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ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【献本お礼など】難波先生より

2018-10-24 14:29:16 | 難波紘二先生
【献本お礼など】
 「原爆で死んだ米兵秘史」(潮書房光人社, 2016/7)の著者森重昭さん(81)から
 雑誌「夫人之友」9月号のご恵送を受けた。ありがとうございました。
 この方は40年がかりで広島で被曝死した12名の捕虜米兵の名前と被爆状況、遺族調査をなし遂げた人である。被爆時の自宅は己斐町にあったと記憶している。 私はオバマ大統領が、原爆慰霊碑に花束を捧げ、直後にハグした人物が森さんだと知り、すぐに彼の著書『原爆で死んだ米兵秘史』(潮書房光人社、206/7)を入手して読んだ。

 上記誌の記事「平和特集2. 被爆米兵遺族を訪ねて、森重昭さん初渡米記」によると昨年8月号でも森さんを取り上げたらしいが、未読だ。(その後森さんから同誌のご送付を受け、感動と共に読んだ。)
 映画「灯籠流し(ペーパー・ランタン)」が森さんの本を原作にした、ドキュメンタリー映画であることをこれで知った。映画は未見だ。

 私は昭和16年6月に、舟入病院前の自宅で生まれ、19年11月まで広島市(爆心地から1.5キロ)で過ごしたから、盆の灯ろう流しがあったら、記憶しているはずだ。空鞘神社の秋祭りで、子供の頭を獅子が噛むのが怖くて泣いたことや、川向こうの観音町にあったセルロイド工場が夜に焼けたことは、しっかり覚えている。
(火事は舟入公園で叔母に背負われて見たから、満2歳(数えで3歳)、昭和18年のことだったかも知れない。「折りたく柴の記」(新井白石)には「3歳で手習いを憶えた」と書いてあるから、満2歳の記憶が残る前例はある。)

 満3歳からの記憶はかなり残っているが、灯ろう流しは高校時代も見たことがない。これは舟入病院の西を流れる天満川と、平和公園西の本川、東の元安川とは川筋が違っているせいかも知れない。灯ろう流しは原爆ドーム近辺から始まったから、初めは元安川を流れていたのだろう。

 この雑誌「夫人之友」のP.79に心に残る言葉が引用されている。
<自分一人のためにしたことは、私たちと共に死ぬ。しかし他の人々、そして世のためにしたことは永遠に残り、不滅である。>(アルバート・パイク)

 もしスイス人のアンリ・デュナンが「北イタリア統一戦争」において、フランス軍とオーストラリア軍の決戦「ソルフェリーノの戦い」において、両軍に生じた4万人近くの死傷者が戦場に放置されている姿をみて、自らも救援活動に参加し、その結果を『ソルフェリーノの思い出』という著書として刊行し、国際赤十字を創立しなかったら、第1回ノーベル平和賞受賞者にはなっていないだろう。
 彼は「何故敵味方分け隔てなく救済するのか?」と尋ねられ、「人類はみな兄弟だから」と答えた。(ウィキ「デュナン 赤十字」による)

 森さんが『被曝死した米兵』について、大変な苦労の末、調査を完了され、上記書をまとめたのは、「人類はみな兄弟」というルナン と同じ精神に基づくものと私は考える。「世のためにしたことは永遠に残り、不滅である。」という言葉は、オックスフォード大動物学教授のドーキンスが「ミーム」という用語で表現したものと同じである。永遠に残り、不滅であるものに遺伝子以外に、「文化的要素がある」と彼は主張した。

 ドーキンスの原著はちょっと難解なので、
ブラックモア,スーザン(垂水雄二訳):「ミーム・マシーンとしての私(上・下)」(草思社 2000/7)
 を推薦しておく。これは心理学の大学教授ブラックモアが、ドーキンスの<遺伝する(世代間伝達される)文化的情報単位として「ミーム」がある>という説を受け容れ、ドーキンスの意見を聞きながら、まとめた本だ。訳者の垂水雄二も一流翻訳者である。

 釈迦や孔子やイエスの言葉が今に伝えられているのも、それがミームとなったからである。
 森さんの著書と行動が世界に与えた影響は、「中国文化賞」に値すると思う。

運営委員会で私が推薦し、2017年9月に「広島ペンクラブ」定例会で講師にお招きし、ご講演をしていただいたが、半ば強引に委員会で主張してよかったと思う。

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