ファクトリー・サンプル』?」
ハネット「そうだ“デジタル”という曲さ。天国からの贈り物だ」

 インタビューの最後の部分に関しては問題があります。映画で紹介された流れだと、マーティン・ハネットは「Digital」について、「天国からの賜り物だ(Heavens Sent!)」と語っているようにとれます。画面に表示される文字には、ハネットの最後のセリフが「It was Digital, it was Heavens Sent!」となっており、大文字で示された「Digital」は、明らかに曲のタイトルを指しています。しかし、他の資料を見ると、「Heavens Sent!」と呼ばれた「Digital」とは、どうも曲名のことではないらしいのです。
 『アンノウン・プレジャーズ』コレクターズエディションに収録されているジョン・サヴェージによるライナー・ノートには、こうあります。

“彼らは素晴らしかったよ”と1989年に彼(ハネット)は私にそう言っている。“サウンドにはたくさんの隙間があった。それはとても大きなものだった。それに彼らはまともな機材を持っていなかった。だけど、それでも彼らは工夫をし、なんとかまともなものにしようとしていたんだ”。ハネットは彼らをこう見ていた。“プロデューサーにとって好都合なものだったよ。なぜなら彼らは何も知らなかったからね、そして言い争うこともなかった。『A Factory Sample』が彼らとの初めての仕事だった。確かその2週間ほど前にアドヴァンス・ミュージック・システムズの新しいディレイラインを手に入れたんだと思う。デジタルと呼ばれていたやつさ。それはまさに優れものだった”。

 これは、年は1年ずれていますが、ドキュメンタリー映画にあるインタビューと同じ内容を指していると考えられます。そして、“Torn Apart―The Life of Ian Curtis ”97頁には、同じインタビューについてこう記しています。「ハネットは『A Factory Sample』の録音作業の二週間ほど前にAMS(Advanced Music Systems)社製の新しいDigital Delayを手に入れた。マーティンは、ライターのジョン・サヴェージにその新しい機械について聞かれ、「It was digital, it was heaven sent」と語っている。」AMS社は、「1976年に、Mark Crabtree と Stuart Nevison によってイングランド西北部のランカシャーにて発足されたレコーディング・スタジオ向けの音響用デジタル・プロセッシング・オーディオ・システムの設計開発と生産を行っていた企業」(ウィキペディア日本版)です。これらの記述から見ると、ハネットは、「デジタル」と呼ばれていた最新式の機械を「天国からの贈り物」だと言っていたようです。この最新式のテクノロジーを試す格好の対象がジョイ・ディヴィジョンだったのです。“Torn Apart―The Life of Ian Curtis ”は、曲のタイトル「Digital」は、この機械にちなんでつけられたと記しています。
 それまでの彼らの曲作りはテクノロジーとは無縁でした。カセット・レコーダーさえ持っていなかった彼らの曲作りでは、イアンの耳が重要な役割を果たしていました。ピーター・フックは「イアンが全てのリフ(注:フレーズ)を見付け出したんだ」と語っています(『アンノウン・プレジャーズ』コレクターズエディションに収録されているジョン・サヴェージによるライナー・ノートより)。バンドが即興演奏をやる、するとイアンが演奏を止めて「今のは良かった。もう一度やってくれ」と言う、そんな練習の中から「シーズ・ロスト・コントロール」などの数々の印象的なフレーズが生まれていったのです。「とても不思議だったよ。彼がいなければ、彼の耳なくしては、僕らはそれを一度演奏したきりで二度とやらなかっただろう。たいていは、それを演奏したことさえ覚えていなかったに違いない……だけど、彼は気付いていたんだ」と、ピーター・フックは語っています。
 そんなジョイ・ディヴィジョンにとって、ハネットとの出会いは、テクノロジーとの出会いでもありました。ハネットが「天国からの贈り物」だと語ったのが、「Digital」なのか「digital」なのかは、よくわかりませんが、「Digital」がジョイ・ディヴィジョンを代表する曲の一つであることは明らかです。イアンの最後のライブとなった1980年5月2日のバーミンガム大学でのステージではアンコールに応えて演奏されています。イアンがこの世で歌った最後の曲ということになります。このライブはアルバム『Still』に収録されています。最後の力をふりしぼるように歌う「Day in, day out」の一節が印象的です。