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愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

持病について――3

2010-10-27 21:54:10 | 日記
 ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』本編には収録されなかったインタビューで、ピーター・フックがイアンの発作について語っているものがあります。インタビュアーが「ボーンマスでは?」と聞いているところから、イングランド南部の都市、ボーンマスで1979年11月2日に行われたギグでのことだと思います。

 イアンの癲癇の発作が突然起きた。アホな照明係がフラッシュを使ったんだ。「フラッシュは禁止だ」とロブが何度もケンカした。聞き分けのない奴で、フラッシュで何度か発作が起きた。(「ボーンマスは?」という質問を受けて)あれはとくにひどかった。長時間付き添った。けいれんが激しくて、楽屋に寝かせてたが回復せず、俺は業を煮やして「病院へ連れてく」と。楽屋にいた俺とロブがイアンを車に乗せ街の病院へ向かった。医者が診てくれたが1時間半も苦しんでた。会場に戻ったあと皆に声をかけた。奴らは「1杯やれよ」と。周りを見回したがトゥイニー(※)がいなかった。不審に思って捜すと妙な場所にいた。舞台裏の戸棚の中だ。「何してんだ」と聞くと「イアンには悪魔が憑いてる」と。俺は奴を連れだした。ヴォーカルがいないなんて悪夢みたいだった。

※ローディーの一人

 この発言からは、病気のイアンを抱えながら、メンバーたちがどんなふうにステージをこなしていたかが窺えます。そして、「彼の発作は突然起こったし重症で強いものだった。放っておいても治まるとかいう、生易しいものじゃない。強くて強烈な大発作だ」(バーナード・サムナー ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』)という発作の激しさと、「てんかん患者の苦しみは症状だけじゃない。この病気への古臭い誤解や偏見、世間の恐怖感にもさらされる」(ドキュメンタリー映画で病気の解説をする医師の言)という偏見も。
 アニック・オノレも、ドキュメンタリー映画の中で、イアンの発作について率直にこう語っています。

 彼の発作を何度か見たことがあるけど、心底恐ろしかったわ。悪魔が憑いたようで。信じてもらえないでしょうけど本当に、体が地面から浮き上がるの。

 イアンはアニック宛ての書簡で、治療について「医者は薬を試すだけだ。」と記しています。デボラ・カーティスは、「徐々に、彼の処方箋は発作を抑制させるような薬に替わっていった。」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』第7章)と記していますが、かなりの量の薬を飲んでいたようです。スティーブン・モリスはドキュメンタリー映画の中で、「山ほど薬を飲まなきゃならず、本当に大変だ」と語っています。こうした大量の薬の副作用としては、眠気、めまい、興奮、混乱、緩慢な動作などがありました。また「癲癇の薬が癲癇そのものよりイアンを不幸にさせていたのではないか」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』第7章)と言うバーナード・サムナーは、ドキュメンタリー映画でイアンの薬について次のような印象を述べています。

 ある日は陽気に笑っていたかと思うと次の日には暗く落ち込んでシクシク泣く。そんなこと薬を飲む前にはなかった。感情の起伏が激しい奴じゃなかったんだ。

 ただし、アニック・オノレ宛の書簡にも書かれていたように、イアンの癲癇は「側頭葉癲癇」で、こうした感情の起伏の激しさ・攻撃性は、側頭葉癲癇の特徴的な症状でもあるようです。ともあれ、こうした持病の苦しみに加えて、発作がステージで起こるということへの不安を抱えなければならなかったことは、イアンにとって特別に不幸な状況だったと思います。「彼の世話はバンドのメンバーがしっかりやってくれた。彼らは、イアンの発作の前兆を見のがさないように人目を忍んでじっと見守り、とりわけ調子が悪くなったら彼が回復するのを手伝えるように常に側にいるか、すぐに病院へ連れて行けるように準備していた。」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』第9章)そうは言っても、深夜のステージをこなすこと自体が、体力的にも精神的にもハードなものであることは間違いなかったはずです。
 テリー・メイスンは「もし、ボクシングだったら、レフェリーはイアンに続けさせなかっただろう」と言っています("Bernard Sumner:Confusion " P.74)。しかし、「それは限界にきていた。僕らは言うべきだったんだ。『さあ、止めてくれ、僕らは降りるんだ』って。でも、誰が言うのかって? 誰が言えるというのだろう。『さあ、やめよう』なんて。」(バーナード・サムナー 『クローサー』コレクターズ・エディション収録のピーター・フックとスティーヴン・モリスとの鼎談)というように、止めることは不可能だった訳です。
 皮肉にも、この綱渡りのような状況で為されるイアンのパフォーマンスに人々はどんどん熱狂しました。

Asylums with doors open wide            ドアが広く開かれた収容所
Where people had paid to see inside        人々は金を払って中を見た
For entertainment they watch his body twist  娯楽として彼らは彼の身体がよじられるのを見る
Behind his eyes he says, I still exist        瞳の奥で彼は言う、「僕はまだ生きている」

という「アトロシティ・エクシビション」(『クローサー』に収録)の歌詞は、自分自身を風刺しているようにもみえます。イアンにとってステージは、文字通り生命との格闘だった訳なので、生半可な表現ではなかったことが想像されます。だからこそ多くのファンは、特別な何かをそこに見出したのでしょう。
 以上のように、病気についてのいくつかの事実を考え合わせてみると、アメリカ・ツアーなど到底無理だったのではないか、と思われてきます。デボラ・カーティスは、“イアンはアメリカ・ツアーについて悩んでいるように見えなかった”というメンバーたちの言に対し、「イアンは最終締め切りを守ったのだと私は信じる。……彼がアメリカ・ツアーについてまったく心配していなかった唯一の理由は、行かないことを決めていたからだ」(第12章)と記していますが、あるいはそうだったのかもしれない、とも思います。しかし、もし、アメリカ・ツアーを彼が何とかこなし、生き延びていたら、とも、ふと思わずにはいられません。前の記事に紹介した『新・てんかんと私-ひびけ、とどけ!34人の声-』には、大西八重子さんの「イアン・カーティスをご存知ですか」という文章があります。結びの部分を引用します。

 それにしてもイアンが自殺してしまったのは残念なことです。現在は芸能人などの著名人が、うつ病やパニック障害といった心の病にかかったことを公にするようになってきています。こうした動きは、心の病についての偏見を和らげることに大きく役立っていると思います。でも、てんかんを公にする著名人はまだいません(この病の発症率からいうと、絶対にいるはずなのですが)。イアンが今も生きていてくれたら、世界中のてんかん患者にとって、すばらしい希望の星になったと思うのですが。

持病について――2

2010-10-20 21:03:46 | 日記
 1980年3月5日、ブリストルで行われたギグで、ステージでのパフォーマンスの終了間際に、イアン・カーティスは癲癇の発作を起こしました。その場に居て発作を目撃したアニック・オノレに宛てて、後日、イアンはいくつかの書簡を送りました。"Torn Apart- The Life of Ian Curtis" にはそのうち、イアンが彼の病気についての不安を記した部分を三箇所引用しています(p.200~p.201)。
 デボラ・カーティスは、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』に、「イアンがアニックを内妻として選んだことで、てんかんの発作後の処置ができない、あるいはしたがらないために悲惨な結果を生んだ。アニックが戸惑いつつ拒絶したことが彼を深く傷つけた。」(p.135)と書いていますが、これに対する反論が書簡をもとに書かれています。

 癲癇の発作は恐怖になりつつある。月曜日の夜なんて、ガラスの扉を壊してしまった。気が付いたらガラスまみれで、扉に体を突っ込んだまま、尖った破片を見つめていた。たまに夜出掛けることも、クラブや映画館で発作が起こりはしないかと思うと怖くてできない。もっと不安なのは演奏の最中に発作が起こることだけど、その可能性は高いと思う。もし演奏中に大発作が起こるようなことがあったら、僕は二度とステージに立てないだろう。アメリカツアー(※1)は本当に不安だ。いや、正直に言うとこれから先ずっとだ。発作はいつかもっと激しいものになる、そう思わずにはいられない。そう、そうなったら僕はもう続けられないだろう。

 癲癇の発作は悪化するだろう。とても恐ろしい。「怖くない」と言ったら嘘になる。医者は薬を試すだけだ。ずいぶんいろんな薬の組み合わせを試した。医者が施す全ての検査を受けた、CTスキャンとか、脳波を調べたりとか。そして、トラブルが脳の側頭葉の前部にあることは判明した。だけど、多くの症例と同様、はっきりした原因はわからない。僕はまだ完全に把握しきれてはいない。でも、職場で癲癇患者と一緒に働いていたことがあるし、毎月仕事でデヴィッド・ルース・センター(※2)に行ってたからよく分かる。そこには、治療を受けるか、ただ世話をされるかだけの、最悪のケースの患者たちがいた。恐ろしい光景が頭の中にこびりついている。特別なヘルメットを被った男の子や女の子は、発作の時に自分を傷つけないよう、肘と膝にパッドを着けていた。何て絶望的な状況にいる、可哀想な子どもたちだっただろう。僕はこのことを君に話さなくては、と思った。もしそれが君の僕に対する感情を変えてしまうかもしれなくても。君を心から愛している、君を失いたくはない、でも、僕は最悪の場合どんな状態が有り得るのか、君に話すべきだと思った。……そうは言っていても、この発作が突然無くなって、二度と起こらなくなる、なんてことが起こり得るかも、とも思う。

 (ブリストルのギグで)発作が起こって、みんながそこにいて混乱した。まずい、と思って慌てたけど、君がいてくれて嬉しかった。意識を取り戻して君の顔を見た時、とても落ち着いたし、元気づけられた。君はこんなに影響力があるんだ。ロブでさえ、ヨーロッパツアーに君が同行したことは、僕にとって良かったって言っているんだ(※3)。君は僕にこれだけの効果を及ぼし、そして苛立ちを取り除いてくれるんだ。

 ※1イアンが自殺した5月18日にアメリカツアーに出発する予定でした。
 ※2デヴィッド・ルース・センターは、チェシャー州にある癲癇患者のための療養施設です。住居や教育など、様々なサービスを提供しています。(http://en.wikipedia.org/wiki/David_Lewis_Centre)
 ※3マネージャーのロブ・グレットンは、メンバーの妻や彼女がギグやレコーディングなどに来ることを避けたいという考えを持っていました。例えばピーター・フックは「ロブは断固として男っぽい、男だけの場にしようとした。これは作業だ、これは僕らの仕事なんだっていう雰囲気を作るために彼女や奥さんを連れてこないようにしたんだ」(『クローサー』コレクターズ・エディション収録のバーナード・サムナーとスティーヴン・モリスとの鼎談)と言っています。そのロブでさえ、アニックが居たことはイアンにとって良かったと言っている、ということだと思います。

 この書簡からは、イアンが自分の病気について、発作がどんどん悪化していることを感じ、もっと悪い状態になることをいかに恐れていたかが分かります。イアンは何よりもステージで発作が起こることを恐れていました。そして、それは一月後に起こりました。発作の苦しみは勿論ですが、発作を他人に見られることがいかに癲癇患者にとって苦痛であるかは、日本てんかん協会の編集している『新・てんかんと私-ひびけ、とどけ!34人の声-』に収録されている手記によっても、窺い知ることができます。
 4月4日、ロンドンのムーンライト・クラブで行われたギグで、オープニングから25分ほど過ぎた時、イアンのダンスはおかしくなりはじめ、「グロテスクなもの」になります。3000人の観客のうち何人かは、パフォーマンスの一部だと思ったようですが、多くの人は、恐ろしい発作がイアンに起こったことを目撃しました("Torn Apart- The Life of Ian Curtis" p.220~p.221)。この時ステージ上で起こった発作がすべての終わりだったと、バーナード・サムナーは語り(『Preston 28 Feburary 1980』ライナー・ノート)、バーナードとピーター・フックの同級生で、ローディーをしていたテリー・メイソンは、「彼は潰された……彼はあの晩、完全に壊れたんだ」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)と語っています。そして、その三日後、イアンは自殺未遂を起こしました。
 もう一つ、注目したことは、アニック・オノレに対して率直に、発作が収まって目が覚めた時に「君がいてくれて嬉しかった」と語っていることです。初めに記したように、デボラは、アニックがイアンの発作後の処置を拒否したことがイアンを深く傷つけたと書いているのですが、"Torn Apart- The Life of Ian Curtis"はこれに対し、「アニックはそういう人間ではない」と反論し、この記述を引用しています。アニックは、「どんなに親しい関係でも限界がある」と語り、イアンが発作を起こしている時、自分はそれをただ覗き見しているだけの「voyeur」(フランス語で「覗き見している人」の意)であるように感じていたといいます。イアンを背負うためには強くあらねばならなかったけれども、彼女は無力さを感じていました。慎重さと内気さは、ときに無関心であると誤解されるものかもしれない、ともアニックは語っています。("Torn Apart- The Life of Ian Curtis" p.201)
 デボラの主張は、彼女がイアンの病気を理解しようと努め、一生懸命尽くしていた、ということです。そして、自分はいつでもイアンの力になれたのに、疎外されてしまったという思いから、アニックが許せなかったのだと思います。物事はそれぞれの立場で語られるとき、時に全く違ったものになってしまいます。デボラの主張が一方的になものになってしまうのは仕方のないことでしょう。また、全く間違っているとも言い切れないと思います。イアンの気持ちはどうだったのでしょうか。イアンはアニックに対して「いてくれるだけで嬉しい」と言っています。ふと感じるのは、アニックの言うように、どんなに親しい間柄でも、結局皆発作を傍観するだけの第三者でしかない、ということです。彼はそこに孤独を感じたことはなかったのでしょうか。
 残されたメンバーたちの発言のいくつかから滲み出るのは、イアンが持病を抱えながらバンドを続けることは無理だと分かっていたけれど、誰も止められなかった、そして、何もできなかったという思いです。さらに、当時の状況下では、癲癇という病への偏見があったことも垣間見られます。

持病について――1

2010-10-13 20:08:22 | 日記
 癲癇は、大脳の神経細胞の規則正しい活動が突然崩れることにより、様々な発作が起こる病気です。頭部の外傷や脳卒中など、はっきりした原因があるもの(症候性癲癇)と、検査をしても原因が分からないもの(特発性癲癇)に分かれます。
 脳卒中を起こした高齢者が発病するケースも近年増えているようですが、幼少期に発病することが最も多く、80%は18歳以前に発病すると言われています。
 意識の消失とともに全身が痙攣するのが、「大発作」と呼ばれる最も激しい発作です。このほか、瞬間的に意識がなくなるだけのもの、意識はなくならずに体の一部に痙攣やしびれが起こるもの、幻覚などの精神症状が起こるものなど、様々なパターンがあります。 治療は薬物治療が中心となります。適切な治療を受け、規則正しい生活を心がけることにより、8割の人は日常生活に支障をきたすことなく発作を抑制することができます。しかし中には、薬を飲んでも発作をコントロールすることができない、難治性癲癇と呼ばれるものもあります。

 ジョイ・ディヴィジョンは1978年12月27日、初のロンドンでのギグを行います。しかし、観客は30人程しか入らず、期待外れの結果となり、イアンはかなり苛立っていたようです。帰途、初めて大発作を起こし、癲癇と診断されます。原因は不明、投薬治療を受けますが、その後も大発作を含め、発作は頻繁に起こりました。22歳という年齢での発病は珍しいケースです。母ドリーン・カーティスは、イアンは病気らしい病気をしたのはおへそに膿がたまって、それを取ってもらったことくらいで、健康優良児だった、4歳違いの妹キャロルの方がむしろ弱かったくらいで、癲癇の発病にとても驚いたと語っています("Torn Apart- The Life of Ian Curtis")。彼女はまた、イアンは10代のある時期に頭を打ったことがあるのではないか、そして、結婚生活でのストレスとステージでフラッシュを浴びたことなどが重なって発病したのではないか、と言っています。
 デボラは、イアンと出会った15歳の頃、しばしば幻覚が起こると彼が語っていたことについて記し、実はこれが癲癇の症状だったのではないかと推察しています。
 『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』を追っていくと、小康状態を保ったり、大発作を起こしたりを繰り返しながら、病状がしだいに悪化していく様子がわかります。以下、簡単にまとめてみます。

1978年12月末~1979年1月
 診断した開業医は、専門医に診てもらうよう指示したのみ。発作はかなり頻繁に起きた。週に3~4回の時と、全く起こらない時と、波があった。運転免許は条件付きとなり、身体障害者登録をした。
 専門医の診断を受け、抗癲癇薬としてフェニトインとフェノバルビトンを処方される。フェニトインは癲癇の治療に最もよく使用される長期の治療薬。フェノバルビトンは痙攣を抑える効果がある。薬についての様々な副作用とともに、このとき、ある決定的なことを言われる。それは、インポテンツを受け入れなければならないということだった。引きこもりがちになり、必要最低限のことしか話さなくなった。英国癲癇協会に入会。デボラは知っておくべき情報の把握につとめる。発作の前兆を見逃さないよう注意を払い、発作が起こってもすぐ対処できるようにする。ステージでのイアンのダンスは発作の前兆によく似ていた。まるで「発作の悲惨なパロディー」のようになっていった。(第7章)
3月
 1月から3月の間に何回か大発作を起こし、脳波を調べるが異常なし。フェニトインとフェノバルビトンに加え、新しく発作を抑制する効果のあるカルバマゼピンとバルプロ酸塩が投与される。新しい薬を受け取るたびに、イアンは今度こそこの薬が助けてくれるのではないかという熱意を取り戻す。大量の投薬を受けるようになってから、躁鬱状態が激しくなる。「癲癇の薬が癲癇そのものよりイアンを不幸にさせていたのではないか」とバーナードは指摘している。(第7章)
4月
 『アンノウン・プレジャーズ』の録音。ナタリー誕生。しかし、発作が起こって子どもを落とすことを恐れ、イアンは子どもを抱くのを嫌がった。(第7章)
5月
 ジョイ・ディヴィジョンはギグを定期的に行う。24日、自宅で4回にわたる大発作を次々に起こし救急車で運ばれる。そのまま数日入院。頭部のスキャンを撮るが、異常なし。(第8章)
6月
 『アンノウン・プレジャーズ』リリース。発作は一度も起きず。(第8章)
8月~9月
 何度も発作を起こし、9月の末、本番前に大発作を起こす。家庭にほとんど帰らなくなったイアンの世話は、デボラに代わってバンドのメンバーがみるようになる。(第9章)
10~11月
 アニック・オノレと出会う。11月にかけて発作は2回しか起こらなかった。(第9章)
12月
 イアンのエキセントリックな性格と精神分裂的な性格を、デボラは自分の手には負えなくなったと感じる。結婚生活は完全に破綻していた。(第9章)
1980年1月~2月
 ヨーロッパツアー。アニック・オノレが同行。ツアー中の病状はデボラが記していないため不明。"Torn Apart- The Life of Ian Curtis"にもこの間の発作について特に記されていないので、少なくとも大発作は起こらなかったとみられる。1月から2月にかけて、大発作が2回。このころ、不倫がデボラに知られる。(第10章)
3月
 メンバーやスタッフ、そしてアニック・オノレの前で大発作を起こす。初めて大発作を見たアニックに対し、病気についてきちんと話しておきたいと書簡で記している(この点からも、アニックがイアンの大発作を初めて見たのはヨーロッパツアー後のことと推察される)。書簡では、癲癇の発作が悪化していること、それについての恐怖、とくにステージで大発作が起こることへの恐怖が語られている。("Torn Apart- The Life of Ian Curtis")
4月4日
 ロンドンで行われたステージで大発作が起きる。(第11章)(この時ステージ上で起こった発作がすべての終わりだったと、のちにバーナード・サムナーは語っている。(『Preston 28 Feburary 1980』ライナー・ノート))
4月7日
 フェノバルビトンを大量に飲み、自殺未遂。入院。(第11章)
4月8日
 病院からギグに直行。2曲だけ歌ってステージから下がると観客が怒り、暴動が起こる。この後、自宅には戻らずトニー・ウィルソン夫妻と同居。(第11章)
5月2日
 最後のライブとなったバーミンガム大学でのギグ。(第12章)
5月6日
 精神科医の診察を受ける。問題なし、「人と歩調を合わせ人生を全うし、未来を期待する男性」と診断される。(第12章)
5月18日未明
 自殺。(第12章)

 イアンの病気の深刻さは、ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』でもメンバーや関係者の証言から窺い知ることができますが、彼自身の苦悩が率直に語られているのが、"Torn Apart- The Life of Ian Curtis"に収録されているアニック・オノレ宛の書簡です。 

Glass――日常生活での摩滅(3)

2010-09-08 19:42:32 | 日記
 イアンがデボラとつきあい始めたのは1972年、16歳の夏でした。17歳のバレンタインデーには、デボラにこんな詩を贈っています。

I wish I were a Warhol silk screen    僕がウォーホルのシルクスクリーンだったらなあ
Hanging on the wall             壁に架かっている
Or little Joe or matbe Lou        あるいはリトル・ジョーでも、ルーでもいい
I'd love to be them all           彼らのすべてでありたい
All New York city's broken hearts    ニューヨーク中の失恋と
And secrets would be mine        秘密はいつも僕のもの
I'd put you on a movie reel        君を映画に出してあげよう
And that would be just fine        そうすればちょっといいんじゃない

 「他の男がいる時と私たち二人きりでいる時のイアンの態度には大きな隔たりがあった。彼は私を連れて田舎道を歩くのが好きだった。孤独と静寂が彼を幸福にしているようで、またそういう時の彼が一番魅力的で愛情が溢れているように感じられた。」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)とデボラが書いているような幸せな二人の関係は、いかに変わってしまったのでしょうか。『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』から目に付くところを抜粋してみます。

 若くて頑固だった私たちは、周りの人たちの鼻を明かしてやろうと決心した。つまり、早々に離婚するのではないかと予想していた人たちに見る目のなさを思い知らせてやろうと思っていたのだ。  (第3章 p.46)

 実務的なことにイアンは弱かったので、代わりに私が“介護人”の役割を果たした。家計は私が管理した。  (第3章 p.51)

 結婚生活が期待していたほど心地よいものではないと分かるのにあまり長くかからなかった。社会生活をするのに余分なお金はほとんどなかったし、光熱費を最小限に抑えておくためには居間しか暖房はつけられなかった。  (第3章 p.51)

 夜は創作するために“青の部屋”に(イアンは)閉じこもった。中断されるのは、マルボロの煙が渦巻くその部屋に私がコーヒーを運び入れる時だけだ。こうした状態を私は気にしていなかった。むしろ必要不可欠なプロジェクトのようなものと私たちは捉えていた。彼の仕事の中身を詳しく調べもせず、彼の作る歌はスーパーなものになるに違いないと、私は疑っていなかった。  (第4章 p.62)

 私はどうしても、イアンが実用的なことに一切関心がない、ということが理解できなかった。料理はやりながら覚えていくものだが、それと同じように、イアンもいわゆる男性がやるべきことを徐々にやっていくのだろうと勝手に思い込んでいた。  (第5章 p.71)

 私は常にイアンの健康状態に責任をもって対処してきたが、娘を授かってからはごく自然な感じで、彼にも娘を生活の中心に置いてほしいと期待した。  (第8章 p.97)

 彼はステージ生活から家庭生活へとはうまく切り替えられなかった。私はどんな時でも彼の面倒を見ることができたのに。彼が学生の時から側にいたのに、バンド内の友情を乱すおべっか使いとしてしか私のことを見てくれなくなった。  (第8章 p.101)

 初のアポロでのギグの前日、私はベビーバスに入れるために運んでいる時階段を踏み外して転んだ。翌日、やけどをした足に包帯を巻いて母に買ってもらった服を着て、アポロの楽屋に座っていた。私はその狭い楽屋の斜めの方から夫の愛人にじろじろ見られているのに全く気がつかないでいた。ごく自然な感じでイアンは素早くその楽屋から私を移動させた。  (第9章 p.115)

 夜、仕事に出かけている間は、母が赤ん坊の面倒を見てくれると言ってくれた。……仕事はとても疲れた。朝早くから娘の世話をして、夜働き、遅くに帰宅して、その後にイアンが帰ってくるのを待つ。彼が安全にベッドで休むのを確かめるまでが仕事だ。  (第9章 p.117)

 イアンは、私が彼の人生をいかに不幸にしているかを仲間に話すのがお決まりになっていたというし、ピーター・フックが私に語ったことによると、礼儀知らずのイメージが伝わっていたらしい。私たちの結婚生活は破綻し、彼は私に話をしなくなった。  (第9章 p.120)

 『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』を、デボラの側からの一方的な、一面的な記述だと批判するのは容易いことでしょう。これは、あくまでもデボラの立場から見た出来事です。そこには、貧しい中で夫の愛を信じ、一生懸命支えていたのに、夫を奪われてしまった彼女の悲しみと怒りが表れています。
 もちろん、イアンは彼女の気持ちに無関心だった訳ではないと思います。デボラがいかに自分の人生を不幸にしているか、仲間に話していたのは、彼女への仕打ちに対する後ろめたさもあったからではないでしょうか。そして、自分なりにデボラとの距離について思い悩み、「Glass」や前回列挙したような詩が書かれたのではないでしょうか。
 デボラが「彼の人生をいかに不幸にしているか」、イアンから繰り返し聞かされていたはずのバーナド・サムナーは、『ロッキング・オン』2008年4月号に収録されているインタビューで、デボラについてこう語っています。

 彼女は彼女のアングルからイアンを見ていて、僕らは反対側からイアンを見ていたわけ。でももちろん僕らは、デビーのことも、イアンを通してのみ見ていたわけだ。だからこの映画のおかげで僕は彼女の苦しみを、より良い観点から理解することができた。夫を失った彼女の苦しみがよくわかったんだよ。それまで僕が彼女に対して抱いていた印象は、愚痴っぽくていつもイアンにつきまとう奥さんというものだったけどね。イアンはよく、「彼女はまた僕に腹を立てている」と言っていたし、そんなときあいつはとても不機嫌で不幸せに見えたから。

 バーナードが言うように、どんな観点から見るかでその人の立場への理解は変わってきます。しかし、後年、ある程度客観視できるようになってからならともかく、当事者として事態に直面している間は、相手を思いやる余裕もなく、自分の立場でしか対象を見られません。そんな時に生じる、どうしても埋められない溝――「The gaps are enormous」(「I Remember Nothing」)という関係から生じる摩擦がいかに「心をくじく」かを訴えたのが、「Glass」ではないかと思います。そしてそれは、夫婦間に限らず、友人同士、同僚同士、または自分と世間との間、などというように、あらゆる関係において言えることだと思います。加えてイアンの場合は、「Digital」に表現されたような、アーティストとしての特殊な心理状態と日常生活とのギャップという問題がありました。「Digital」と「Glass」がセットであること、それは、イアンの詩と生活を図らずも象徴しているのではないかと思います。彼はデモーニッシュな詩魂に耽溺するタイプの詩人ではなく、日常生活をごく普通の人間として生きていました。芸術家の中には、芸術に没頭するあまり、日常での不道徳に無頓着な人もいます。しかし、イアンの場合はそうではなく、日常での他者への接し方について、いろいろと考えていたようです。結果的に彼は妻や子どもだけではなく、バンドのメンバーや恋人、彼を愛した全ての人々を失望させることになりましたが、そこに至るまでに「何度でもやり直そう」(「Glass」)としていたのではないでしょうか。
 自分と他者、または自分と世界との関係に、安易な妥協を許さないというのは、若さゆえの生真面目さでもあります。しかし、ガラスが砕けるようにくじけやすい「young hearts」を歌った「Glass」からたった1年もたたないうちに発表された『Unknown Pleasures』では、「だけど憶えているよ、僕らが若かった頃を」(「Insight」)と、「あたかも若い時を終えてしまったように年寄りじみて言」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)うのです。「Glass」にみられた若者の焦燥感は、全てを諦めてしまったような絶望へと変化していきます。この間イアンに起こった様々な変化の中で、最も劇的で深刻だと考えられるのは、癲癇の発病です。『Unknown Pleasures』の詩について考える前に、癲癇の発病についてまとめてみたいと思います。

Glass――日常生活での摩滅(2)

2010-09-01 21:57:38 | 日記
 ドイツ第三帝国をテーマとし、観念的な内容のデビュー作、『An Ideal For Living』以後、イアン・カーティスの詩は「Glass」のように、実生活に即したものとなっていきます。詩と人生が重なっていくようで、しだいに切実さが増していきます。
 そんな中で、とくに家庭生活や妻との関係を反映しているのではないか、と思われる詩がいくつかあります。抜粋して年代順に並べてみます。

・「Insight」」(1st Album『Unknown Pleasures』)1979年
Tears of sadness for you,          君を思って流した悲しみの涙
More upheaval for you,           君のためにもっと激変しなくては
Reflects a moment in time,         やがてある瞬間をもたらす
A special moment in time,          ある特別な瞬間を
Yeah we wasted our time,          そう、僕たちは時間を無駄にした
We didn't really have time,         本当に時間が無かった
But we remember when we were young. だけど僕たちは若かった時のことを憶えている

・「New Dawn Fades」」(1st Album『Unknown Pleasures』)1979年
A chance to watch, admire the distance, 見つめるチャンスだ、その距離に驚嘆する
Still occupied, though you forget.      まだ心の中を占めていたんだ、君は忘れているけど
Different colours, different shapes,    様々な色、様々な影、
Over each mistakes were made.      互いの過ちというだけでは済まない。
I took the blame.                その責めを僕が負った。
Directionless so plain to see,        わかりあうために進むべき道がないことは確か
A loaded gun won't set you free.      弾丸を込めた銃では君は自由になれない。
So you say.                   そう、君が言うように。

・「Candidate」(1st Album『Unknown Pleasures』)1979年
Please keep your distance,         お願いだから少し離れてくれないか
The trail leads to here,            これまでやってきた足跡
There's blood on your fingers,       君の指には血が
Brought on by fear.              恐怖によってもたらされた

I campaigned for nothing,          僕は何も訴えなかった
I worked hard for this,            一生懸命働いた
I tried to get to you,             君にわかってもらおうとして
You treat me like this.           君は僕をこんなふうに扱っているけど

・「I Remember Nothing 」(1st Album『Unknown Pleasures』)1979年
Me in my own world, yeah you there beside,     僕は自分の世界に閉じこもっている、そう、君はその側にいる、
The gaps are enormous, We stare from each side. 二人の溝は大きい、僕たちは両側からその溝を見つめている。
We were strangers, for way too long.         僕らはあまりに長すぎる間、他人だった。

・「Colony」(2nd Album『Closer』)1980年
No family life,                 家庭生活などいらない、
this makes me feel uneasy,        僕に不安を感じさせるだけ

・「Love Will Tear Us Apart」(死の直後に発売されたシングル)1980年
Why is the bedroom so cold        なぜ寝室はこんなに寒いのか
You`ve turned away on your side.     君は背を向けて眠る 
Is my timing that flawed?          僕のせいでひびが入り
Our respect run so dry.           尊敬し合う心も乾くけど
Yet there's still this appeal that      まだ惹かれているから
We've kept through our lives        僕たちは共に暮らしている

こうした詩について、デボラは次のように書いています。

 最初私は『アンノウン・プレジャーズ』が好きではなかった。それは、バンドの“堅固な輪”から徐々に閉め出されたことに嫉妬していたからかも知れない。あるいは病的な葬送歌とも言えるこのアルバムを心から心配していたからかも知れない。……彼は私が妊娠している間、過度に優しくしてくれたが、同時にこれらの詩を書いていたのだった。「だけど憶えているよ、僕らが若かった頃を」と、イアンはあたかも若い時を終えてしまったように年寄りじみて言った。私は「ニュー・ドーン・フェイズ」の歌詞をあれこれ考えた末に、イアンの前でその意味するところについて切り出した。つまり、これは歌の歌詞に過ぎず、彼の本当の気持ちではないことを確かめたかったのだ。しかし、この会話は一方通行に終わり、私が話題にしたことに肯定も否定もせず、彼は外へ出ていった。
(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)

 詩がすべて本心の吐露という訳ではないと思いますが、彼の詩には「心の距離」が隔たっていくことについての心情の機微が、繊細に語られているようです。そしてそれは、デボラが淡々と記す結婚生活の破綻と、歩調をあわせているようにみえます。
 「Glass」では、「若い心がくじかれる」と歌っていますが、「Insight」では、デボラが言うように、「だけど憶えているよ、僕らが若かった頃を」と、「あたかも若い時を終えてしまったように年寄りじみて言」っています。「もう一度やろう」(「Glass」)という意志は、徐々に諦め、絶望へと変わっていきます。1stアルバムの『アンノウン・プレジャーズ』は、家庭生活と関係があるような私小説的なものが多く、妻との関係、その距離感について掘り下げられているような印象を受けます。しかし、2ndアルバムの『クローサー』では、その距離感は自分と周囲全て、世界との軋轢にまでなってしまっているように思います。
 これら妻との関係を描いたと思しき詩が、単なる生活の愚痴に終わっていないのは、一人の人間との関係を、突き詰めて考察しているところにあると思います。このギャップが何故生じ、何故埋まらないのか。そこで生じる苦しみは、人間関係の根本的で普遍的な問題について、示唆しているように感じます。デボラとの関係は、イアンにとって単に結婚生活の破綻というだけではない、もっと深刻な、他人との関わり方についての問題として、彼の人生にのしかかってきたのではないかと思います。イアンが抱いた孤独と絶望が何かということを考えるときにも、重要な意味を持ってくると考えます。