【鳥取の餓えさん】
10/17毎日「記者の目」欄で、鳥取支局の記者が鳥取市「ゆるキャラ」の「かつ江さん」を取り上げ、「市教委が緩さに逆行する強烈なキャラを選定したことを評価したい」と書いている。しかしちゃんと史実を知った上でのことだろうか?
1581(天正9)年、信長の命で秀吉が鳥取に軍を進めたとき、ここは尼子氏を滅ぼした毛利の城で吉川経家が守将だった。香川正矩『陰徳太平記』(教育社)によると、鳥取城は山名豊国の居城だったが、毛利と織田の間であっちについたり、こっちについたりだった。天正9年、城主の豊国は秀吉の人質になっている姫の命惜しさに城を落ちて播磨に脱出した。そこで譜代家来の森下道誉らが、毛利方の吉川元春に総大将の派遣を求めたので、安芸から発った経家が7月、鳥取城に入った。ところが武者2000人に村人など合わせて4000人超が城内におり、兵糧は2〜3ヶ月分しかなかった。経家は元春に至急の食糧補給を依頼したが、秀吉の軍が何重にも包囲していて、陸路・海路ともに搬入ができず、飢餓地獄が出現した。秀吉は「兵糧攻め」で無血降伏をねらって、「降伏すれば城中上下の命は助ける」という使者を支城丸山城に送ったが、城将山県の家臣境、森脇らが寄せ手の面前で使者の首をはねた。これに秀吉は激怒、鼠一匹通さない厳重な包囲体制を固めた。
城中の飢餓はさらに進み、子を殺して食い、死体を解体して煮炊きする状態にまでなった。籠城3ヶ月に及び経家が自分ひとりの切腹で他を助命するという条件で降伏を申し出たが、秀吉が旧山名家の主な家臣森下ら5名の切腹をも主張し、これでやっと10月に和睦が成立した。生き残った兵士・住民はおとがめなし。
これが『陰徳太平記』に書いてある「秀吉の鳥取城攻め」だ。香川は吉川家の家臣で、刊本は正徳2(1712)年だ。もとはといえば有岡城を捨てた荒木村重みたいに、単身脱出した城主山名の裏切りが悲劇の発端なのに、「食人」を売り物にする鳥取市は厚顔無恥というべきか。いや「傲岸無知」か…。別所氏の三木城は2年、村重の有岡城は1年も秀吉の包囲陣に対して籠城できた(諏訪勝則『黒田官兵衛』中公新書)。兵糧はたっぷりあったから、有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛も食われなかった。鳥取城では、たった3ヶ月足らずで食人が始まった。
太田牛一『信長公記(現代語訳)』(新人物文庫)には、籠城の悲惨さについては、「寄せ手が敵を鉄砲で倒すと、まだ息がある者にも人々が群がり、手にした刃物で手足をばらし、肉を剥がした。頭部は味がよいとされ、奪い合いが起こった」とある。しかし、なぜ吉川経家が籠城の守将になったかは書いてない。あまりに哀れなので、降伏後に食い物を与えたら、「食い過ぎて大半が頓死した」と書いてある。
「餓(かつ)え」さんを持ち上げるのは「我ら食人族の子孫なり」といっているに等しい。毎日の記者もちゃんと歴史を勉強して書いてもらいたいものだ。
最近ある学会誌から論文の査読(レフェリー)を依頼された。これは通常2〜3名。新聞記者は何十万、何百万人のレフェリーを相手に記事を書くのだということを忘れないでもらいたい。
10/17毎日「記者の目」欄で、鳥取支局の記者が鳥取市「ゆるキャラ」の「かつ江さん」を取り上げ、「市教委が緩さに逆行する強烈なキャラを選定したことを評価したい」と書いている。しかしちゃんと史実を知った上でのことだろうか?
1581(天正9)年、信長の命で秀吉が鳥取に軍を進めたとき、ここは尼子氏を滅ぼした毛利の城で吉川経家が守将だった。香川正矩『陰徳太平記』(教育社)によると、鳥取城は山名豊国の居城だったが、毛利と織田の間であっちについたり、こっちについたりだった。天正9年、城主の豊国は秀吉の人質になっている姫の命惜しさに城を落ちて播磨に脱出した。そこで譜代家来の森下道誉らが、毛利方の吉川元春に総大将の派遣を求めたので、安芸から発った経家が7月、鳥取城に入った。ところが武者2000人に村人など合わせて4000人超が城内におり、兵糧は2〜3ヶ月分しかなかった。経家は元春に至急の食糧補給を依頼したが、秀吉の軍が何重にも包囲していて、陸路・海路ともに搬入ができず、飢餓地獄が出現した。秀吉は「兵糧攻め」で無血降伏をねらって、「降伏すれば城中上下の命は助ける」という使者を支城丸山城に送ったが、城将山県の家臣境、森脇らが寄せ手の面前で使者の首をはねた。これに秀吉は激怒、鼠一匹通さない厳重な包囲体制を固めた。
城中の飢餓はさらに進み、子を殺して食い、死体を解体して煮炊きする状態にまでなった。籠城3ヶ月に及び経家が自分ひとりの切腹で他を助命するという条件で降伏を申し出たが、秀吉が旧山名家の主な家臣森下ら5名の切腹をも主張し、これでやっと10月に和睦が成立した。生き残った兵士・住民はおとがめなし。
これが『陰徳太平記』に書いてある「秀吉の鳥取城攻め」だ。香川は吉川家の家臣で、刊本は正徳2(1712)年だ。もとはといえば有岡城を捨てた荒木村重みたいに、単身脱出した城主山名の裏切りが悲劇の発端なのに、「食人」を売り物にする鳥取市は厚顔無恥というべきか。いや「傲岸無知」か…。別所氏の三木城は2年、村重の有岡城は1年も秀吉の包囲陣に対して籠城できた(諏訪勝則『黒田官兵衛』中公新書)。兵糧はたっぷりあったから、有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛も食われなかった。鳥取城では、たった3ヶ月足らずで食人が始まった。
太田牛一『信長公記(現代語訳)』(新人物文庫)には、籠城の悲惨さについては、「寄せ手が敵を鉄砲で倒すと、まだ息がある者にも人々が群がり、手にした刃物で手足をばらし、肉を剥がした。頭部は味がよいとされ、奪い合いが起こった」とある。しかし、なぜ吉川経家が籠城の守将になったかは書いてない。あまりに哀れなので、降伏後に食い物を与えたら、「食い過ぎて大半が頓死した」と書いてある。
「餓(かつ)え」さんを持ち上げるのは「我ら食人族の子孫なり」といっているに等しい。毎日の記者もちゃんと歴史を勉強して書いてもらいたいものだ。
最近ある学会誌から論文の査読(レフェリー)を依頼された。これは通常2〜3名。新聞記者は何十万、何百万人のレフェリーを相手に記事を書くのだということを忘れないでもらいたい。
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