この曲で印象深いのは、何度も繰り返されるサビの部分の「Day in, day out(明けても暮れても)」というフレーズです。連続する時間を区切る「Day in」と「day out」という単位が、無表情に際限なく続いていく感じが、「デジタル」というタイトルと呼応しているように感じられます。また、1970年代の後半は、ちょうどコンピューターが一般に普及しはじめ、「デジタル化社会」における人間の在り方が問題となりはじめた時代です。
イアンが心酔していた作家、J・G・バラード(1930-2009)は、テクノロジーと人間の関係をテーマにした作品を多く書いています。2009年5月20日付の朝日新聞に掲載された追悼文、柳下毅一郎「汚染される人間の生を予言――英SF作家J・G・バラードを悼む」には、こうあります。
『残虐行為展覧会』や『クラッシュ』といった作品の中で、バラードはメディアとテクノロジーに汚染されたあらたな人間の生を描きだした。それはSFという文学が生み出したもっとも輝かしく、もっとも恐ろしい知見である。
バラードはテクノロジーと人間の関係について、それまでどんな作家も書かなかったことを書いたのだ。バラードがしばしば現代の予言者と呼ばれたのは、誰よりも早く的確に現代社会の生のありかたを指摘してのけたからである。それこそが二十世紀最大の作家が残したものなのだ。
『残虐行為展覧会』は1970年刊で、原題は『The Atrocity Exhibition』。イアンは自身の詩に「アトロシティ・エキシビション」のタイトルをつけています。『クラッシュ』は1973年刊。これは、「Disorder」の歌詞に影響が見られます。
このバラードに影響を与えたのがウィリアム・バロウズ(1914-1971)です。バロウズもまた、イアンが心酔する作家です。この二人は、イアンに限らず、ジャンルを超えて多くのアーティストに影響を及ぼしていました。こうした背景を踏まえて考えると、「デジタル」というタイトルには、ハネットの最新式の音響機器だけではなく、テクノロジーやデジタル化社会の象徴としての意味も見出せるのではないかと思うのです。
ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」で、ジョン・ウォーゼンクロフト(1958-)は、次のように語っています。ウォーゼンクロフトは、イギリスを代表するインディペンデント・レーベル、Touchの創設者です。グラフィック・デザイナーで、ジョイ・ディヴィジョンについての批評文も書いています。
「デジタル」の歌詞はまさに、“デジタル”だ。オン・オフ、イン・アウト、“明けても暮れても”。この切り替えはカーティスの人格そのものとどこか奇妙に一致している。彼は二面性を兼ね備えていた。一つは仲間と一緒にパブへ行ったり遊び回る若者。その一方で詩集を愛読する唯美主義者。憧れのポップ・スターになるという高い望みを抱いていた。
「仲間と一緒にパブへ行ったり遊び回る若者」という一面に関しては、ピーター・フックの次のようなコメントがあります。
バーナードと僕が(初めて)イアンに会った時、彼はとてもおとなしくて真面目なやつだった。パンクにハマったのは、彼を知ってた人たちから見ればキャラに合わなかった、でも、数週間、そして数ヶ月、数年僕たちと過ごして、イアンは自分の殻から出て、エネルギッシュなやつになったんだ。自分自身を見つけたようだった。僕たちはイアンに酒、女、悪ふざけ、そしてロックンロールを教えたんだ。あいつはよく、僕たちがいろんな人にしかけたイタズラで大笑いしてた。……病気になってそういうことができなくなって、彼は失望したんだ。いつも思うけど、イアンはほんとに普通だよ。ビールが好きで、笑うのが好きで、バンドのために立ち上がる。みんなはイアンが知的で、本を読んでいて、というイメージを持っている、でも、そんなじゃなかったんだ。(『NME』2010年5 月22日号)
ピーター・フックもイアンの性格の二面性を指摘し、自分たちと一緒にいた時のイアンが本当の姿だ、と言っているのですが、『クローサー』コレクターズエディションに収録されているバーナード・サムナーとスティーブン・モリスとの鼎談では、こんなふうに言っています。
アニークの前では(イアンは)感受性の強いアーティストであり、僕らは道化者だった。おそらく彼はデビーといた時の自分に戻ったんだろう。物静かで、面白みのないやつに……。僕らの前だと彼はおふざけに加わった。分からないけど、たぶん、それが彼の本当の姿――彼はただ僕らに対して、粗野な男の世界に入り込んだ男であるフリをしていたんだよ。いや、もしかしたら、アニークに、そしてデビーに対して装っていたのかもしれない。イアンはそんなヤツだったよ。彼はあらゆる人に対してあらゆるものになれたんだ。いつも無理をして、人に合わせてマスクを変える。彼はそれができたけど、それは彼にとって問題でもあった。プレッシャーになったんだ。
同じ鼎談でスティーブンはこう言っています。
イアンが全て隠していたんだ、と言ってしまえばそれまでだけど、実際彼はそうしていたんだ。彼は平静を装うのが、物事を偽るのが得意だった。彼はすぐに自分の殻に閉じこもった。だけど、見方によれば、それなら彼がただ物静かで、深く傷つくことはなかったのだろう、と思うかもしれない。彼はイタズラや悪ふざけを一緒になってやることも、子供じみたバカな行為に夢中になっているふりもできたんだ。だから極めて正常に見えるんだ。そして突然発作を起こす。その後は正常に戻るのさ。
デボラ・カーティスは『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』で、イアンがデボラを避けるようになったのは「彼の人格の二面性を知っている私を無視したかったのかもしれない」からだと書いています(邦訳本の脱落部分)。私が「Digital」の歌詞から感じるのは、「明けても暮れても」という連続した時間が、区切られ、切り替えられる、そうした時間の在り方とイアン自身の人格との関わりです。ウォーゼンクロフトはここに、切り替えられる人格の二面性を指摘しています。イアンの生活や周囲の人々のコメントを見ていると、彼にはいろいろな面があり、対する人や場所にあわせて、その時々でうまくマスクを切り替えていたようです。例えば公務員としての顔とステージでの顔を昼と夜で切り替える、というように。確かに「Day in, day out」の切り替えには彼の人格の二面性を見ることができると思います。さらに、私はこれに加えて、こうした日常で切り替えられる様々な人格の顔とは異なる、深層心理の中にあるもう一つの人格が表れているのではないかと思います。シンプルな歌詞ですが、やはり意味が取りにくく、抽象的で象徴的です。
イアンが心酔していた作家、J・G・バラード(1930-2009)は、テクノロジーと人間の関係をテーマにした作品を多く書いています。2009年5月20日付の朝日新聞に掲載された追悼文、柳下毅一郎「汚染される人間の生を予言――英SF作家J・G・バラードを悼む」には、こうあります。
『残虐行為展覧会』や『クラッシュ』といった作品の中で、バラードはメディアとテクノロジーに汚染されたあらたな人間の生を描きだした。それはSFという文学が生み出したもっとも輝かしく、もっとも恐ろしい知見である。
バラードはテクノロジーと人間の関係について、それまでどんな作家も書かなかったことを書いたのだ。バラードがしばしば現代の予言者と呼ばれたのは、誰よりも早く的確に現代社会の生のありかたを指摘してのけたからである。それこそが二十世紀最大の作家が残したものなのだ。
『残虐行為展覧会』は1970年刊で、原題は『The Atrocity Exhibition』。イアンは自身の詩に「アトロシティ・エキシビション」のタイトルをつけています。『クラッシュ』は1973年刊。これは、「Disorder」の歌詞に影響が見られます。
このバラードに影響を与えたのがウィリアム・バロウズ(1914-1971)です。バロウズもまた、イアンが心酔する作家です。この二人は、イアンに限らず、ジャンルを超えて多くのアーティストに影響を及ぼしていました。こうした背景を踏まえて考えると、「デジタル」というタイトルには、ハネットの最新式の音響機器だけではなく、テクノロジーやデジタル化社会の象徴としての意味も見出せるのではないかと思うのです。
ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」で、ジョン・ウォーゼンクロフト(1958-)は、次のように語っています。ウォーゼンクロフトは、イギリスを代表するインディペンデント・レーベル、Touchの創設者です。グラフィック・デザイナーで、ジョイ・ディヴィジョンについての批評文も書いています。
「デジタル」の歌詞はまさに、“デジタル”だ。オン・オフ、イン・アウト、“明けても暮れても”。この切り替えはカーティスの人格そのものとどこか奇妙に一致している。彼は二面性を兼ね備えていた。一つは仲間と一緒にパブへ行ったり遊び回る若者。その一方で詩集を愛読する唯美主義者。憧れのポップ・スターになるという高い望みを抱いていた。
「仲間と一緒にパブへ行ったり遊び回る若者」という一面に関しては、ピーター・フックの次のようなコメントがあります。
バーナードと僕が(初めて)イアンに会った時、彼はとてもおとなしくて真面目なやつだった。パンクにハマったのは、彼を知ってた人たちから見ればキャラに合わなかった、でも、数週間、そして数ヶ月、数年僕たちと過ごして、イアンは自分の殻から出て、エネルギッシュなやつになったんだ。自分自身を見つけたようだった。僕たちはイアンに酒、女、悪ふざけ、そしてロックンロールを教えたんだ。あいつはよく、僕たちがいろんな人にしかけたイタズラで大笑いしてた。……病気になってそういうことができなくなって、彼は失望したんだ。いつも思うけど、イアンはほんとに普通だよ。ビールが好きで、笑うのが好きで、バンドのために立ち上がる。みんなはイアンが知的で、本を読んでいて、というイメージを持っている、でも、そんなじゃなかったんだ。(『NME』2010年5 月22日号)
ピーター・フックもイアンの性格の二面性を指摘し、自分たちと一緒にいた時のイアンが本当の姿だ、と言っているのですが、『クローサー』コレクターズエディションに収録されているバーナード・サムナーとスティーブン・モリスとの鼎談では、こんなふうに言っています。
アニークの前では(イアンは)感受性の強いアーティストであり、僕らは道化者だった。おそらく彼はデビーといた時の自分に戻ったんだろう。物静かで、面白みのないやつに……。僕らの前だと彼はおふざけに加わった。分からないけど、たぶん、それが彼の本当の姿――彼はただ僕らに対して、粗野な男の世界に入り込んだ男であるフリをしていたんだよ。いや、もしかしたら、アニークに、そしてデビーに対して装っていたのかもしれない。イアンはそんなヤツだったよ。彼はあらゆる人に対してあらゆるものになれたんだ。いつも無理をして、人に合わせてマスクを変える。彼はそれができたけど、それは彼にとって問題でもあった。プレッシャーになったんだ。
同じ鼎談でスティーブンはこう言っています。
イアンが全て隠していたんだ、と言ってしまえばそれまでだけど、実際彼はそうしていたんだ。彼は平静を装うのが、物事を偽るのが得意だった。彼はすぐに自分の殻に閉じこもった。だけど、見方によれば、それなら彼がただ物静かで、深く傷つくことはなかったのだろう、と思うかもしれない。彼はイタズラや悪ふざけを一緒になってやることも、子供じみたバカな行為に夢中になっているふりもできたんだ。だから極めて正常に見えるんだ。そして突然発作を起こす。その後は正常に戻るのさ。
デボラ・カーティスは『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』で、イアンがデボラを避けるようになったのは「彼の人格の二面性を知っている私を無視したかったのかもしれない」からだと書いています(邦訳本の脱落部分)。私が「Digital」の歌詞から感じるのは、「明けても暮れても」という連続した時間が、区切られ、切り替えられる、そうした時間の在り方とイアン自身の人格との関わりです。ウォーゼンクロフトはここに、切り替えられる人格の二面性を指摘しています。イアンの生活や周囲の人々のコメントを見ていると、彼にはいろいろな面があり、対する人や場所にあわせて、その時々でうまくマスクを切り替えていたようです。例えば公務員としての顔とステージでの顔を昼と夜で切り替える、というように。確かに「Day in, day out」の切り替えには彼の人格の二面性を見ることができると思います。さらに、私はこれに加えて、こうした日常で切り替えられる様々な人格の顔とは異なる、深層心理の中にあるもう一つの人格が表れているのではないかと思います。シンプルな歌詞ですが、やはり意味が取りにくく、抽象的で象徴的です。