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ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【病理医と病気】難波先生より

2018-10-24 15:02:51 | 難波紘二先生
【病理医と病気】
 友人の若い病理医に二人、病気を抱えている人がいる。

 一人は病院のひとり病理医で、私と同様に近見視力(20〜40cm)を使っている間は異常がないが、それより遠方を見ると「複視」が出るという。聞けばPCの18インチ・モニター画面は眼から40cmの位置にあるそうだ。つまり横幅約37cmの画面を、40cmの位置で凝視することになる。
 これだと凝視角度は70度程度になり、眼球の内転、外転は不必要だ。 この眼角での凝視と、顕微鏡(鏡筒長約20cm)を使いすぎると、眼球の筋性疲労が起きる。遠方を見る時には、左右の視線がほぼ平行でないと、複視が生じる。もし両眼の外転筋が同じように収縮し、同時に内転筋が弛緩しないと、左右複視が生じる。
 上下複視も生じるようだと、眼球の回旋筋の機能異常もからんでいる。

 私は眼精疲労と複視の原因が、机上に縦に配列したノートパソコン、Air Macの22インチ・モニターにあることに気づいたので、Mac-Miniにつないだもう一台の18インチ液晶モニターを机(6人用の食卓)の左端に配置した。両モニターのなす角度は120度になる。両方を同時に使うと、首を左右に動かし、同時に画面の高さが違うので、目線も上下させることになる。

11月の中旬に私の弟子みたいな高校教師が、泊まりがけで仕事場の整理に来てくれるので、映画観賞用の28インチ・モニターは机の右端に起き、机上で同時に4台のパソコンが使える環境に組み直す予定だ。
これだと首をほぼ180度回転させながら作業できるので、首の筋肉の凝りと外眼筋の凝り(従って複視)を防げるだろう。

 もう一人はある私大教授(前記の小島君)で、昨年秋、大腸がんが見つかり、手術したがすぐに肝転移が見つかった。大学も最善の治療法を実施したのだが、肝機能が落ち(γGTPが600=基準80以下)、抗がん剤投与は不可能になり、終末ケア病棟に移った。病院の1階に教授室があるのだが、もうPCのメールを読みに下りて行く気力もないという。
 前は夜8時頃、焼酎で酔っぱらって、私に電話をかけて来ていたのだが、今はこちらから電話している。意気消沈していて、少し意識混濁もある。

 最近読んだ良い新書数冊を送り、読んで感動した箇所に鉛筆で線を引き、ノートに転記して自分のコメントを書くように忠言した。
専門書を書く時間は残されていないと思うので、せめて「ミーム」を残してくれ、という意味だ。
 本庶佑さんの免疫チェック・ポイント阻害剤に関する本を2冊読んだが、終末期大腸がんに著功があったという例が紹介されており、まだ一縷の望みは残されている。
 抗がん剤と違い、肝転移があっても使えるのが利点だ。
(残念にも、この教授小島勝君は10/21(日)の早朝、「進行性大腸がん+多発性臓器転移+肝不全」のため亡くなった。
主治医から「余命3ヶ月」と告げられ、「緩和ケア」病棟に移った。そして余命宣告通りに亡くなった。死亡1週間前から「肝性昏睡」が始まり、意識が消失したので、苦しむことはなかった。21日、彼のケータイに電話したら、奥さんが出て来て、遺体が午前中に自宅に戻ったことを知った。)

 2000年の「旧石器遺跡捏造事件」では、最初にネットで告発した長野県小諸市の角張淳一さんは、糖尿病があるのにワインや焼酎を飲んで、やはり夜8時頃、電話をよくかけて来た。ところがある朝、寝床のなかで亡くなっているのが見つかった。
幸い考古学研究会社「アルカ」は奥さんが社長を嗣ぎ、同じく考古学者竹岡俊樹さんの指導もあり、現在も活動している。
角張さんは1960年生まれで、國學院大の博士課程(史学考古学)を終了している。「博士号を取りなさい」と指導し、本人もその気で準備していたのだが、間に合わなかった。

彼はミームとして『旧石器捏造事件の研究』(鳥影社、2010/5)を残した。これには、2001/6に私が日本考古学会総会で行った「ナウマンゾウの脂肪酸が検出されたという報告が科学的に間違いだ」という発表全文(P.122〜130)やネット掲示板での意見なども収録されている。

 またこの捏造事件に関連して、奥野正男さんの『神々の汚れた手』(梓書院, 2004/6)が出版され、「毎日出版文化賞」を受賞した。これには考古学会総会での私・岡安光彦・角張淳一連名での学会発表演題の抄録が含まれている。奥野さんのこの本も重要なミームである。奥野さんは律儀な人で私を「毎日出版文化賞」の受賞式に招待してくれた。
 聞けば「元北海道の炭坑労組の専従で、後に九州の三井三池炭坑の専従になり、邪馬台国への関心から考古学の研究に入った」そうだ。初めは小説を書いていたというから、谷川雁、森崎和江、石牟礼道子、渡辺京二とも面識がある人だな、と思った。

 この事件でがた落ちになった日本考古学への信頼は、今でも回復していない。それは学会調査委員会が、世間体上、批判派を調査委員に含めながら(竹岡、角張、奥野など)、実際の再調査現場からは彼らを排除したからである。事件の最大の責任者である元文科省の岡村道雄には何の責任追及もなかった。
 これはいわば考古学における「和田心臓移植」事件である。

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