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ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【オスラー卿】難波先生より

2014-01-08 12:31:39 | 糖質制限食・ケトン食
【オスラー卿】英語による医学史の名著にGarrison 「History of Medicine」、病理学史の名著にLong「History of Pathology」がある。後者は拙訳が西村書店から出ているが、前書は邦訳がないように思う。
 ロングは「A History of American Pathology(アメリカ病理学史)」(1962)という名著も書いている。これは原本の入手が困難で、私が持っているのは出版社から入手した「フォトコピー版」である。
 ギャリソンは執筆時(1929)、米陸軍軍医部所属の軍医中佐だった。アメリカの森鷗外みたいな人物である。


 「糖質制限食」の源流がウィリアム・オスラーの「インスリンなしの糖尿病食レシピ」にあることを知り、いまオスラーについて調べている。手元にオスラーの「平静の心」(医学書院, 1983)という講演集がある。訳者は日野原重明と仁木久恵。出た時に日野原先生から恵与を受けたので、そのサイン入りである。「平静の心」(1889)から最後の講演「古き人文学と新しき科学」(1919)まで、彼が行った18の講演が収録されている。


 1889年の講演はペンシルヴァニア大学教授に招聘されて、母国カナダ・マッギル大学を去る時に教職員と学生を対象におこなった講演。1919年のものは、オックスフォード大学欽定講座(国王が勅任する)の教授の時に、「英国古典協会」会長就任するにあたり行った講演で、半年かけて準備したもの。その死の1年前のものだ。


 訳文がやや生硬だが、内容はすばらしい。オスラーの教養の広さと深さ、明晰なものの考え方と人文学と科学を癒合させようとする思想がよくわかるし、医学教育におけるベッドサイド・ティーチングの重視、教授人事にあたっては論文の数よりも臨床家としての技量を第一に評価すべしという方針など、いずれもまさに今日的である。


 大学病院の診療レベルが落ち、三次救急だのドクターヘリだの、こちらから願い下げたい現状を知るにつれ、敬服の念を抱くほかない。


 この「オスラー講演集」(1932)は、日野原先生が1945年にGHQのバワーズ軍医が戦線に携行していたものを、ゆずり受けたものだそうだ。それ以来愛読し、オスラー関係の資料も集め、ほぼ40年後に邦訳されたというわけだ。


 元西ドイツ首相カール・シュミット氏の英語講演を広島大学講堂で聞いた際に、同氏がちゃんと草稿を用意した上で、棒読みでなく原稿を見ずに、雄弁な講演をされたのに驚いたが、それが当たり前らしい。恩師の飯島先生は、小学校での講演にもちゃんと草稿を用意されていたということを、遺品整理にあたったI君から聞いて、さすが偉い人はちがう、と思ったことがある。


 そこでギャリソンの本を開いて驚いた、「オスラー卿」は索引に28箇所出ている。うち3頁が連続で書いてある。


 「彼の教科書『内科学の原理と実地』(1892年初版、1920年第9版)は、この分野で、現代における最良の教科書である。彼の随筆や他の著作は医学史について、もっとも貢献している魅力あるものだ。…その死を迎えた時、オスラーは、言葉の本当の意味において、我らの時代のもっとも偉大な医師となっていた。オスラーは天により選ばれし人だった。…」
 という具合で、ギャリソンはオスラーを絶賛している。(p.631)
 この「天」はGodでもHeavenでもなく「Nature」を私が意訳したものだ。


ロングの著書でも索引に18箇所言及があり、うち4頁に連続記載がある。彼はギャリソンよりも多くのページを割いている。それによると、
 母校マッギル大学の教授に25歳で就任、10年後にアメリカ・フィラデルフィア大学病理学教授に招聘され、その活躍は伝説となったとロングはいう。


 すでにオスラーはマッギル大学を卒業後、志願してモントリオール総合病院の病理医となり、病理解剖を臨床医の片手間仕事ではなく、独立した専門領域として確立するのに貢献した。同時に「モントリオール総合病院病理報告」を刊行し、これはカナダ医学の古典となっている。


 ペンシルヴァニア大学はオスラーを招聘するにあたり、フィラデルフィア総合病院の病理解剖を彼の自由にさせるという条件を付けた。自分の無知が恥ずかしいのだが、オスラーは英国に留学して血液学の研究をし、血小板が凝集することを発見している。これを当時は「オスラー現象」と呼んだそうだ。


 さらに「真性多血症」をフランスのヴァケーとほぼ同時に発見している。これは赤血球のがんであり、「オスラー=ヴァケー病」とも呼ばれている。マラリアの血液やフィラリア症の血液も研究しており、「血液病理学」の先駆者のひとりである。フィラリア糸状虫に、彼の名がついたものがあるという。


 1889年にオスラーはジョンズ・ホプキンス大学の内科教授に招聘され、そこに大学病院を創設した。ペンシルヴァニア大学の後任病理学教授がサイモン・フレキシナーで、その弟のアブラハムが「カーネギー財団」に入り、アメリカの医学教育レベルを向上させるための「フレキシナー報告」(1910)をまとめた。これで「医科大学基準協会」が自主的に医学部のクオリティ・コントロールを行うようになり、アメリカ医学の水準が飛躍的に向上し、海外留学の必要性がなくなった。


 まあ、このあたりまで調べると、20世紀初めにおけるアメリカ医学の動向と水準、人脈の関係がおよそわかったが、肝腎の「オスラー食」についてはまだわからない。オスラーの「内科書」を入手するのもひとつの手だが、蔵書にある40年前の「セシル=レーブ内科書」をまず読んでみることにしよう。


 オスラーが医師の必読教養書にあげている、オリヴァー・ウェンデル・ホームズの「朝食卓上のワンマン(autocrat of the breakfast table)」という本は、キンドルから無料でダウンロードできた。


 「なべて経済的、実用的な常識というものは、2+2=4という数式の拡張または変形である。哲学的命題というものは、すべてa+b=cというふうに、より一般的な性格をもっている。人はみな、数字の代わりに記号で考えることを学ぶまでは、単に機会主義者で、経験論者で、利己主義者である。」
 てな具合で、なかなか読ませる、含蓄のある文章が並んでいる。


 このOliver Wendell Holmesという人物は同姓同名が二人いる。
 「朝食卓上のワンマン」は1809~1894年に生きた、ハヴァード大医学部教授で、文筆家としても有名だったホームズの著書。
 その息子(1841~1935)が同姓同名で、ハーヴァード大の法学部教授から、連邦最高裁の判事になった。「コモンロー」という名著がある。
 日本の法学者が書いた本でも、医学者が書いた本でも、OWHが二人いることを知らずに書いている人が多く、読んでいて混乱することが多い。

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