【李承晩】佐々木春隆「韓国独立運動の研究」(国書刊行会)を読み進めている。本来153ページが印刷されていなければいけない場所に、143ページの内容が重複して印刷されているのを発見した。「落丁、乱丁」というレベルの話ではない。読んでいて文脈が通じないので、気づいた。1万冊以上、本を読んできたが、こういうのは初めてだ。全紙に片面同じものを印刷したのであれば、A5サイズだから、まだ31ページはこういうのがあるはずだが、それは見つからない。
元防衛大学教授(故人)による畢生の大作であるだけに、気の毒だ。溪水社のKさん、岩波のKさん、どうしてこんな現象が起こるのでしょうか?
143ページというノンブルが2箇所にあり、ひとつは本来の142ページの次ぎに、もうひとつは152ページの次ぎにあり、文章はまったく同じです。
私の考えでは、印刷用のフィルムを作成するときに、間違って143ページの画面を2箇所に挿入したとしか思われません。
しかし、「全紙印刷」での校正の段階で気づくはずですが…
韓国から「日本の降伏が遅れたために、朝鮮半島が南北に分断された」と日本が非難されている。韓国独立運動に生涯を捧げた李承晩の人生を調べることで、これがウソだとわかった。
第一次大戦が終わった1919年3月1日(以後「3・1節」として記念日となる)、ソウルの朝鮮総督府に隣接した公園に約5000人の学生が集合し、「大韓独立宣言」を読み上げ、そのあとデモ行進を行った。この後、運動は全国に波及し、暴動も多発し、テロ事件も起こり、日本政府は朝鮮総督を陸軍から海軍の斎藤實(大将、第3代総督)に交代させ、「文治統治」策に転換した。
1919年4月に上海で「大韓民国臨時政府」が樹立されたが、独立運動の統一ができておらず、「シベリアと満州」の臨時政府、朝鮮在住者が決めた「漢城政府」と臨時政府が三つもできた。このうちシベリア政府はまもなくコミンテルンの指揮下に組み込まれた。残りの二つの臨時政府から「総裁」あるいは「国務総理」に指名されたのが、アメリカで朝鮮独立運動を行っていた李承晩である。
李家は李王朝の祖李成桂の嫡孫を出発点とする名家だが、父親の代に没落した両班となった。六代続いた男ひとりの家系で、2度結婚した李承晩に生きて成人した男児がいないので、家系は絶えた。李は独立運動にかかわり、無期懲役刑を受け、6年受刑した後、米国に渡った。ここでジョージ・ワシントン大学、ハーヴァード大学、プリンストン大学と3つの大学に学び、博士号を取得している。その間にも、米国における朝鮮独立運動の中心となった。
1919年1月、パリで平和会議が始まると、李承晩は「臨時政府代表」として出席し、韓国の立場を訴えるつもりだったが、日本を刺激することを恐れた米国政府は旅券を発給しなかった。そこで李は平和会議参加国と米国務省に、「朝鮮を国際連盟の委任統治国(アメリカによる統治)にし、自治能力を身につけた時点で独立させてほしい」という「請願書」を2月に送ったが、どの参加国も日本に遠慮して受理を拒否した。
この「委任統治論」はすぐに朝鮮内外の同胞に知れわたった。1921年4月に上海で開かれた「大韓民国」臨時政府の会合では、反対派から「独立していないうちから、委任統治をアメリカに陳情した、売国奴だ!」と非難を浴びている。李承晩は京城時代に「毎日新聞」という日刊紙を刊行していたこともあり、メディア対策はうまかった。だから「韓国委任統治論」はアメリカでも良く知られていたと思われる。
朝鮮独立運動の指導者たちが、四分五裂していてとうていまとまりがつかないことが、ルーズベルト大統領に「朝鮮の国際信託統治」という案を、1943年3月のイーデン英外相との会談で提案し、同年11月の「カイロ宣言」で米・英・中の3国が発表するという事態につながったようである。
カイロ宣言の第3項は、「前記三大国は朝鮮人民の奴隷的状態に留意し、in due course 朝鮮が自由かつ独立したものとなることを決定した」とある。<in due course>は「やがて、いずれは」の意味であろう。語句はルーズベルト案をチャーチルが修正したものという。
ルーズベルトは「やがて」の期間を「40年」と考えていた。根拠はフィリピンを独立させるのに、35年かかったからだという。
この案は、スターリンも参加したテヘラン会談、1945年2月の「ドイツ降伏後、3ヶ月以内にアジアの戦争にソ連が参戦する」ことに合意したヤルタ会談でも受けつがれた。著者佐々木は、この「ヤルタ協定」の中に、朝鮮半島を37度線で南北に分割し、北をソ連が統治し、南を米国が統治するという暗黙の了解があったのではないか、としている。少なくとも李承晩はそう理解し、「朝鮮のソ連による支配」に反対する記者会見を行っている。
ところで中国の朝鮮人たちには、毛沢東の八路軍か国民党政府の「光復軍」に参加するものがあった。その光復軍の将軍で蒋介石と交渉し、その統帥権を臨時政府の下に置き、「韓国軍が中国軍と共同して戦う」というかたちにした金弘壱は、日本降伏の報に接して、「ついにわが光復軍は、連合軍の一員となって日帝と戦う機会を永久に失った。」と回顧録に書いている。
また、米国にあった「大統領」李承晩にかわり、臨時政府の主席をつとめていた金九は、「嬉しいどころか、天が崩れた感じであった。苦心惨憺の努力を費やして参戦を準備したのに、すべてむだとなった…」と同じく「回想録」に書いている。
つまり「建国の父たち」の見解によれば、「日本の降伏が遅れたために、朝鮮半島が南北に分断された」のではなく、「日帝には光復軍が連合国の一員として参加するまで、頑張ってほしかった」、ということになろう。しかも、「38度線を米ソが日本軍を武装解除する」境界線とすることは、日本の意思とは関係なく、米ソ間であらかじめ合意されていた。
このことは朝鮮半島の分割案が、ソ連参戦の代償としてすでに1943年の「カイロ会談」で米・英の間に合意が成立し、1945年2月のソ連を含めた「ヤルタ会談」でも確認されていたことを意味する。つまり朝鮮半島は対日戦にスターリンを同意させるための「餌」にすぎなかったわけである。スターリンはもとより日露戦争に敗北した結果、南樺太が日本に割譲されたことを国塾と考えていたので、この提案に同意したのである。
つまり「日帝の降伏が遅れたから南北に分断された」のではなく、「南北分断の合意があった」からスターリンが参戦したのである。38度線はあらかじめ、設定されていた分断線なのである。ここのところを韓国は意図的に誤報している。
李承晩は結局1945年10月に帰国できたが、祖国はすでにアメリカ軍政という、彼がかつて主張した「委任統治」下にあった。南朝鮮における彼の「対米即時独立」という政治的主張は、南朝鮮人の支持を集めたが、米国政府の反発を招き、「米軍の撤退」という米国政策をもたらし、北の金日成につけいる隙をあたえ、北の侵略による「朝鮮戦争」をもたらしてしまった。
こうしてみると、朝鮮人の不幸は誰のせいでもない。朝鮮人自らが生み出したものである。
また、来るべき大統領選挙についても、結果は予測できる。勝者は朴正煕の娘である。朝鮮史の立場からは、それ以外の選択肢は考えられない。
元防衛大学教授(故人)による畢生の大作であるだけに、気の毒だ。溪水社のKさん、岩波のKさん、どうしてこんな現象が起こるのでしょうか?
143ページというノンブルが2箇所にあり、ひとつは本来の142ページの次ぎに、もうひとつは152ページの次ぎにあり、文章はまったく同じです。
私の考えでは、印刷用のフィルムを作成するときに、間違って143ページの画面を2箇所に挿入したとしか思われません。
しかし、「全紙印刷」での校正の段階で気づくはずですが…
韓国から「日本の降伏が遅れたために、朝鮮半島が南北に分断された」と日本が非難されている。韓国独立運動に生涯を捧げた李承晩の人生を調べることで、これがウソだとわかった。
第一次大戦が終わった1919年3月1日(以後「3・1節」として記念日となる)、ソウルの朝鮮総督府に隣接した公園に約5000人の学生が集合し、「大韓独立宣言」を読み上げ、そのあとデモ行進を行った。この後、運動は全国に波及し、暴動も多発し、テロ事件も起こり、日本政府は朝鮮総督を陸軍から海軍の斎藤實(大将、第3代総督)に交代させ、「文治統治」策に転換した。
1919年4月に上海で「大韓民国臨時政府」が樹立されたが、独立運動の統一ができておらず、「シベリアと満州」の臨時政府、朝鮮在住者が決めた「漢城政府」と臨時政府が三つもできた。このうちシベリア政府はまもなくコミンテルンの指揮下に組み込まれた。残りの二つの臨時政府から「総裁」あるいは「国務総理」に指名されたのが、アメリカで朝鮮独立運動を行っていた李承晩である。
李家は李王朝の祖李成桂の嫡孫を出発点とする名家だが、父親の代に没落した両班となった。六代続いた男ひとりの家系で、2度結婚した李承晩に生きて成人した男児がいないので、家系は絶えた。李は独立運動にかかわり、無期懲役刑を受け、6年受刑した後、米国に渡った。ここでジョージ・ワシントン大学、ハーヴァード大学、プリンストン大学と3つの大学に学び、博士号を取得している。その間にも、米国における朝鮮独立運動の中心となった。
1919年1月、パリで平和会議が始まると、李承晩は「臨時政府代表」として出席し、韓国の立場を訴えるつもりだったが、日本を刺激することを恐れた米国政府は旅券を発給しなかった。そこで李は平和会議参加国と米国務省に、「朝鮮を国際連盟の委任統治国(アメリカによる統治)にし、自治能力を身につけた時点で独立させてほしい」という「請願書」を2月に送ったが、どの参加国も日本に遠慮して受理を拒否した。
この「委任統治論」はすぐに朝鮮内外の同胞に知れわたった。1921年4月に上海で開かれた「大韓民国」臨時政府の会合では、反対派から「独立していないうちから、委任統治をアメリカに陳情した、売国奴だ!」と非難を浴びている。李承晩は京城時代に「毎日新聞」という日刊紙を刊行していたこともあり、メディア対策はうまかった。だから「韓国委任統治論」はアメリカでも良く知られていたと思われる。
朝鮮独立運動の指導者たちが、四分五裂していてとうていまとまりがつかないことが、ルーズベルト大統領に「朝鮮の国際信託統治」という案を、1943年3月のイーデン英外相との会談で提案し、同年11月の「カイロ宣言」で米・英・中の3国が発表するという事態につながったようである。
カイロ宣言の第3項は、「前記三大国は朝鮮人民の奴隷的状態に留意し、in due course 朝鮮が自由かつ独立したものとなることを決定した」とある。<in due course>は「やがて、いずれは」の意味であろう。語句はルーズベルト案をチャーチルが修正したものという。
ルーズベルトは「やがて」の期間を「40年」と考えていた。根拠はフィリピンを独立させるのに、35年かかったからだという。
この案は、スターリンも参加したテヘラン会談、1945年2月の「ドイツ降伏後、3ヶ月以内にアジアの戦争にソ連が参戦する」ことに合意したヤルタ会談でも受けつがれた。著者佐々木は、この「ヤルタ協定」の中に、朝鮮半島を37度線で南北に分割し、北をソ連が統治し、南を米国が統治するという暗黙の了解があったのではないか、としている。少なくとも李承晩はそう理解し、「朝鮮のソ連による支配」に反対する記者会見を行っている。
ところで中国の朝鮮人たちには、毛沢東の八路軍か国民党政府の「光復軍」に参加するものがあった。その光復軍の将軍で蒋介石と交渉し、その統帥権を臨時政府の下に置き、「韓国軍が中国軍と共同して戦う」というかたちにした金弘壱は、日本降伏の報に接して、「ついにわが光復軍は、連合軍の一員となって日帝と戦う機会を永久に失った。」と回顧録に書いている。
また、米国にあった「大統領」李承晩にかわり、臨時政府の主席をつとめていた金九は、「嬉しいどころか、天が崩れた感じであった。苦心惨憺の努力を費やして参戦を準備したのに、すべてむだとなった…」と同じく「回想録」に書いている。
つまり「建国の父たち」の見解によれば、「日本の降伏が遅れたために、朝鮮半島が南北に分断された」のではなく、「日帝には光復軍が連合国の一員として参加するまで、頑張ってほしかった」、ということになろう。しかも、「38度線を米ソが日本軍を武装解除する」境界線とすることは、日本の意思とは関係なく、米ソ間であらかじめ合意されていた。
このことは朝鮮半島の分割案が、ソ連参戦の代償としてすでに1943年の「カイロ会談」で米・英の間に合意が成立し、1945年2月のソ連を含めた「ヤルタ会談」でも確認されていたことを意味する。つまり朝鮮半島は対日戦にスターリンを同意させるための「餌」にすぎなかったわけである。スターリンはもとより日露戦争に敗北した結果、南樺太が日本に割譲されたことを国塾と考えていたので、この提案に同意したのである。
つまり「日帝の降伏が遅れたから南北に分断された」のではなく、「南北分断の合意があった」からスターリンが参戦したのである。38度線はあらかじめ、設定されていた分断線なのである。ここのところを韓国は意図的に誤報している。
李承晩は結局1945年10月に帰国できたが、祖国はすでにアメリカ軍政という、彼がかつて主張した「委任統治」下にあった。南朝鮮における彼の「対米即時独立」という政治的主張は、南朝鮮人の支持を集めたが、米国政府の反発を招き、「米軍の撤退」という米国政策をもたらし、北の金日成につけいる隙をあたえ、北の侵略による「朝鮮戦争」をもたらしてしまった。
こうしてみると、朝鮮人の不幸は誰のせいでもない。朝鮮人自らが生み出したものである。
また、来るべき大統領選挙についても、結果は予測できる。勝者は朴正煕の娘である。朝鮮史の立場からは、それ以外の選択肢は考えられない。
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