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ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【軍命令】難波先生より

2013-10-25 12:48:35 | 難波紘二先生
【軍命令】
 1) 先日の「元慰安婦聞き取り調査」についての産経スクープを10/23「産経」コラム「正論」で秦郁彦が論じている。
 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131023/plc13102303250002-n1.htm
 日韓基本条約で過去の問題は、韓国側、日本側(日本人の資産など)ともに請求権を放棄することが決まっていたのに、「寝た子を起こした人たち」がいるという指摘だ。


 1991年12月に吉見義明教授が発見し、鬼の首を取ったように「朝日」記者に示した原資料がこれだ。(添付1)
 Cf. 吉見義明:「従軍慰安婦」, 岩波新書, 1995, p.13
 現代文に直すとこうある。


 「陸支密第745号、件名:軍慰安所従業婦等募集に関する件  
 副官より北支方面軍及び中支派遣軍 参謀長宛通牒案
 支那事変地における慰安所設置のため、内地において、これの従業婦等を募集するにあたり、みだりに軍部了解等の名義を利用し、このため軍の威信を傷つけ、また一般民の誤解を招く恐れがあるもの、あるいは従軍記者、慰問者等を介して不統制に募集し、社会問題を惹起する恐れあるもの、あるいは募集に任ずる者の人選に適切を欠き、このため募集の方法が誘拐に類し、警察当局に検挙取り調べを受ける者もあるなど、注意を要するものが少なくないことについては、将来これらの募集等に際しては、派遣軍において統制しこれに任ずる人物の選定を周到適切にし、その実施にあたっては、関係地方の憲兵及び警察当局と連携を密にし、もって軍の威信保持上、ここに遺漏ないように配慮相成りたく、命により通牒する。
 陸支密第745号 昭和13年3月4日」


 この文書の不審な点は、「今村均」の印はあるが、大臣印が「委任」になっており、事務次官印が読めず、他にも抹消された印影があること、発令番号と発令日が後に改ざんされたことが墨の色から読み取れることだ。
 これは通牒「案」で、その通りに通牒されたかどうか不明だが、内容は「支那事変に際して、軍の慰安所を設置するにあたり、<軍の名義>を勝手に利用して慰安婦の募集や誘拐に近い方法で募集している民間業者がいるので、人選と取り締まりを厳重にせよ。また新聞記者や慰問者に依頼してはならない。関係地方の憲兵隊、警察署との連携を密にし、軍の威信を傷つけないように考慮すべし」というもので、「強制連行」を命じたものではない。
 笑ってしまうのは当時の新聞記者の中には慰安婦の斡旋をしたものもいたという指摘だ。これはどの新聞も書かなかった。


 研究者に必要な資質は資料をじっくりと読み解き、真偽を見極めてその価値を判断することだ。1946年生まれ団塊の世代の吉見氏がこの「通牒案」の文意を正確に理解したどうかあやしい。


2) 同じような間違いは、笠原十九司「南京事件」(岩波新書)p.73の掲載写真にも見られる。
 橋を渡ってこちら岸に移動する中国人婦人の列があり、先頭に銃を肩に担いだ日本兵がいる。
キャプションは「日本兵に拉致される江南地区の中国人女性たち。(出典:国民政府軍事委員会政治部編「日寇暴行実録」, 1938)」とある。
 つまり上記「陸支密案」と同じ年である。まともな研究者なら、「宣伝パンフレット」の可能性をまず否定しなければいけないが、笠原は「スタンフォード大フーバー研究所の図書館にあった」という理由で、すっかり中国側の説明文句を信じてしまった。
 この写真はもともと「アサヒグラフ」(1937)が掲載したもので、それには「日本兵に守られて女性が野良仕事からへ帰る」と説明が付いていた。この事実を笠原は秦郁彦から指摘され、後に自著「南京事件論争史」(平凡社新書)p.210-213で長々しい弁明を書いている。


 岩波書店は問題の写真を後の版では差し替えたらしいが、私は初版1刷りを持っているので、確かめることができる。このように写真という資料はしばしば別の目的にうまく利用されることがあるので、注意する必要がある。写真は本物でも、説明がauthenticでないことがある。


 3) 同じ昭和13年11月に作家の長谷川伸は、河南の「三竈島(さんそうとう)」という島にあった日本海軍の基地を訪問している。その記録は「生きている小説」(中公文庫)中の「事実残存抄」に収められている。1958年に発表されたものだ。
 ここには「慰安所」があり、それも将校用、下士官兵用、徴用工用と三箇所あったという。

 矢野という主計中佐が長谷川を案内して、募集方法、場所、料金、営業の実態について説明している。それを長谷川は丹念にメモしている。


 女の募集は台湾の高雄か基隆で軍と契約した業者がやる。応募する女の前借金は多いもので1,200円、少ないもので500円。
 料金は将校用で5円、それ以外は2円均一。営業時間は夕食時から午後10時まで。
 女は初め将校用を希望するが、実入りが少ないのですぐに下士官兵用に鞍替えする。
 兵隊の情が移ってはいけないので、女には番号をつけ、それで指名するようになっているが、兵隊の方が番号を愛称に(例えば23番を「フミさん」というがごとく)変えてしまうので、意味がない、などとディテールが書かれている。また、台湾人や朝鮮人がいたとは書いてない。
 (驚くのは慰安婦の料金が高いことである。1929年の統計で少し古いが、東京新橋の1等芸者の玉代が2時間6円60銭=月収で100円程度、1938年の小学校教師初任給が45~55円である。)


 上記「陸支密」の「募集の方法が誘拐に類し」に関連して、モーパッサンの「脂肪の塊」を凌ぐ傑作短編になったはず(長谷川伸が小説にしていれば)、と思われるエピソードも書かれている。
 
 台湾から連れてこられた3人の女を軍医が検査したところ、意外にもひとり20歳になる娘は処女だった。昼食前、軍医が矢野主計中佐のところへ来てこういった。
 「今朝診た女の中に処女が1人いる。俺の良心に問うたら、良心は処女であることを知っているのはお前だけだ、お前が助けないで誰が助けるか、と答えた。しかし俺の今月分の給料では到底足らぬらしい。こういう時にはどうしたらよいか、相談に乗ってくれ。」
 主計中佐は引き受けると、将校食堂での昼食時に、軍医が説明した後、将校全員に呼びかけた。
 「諸君! 今朝、軍医が発見した娘を救出すべきか放置すべきか?」
 「救出せよ!」
 衆議が一決して、中佐の軍帽の中に800余円が集まった。軍医はその月の月給を全額拠出した。


 その後、矢野中佐は慰安所の責任者、運営者を司令部主計長室に呼び、娘解放の手続きを取ると共に生娘をこんなところに連れてくるとは「話に聞く誘拐」の嫌疑を受ける、と叱りつけている。(この箇所が「陸支密」が戒めている条項に該当する。)
 娘は無事解放され、生まれ故郷の台湾海南市に戻り、「知事の次の次くらい」の役人の女中として働いていたが、出入りの米屋の店員と恋仲になり婚約した。ところが相手の親に「慰安婦だった」と密告するものがあって、親が承知せず破談になった。
 主人夫婦の協力を得て、娘が矢野中佐に救援依頼の手紙を書いた。受け取った矢野中佐(詩人、詩集「遺書」で詩人賞受賞)がすぐに一切のいきさつを明らかにした手紙を送った。
 この手紙のおかげで娘は首尾良く、若者と結婚することが出来た。
 矢野は後、サイパン島で戦死した。


 いったい、長谷川伸という人は、「瞼の母」のような股旅物で有名だが、「日本俘虜志」、「相楽総三とその同志」というような非常に綿密な資料調べを必要とする小説も書いており、学歴はないが松本清張と並ぶ社会派作家である。清張は左だが、長谷川伸は右寄りだ。「日本俘虜志」は旧日本軍が捕虜に対して残虐な扱いをしたことを糾弾したものだ。
 韓国や一部の日本学者のいうような事実がもし彼に知れていたら、彼なら間違いなく告発の書を発表したはずだ。


 4) 先の【死刑】の項で触れなかったが、斬首刑で首が胴から離れるところを撮影した有名な写真が2枚ある。(どちらもマネスティエ「図説死刑全書」にある。)1枚は1938年頃撮影されたもので、制服制帽をつけた長靴の処刑人(兵士)が上半身裸の死刑囚を跪かせ、一刀のもとに首を水平に切断した瞬間。これは背景の建物や周囲の人物から、中国の大都市の大通りだと判定できる。刀も青竜刀だ。
 もう一枚は、ジャケットとワイシャツを着た死刑囚に上半身を前屈させ、首を斜め上下に切断し、落下する首が半回転して上向きになったところを撮影したもの。胴体の方からも、切られた首からも、血が滝のように噴き出している。
 処刑人は頭にターバンのようなものを巻いており、鼻がきわめて高い。また刀は鍔が棒状で青竜刀のように先端部に峰の肥厚部がない。全体として受ける感じは北アフリカのどこかの国のようだ。
 マネスティエはこの写真にキャプションを付けていないが、吉田八岑「ギロチン」は「青竜刀による斬首」と説明している。青竜刀なら中国になる。但し写真の出所の明示はない。たぶん別の本からの無断引用だろう。


 5) このところ「毎日」に「毎日ワンズ」という出版社の書籍広告が目立つ。
 10/22には辻正信「十五対一:運命の戦場」という本の広告が出ていてビックリした。彼の「潜行三千里」という本を見直したら、やはり毎日ワンズだった。
 「潜行三千里」には、参謀の辻正信が北ビルマの戦場からタイのバンコクへ、飛行機で脱出した後のことが書かれている。
  軍司令官の官舎の後に「大義神社」という神社があり、そこで1945年6月に「月例祭」が開かれた時の模様の大意。


  <招集された将校のなかに本職の神主がいて、正装して祝詞をあげる。
 両脇に右に将校、左に居留民代表が並んでいる。下士官、兵は鳥居の外に並ぶ。
 左の居留民の中に若い女たちがいて、前の将校に盛んにモーションをかけている。
 これは将校慰安所の女で、昼は偕行社(陸軍の倶楽部)の給仕で、夜は将校慰安所の女で、身分は軍属である。> とある。
 「軍属」というと、軍人に準ずる待遇で、新聞記者や技術者がこれに含まれていた。軍属はふつう日本人である。
 描写が具体的なのでウソではないだろう。これで見るかぎり「性奴隷」とはほど遠い。もっとも下士官、兵の慰安所については書いてない。


 1997年頃、シンガポール市内の大きな書店で、I. Ward:「The Killer They called God」, Media Masters, 1992 という辻正信の評伝を買った。辻は大本営作戦課の作戦参謀で、シンガポール占領後の「敵性華僑」6,000人殺害事件(人数は英軍検察官認定による)の口頭命令を出した男で、いまでもシンガポールでは恨まれている。


 この本の記載によると辻の手記は「潜行(Underground Escape)」として「サンデー毎日」に連載され、1950年8月に単行本となり大ベストセラーになったという。名前だけは私にも記憶がある。1950年6月に朝鮮戦争が始まった。当時はラジオも新聞も「戰争」といわず「朝鮮どうらん」と言った。小学校4年生くらいだったので「動乱」という言葉がわからず、昆虫採集で使う「胴乱」のことかと思ったのを記憶している。あの戦争で世の中の雰囲気ががらっと変わった。
 それもあって辻の本がベストセラーになったのだろう。「逆コース」という言葉も流行った。


 辻正信と服部卓四郎は「ノモンハン事件」の責任者で、以後、参謀本部の「南進政策」の推進者となった。二人ともまんまと生き残って、辻は代議士になり服部は自衛隊に入って「大東亜戦争全史」(原書房)を書いた。
 強制収容所に集められた華僑に対してシンガポール(昭南)特別市の更正科長篠崎護が、ちょうど杉原千畝がユダヤ人に「生命のビザ」発給したように、多数のパスを発行し数千人の華僑の生命を救ったことは、日本ではほとんど知られていない。
 「篠崎は、シンガポールで最もひろくかつ心から尊敬されている日本人である」
とウォードは書いている。(シンガポールで開かれた戦犯裁判の英国側主席検察官はF.W.Wardというので、著者の徹底した入れ込みようを見ると、その息子かもしれない。)

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