ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【理力】難波先生より

2013-11-16 13:08:21 | 難波紘二先生
【理力】この前、「フォース」について書いた。

 映画「スター・ウォーズ」の中で、オビ・ワン=ケヌビという東洋人ふうの老人(アレック・ギネス)が出て来て、主人公のルークに「フォース」を学ばせようとする。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/フォース

 (この場面は1977年の第1作にはなく、1980年の「帝国の逆襲」に出て来たように思う。あの頃はまだ子供が小学生で、よく映画を見に連れて行った。なにしろ、自宅にテレビが置いてなかったから、埋め合わせに自宅で8ミリの劇映画を上映するか、映画館に同行していた。)



 ところが、福山の下前先生から、「理力」という言葉は、由来が映画「スター・ウォーズ」だということは忘れられ、ファミコンゲーム「ドラゴンクェスト」の第3作「理力の杖」というゲームが大ヒットし、よく知られた言葉になっているそうだ。




 ああいう、念力、超能力、血液型性格占いなどが流行るのはだいたい、一世代30~40年の間隔を置いてからだ。三次にわたる「血液型ブーム」を検討してみると、だいたいそうなっている。

 第一次ブームは戦前の1930年代中頃。

 1970年代が第二次ブームで、この時は「血液型・性格」相関説とスプーン曲げとかユリ・ゲラーなどの「超能力ブーム」が同時に起こった。今は、2000年頃から、第三次血液型ブームである。




 免疫力には2種類ある。肉体的な免疫力と精神的な免疫力である。

 インフルエンザのように、ウイルス遺伝子がしょっちゅ突然変異を起こすものは別として、天然痘、麻疹、風疹、おたふく風邪などのウイルス疾患は、一度かかると生涯二度とかからない。免疫が成立するからだ。




 が、流行という観点から見ると、だいたい30年ごとに大流行を繰り返す。なぜなら、世代が入れ替わって免疫のない世代が成人になり、不顕性感染を起こした人が、移動してウイルスをまき散らすからだ。




 精神免疫もこれと同じで、一度騙された人は、二度と騙されないし、家庭でそのことを良く聞かされた子供も同様である。まあ、騙された人は「能動免疫」を獲得し、子供は親や祖父母から「受動免疫」を付与され、あるいは「精神ワクチン」の投与を受けるからだ。




 従って、「核家族」になると、祖父母から孫への精神ワクチンの投与ができなくなる。核家族が、今日のように「独居家族」になると、親から子への精神ワクチンの投与も起こらなくなる。

 だから今、30歳以下の若い、精神免疫の成立が不十分な世代を騙すのは、実に簡単であろうと思う。報道される、信じられないような犯罪の多くは、「精神免疫」能力の低下、別な言葉でいえば「世間知らず」が関係しているように思う。




 さて、その「理力」だが、まだ「広辞苑」にも載っていない。これを中江兆民が使いそうな言葉だと書いたのは、彼には明治19年に出した「理学鉤玄(りがくこうげん)」があるからだ。これは哲学総論の本だ。

 ギリシア語のフィロソフィア(Philosophia)を、はじめ「希哲学」、のち「哲学」と訳したのは西周だが、普及させたのは東大初代哲学教授、井上哲次郎である。あだ名を「イノ哲」といった。

 兆民は「易経」にある「窮理性を尽くす」からとって「窮理学」と呼んだ。「究理学」あるいは略して「理学」とも書く。




 いま「広辞苑」CD-ROM版で「哲」と「理」の付く単語を「部分一致」検索してみると、

哲=76件、理=865件と圧倒的に「理」の付く単語が多い。「理学」でも102件ある。「哲学」だと45件しかない。しかも多くは人名が上に付く。

 「理学」という用語は、物理とか地理とか、薬理学、生理学といった医学がらみの分野にも及んでいる。




 どうも文科系の学問の頂点に「哲学」を起き、自然科学系の学問のトップに「物理学」を置いたところに、「文系」、「理系」という不毛で無意味な区分わけが始まったような気がする。

 Philo-sophiaのソフィアは英語の「wisdom叡智」の意味で、固有名詞としてはブルガリアの首都の名前と「上智大学(Sophia University)」に用いられている。




 もともと「理学」は、兆民の定義によれば「あらゆる事象について、その根源を研究する」というもので、この研究により熟達するところがあれば、自然に学識が豊富となり、結果としていわゆる「聖哲」の域に達する、と述べており、学べばたちまちにして聖賢になれるという学問ではない。どうも「哲学」はミス・ネーミングにより、損をしたようだ。




 それにしても、明治20年頃までの日本人は、漢籍に通じ、その上、英語、フランス語、ドイツ語を勉強している。兆民は漢学とフランス語が得意だったし、福沢諭吉は漢学、蘭学をとことんやった上、ある日横浜開港地に出かけたら、オランダ語の看板ひとつなく、誰もオランダ語をしゃべっていないことを知り、すぐに英語の勉強を始めて、咸臨丸がアメリカに試験航海する時には、ちゃっかり通訳として乗り組んでいる。

 彼らの正味勉強時間は、1年か2年だ。

 それでいて、「文明」、「外交」、「国際」、「経済」など今に通じる重要な訳語はみな彼らがつくった。




 来年から小学校で英語教育が始まる。いますでに中学から大学まで英語を10年くらい習っているはずだが、日本人の英語は同名の新書が出るくらい、上達しない。「なぜだろう?」と考えてみるに、要はモチヴェーションの差ではないかと思う。やる気のない、必要性を感じていない生徒にいくら教えてもムダだろう。




 私は外国語が好きで、いろんな国の文書を読むが、たいてい英語辞書を使用する。各国語辞書を日本語でそろえたら大変だが、英語をかませれば、安くてよいものがある。Collinsの辞書だと、1冊に他国語⇄英語が入っているので「逆引き」ができて、便利である。(日本語辞書にはこういうものがないように思う。)




 前に「ランセット」の「日本語を知らずして日本語論文を読む方法」という論文を紹介したが、あの方法で例えばポーランド語の論文を読む。ポーランド語は辞書さえ持たないが、医学論文の症例報告なら読める。用語のほとんどはギリシア語かラテン語由来だから、これは読める。患者の年齢とか術後経過は、算用数字で書いてあるからこれもわかる。否定辞はneinかnyetかはともかく、noに近い言葉だから、否定辞がどれか検討がつけば、文意もわかる。

 「インド・ヨーロッパ語」はどれも似たようなものだ。但し、サンスクリット語(ヒンドゥー語)は文字がローマ字でないので、読むのは難しい。




 語学のための語学学習などする気がない。外国語を勉強するのは、江戸の蘭学者を突き動かしたと同じモチヴェーション、つまり原典によってしか得られない知識を得るためである。

 ともかくモチヴェーションを高めないと、いくら教えても身につかないと思う。そのためには、「英語第二公用語」化も考えるべきだろう。「廃用性萎縮」といって、使わない能力はすぐに衰える。いや、「理力」の話がつい脱線してしまった。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 11月15日(金)のつぶやき | トップ | 来客前の掃除です »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

難波紘二先生」カテゴリの最新記事