【書評】エフロブ「買いたい新書」の書評に、仲野徹「なかのとおる の 生命科学者の伝記を読む」(秀潤社)を取りあげました。著者は阪大医学部「幹細胞病理学」講座の教授です。
http://www.frob.co.jp/kaitaishinsho/book_review.php?id=1353733288
教室のHPに本人のブログがあり、この本についても一文があります。どうして帯に内田樹の推薦文があるのか不思議でしたが、これを読んで納得。
この本も今年8月に2刷りが出ていますから、立派です。
http://www.fbs.osaka-u.ac.jp/labs/nakano/essay_003.html
病理医にも、浅野先生のように教科書を書く人から、最近、一般向け本を書いた堤先生、
http://www.amazon.co.jp/dp/4864870446/ref=pe_2102_41429032_snp_dt1
次々と「海堂尊」名でヒット作を出している人まで、多士済々の若い世代が育った来たと思います。
この分では、病理医を主人公にしたテレビドラマが出現する日も遠くないかも知れません。
テレビドラマといえば昨9日の夜初めて「平清盛」を録画で見ました。高松のI先生が欠かさず見ている番組です。
驚いたのは、
1)画面が汚いこと、撮影技術がヘタで、ロングショットと超クローズアップの積み重ねが主体のため、場面に没入できないこと、このために違和感を持ちながら見ざるをえなかった。
2)考証がなっておらず、人物が泣く場面(これも超アップで写される)で、涙が下瞼の中央から溢れてくる。これは「目薬を使ったな」とすぐにわかる。
涙は涙腺から出た涙液が、内眼角の鼻涙管が収縮するか、その排出能力を超えるためにオーバーフローしてこぼれるのであり、内眼角から溢れ始めます。
美空ひばりが「悲しい酒」を歌う場面をビデオでみれば、明らかです。
かつて八代亜紀がひばりのこの場面を評して、「プロなら涙を流すのは誰でもできる。しかし泣いたら声が鼻にかかる。ひばりさんの歌は泣いても鼻にかからない。これだけは誰もまねができない」と述べたことがあります。
3)福原の都で、宮中のシーンに陶淵明「帰去来の辞」を吟じる場面が出てくるが、違和感を覚えた。
陶淵明は5世紀初めの詩人だから、その詩が平安時代に愛されていたとしても、年代的には不審はない。しかし「詩吟」という芸能がすでにこの頃にあったのだろうか?
それと「中国名詩選」(岩波文庫)を見れば明らかなように、「帰去来の辞」は冒頭2行が7言、以下9行が6言であり、頭韻も脚韻も踏んでおらず、「漢詩」ではない。有名な「帰りなんいざ、田園まさに荒れなんとす、なんぞ帰らざる」という冒頭の句は、はっきりとした故郷があって、勤め人の生活に絶望した場合には(陶淵明のように)相応しいが、清盛は伊勢平氏の出で、父忠盛、祖父正盛の本願地は伊賀の山田・鞆田である。
忠盛は斜視(すが目)があり、「伊勢の瓶子(へいし=平氏)は素瓶(すがめ)でござる」と宮廷の貴族たちにからかわれていた。
西国の所領は、忠盛と清盛の代に付与されたもので、「父祖の地」というにはちと抵抗がある。
NHKの「コマーシャル」で次の日曜日の「清盛」が「幻の都」とあったので、てっきり二位の尼が「海の中にも都が御座候」と安徳帝を抱えて入水する、「壇ノ浦」の話かと思って録画しておいたのだが、勘違いであった。
受信料を払っているのだから、もう少し面白いドラマを作ってもらいたいと思う。
http://www.frob.co.jp/kaitaishinsho/book_review.php?id=1353733288
教室のHPに本人のブログがあり、この本についても一文があります。どうして帯に内田樹の推薦文があるのか不思議でしたが、これを読んで納得。
この本も今年8月に2刷りが出ていますから、立派です。
http://www.fbs.osaka-u.ac.jp/labs/nakano/essay_003.html
病理医にも、浅野先生のように教科書を書く人から、最近、一般向け本を書いた堤先生、
http://www.amazon.co.jp/dp/4864870446/ref=pe_2102_41429032_snp_dt1
次々と「海堂尊」名でヒット作を出している人まで、多士済々の若い世代が育った来たと思います。
この分では、病理医を主人公にしたテレビドラマが出現する日も遠くないかも知れません。
テレビドラマといえば昨9日の夜初めて「平清盛」を録画で見ました。高松のI先生が欠かさず見ている番組です。
驚いたのは、
1)画面が汚いこと、撮影技術がヘタで、ロングショットと超クローズアップの積み重ねが主体のため、場面に没入できないこと、このために違和感を持ちながら見ざるをえなかった。
2)考証がなっておらず、人物が泣く場面(これも超アップで写される)で、涙が下瞼の中央から溢れてくる。これは「目薬を使ったな」とすぐにわかる。
涙は涙腺から出た涙液が、内眼角の鼻涙管が収縮するか、その排出能力を超えるためにオーバーフローしてこぼれるのであり、内眼角から溢れ始めます。
美空ひばりが「悲しい酒」を歌う場面をビデオでみれば、明らかです。
かつて八代亜紀がひばりのこの場面を評して、「プロなら涙を流すのは誰でもできる。しかし泣いたら声が鼻にかかる。ひばりさんの歌は泣いても鼻にかからない。これだけは誰もまねができない」と述べたことがあります。
3)福原の都で、宮中のシーンに陶淵明「帰去来の辞」を吟じる場面が出てくるが、違和感を覚えた。
陶淵明は5世紀初めの詩人だから、その詩が平安時代に愛されていたとしても、年代的には不審はない。しかし「詩吟」という芸能がすでにこの頃にあったのだろうか?
それと「中国名詩選」(岩波文庫)を見れば明らかなように、「帰去来の辞」は冒頭2行が7言、以下9行が6言であり、頭韻も脚韻も踏んでおらず、「漢詩」ではない。有名な「帰りなんいざ、田園まさに荒れなんとす、なんぞ帰らざる」という冒頭の句は、はっきりとした故郷があって、勤め人の生活に絶望した場合には(陶淵明のように)相応しいが、清盛は伊勢平氏の出で、父忠盛、祖父正盛の本願地は伊賀の山田・鞆田である。
忠盛は斜視(すが目)があり、「伊勢の瓶子(へいし=平氏)は素瓶(すがめ)でござる」と宮廷の貴族たちにからかわれていた。
西国の所領は、忠盛と清盛の代に付与されたもので、「父祖の地」というにはちと抵抗がある。
NHKの「コマーシャル」で次の日曜日の「清盛」が「幻の都」とあったので、てっきり二位の尼が「海の中にも都が御座候」と安徳帝を抱えて入水する、「壇ノ浦」の話かと思って録画しておいたのだが、勘違いであった。
受信料を払っているのだから、もう少し面白いドラマを作ってもらいたいと思う。
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