ジョン・ウォーゼンクロフトが「『デジタル』の歌詞はまさに、“デジタル”だ。オン・オフ、イン・アウト、“明けても暮れても”。この切り替えはカーティスの人格そのものとどこか奇妙に一致している。」と指摘しているように、日常生活において、イアンはいくつかの顔を切り替えていました。ピーター・フックは「人に合わせてマスクを変える」ことは、イアンにとってプレッシャーだったと語っています。
もっとも、こういった面は、プレッシャーとまでは感じないとしても、実は多くの人が思い当たることではないでしょうか。
イアンの場合はとくに極端すぎたのでしょうが、誰でも、常に同じ自分を保っているわけではありません。職場での自分、家庭での自分、様々な環境や人間関係の中で在り方は異なっています。状況に「合わせてマスクを変え」、その場にふさわしい自分を演じます。中にはこの切り替えを無意識にこなしてしまう人もいますが、多くの人はそんな切り替えに疑問を覚えたりしたことがあるのではないでしょうか。苦痛に感じる「自分」を演じているようなときには、「本当の自分ではない」と感じ、自分を偽っているという思いが強まり、ストレスが蓄積されます。かといって、「本当の自分」を回復しようと気にしすぎると、かえって、思いのままにならない自分の気持ちや環境に直面させられ、「生きにくさ」を感じます。
よくある対処法は、自分が安らげる関係に身を置き、十分に休息することによって「嫌な自分」でいる時間を出来るだけ減らし、耐えられるようにする、ということになるでしょう。さらに、すべての自分を対立させず、それなりに肯定し、その変化に自分の感情が自然に従っていければ、さほど苦痛は生じないはずです。しかし、有無を言わさずデジタルのように切り替えなければならず、自分の感情がついていかない――そういった苦痛は、せわしない毎日を生きる現代社会の多くの人にとって身近なものではないかと思うのです。
そういったせわしない日常での切り替え、それに伴う焦燥感を「Day in, day out,」は感じさせます。そして、さらにこの詩において最も興味深いことは、無意識下の、 非日常の世界の“it”という自己の存在です。この非日常の自己は、日常の自己とどう関わってくるのでしょうか。
“it”の正体は「僕」の深層心理に時折現れる「君」です。周囲に合わせて使い分けるマスクとは異なり、イアンにしかその存在が分からないものです。この詩はそんな「君」との関わりを表現していると解釈すると、この詩に描かれている心理状態は内省的というだけでは収まらない、複雑で奇妙なものに見えます。
この“it”という存在は、「僕」の深層心理に時折、日常とは別のところから現れるようです。恐ろしいものであると同時に、“you”とも呼ばれ、「消えないでくれ」と切実に呼びかけかられていることから、「僕」にとって大切な存在だと考えられます。「Atmosphere」で、「どうか行かないで」「背を向けないで」と呼びかけている「君」と同じで、単なる自問自答ではなく、独立した一個の人格として立ち現れてきます。これが、いつ、どんな時に現れるものなのかを考えると、そこで思い当たるのが、『An Ideal For Living』とドイツ第三帝国――�の記事で引用した、作詩についてのイアンのインタビューです。
ミック:「(歌詞は)何についてのもの?」
イアン:「いろんなことだよ、本当に。僕は特定の何かについて書くつもりはない。もし、何かに心を打たれたとしても。僕はしばしば、とても潜在的な意識に従って書く傾向があるから、それが何についてのことなのか、分からない。」
この、詩を書くとき無意識下から現れたものが“it”ではないでしょうか。詩を書くときの精神状態を、「君」というもう一つの人格として表しているのがこの歌詞で、「君」と「僕」の関係は、イアンの詩と生活の関係と重なってくるのではないかと思います。
詩の第2連までを見ていると、日常とは別のところから、しばしば近づいてくるもう一つの人格を、出現の「パターンが整ってくる」とか、「冷たくも暖かくも感じる」とか、冷静に、客観的に見つめています。しかし、第3連になって、最後に繰り返される「消えないでくれ」「消えていく」という節においては、かなり混乱しているように見えます。呼び方もこれまでの“it”から“you”に変わります。もう一つの人格は彼から完全に独立し、まさにコントロールできない、制御不能の相手となっていることを感じさせます。恐ろしいけれども、詩を為すためにもどうしても自分にとって必要なものが“it”なのです。詩を書くことで、イアンは、こうした手に負えないもう一つの人格と対峙することになっていったのではないか、周囲の人々が見た彼の様々な仮面とは別なところで、彼は一人、もう一つの人格と対立し、葛藤しなければならなくなっていったのではないか、それこそが彼の「孤独」だったのではないかと思います。「Digital」の歌詞はその予兆ではないか――特に遺作となった2ndアルバム『クローサー』の創作過程での精神状態について、いくつかの証言を追っていくと、そんな感想を持ちます。この頃はかなり精神的にも肉体的にも疲弊していて、彼の人格が崩壊していく最終段階ともいえる時期でした。デボラはこんなことを書いています。
イアンは『クロ-サー』の詩を書いたりレコーディングしたりしている時は大体恍惚状態に入っているように見えた。緊張したり感情が高ぶっている時、彼は別世界にいた。
ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」では、バーナード・サムナーが、『クローサー』の詩作について、イアンから聞いた言葉を証言しています。
今でも覚えてるよ。ある夜イアンが俺に言った。「不思議だ。今回は歌詞が自然にすらすら書けた。いつも苦心して書き上げるんだ。出だしよりも終わりでもがく。でも、今回は全曲楽に書けた。だが、閉所恐怖症の感覚にも陥った。まるで渦巻く波に呑み込まれて、溺れてく感じだ」と。
詩作において、それまではいつも、彼は苦心してある特殊な心理状態“it”を呼び出していたのではないかと思います。『クローサー』ではその心理状態にすんなり入り込み、持続することができたということではないでしょうか。しかし、その心理状態は「渦巻く波に呑み込まれて溺れてく」――“it”の中に「僕」が取り込まれてしまう「閉所恐怖症」のようなものだったようです。
こうした詩作での心理状態が、ステージでの彼の異様な状態と似通っていたのか、また別のものだったのかはわかりません。また、レコードの録音の際、イアンの歌はいつも別録音で、「みんなから背を向けて、頭や肩に手を当てる仕草をして、独り自分の中に入っていく感じだった」と、ドキュメンタリー映画の中でアニック・オノレは証言しています。『NME』2010年5 月22日号にはマーティン・ハネットの右腕だったエンジニア、クリス・ネイグルのこんなコメントがあります。『NME』2010年5月22日号(からいくつかのコメントの訳を抜粋して掲載している『ロッキング・オン』の2010年9月号)から引用します。
個人的に最も脳裏に焼きついているのは、録音中のイアンはいつものノリが出るまでにかなりの時間を要してたってことかな。彼が録音ブースに入り、ヘッドフォンを着けてミキシング音を確認した後、こっちがバック・トラックを流し始めても一向にVoが入ってこない。いくら待っても聞こえてくるのはタバコに火をつける彼のライターの音だけ、っていうね。で、業を煮やしたマーティンが「イアン、どうした?」って言うと、「紅茶が飲みたくなった」なんて声が返ってくる。あれは多分イアンにとって、ある特定の心理状態に達するため、集中するための儀式みたいなものだったんだろうね。どのレコーディングでも必ずそうだったから
「ある特定の心理状態」は、原文では「mindset」で、“(習性となった)思考態度や心境”といった意味です。ジョイ・ディヴィジョンの一員として歌詞を書くこと、ステージで、レコードで歌い、歌の世界を表現することは、「別世界」のような特殊な心理状態を習性としてもたらすものだったと想像されます。こうした、日常とは別の、無意識下から呼び覚まされる、または自ずと沸き上がってくるデモーニッシュな詩魂ともいうべきものが、“it”ではないかと思えるのです。それは日常生活での仮面の切り替えといったプレッシャーどころではない負担を強いたのではないでしょうか。
『クローサー』コレクターズエディション収録の鼎談で、バーナードは、イアンの破滅について述べる中で、「歌が彼の人生を支配していることに気付き」という言葉を使っています。恐ろしいけれども魅惑的な恍惚状態、バンド活動を続け、人々を非日常の世界に引きずり込むために必要なもの――イアンの生活はしだいに、「Digital」における“it”に支配されていったのではないかと思います。
もっとも、こういった面は、プレッシャーとまでは感じないとしても、実は多くの人が思い当たることではないでしょうか。
イアンの場合はとくに極端すぎたのでしょうが、誰でも、常に同じ自分を保っているわけではありません。職場での自分、家庭での自分、様々な環境や人間関係の中で在り方は異なっています。状況に「合わせてマスクを変え」、その場にふさわしい自分を演じます。中にはこの切り替えを無意識にこなしてしまう人もいますが、多くの人はそんな切り替えに疑問を覚えたりしたことがあるのではないでしょうか。苦痛に感じる「自分」を演じているようなときには、「本当の自分ではない」と感じ、自分を偽っているという思いが強まり、ストレスが蓄積されます。かといって、「本当の自分」を回復しようと気にしすぎると、かえって、思いのままにならない自分の気持ちや環境に直面させられ、「生きにくさ」を感じます。
よくある対処法は、自分が安らげる関係に身を置き、十分に休息することによって「嫌な自分」でいる時間を出来るだけ減らし、耐えられるようにする、ということになるでしょう。さらに、すべての自分を対立させず、それなりに肯定し、その変化に自分の感情が自然に従っていければ、さほど苦痛は生じないはずです。しかし、有無を言わさずデジタルのように切り替えなければならず、自分の感情がついていかない――そういった苦痛は、せわしない毎日を生きる現代社会の多くの人にとって身近なものではないかと思うのです。
そういったせわしない日常での切り替え、それに伴う焦燥感を「Day in, day out,」は感じさせます。そして、さらにこの詩において最も興味深いことは、無意識下の、 非日常の世界の“it”という自己の存在です。この非日常の自己は、日常の自己とどう関わってくるのでしょうか。
“it”の正体は「僕」の深層心理に時折現れる「君」です。周囲に合わせて使い分けるマスクとは異なり、イアンにしかその存在が分からないものです。この詩はそんな「君」との関わりを表現していると解釈すると、この詩に描かれている心理状態は内省的というだけでは収まらない、複雑で奇妙なものに見えます。
この“it”という存在は、「僕」の深層心理に時折、日常とは別のところから現れるようです。恐ろしいものであると同時に、“you”とも呼ばれ、「消えないでくれ」と切実に呼びかけかられていることから、「僕」にとって大切な存在だと考えられます。「Atmosphere」で、「どうか行かないで」「背を向けないで」と呼びかけている「君」と同じで、単なる自問自答ではなく、独立した一個の人格として立ち現れてきます。これが、いつ、どんな時に現れるものなのかを考えると、そこで思い当たるのが、『An Ideal For Living』とドイツ第三帝国――�の記事で引用した、作詩についてのイアンのインタビューです。
ミック:「(歌詞は)何についてのもの?」
イアン:「いろんなことだよ、本当に。僕は特定の何かについて書くつもりはない。もし、何かに心を打たれたとしても。僕はしばしば、とても潜在的な意識に従って書く傾向があるから、それが何についてのことなのか、分からない。」
この、詩を書くとき無意識下から現れたものが“it”ではないでしょうか。詩を書くときの精神状態を、「君」というもう一つの人格として表しているのがこの歌詞で、「君」と「僕」の関係は、イアンの詩と生活の関係と重なってくるのではないかと思います。
詩の第2連までを見ていると、日常とは別のところから、しばしば近づいてくるもう一つの人格を、出現の「パターンが整ってくる」とか、「冷たくも暖かくも感じる」とか、冷静に、客観的に見つめています。しかし、第3連になって、最後に繰り返される「消えないでくれ」「消えていく」という節においては、かなり混乱しているように見えます。呼び方もこれまでの“it”から“you”に変わります。もう一つの人格は彼から完全に独立し、まさにコントロールできない、制御不能の相手となっていることを感じさせます。恐ろしいけれども、詩を為すためにもどうしても自分にとって必要なものが“it”なのです。詩を書くことで、イアンは、こうした手に負えないもう一つの人格と対峙することになっていったのではないか、周囲の人々が見た彼の様々な仮面とは別なところで、彼は一人、もう一つの人格と対立し、葛藤しなければならなくなっていったのではないか、それこそが彼の「孤独」だったのではないかと思います。「Digital」の歌詞はその予兆ではないか――特に遺作となった2ndアルバム『クローサー』の創作過程での精神状態について、いくつかの証言を追っていくと、そんな感想を持ちます。この頃はかなり精神的にも肉体的にも疲弊していて、彼の人格が崩壊していく最終段階ともいえる時期でした。デボラはこんなことを書いています。
イアンは『クロ-サー』の詩を書いたりレコーディングしたりしている時は大体恍惚状態に入っているように見えた。緊張したり感情が高ぶっている時、彼は別世界にいた。
ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」では、バーナード・サムナーが、『クローサー』の詩作について、イアンから聞いた言葉を証言しています。
今でも覚えてるよ。ある夜イアンが俺に言った。「不思議だ。今回は歌詞が自然にすらすら書けた。いつも苦心して書き上げるんだ。出だしよりも終わりでもがく。でも、今回は全曲楽に書けた。だが、閉所恐怖症の感覚にも陥った。まるで渦巻く波に呑み込まれて、溺れてく感じだ」と。
詩作において、それまではいつも、彼は苦心してある特殊な心理状態“it”を呼び出していたのではないかと思います。『クローサー』ではその心理状態にすんなり入り込み、持続することができたということではないでしょうか。しかし、その心理状態は「渦巻く波に呑み込まれて溺れてく」――“it”の中に「僕」が取り込まれてしまう「閉所恐怖症」のようなものだったようです。
こうした詩作での心理状態が、ステージでの彼の異様な状態と似通っていたのか、また別のものだったのかはわかりません。また、レコードの録音の際、イアンの歌はいつも別録音で、「みんなから背を向けて、頭や肩に手を当てる仕草をして、独り自分の中に入っていく感じだった」と、ドキュメンタリー映画の中でアニック・オノレは証言しています。『NME』2010年5 月22日号にはマーティン・ハネットの右腕だったエンジニア、クリス・ネイグルのこんなコメントがあります。『NME』2010年5月22日号(からいくつかのコメントの訳を抜粋して掲載している『ロッキング・オン』の2010年9月号)から引用します。
個人的に最も脳裏に焼きついているのは、録音中のイアンはいつものノリが出るまでにかなりの時間を要してたってことかな。彼が録音ブースに入り、ヘッドフォンを着けてミキシング音を確認した後、こっちがバック・トラックを流し始めても一向にVoが入ってこない。いくら待っても聞こえてくるのはタバコに火をつける彼のライターの音だけ、っていうね。で、業を煮やしたマーティンが「イアン、どうした?」って言うと、「紅茶が飲みたくなった」なんて声が返ってくる。あれは多分イアンにとって、ある特定の心理状態に達するため、集中するための儀式みたいなものだったんだろうね。どのレコーディングでも必ずそうだったから
「ある特定の心理状態」は、原文では「mindset」で、“(習性となった)思考態度や心境”といった意味です。ジョイ・ディヴィジョンの一員として歌詞を書くこと、ステージで、レコードで歌い、歌の世界を表現することは、「別世界」のような特殊な心理状態を習性としてもたらすものだったと想像されます。こうした、日常とは別の、無意識下から呼び覚まされる、または自ずと沸き上がってくるデモーニッシュな詩魂ともいうべきものが、“it”ではないかと思えるのです。それは日常生活での仮面の切り替えといったプレッシャーどころではない負担を強いたのではないでしょうか。
『クローサー』コレクターズエディション収録の鼎談で、バーナードは、イアンの破滅について述べる中で、「歌が彼の人生を支配していることに気付き」という言葉を使っています。恐ろしいけれども魅惑的な恍惚状態、バンド活動を続け、人々を非日常の世界に引きずり込むために必要なもの――イアンの生活はしだいに、「Digital」における“it”に支配されていったのではないかと思います。