【訂正とお詫び:インディアナポリス】
★<Unknown (Unknown):2016-08-12 01:27
長くてしっかり読んでなかったけど、
「(東京に落とす予定だった三発目の原爆は、日本潜水艦の攻撃により、重巡洋艦もろとも南太平洋の海底に沈んだ。)」
これ、ホンマですか? 根拠はあるのか?
広島の原爆用のウラニウムをテニアンに運搬したインディアナポリス号はたしかに伊58によってレイテに回航中に撃沈されましたが、その際には原爆材料は積んでいなかった。
…
東京は、既に3月の大空襲他の数々の空襲で焼け野原になっていたため、効果の検証ができないため候補からはずされていた。また、戦後の支配に天皇制を用いることが検討されていたことも理由に挙げられる。>
申し訳ありません。「インディアナポリス」が撃沈された時に原爆を運んでいたというのは、私の記憶ちがいです。今回R.Rohdes「The Making of The Atomic Bomb」(Simon & Schuster, 1986)のpp.693-696を読みなおすと、テニアンにおける原爆の蓄積とインディアナポリス沈没の事情が書かれています。
それによると1945/7/27に米本土アルバカーキからB-29、3機により長﨑型原爆「ファットマン」3発が、テニアン基地に到着しています。
他方広島型原爆「リトルボーイ」をテニアンに運んだのは、重巡洋艦「インディアナポリス」で、7/26に原爆と弾薬を陸揚げした後にグアム島を経て、フィリピンに向けて単独航海をしている時に、7/29日本軍の「伊58」潜水艦の魚雷に攻撃されて沈没しています。
インディアナポリスが向かっていたフィリピンのレイテ島は、米軍が「九州上陸作戦」(11/1発動予定)の訓練基地としていた場所で、この作戦に原爆を使用する計画はありませんでした。
従って、問題の記述はまったく私の記憶ちがいによるものです。
この記憶ちがいがなぜ起こったかというと、子供の頃に読んだ「少年画報」に「伊号潜水艦が東京に落とす原爆を運んでいた重巡インディアナポリスを撃沈した」という感動的な絵入り物語が掲載されていて、この感動がつよかったために、その後に読んだ資料の記憶により「記憶の上書き」が、完全にはされていなかったことにあります。
ローズの記述によると、8/6に「リトルボーイ」が広島に投下され、8/9に「ファットマン」がナガサキに投下された後も、テニアン基地にはなお2発のプルトニウム型原発が備蓄されていたことになります。
本書p.696には「第一の投下目標、広島」が決定されたのは7/29で、米軍のスパッツ司令官からワシントンに宛てたテレックスが引用されています。
「戦争捕虜の調書によると、予定4目標(広島、長﨑、小倉、新潟)のうち、連合軍捕虜やその収容所がないのはヒロシマだけである。」このテレックスに対して、ワシントンからは第一目標をヒロシマとして承認する返事が送られています。
(このテレックスのやり取りは、森 重昭「原爆で死んだ米兵秘史」潮書房光人社 , 2016/7が明らかにした7/28の呉海軍港空襲により撃墜されたB-24爆撃機の搭乗員12名が、逮捕後に広島市の中国憲兵隊司令部に拘置されていたのを米軍は知らなかった、という事実とも整合しており、きわめて重要な資料と思います。)
原爆の投下目標として東京が考慮されていたことは、ローズ本のp.744に書かれています。
「8月10日、戦略空軍司令官スパッツはワシントンの統合幕僚本部のノルスタットに対して、第三の原爆を東京に投下することを無電で提案した」とあります。
三島由紀夫の日記が引用されていますが、「人びとは次の原爆は東京に来るだろうと話している。自分は白いシャツと半ズボン身につけ通りを歩いた。人びとは絶望の限界を通り過ぎて、日常の仕事をむしろ陽気な顔をしてこなしていた」とあります。
8/6ヒロシマ、8/9ナガサキに続いて、もし日本政府が「ポツダム宣言」を受諾しなければ、第三の原爆を8月18日頃に東京に落とす、という計画は米軍にあったし、その準備も進んでいた。日本でもある程度の情報通は、上記三島のように「次は東京だ」と覚悟していた。
同書には、8/13に米軍機から都内に播かれた「宣伝ビラ」により真相を知った侍従長が、軍部に秘密裏に天皇に情報を伝えたため、天皇が「ポツダム宣言受諾、無条件降伏」の腹をかためたと記述されています。(この辺の真相については、情報不足ですが、広島と長崎の原爆投下を知った天皇が、このまま抗戦すれば、皇居を含め日本全土が壊滅する、という危機感にとらわれた可能性は十分にありえると思います。)
以上「3発目の原爆」について、簡単にコメントしました。
★<Unknown (Unknown):2016-08-12 01:27
長くてしっかり読んでなかったけど、
「(東京に落とす予定だった三発目の原爆は、日本潜水艦の攻撃により、重巡洋艦もろとも南太平洋の海底に沈んだ。)」
これ、ホンマですか? 根拠はあるのか?
広島の原爆用のウラニウムをテニアンに運搬したインディアナポリス号はたしかに伊58によってレイテに回航中に撃沈されましたが、その際には原爆材料は積んでいなかった。
…
東京は、既に3月の大空襲他の数々の空襲で焼け野原になっていたため、効果の検証ができないため候補からはずされていた。また、戦後の支配に天皇制を用いることが検討されていたことも理由に挙げられる。>
申し訳ありません。「インディアナポリス」が撃沈された時に原爆を運んでいたというのは、私の記憶ちがいです。今回R.Rohdes「The Making of The Atomic Bomb」(Simon & Schuster, 1986)のpp.693-696を読みなおすと、テニアンにおける原爆の蓄積とインディアナポリス沈没の事情が書かれています。
それによると1945/7/27に米本土アルバカーキからB-29、3機により長﨑型原爆「ファットマン」3発が、テニアン基地に到着しています。
他方広島型原爆「リトルボーイ」をテニアンに運んだのは、重巡洋艦「インディアナポリス」で、7/26に原爆と弾薬を陸揚げした後にグアム島を経て、フィリピンに向けて単独航海をしている時に、7/29日本軍の「伊58」潜水艦の魚雷に攻撃されて沈没しています。
インディアナポリスが向かっていたフィリピンのレイテ島は、米軍が「九州上陸作戦」(11/1発動予定)の訓練基地としていた場所で、この作戦に原爆を使用する計画はありませんでした。
従って、問題の記述はまったく私の記憶ちがいによるものです。
この記憶ちがいがなぜ起こったかというと、子供の頃に読んだ「少年画報」に「伊号潜水艦が東京に落とす原爆を運んでいた重巡インディアナポリスを撃沈した」という感動的な絵入り物語が掲載されていて、この感動がつよかったために、その後に読んだ資料の記憶により「記憶の上書き」が、完全にはされていなかったことにあります。
ローズの記述によると、8/6に「リトルボーイ」が広島に投下され、8/9に「ファットマン」がナガサキに投下された後も、テニアン基地にはなお2発のプルトニウム型原発が備蓄されていたことになります。
本書p.696には「第一の投下目標、広島」が決定されたのは7/29で、米軍のスパッツ司令官からワシントンに宛てたテレックスが引用されています。
「戦争捕虜の調書によると、予定4目標(広島、長﨑、小倉、新潟)のうち、連合軍捕虜やその収容所がないのはヒロシマだけである。」このテレックスに対して、ワシントンからは第一目標をヒロシマとして承認する返事が送られています。
(このテレックスのやり取りは、森 重昭「原爆で死んだ米兵秘史」潮書房光人社 , 2016/7が明らかにした7/28の呉海軍港空襲により撃墜されたB-24爆撃機の搭乗員12名が、逮捕後に広島市の中国憲兵隊司令部に拘置されていたのを米軍は知らなかった、という事実とも整合しており、きわめて重要な資料と思います。)
原爆の投下目標として東京が考慮されていたことは、ローズ本のp.744に書かれています。
「8月10日、戦略空軍司令官スパッツはワシントンの統合幕僚本部のノルスタットに対して、第三の原爆を東京に投下することを無電で提案した」とあります。
三島由紀夫の日記が引用されていますが、「人びとは次の原爆は東京に来るだろうと話している。自分は白いシャツと半ズボン身につけ通りを歩いた。人びとは絶望の限界を通り過ぎて、日常の仕事をむしろ陽気な顔をしてこなしていた」とあります。
8/6ヒロシマ、8/9ナガサキに続いて、もし日本政府が「ポツダム宣言」を受諾しなければ、第三の原爆を8月18日頃に東京に落とす、という計画は米軍にあったし、その準備も進んでいた。日本でもある程度の情報通は、上記三島のように「次は東京だ」と覚悟していた。
同書には、8/13に米軍機から都内に播かれた「宣伝ビラ」により真相を知った侍従長が、軍部に秘密裏に天皇に情報を伝えたため、天皇が「ポツダム宣言受諾、無条件降伏」の腹をかためたと記述されています。(この辺の真相については、情報不足ですが、広島と長崎の原爆投下を知った天皇が、このまま抗戦すれば、皇居を含め日本全土が壊滅する、という危機感にとらわれた可能性は十分にありえると思います。)
以上「3発目の原爆」について、簡単にコメントしました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます