【認知症】
先日、高屋SCで食料品を買い、品物を車に積んだ後、書店で雑誌2点を買った。再びスーパーに戻り「無糖コーヒー」1本を買った。自販機だと140円だが、スーパーで買うと同じものが80円で入手できる。
で、いつも行く散髪屋の脇にある休憩所に行き、コーヒーを飲み、タバコを吸いながら雑誌のメイン記事を読もうと思った。冬日にはまれな陽光の射す午後だったからだ。ここには5台の八角テーブルがあり、手前の1台と奧の1台にスタンド灰皿が設置してある。
手前の1台は付近の私大生らしい、ジャージを着た若者が占拠していたので、奧の一台を目指した。60代前半と見られる男が、テーブル一杯に複数の買い物袋を並べ、プラスティック箱の弁当をほとんど欠けた歯で食っていた。
挨拶して隣の席に座って驚いた。5分刈りなので余計目立つのだが、左側頭部に幅7cmほどの、大きなホタテ貝の形をした傷(疵)がある。瘢痕だ。「よくこれで左耳がそぎ落とされなかったものだ」と思った。医学的には短刀のような、刃物で上から切り込まれたとしか思えない。長髪にすれば、疵は隠れるほどの幅だが、そうした配慮はないらしい。
タバコを吸い、コーヒーを飲み、当たり障りのない話をしながら、次第に疑問点に切り込んで行った。
ところがこの男、ふだん話し相手がいないと見えて、延々と身の上話を始めた。驚いたのは、現在は隣の食料品スーパーの店員をしていて、その勤務が終わったところだった。元は家具メーカーの社員で、山陰の浜田工場で在庫卸のため部材を棚から降ろしていて、約7mの高さの梯子から転落した。その際、熱湯パイプで頭を打ったという説明は到底、納得できなかったが、聞いているうちに「これは認知症だ」と確信した。その後、広島県三原市の須波温泉従業員などを経て現在に至る、という。「ああ、これは下流老人のひとりか」と得心が行った。
テーブルに置かれたビニール袋は、いずれも勤務先の食料品スーパーで買ったとおぼしきものばかりだった。アパートで一人暮らしだとは自らしゃべった。
この男の話に付き合って、コーヒー一缶を飲み干したが、雑誌は1ページも読めなかった。30分以上付き合ったので、適当に切り上げて、車に戻った。
ここで「発見」したのは、二つの点だ。
まず昔は「認知症」という言葉も、それに相当する実態もなかった。
歳を取れば記憶力とか認知(識別)能力が衰えるのは当たり前だが、昔の大家族制社会では年齢に応じた仕事の割り振り分担があった。老人になっても昔の記憶は保持されるので、老人には孫に昔話をする重要な役割があった。徘徊しても道路に自動車がいないので、はねられる恐れはなく、せいぜい溜池にはまって溺死する程度だった。
だから昔は「ボケ老人」などいなかったのである。みなそれぞれに貴重な存在だった。
つまり「認知症」というのは、過去50年くらいの日本社会の変容が生みだした病気なのである。「病気」とは社会規準からはみ出すものに対するレッテルにほかならない。
次いで思ったのは、「認知症の規準に当てはまる人でも、立派に働ける」ということだった。
2/22「毎日」のコラム「余録」が似たような話を取り上げている。
http://mainichi.jp/articles/20160222/ddm/001/070/144000c
だがこの記事は私に言わせてもらうと、ピンぼけだ。「青山さん」が働けることが重要なのか、51歳で「認知症」になってしまう社会が問題なのか、それがはっきりしていない。
同日の「産経」書籍広告を見ると、橋田壽賀子(90)「私の人生に老後はない」(海竜社)があり、「好奇心にまさる特効薬ナシ! <今>を面白がって前向きに楽しく元気に!」とあった。
名シナリオライターの橋田が存命とは知らなかったが、好奇心という自己刺激が脳を活性化させる点に異論はない。だが多くの人は、面倒くさがって好奇心を抱かず、テレビで安直な解を求めるというのも現実である。
私のように「アラバマ物語」の原題「マネシツグミを殺すこと」の意味を説き明かすために、DVDを観て、英語WIKIを検索して、半日を費やす人物の方が、「異常・変人」であるのは間違いないだろう。それは肯定する。だが好奇心にまさるボケ防止策はないとも主張したい。
私の言いたいのは、戦後における社会・家族環境の変化が、「認知症」を生みだしたということだ。ボケは昔から年相応にあった。だがそれを「病気」にしないと、医療や介護保険の対象にならなくなったとき、社会は「認知症」という新たな病気を生みだしたのである。
野田正彰「狂気の起源をもとめて:パプア・ニューギニア紀行」(中公新書, 1981/7)
は、実地調査に基づいて、高地パプア・ニューギニア人には精神分裂病がないという。原住民が海岸部に降りて「文明化社会」と接触すると、この病気が起きるとしている。
社会構造と脳機能異常との関係について、示唆に富む書である。
先日、高屋SCで食料品を買い、品物を車に積んだ後、書店で雑誌2点を買った。再びスーパーに戻り「無糖コーヒー」1本を買った。自販機だと140円だが、スーパーで買うと同じものが80円で入手できる。
で、いつも行く散髪屋の脇にある休憩所に行き、コーヒーを飲み、タバコを吸いながら雑誌のメイン記事を読もうと思った。冬日にはまれな陽光の射す午後だったからだ。ここには5台の八角テーブルがあり、手前の1台と奧の1台にスタンド灰皿が設置してある。
手前の1台は付近の私大生らしい、ジャージを着た若者が占拠していたので、奧の一台を目指した。60代前半と見られる男が、テーブル一杯に複数の買い物袋を並べ、プラスティック箱の弁当をほとんど欠けた歯で食っていた。
挨拶して隣の席に座って驚いた。5分刈りなので余計目立つのだが、左側頭部に幅7cmほどの、大きなホタテ貝の形をした傷(疵)がある。瘢痕だ。「よくこれで左耳がそぎ落とされなかったものだ」と思った。医学的には短刀のような、刃物で上から切り込まれたとしか思えない。長髪にすれば、疵は隠れるほどの幅だが、そうした配慮はないらしい。
タバコを吸い、コーヒーを飲み、当たり障りのない話をしながら、次第に疑問点に切り込んで行った。
ところがこの男、ふだん話し相手がいないと見えて、延々と身の上話を始めた。驚いたのは、現在は隣の食料品スーパーの店員をしていて、その勤務が終わったところだった。元は家具メーカーの社員で、山陰の浜田工場で在庫卸のため部材を棚から降ろしていて、約7mの高さの梯子から転落した。その際、熱湯パイプで頭を打ったという説明は到底、納得できなかったが、聞いているうちに「これは認知症だ」と確信した。その後、広島県三原市の須波温泉従業員などを経て現在に至る、という。「ああ、これは下流老人のひとりか」と得心が行った。
テーブルに置かれたビニール袋は、いずれも勤務先の食料品スーパーで買ったとおぼしきものばかりだった。アパートで一人暮らしだとは自らしゃべった。
この男の話に付き合って、コーヒー一缶を飲み干したが、雑誌は1ページも読めなかった。30分以上付き合ったので、適当に切り上げて、車に戻った。
ここで「発見」したのは、二つの点だ。
まず昔は「認知症」という言葉も、それに相当する実態もなかった。
歳を取れば記憶力とか認知(識別)能力が衰えるのは当たり前だが、昔の大家族制社会では年齢に応じた仕事の割り振り分担があった。老人になっても昔の記憶は保持されるので、老人には孫に昔話をする重要な役割があった。徘徊しても道路に自動車がいないので、はねられる恐れはなく、せいぜい溜池にはまって溺死する程度だった。
だから昔は「ボケ老人」などいなかったのである。みなそれぞれに貴重な存在だった。
つまり「認知症」というのは、過去50年くらいの日本社会の変容が生みだした病気なのである。「病気」とは社会規準からはみ出すものに対するレッテルにほかならない。
次いで思ったのは、「認知症の規準に当てはまる人でも、立派に働ける」ということだった。
2/22「毎日」のコラム「余録」が似たような話を取り上げている。
http://mainichi.jp/articles/20160222/ddm/001/070/144000c
だがこの記事は私に言わせてもらうと、ピンぼけだ。「青山さん」が働けることが重要なのか、51歳で「認知症」になってしまう社会が問題なのか、それがはっきりしていない。
同日の「産経」書籍広告を見ると、橋田壽賀子(90)「私の人生に老後はない」(海竜社)があり、「好奇心にまさる特効薬ナシ! <今>を面白がって前向きに楽しく元気に!」とあった。
名シナリオライターの橋田が存命とは知らなかったが、好奇心という自己刺激が脳を活性化させる点に異論はない。だが多くの人は、面倒くさがって好奇心を抱かず、テレビで安直な解を求めるというのも現実である。
私のように「アラバマ物語」の原題「マネシツグミを殺すこと」の意味を説き明かすために、DVDを観て、英語WIKIを検索して、半日を費やす人物の方が、「異常・変人」であるのは間違いないだろう。それは肯定する。だが好奇心にまさるボケ防止策はないとも主張したい。
私の言いたいのは、戦後における社会・家族環境の変化が、「認知症」を生みだしたということだ。ボケは昔から年相応にあった。だがそれを「病気」にしないと、医療や介護保険の対象にならなくなったとき、社会は「認知症」という新たな病気を生みだしたのである。
野田正彰「狂気の起源をもとめて:パプア・ニューギニア紀行」(中公新書, 1981/7)
は、実地調査に基づいて、高地パプア・ニューギニア人には精神分裂病がないという。原住民が海岸部に降りて「文明化社会」と接触すると、この病気が起きるとしている。
社会構造と脳機能異常との関係について、示唆に富む書である。
iPS工場、どうなってるのかな…皆待ってるよ。
「iPS細胞の舞台は研究所から病院へ移行する。第二ステージに入る」 日経電子版より
山中先生、ありがとうございます。
パーキンソン神経疾患、血液疾患の進行を止めてください。 尽力くださるすべての方に感謝します。
iPSからドーパミン産生細胞は作れるから、それを増やして注入したら症状を軽減できるかもしれないって考えられてる。
ただ繊維筋痛症のような痛みの症状があると精神的にも夢うつつだったり、手や足の位置が「認知」出来ないとかね。
認知症は、アルツハイマー病、脳血管性認知症、レビー小体型認知症、ピック病などの認知機能障害を主症状とする病気の総称です。これ以外の病気でも、一見認知症のような症状が出ることもあります。例えば、正常圧水頭症、老人性うつ病、アルコールによるウェルニッケ・コルサコフ脳症、脳腫瘍等々。これらは、原因によって認知症とは区別されます。中には適切な治療により回復可能なものもあります。だから、一見認知症のような症状であっても、ある病気の副次的な症状なのか、その病気と認知症が合併しているのかで、治療も違ってくるし、回復の可能性も違ってきますから、区別をしないで認知症や認知障害と言ってしまうのは間違いです。一過性の症状ならば、誰しも、体調が悪い時には、記憶力や注意力が低下するのは経験していることですから。
認知なんて言ってるからややこやしいんですよ。
ソープランドはトルコ風呂で、カルピスのトレードマークはクロンボがストローで飲んでるのが良いんです。
変な奴は「キチガイ」の一言で済みます。
簡単に行きましょうや。
人種差別表現以外はいいかも。