【日本古代史】上田正昭「渡来の古代史」(角川選書, 2013)という本を読んでいる。
私は「世界史の誕生」(ちくま文庫)を書いた岡田英弘と勘違いしてこれを買った。
岡田は「人とモノの交流が世界的=グルーバルになった時点で<世界史>が成立するので、それまでは複数の地域史が存在するにすぎない。真の意味での<世界史>はモンゴル帝国の成立により始まった。」という主張を展開していて、新鮮な視点だと思った。
上田正昭「大和朝廷:古代王権の成立」(講談社学術文庫、1995)も、内容は大したことないが、それでも引用文献を100点あまり列挙していて「学術的」体裁は備えている。(索引や年表はない)。
「渡来の古代史」を読んであきれた。18年も経っているのに、全然進歩がない。
「大和朝廷」では邪馬台国の位置について、「あーでもない、こーでもない」と議論していたが、今度の本ではその問題すら扱っていない。
あれは「魏志倭人伝」の「読み方の違い」をめぐる論争にすぎない。
前は、「この問題が解決をみない大半の責任は、<「魏志」倭人伝>おける邪馬台国の書き方があいまいなためである」(p.81)と書いていた。
そんなら、「魏志」に「倭人伝」が欠落していて、「後漢書倭人伝」や「宋書倭人伝」しか伝わっていなかったら、どうするのか? こっちの記載の方が、もっとあいまいではないか。他国のせいにするメンタリティは、今の韓国の学者と同じではないか。
余談だが、1/12付「朝鮮日報」が「日本書紀」がはじめて全訳されて出版されたことを報じている。「神功皇后は、13世紀の蒙古襲来時に作り出された架空の人物」で、「統一新羅に対する(日本の)コンプレックスが生み出したもの」だそうだ。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/01/12/2014011200176.html
<計約2000ページもある同書ある(ハングル訳本)は、半分以上を註釈が占める。これまでにも翻訳本は幾つかあったが、大論争の震源地になっている『日本書紀』の争点を、註釈によって細かく解説した本は、同書が初めてだ。> そうだ。
ぜひ読みたいので、日本の出版社は翻訳を出して欲しいと思う。
何でこんなことがいまだに問題になるのかわからない。
中国の、「後漢書・倭伝」、「三国志・高句麗伝、韓伝、倭伝」、「宋書・倭伝」、「隋書・高麗、百済、新羅、倭伝」、「旧唐書・倭国、日本伝」、「新唐書・百済、新羅、日本伝」
朝鮮の、「三国史記」、「三国遺事」における倭との交渉史の記述と、「日本書紀」における日本と中国・朝鮮の交渉史の記述を照合すればよいだけのことではないか。
神武記には問題があるが、大陸との交流を記した天皇記は「神功皇后」の該当者が誰かを別にすれば、大きな誤りはない。
この問題は、要するに学者の研究方法が科学的でないから解決できないのである。
「三国史記」は1145年(平安時代の末期)に成立しており、「日本書紀」は720年の成立である。文永11(1274)年の「文永の役」、弘安4(1281)年の「弘安の役」は日本にとっては、朝鮮が元の手先となって侵略してきた大事件で、「日本」という国家意識を目覚めさせ、日蓮宗という特異な仏教を成立させた、日本史の大きなターニングポイントである。
「三国遺事」は「三国史記」を補完するために書かれたので、「弘安の役」の後に成立した朝鮮史である。
北畠親房「神皇正統記」は1339年の成立で「元寇の役」以後だから、理論的には「過去を捏造」可能である。しかし、第15代「神功皇后」を「卑弥呼」と解釈している以外には、「日本書紀・神功皇后記」とその内容は変わらない。
元寇の役に「神風」が吹いたことで、対朝鮮優越感が生まれ、秀吉の「朝鮮征伐」の際に、「かって元に対して日本への道案内をしたように、今度は明への道案内をせよ」と朝鮮に命じることになったので、日本は新羅や高麗に対して劣等感など持つ必要がなかった。
「日本書紀」仲哀9年の条に、新羅王「波沙寝錦」が倭と講和し人質に「微叱己知波珍干己」を差し出したという記述がある。これは「新羅本紀」の実聖王元年(402)の、「実聖」尼師今(王のこと)が、前王「奈勿」の王子「未斯欣」を倭に人質として差し出したという記述と対応している。
神功摂政の5年条に、この王子「微叱己知波珍干己」(この箇所では「許智伐旱」)が新羅へ逃亡する記事がある。
「新羅本紀」には訥祇王の2年(418)の「奈勿」王の王子「未斯欣」が倭から逃亡して帰ってきた、という記述があり、これと一致する。
さらに「三国史記・列伝」中の「朴堤上伝」において、訥祇王の家臣「朴堤上」(毛麻利叱智)が倭に使者として派遣され、姦計をもって人質「未斯欣」を脱出させ、自分は怒った倭に焼き殺される、という話が書かれている。
つまり「神功記」と「新羅本紀」、「新羅列伝・朴堤上」における記載は符合している。
成立年代から見て、「新羅本紀」と「列伝」が「日本書紀」をコピーすることはあっても、その逆は不可能である。
「邪馬台国」の位置の確定の問題も、同様に科学性が欠けている。
対馬国=一支国=末廬国=伊都国までのルートも距離もはっきりしている。
だったら、それらがどこに相当するかを、疑いのない方法で確定することがまず第一であろう。伊都国の位置を確定できたら、奴国、不弥国、投馬国の位置を確定すればよい。
後は「暗号解読」と同じ手法で、「邪馬台国」の位置が比定できるではないか。
実証のために発掘をすればよいだけの話だ。
シュリーマンは100年以上前に、そうやって「伝説のトロイ」を掘り当てた。
そういう地道な努力をしないで、「畿内説」、「九州説」が先にあり、それに都合がよいように原文を解読して、「あーでもない、こーでもない」と100年この方、日本史学者は言い続けてメシの種にしてきた。
奈良県桜井市の「箸墓古墳」が卑弥呼の墓だというが、宮内庁が発掘調査を許さないのなら、非破壊検査で墓の内部構造と副葬品の種類を調べればよいではないか。
「ジュラシックパーク」に出てくる小型爆薬を使って、超音波の反射波をCTで立体画像にすればよいのである。地下の立体構造が把握できたら、陵墓を破壊しないように、離れた位置から地下トンネルを掘り、下から墓室に到達すれば良いのである。
これなら陵墓の外形は少しも損傷しない。
上田正昭の今度の本は、索引なし、引用文献なし、年表なしというおそまつな本だ。おまけに、文章にしばしば主語が省略されていて、意味が通じない。1927年生まれの87歳だから仕方がないが、年寄りの「あれ、その、この」とそっくりだ。よくもこんな老人に書かせた編集者もいるものだ。
「続日本紀」称徳天皇3(766)年6月の条に「百済王敬福(66)」の死亡記事があると書いてあるので、宇治谷孟訳「続日本紀」(講談社学術文庫)の該当箇所を開いてあきれた。上田本のP.114~128は、この記載を無批判になぞっているだけではないか。
同年同月の5日に、「桜島が噴火し、新しく三つの島ができた」とあるが、上田はこの大異変にはまったく触れていない。
717(養老1)年、第8回遣唐使として中国に渡った安倍仲麻呂は、766年に唐の「安南節度使」としてベトナムに派遣されているが、これも書いてない。(「岩波・世界史年表」)
要するに日本、それも畿内のことしか見ていないのである。
「日本国号」の議論もそうだ。「日本」という字がいつ現れたかは問題ではない。
それは実質的には、606年の遣隋使小野妹子に聖徳太子が持たせた国書(「日いずるところの天子、書を日没するところの天子にいたす」)に既に見えている。
「日本書紀」は養老4((720)年、元正帝の4年の成立で、正史だから「日本」は国号だろう。しかし最初の漢和辞典兼百科事典「倭名類聚鈔」は承平年間(931-38)に出現している。ここでは「日本名」となっていない。
「続日本後紀」(講談社学術文庫)(869年成立)は、仁明天皇(833~850)の官撰一代記だが、嘉祥2(849)年3月、天皇が40歳になったのを祝い、興福寺の僧正が仏像、経典にそえて、長歌を献上している。その中に、「日本」が2箇所出てくる。(原文は漢文)
「日本之 野馬台能国遠」(日の本の やまとの国を)
「日本之 倭之国波」(日の本のやまとの国は)
これらはいずれも韻文長歌であるから、上記右のように読むしかない。
このことは国号としての「日本」は8世紀にすでにあったが、その読みは「ひのもと」であり、「倭」は「やまと」と読まれていたことを意味する。「やまと」の漢字としては「野馬台」が用いられていたことを示している。同年の同じ3月に渤海国から国使が来ているが、その国書には「日本国太政大臣」宛という文字が見える。従って849年に「日本国」という国名が国際的に使用されていたことは間違いない。
筆者未詳の百科事典「塵袋」(「元寇の役」の記載があるので、1274~1281に成立)(東洋文庫)に「野馬台」の説明がある。これはアリストテレス「問題集」のように、「自問自答」形式の書である。但し漢字カタカナで書かれている。
「日本をやまとというが、和国の総称であって大和国にかぎらない。これを野馬台と書くのは、やまとという音に対する中国の当て字である」と説明している。
著者は音声学に詳しく、「タチツテトは通音だからタ音はト音に転訛する。(「台」の)末尾のイは不要だから発音しない」と「野馬台」の日本読みを説明している。
これから推すと、著者は明覚の「五十音図」に通じており、音声学の書、明覚「反音作法」(1093)、小川僧正承澄(1205-82)の「反音抄」にも通暁している。「倭名類抄」(全20巻)は懐中の玉の如く自在に引用されている。承澄は内大臣摂政、藤原師家の子で、博識の学僧であった。あるいは「塵袋」の筆者である可能性もあろう。
これを見ると、高畠親房が「神皇正統記」(1339年成立)で述べている、「日本」と書いても永い間「やまと」と発音したという主張はウソではないと思われる。
親房は、自説を支持する二つの事実を挙げている。
第一は、「日本書紀」に出てくる、神武、懿徳(いとく)、孝安、孝霊、孝元、開化の6人の天皇は、すべてその名前の一部に「日本」の文字を持っているが、読みは「ヤマト」である。例えば神武は「神日本磐余彦」という名前だが「カムヤマトイワレヒコ」と発音する。
第二は、「万葉集」に「いざこどもはや日の本へ大伴の御津浜待ち恋ぬらん」という山上憶良が遣唐使として唐に渡り、帰国する(704)直前に詠んだ歌の存在を挙げている。
憶良は粟田真人を正使とする「第7回遣唐使」(702)の一員として唐に渡ったもので、「日本書紀」に載る小野妹子が隋の煬帝に提出した「日出ずる処の天子…」から始める国書のエピソードを熟知していたに違いない。
この万葉の歌は佐々木信綱編「新訂新訓・万葉集(上)」(岩波文庫、p.122)でも、伊藤博校注「万葉集(上)」(角川文庫, p.119)でも「日本」と書いて「やまと」とルビが振られている。
「にほん」だったのか「ニッポン」だったのか、なぜ「やまと」という固有音が、なまった漢音にかわったのか、上田正昭がそれを説明できないようでは学問といえない。
北畠親房は「倭」という中国名の起源について、国使が使わされた時に、中国で「お前はどこの国から来たか」と問われて、「吾が国は…」と返事したから、この「わ」が「倭」と誤記されたのではないかとしている。
しかし、日本に関する中国最古の文献「後漢書・東夷列伝」、有名な「魏志・東夷伝」、「宋書・蛮夷」、「隋書・東夷」において、すべて「倭」あるいは「倭国」と表記されている。倭は国名ではなく、倭人のことである。「旧唐書・日本伝」が、中国の文書で日本を国名として扱った最初であり、遣唐使粟田真人が朝貢した(702)時のことが書かれている。
以後、「新唐書」、「宋史」、「元史」、「明史」においては、「倭」の名称は姿を消し、「日本」あるいは「日本国」となっている。(藤堂明保他訳注「倭国伝」, 講談社学術文庫)
「日」は、漢音では「ジツ」と読み、呉音では「ニチ」と読む。
朝鮮語では「イル」と読む。
「本」は隋唐時代の発音は「puen」であり「パン」に近い(「藤堂・漢和大辞典」)。朝鮮語では「ボン」である。
西洋に伝わった国名「ジパン(グ)= JIPANないしJIPANG」が、隋唐時代の中国語由来であることは、これで明らかであり、「日」を日輪とか日食のように「ニチ」と読む読み方は、五台山のような呉の地方に坊主が修業に行くようになってからだ、ということは、容易に推測がつく。
1266年、フビライ汗の元朝の首都「大都(現北京)」に到着したマルコ・ポーロが採取した「日本」に相当する中国語音は「チパング」であった。彼の「東方見聞録」は1296年に書かれ、写本により流布し、後に活字印刷されて広く読まれた。
この本で、これまで「カタイ(Cathay)」とヨーロッパで呼ばれてきた中国は、「チン(秦)」或いは「マンジ(満州)」と採音されており、以後「チナ」が一般化した。いま、Cathayは香港の航空会社「キャセイ航空」の名前のみに残っている。
China(チナ)はチャイナとも発音され、「支那」と漢字で書かれた。李氏朝鮮の書にもそう書かれている。別に石原慎太郎は中国に対する蔑称として用いているのではないだろう。
視野狭窄で学問の底が浅い、日本史学者にまかせていては、日本人の日本理解はちっとも進まない。そのうち、また捏造事件が起こるだろう。
私は「世界史の誕生」(ちくま文庫)を書いた岡田英弘と勘違いしてこれを買った。
岡田は「人とモノの交流が世界的=グルーバルになった時点で<世界史>が成立するので、それまでは複数の地域史が存在するにすぎない。真の意味での<世界史>はモンゴル帝国の成立により始まった。」という主張を展開していて、新鮮な視点だと思った。
上田正昭「大和朝廷:古代王権の成立」(講談社学術文庫、1995)も、内容は大したことないが、それでも引用文献を100点あまり列挙していて「学術的」体裁は備えている。(索引や年表はない)。
「渡来の古代史」を読んであきれた。18年も経っているのに、全然進歩がない。
「大和朝廷」では邪馬台国の位置について、「あーでもない、こーでもない」と議論していたが、今度の本ではその問題すら扱っていない。
あれは「魏志倭人伝」の「読み方の違い」をめぐる論争にすぎない。
前は、「この問題が解決をみない大半の責任は、<「魏志」倭人伝>おける邪馬台国の書き方があいまいなためである」(p.81)と書いていた。
そんなら、「魏志」に「倭人伝」が欠落していて、「後漢書倭人伝」や「宋書倭人伝」しか伝わっていなかったら、どうするのか? こっちの記載の方が、もっとあいまいではないか。他国のせいにするメンタリティは、今の韓国の学者と同じではないか。
余談だが、1/12付「朝鮮日報」が「日本書紀」がはじめて全訳されて出版されたことを報じている。「神功皇后は、13世紀の蒙古襲来時に作り出された架空の人物」で、「統一新羅に対する(日本の)コンプレックスが生み出したもの」だそうだ。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/01/12/2014011200176.html
<計約2000ページもある同書ある(ハングル訳本)は、半分以上を註釈が占める。これまでにも翻訳本は幾つかあったが、大論争の震源地になっている『日本書紀』の争点を、註釈によって細かく解説した本は、同書が初めてだ。> そうだ。
ぜひ読みたいので、日本の出版社は翻訳を出して欲しいと思う。
何でこんなことがいまだに問題になるのかわからない。
中国の、「後漢書・倭伝」、「三国志・高句麗伝、韓伝、倭伝」、「宋書・倭伝」、「隋書・高麗、百済、新羅、倭伝」、「旧唐書・倭国、日本伝」、「新唐書・百済、新羅、日本伝」
朝鮮の、「三国史記」、「三国遺事」における倭との交渉史の記述と、「日本書紀」における日本と中国・朝鮮の交渉史の記述を照合すればよいだけのことではないか。
神武記には問題があるが、大陸との交流を記した天皇記は「神功皇后」の該当者が誰かを別にすれば、大きな誤りはない。
この問題は、要するに学者の研究方法が科学的でないから解決できないのである。
「三国史記」は1145年(平安時代の末期)に成立しており、「日本書紀」は720年の成立である。文永11(1274)年の「文永の役」、弘安4(1281)年の「弘安の役」は日本にとっては、朝鮮が元の手先となって侵略してきた大事件で、「日本」という国家意識を目覚めさせ、日蓮宗という特異な仏教を成立させた、日本史の大きなターニングポイントである。
「三国遺事」は「三国史記」を補完するために書かれたので、「弘安の役」の後に成立した朝鮮史である。
北畠親房「神皇正統記」は1339年の成立で「元寇の役」以後だから、理論的には「過去を捏造」可能である。しかし、第15代「神功皇后」を「卑弥呼」と解釈している以外には、「日本書紀・神功皇后記」とその内容は変わらない。
元寇の役に「神風」が吹いたことで、対朝鮮優越感が生まれ、秀吉の「朝鮮征伐」の際に、「かって元に対して日本への道案内をしたように、今度は明への道案内をせよ」と朝鮮に命じることになったので、日本は新羅や高麗に対して劣等感など持つ必要がなかった。
「日本書紀」仲哀9年の条に、新羅王「波沙寝錦」が倭と講和し人質に「微叱己知波珍干己」を差し出したという記述がある。これは「新羅本紀」の実聖王元年(402)の、「実聖」尼師今(王のこと)が、前王「奈勿」の王子「未斯欣」を倭に人質として差し出したという記述と対応している。
神功摂政の5年条に、この王子「微叱己知波珍干己」(この箇所では「許智伐旱」)が新羅へ逃亡する記事がある。
「新羅本紀」には訥祇王の2年(418)の「奈勿」王の王子「未斯欣」が倭から逃亡して帰ってきた、という記述があり、これと一致する。
さらに「三国史記・列伝」中の「朴堤上伝」において、訥祇王の家臣「朴堤上」(毛麻利叱智)が倭に使者として派遣され、姦計をもって人質「未斯欣」を脱出させ、自分は怒った倭に焼き殺される、という話が書かれている。
つまり「神功記」と「新羅本紀」、「新羅列伝・朴堤上」における記載は符合している。
成立年代から見て、「新羅本紀」と「列伝」が「日本書紀」をコピーすることはあっても、その逆は不可能である。
「邪馬台国」の位置の確定の問題も、同様に科学性が欠けている。
対馬国=一支国=末廬国=伊都国までのルートも距離もはっきりしている。
だったら、それらがどこに相当するかを、疑いのない方法で確定することがまず第一であろう。伊都国の位置を確定できたら、奴国、不弥国、投馬国の位置を確定すればよい。
後は「暗号解読」と同じ手法で、「邪馬台国」の位置が比定できるではないか。
実証のために発掘をすればよいだけの話だ。
シュリーマンは100年以上前に、そうやって「伝説のトロイ」を掘り当てた。
そういう地道な努力をしないで、「畿内説」、「九州説」が先にあり、それに都合がよいように原文を解読して、「あーでもない、こーでもない」と100年この方、日本史学者は言い続けてメシの種にしてきた。
奈良県桜井市の「箸墓古墳」が卑弥呼の墓だというが、宮内庁が発掘調査を許さないのなら、非破壊検査で墓の内部構造と副葬品の種類を調べればよいではないか。
「ジュラシックパーク」に出てくる小型爆薬を使って、超音波の反射波をCTで立体画像にすればよいのである。地下の立体構造が把握できたら、陵墓を破壊しないように、離れた位置から地下トンネルを掘り、下から墓室に到達すれば良いのである。
これなら陵墓の外形は少しも損傷しない。
上田正昭の今度の本は、索引なし、引用文献なし、年表なしというおそまつな本だ。おまけに、文章にしばしば主語が省略されていて、意味が通じない。1927年生まれの87歳だから仕方がないが、年寄りの「あれ、その、この」とそっくりだ。よくもこんな老人に書かせた編集者もいるものだ。
「続日本紀」称徳天皇3(766)年6月の条に「百済王敬福(66)」の死亡記事があると書いてあるので、宇治谷孟訳「続日本紀」(講談社学術文庫)の該当箇所を開いてあきれた。上田本のP.114~128は、この記載を無批判になぞっているだけではないか。
同年同月の5日に、「桜島が噴火し、新しく三つの島ができた」とあるが、上田はこの大異変にはまったく触れていない。
717(養老1)年、第8回遣唐使として中国に渡った安倍仲麻呂は、766年に唐の「安南節度使」としてベトナムに派遣されているが、これも書いてない。(「岩波・世界史年表」)
要するに日本、それも畿内のことしか見ていないのである。
「日本国号」の議論もそうだ。「日本」という字がいつ現れたかは問題ではない。
それは実質的には、606年の遣隋使小野妹子に聖徳太子が持たせた国書(「日いずるところの天子、書を日没するところの天子にいたす」)に既に見えている。
「日本書紀」は養老4((720)年、元正帝の4年の成立で、正史だから「日本」は国号だろう。しかし最初の漢和辞典兼百科事典「倭名類聚鈔」は承平年間(931-38)に出現している。ここでは「日本名」となっていない。
「続日本後紀」(講談社学術文庫)(869年成立)は、仁明天皇(833~850)の官撰一代記だが、嘉祥2(849)年3月、天皇が40歳になったのを祝い、興福寺の僧正が仏像、経典にそえて、長歌を献上している。その中に、「日本」が2箇所出てくる。(原文は漢文)
「日本之 野馬台能国遠」(日の本の やまとの国を)
「日本之 倭之国波」(日の本のやまとの国は)
これらはいずれも韻文長歌であるから、上記右のように読むしかない。
このことは国号としての「日本」は8世紀にすでにあったが、その読みは「ひのもと」であり、「倭」は「やまと」と読まれていたことを意味する。「やまと」の漢字としては「野馬台」が用いられていたことを示している。同年の同じ3月に渤海国から国使が来ているが、その国書には「日本国太政大臣」宛という文字が見える。従って849年に「日本国」という国名が国際的に使用されていたことは間違いない。
筆者未詳の百科事典「塵袋」(「元寇の役」の記載があるので、1274~1281に成立)(東洋文庫)に「野馬台」の説明がある。これはアリストテレス「問題集」のように、「自問自答」形式の書である。但し漢字カタカナで書かれている。
「日本をやまとというが、和国の総称であって大和国にかぎらない。これを野馬台と書くのは、やまとという音に対する中国の当て字である」と説明している。
著者は音声学に詳しく、「タチツテトは通音だからタ音はト音に転訛する。(「台」の)末尾のイは不要だから発音しない」と「野馬台」の日本読みを説明している。
これから推すと、著者は明覚の「五十音図」に通じており、音声学の書、明覚「反音作法」(1093)、小川僧正承澄(1205-82)の「反音抄」にも通暁している。「倭名類抄」(全20巻)は懐中の玉の如く自在に引用されている。承澄は内大臣摂政、藤原師家の子で、博識の学僧であった。あるいは「塵袋」の筆者である可能性もあろう。
これを見ると、高畠親房が「神皇正統記」(1339年成立)で述べている、「日本」と書いても永い間「やまと」と発音したという主張はウソではないと思われる。
親房は、自説を支持する二つの事実を挙げている。
第一は、「日本書紀」に出てくる、神武、懿徳(いとく)、孝安、孝霊、孝元、開化の6人の天皇は、すべてその名前の一部に「日本」の文字を持っているが、読みは「ヤマト」である。例えば神武は「神日本磐余彦」という名前だが「カムヤマトイワレヒコ」と発音する。
第二は、「万葉集」に「いざこどもはや日の本へ大伴の御津浜待ち恋ぬらん」という山上憶良が遣唐使として唐に渡り、帰国する(704)直前に詠んだ歌の存在を挙げている。
憶良は粟田真人を正使とする「第7回遣唐使」(702)の一員として唐に渡ったもので、「日本書紀」に載る小野妹子が隋の煬帝に提出した「日出ずる処の天子…」から始める国書のエピソードを熟知していたに違いない。
この万葉の歌は佐々木信綱編「新訂新訓・万葉集(上)」(岩波文庫、p.122)でも、伊藤博校注「万葉集(上)」(角川文庫, p.119)でも「日本」と書いて「やまと」とルビが振られている。
「にほん」だったのか「ニッポン」だったのか、なぜ「やまと」という固有音が、なまった漢音にかわったのか、上田正昭がそれを説明できないようでは学問といえない。
北畠親房は「倭」という中国名の起源について、国使が使わされた時に、中国で「お前はどこの国から来たか」と問われて、「吾が国は…」と返事したから、この「わ」が「倭」と誤記されたのではないかとしている。
しかし、日本に関する中国最古の文献「後漢書・東夷列伝」、有名な「魏志・東夷伝」、「宋書・蛮夷」、「隋書・東夷」において、すべて「倭」あるいは「倭国」と表記されている。倭は国名ではなく、倭人のことである。「旧唐書・日本伝」が、中国の文書で日本を国名として扱った最初であり、遣唐使粟田真人が朝貢した(702)時のことが書かれている。
以後、「新唐書」、「宋史」、「元史」、「明史」においては、「倭」の名称は姿を消し、「日本」あるいは「日本国」となっている。(藤堂明保他訳注「倭国伝」, 講談社学術文庫)
「日」は、漢音では「ジツ」と読み、呉音では「ニチ」と読む。
朝鮮語では「イル」と読む。
「本」は隋唐時代の発音は「puen」であり「パン」に近い(「藤堂・漢和大辞典」)。朝鮮語では「ボン」である。
西洋に伝わった国名「ジパン(グ)= JIPANないしJIPANG」が、隋唐時代の中国語由来であることは、これで明らかであり、「日」を日輪とか日食のように「ニチ」と読む読み方は、五台山のような呉の地方に坊主が修業に行くようになってからだ、ということは、容易に推測がつく。
1266年、フビライ汗の元朝の首都「大都(現北京)」に到着したマルコ・ポーロが採取した「日本」に相当する中国語音は「チパング」であった。彼の「東方見聞録」は1296年に書かれ、写本により流布し、後に活字印刷されて広く読まれた。
この本で、これまで「カタイ(Cathay)」とヨーロッパで呼ばれてきた中国は、「チン(秦)」或いは「マンジ(満州)」と採音されており、以後「チナ」が一般化した。いま、Cathayは香港の航空会社「キャセイ航空」の名前のみに残っている。
China(チナ)はチャイナとも発音され、「支那」と漢字で書かれた。李氏朝鮮の書にもそう書かれている。別に石原慎太郎は中国に対する蔑称として用いているのではないだろう。
視野狭窄で学問の底が浅い、日本史学者にまかせていては、日本人の日本理解はちっとも進まない。そのうち、また捏造事件が起こるだろう。