この懐かしき本たちよ!

まだ私の手元に残っている懐かしい本とそれにまつわるいろいろな思い出、その他、とりとめのない思いを書き綴りたい。

# 183 倉田百三著「愛と認識との出発」2

2005年09月15日 | 宗教 思想 科学
今度の選挙で広島6区が話題を集めた。前自民党の所謂造反大物議員のK氏とそこに所謂「刺客」として送り込まれた若手のIT企業の経営者のH氏との間の選挙戦はメディアの恰好の報道の材料となった。K氏の出身地の庄原市とやはりその選挙地盤である三次市でこの2人が鉢あわせになったとテレビが報道していた。庄原と三次は私にとって昔から懐かしい土地であるような錯覚にとらわれる。それは、庄原がそれこそ私の懐かしい本である「愛と認識との出発」の著者の倉田百三氏の生まれ故郷であり、また三次が彼が旧制中学に通った土地であるからである。

この文庫本、倉田百三著「愛と認識との出発」には、私が1954年6月27日に購入したと記入してある。希望の大学への受験に失敗して浪人をしていたときである。この本は何度も何度も読んだ。大学に入学してからもこの本は何度も読んだ。誰もが持つ青春の悩みや憧れをこの本と共有した。

私達よりずっと上の世代の人達にとって、この本は必読書であったようだ。旧制第一高等学校の学生達は、この本を「でっぱつ」と称していたようである。

この作者は旧制高等学校の文科の学生であるにもかかわらず自分の才能なども考えてそのまま文科に進むべきか法科への道に変更すべきかと迷い悩んだことが書かれてある。これはその後まさに私の迷いにもなった。そしてその部分を何度も何度も読んだ覚えがある。

倉田百三は1891年(明治24年)に広島県比婆郡庄原町字庄原に生れた。庄原小学校で学んだ後1904年(明治37年)に三次中学に入学している。

私は50歳すぎてから庄原と三次に車で一人で行ったことがある。地理がよくわからなかったし、時間もあまりなかったので、庄原の町はよく見ていない。JRの庄原の駅には行ったが、明治の昔のままのような小さな駅だったような記憶がある。明治時代に倉田百三が乗り降りしたと同じような趣きだったような気がする。(私の記憶がちがっているかもしれないが。)

三次市は大きな川の流れる美しい地方都市であった。この町はたしか忠臣蔵の浅野内匠頭の奥方の瑤泉院はこの三次から赤穂に嫁いで来たのであったと思う。

この静かな地方は、私の倉田百三に対する憧憬の気持ちをあらためて強くしたのであった。

私はこの地方にも工場の一つを持つ会社にお世話になったことがある。
この会社の人達やこの工場の人達はみんな勤勉で親切なよい人達であった。よい思い出ばかりである。

今回のマスメディアによる喧騒の中でテレビでこの地方を再び垣間見ることができたが、当然のことながら倉田百三とは全く違う世界であった。倉田百三という名前を出したマスメディアは1社もなかった。そのような名前を知っているような人達はもう殆どいないのかもしれない。(つづく)


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