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阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【吉田松陰と疥癬】難波先生より

2016-01-25 13:07:30 | 難波紘二先生
【吉田松陰と疥癬】
 吉田松陰が疥癬にかかっていたという説があるそうだ。
「疥癬」という言葉は江戸時代にはなかったと思う。富士川游『日本疾病史』(明治44=1912年間、現・東洋文庫, 1962/2)には、「疥癬(寛永7年, 肥前瘡)」とあり、肥前島原藩におけるキリスト教徒弾圧と疥癬の流行とが関連づけられていたことが察しられる。
 「瘡(かさ)」というのは皮膚発疹を伴う感染症のことで、皮膚梅毒は当初「唐瘡(とうがさ)」と呼ばれた。「肥前瘡」は後に「ひぜん」と略称され、疥癬の代名詞になった。
 明治22年に出た大槻文彦「言海」には、「皮癬の音か、或いは云う肥前瘡の意。肥前島原より邪法を流布せしを伝染に喩えていうと。湿瘡の一種、細かく生じるもの、伝染す」とある。

 昭和16(1941)年に出た富士川游『日本医学史』には平安時代の医書「医心方」に見える病名とその現代病名との比較が行ってあるが、「疥癬」に相当するものは「疥創」である。「常に汁の出有、並びに皆蟲有り。人、往々に針頭をもって水内窩蟲の如くに挑得する」とある。
 疥癬の病因はヒゼンダニ(Sarcoptes scabiei)の皮膚感染であり、ダニが皮内にトンネルを掘って居住することから皮疹とかゆみが生じる。虫体は0.2〜0.4ミリあり、肉眼で観察できるし、針で掘り出すことも可能である。平安時代の医者は皮膚に蟲がいること、針でほじくり出せることを知っていたのだ。

 ラテン語の正式名称はScabiesだが、これはScabere(掻く)という動詞に由来する。各国ともに通称があり、ドイツ語では「Kraetze(クレツェ)」という。Kratzenは「掻きむしる」という意味の動詞で、Kraetzeはこれに由来する。
 ギャリソン「医学史」(1929)によると、疥癬がダニの感染によることを最初に見つけたのは「西カリフ国」(コルドバ)のアヴェンゾアルで、12世紀のことだという。恐らく中国の医書「医心方」と同時期に発見されたのだろう。
 クレツェの病因について、徹底的な研究を行い、これについて専門書を刊行したのはドイツの医師ヨハン・ウィヒマン(1786)で、「疥癬とその病因」という著書がそれだという。出たのは天明6年であり、疥癬が流行した「島原の乱(1637)」より150年も後のことだ。

 さて吉田松陰と疥癬のことだが、一坂太郎「吉田松陰とその家族」(中公新書)には「松陰は皮膚病の疥癬にかかっていたため、(ペリーの船に乗船の機会を窺いながら)治療を兼ねて温泉に入っていた」と書かれている。
 「黒船」側の記録には、日本人の男二人が、夜中の2時過ぎに、下田沖に停泊していたペリー艦隊の一隻に乗り込んできたと、ペリー「日本遠征記(四)」(岩波文庫)の第22章に書いてある。しかし、「痒がったとか、皮膚病があった」という記載はない。
 この二人の氏名は、訳文では「Isagi Konda, Kwansuchi Manji」となっていて、吉田でも金子でもない。下田獄の牢の中から、板に書いた文章を上陸が許された米軍士官たちに手渡し、それに署名があったとなっている。この姓名の食い違いは岩波文庫版では不明である。

 松陰に同行していたのは金子重之助(変名:澁木松太郎)という長州藩の町民である。安政元(1854)年3月、黒船に乗船して米国に渡る企てに失敗した二人は、下田の奉行所に自首した。その後は下田獄、江戸伝馬町獄を経て、郷里萩の野山獄での獄中生活を送った。
 その間にも、松陰は多数の手紙を出し、受け取ってもいる。だがその膨大な「吉田松陰書簡集」(岩波文庫)を見ても、彼が皮膚の掻痒に悩まされていた、という記載がない。

 伝馬町獄で「無宿牢」に入れられた「澁木松太郎」が病気に罹ったことは、安政元年11月に野山獄から松陰が実兄に出した手紙で窺われる。
 「澁木の病は、初め小さな創が満身あまねく広がり、なかなか普通の状態ではなかった。その後腹部へ集中して出るようになった。天満町を出牢の日に、膿を搾ったら一升ほども出たという。その毒は萩へ着いた日にはすでに尽き、創口も癒えていたという。…然るに咳やくしゃみが未だ止まず、弟(松陰のこと。兄宛の手紙なので)は咳嗽のあまり、必ず肺病が起こるのを恐れています。」
 二人が天満町の牢に入れられていたのは、安政元年4月から9月までの5ヶ月間である。疥癬のような皮膚病は不潔な牢獄などで感染が起こりやすい。澁木の病状は初期に皮疹が多発しているところは、疥癬に似ているが、後に腹部に症状が集中し、咳嗽発作をも伴うようになっており、他の(結核のような)内科的感染症も合併したのかもしれない。

 嘉永2(1849)年に出版された緒方洪庵「病学通論」は、オランダ語の病名を音訳するのに精一杯で、意味論的に正しい病名の和訳はまだ行われていない。この書に「疥癬」の文字はない。よって「疥癬」という病名は明治以後に作られたものであろう。
 このように、松陰生存中の記録に「疥癬」という言葉があったとは思えない。もしあっても「ひぜん」と呼ばれたはずである。ダニ(ヒゼンダニ)が原因だと知られていたかも疑わしいと思う。通俗歴史書など、しょせんこの程度のものである。
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