森田宏幸です。
今日は2010年1月8日です。
「ぼくらの」の「13話によせて」を書きます。
「「12話によせて」」では、このシリーズを通してのテーマについて書きました。今日はその続きでもあります。
「ぼくらの」に関わる前、古物屋の知人が、私にこんな話をしてくれたことがあります。
「近頃、世の中のルールが変わったような気がする。見えないところで新しいしくみが決まったというか。これからはきっと、若い人たちが大変になる」
この知人は「生前葬」の話題の時に書いた同人誌の仲間のひとりでした。古物屋とは、取り壊される家屋などがあると出かけて行って、いらない物を引き取って売る商売です。この方は50代後半のベテランで、物の流通のことなどにくわしかった。それで酒を呑みながらふと、上のような話になったのです。
酒の席ということもあり、くわしい話は聞けませんでした。物の流通の隠れた場面で、どんなことが起こったのか、想像もつきません。でも、「これから若い人たちは大変になる」という言葉だけは、記憶に残りました。
こうした、成長経済の中で生きて来られた50代以上の先輩方と付き合っていると、自分たちとの違いと、さらには自分より若い人たちとの違いが意識されました。先輩方には余裕があるというか、どこか楽天的な感じが常にあって、それに比べると、30~40代の自分たちは余裕がない。さらに、若い人たちになるともっと、という気がしてならなかった。
私自身の実感では、90年代に入ってからが、どうも怪しい。若い人たちが犠牲になっている時代なのではないか、と、そんな気がしてました。児童虐待のことを言ってるのではありません。もっと、当たり前に自分たちが受け容れていることがら。社会のしくみや文化や産業の構造のことです。アニメーションや漫画などサブカルチャーのあり方も関係があります。
そんなことを思っている時にこの「ぼくらの」の企画と出会いました。「これはゲームだ」と言われて、騙されて死ぬことになる子どもたちの話を受け取って、この物語は、現代の若者たちを取り巻く状況を描いているのかも知れない、と思いました。
シリーズ構成を作りながら、生け贄、罪の償いなど、いろいろなテーマ性を模索したと「12話によせて」で書きましたが、結局、今は若い人たちが犠牲にされている、食い物にされている時代なのだ、というテーマが、この物語の根幹にしっくりくる、と私は考えました。
ただし、これをスタッフに説明するのは難しかった。上のような状況証拠を並べ立てるしかなかった。こうしたテーマというものは、物語の底流にあればよいものですから、困りはしないのですが。
実は、そんな私の考えを、なぞるように、しかも明快に書き表してくれている本と、制作が終わってしばらくたった去年の中頃、出会いました。堀井憲一郎(ほりい けんいちろう)著、「若者殺しの時代」(講談社現代新書)という本です。もっと早く読んでいればよかった。
この本の中で堀井氏は、次のように書いています。
(「まえがき」から転載始め)
ただ、「若者だってことだけで得をする時代」と「若者だってことだけで損をする時代」というものはたしかにある。
(転載終わり)
そして、その「若者が損をする時代」は、80年代に始まったとして、主に文化の面から、それを細かく考察しています。
これ以上のくわしい話は、本を読んでいただくのがいいと思うのですが、ひとつだけ、私が非常に感銘を受けた箇所があるので、引用して紹介します。
1989年にメディアを賑わせた「一杯のかけそば」騒動について、堀井 憲一郎氏が考察している部分からの引用です。
(22ページから、転載始め)
世の中には「自分は人を騙さない。でも人からも騙されずに生きていたい」というムシのいいことを考えてる人が多いこともわかった。
僕は、世の中には「騙す人と騙される人」の二種類しかないとおもっている。
1 騙す人。
2 騙される人。
これで全部だ。どっちかを取るしかない。
でも、世間のみんなはそうはおもっていないということを知った。みんなその中間のポジションを取りたがってるのだ。
無茶だとおもう。
騙されないためには、人を騙すしかない。
人を騙すのは、言葉ではない。関係性だ。気持ちのやりとりで相手の感情を自由に動かせる状況を作っておくだけだ。人を騙すときに会話は必要ない。会話なんかしてはいけないのだ。ペテンとは、ペテンにかかってくれる状態に相手を巻き込んでおいて、あとはただ通告するだけである。そこに会話は存在しない。そんなことは、ペテン師になるやつは子供の頃から知ってる。
だから、社会で生きていくには、二つに一つを選ぶしかないのだ。
一、騙す人間になる。
一、騙されるのはしかたがないとおもって真っ当に生きる。
どちらかを選ぶしかない。もちろん騙されるほうに立っても、大きく騙されることもなく生涯を終えられることもあるだろう。騙す側を選んでも、表立って人を騙すことなく、平穏に人生を過ごせる可能性だってある。でも、それは結果である。どっちのサイドにつくかはきちんと自分で決めないといけない。人生の成り行きは自分では決められない。そういうものだ。それは紀元前5世紀のギリシャでも、7世紀のゴート王国でも12世紀のバスラでも、21世紀の東京でも同じだ。人がいる限り同じである。
(転載終わり)
森田宏幸です。
この堀井氏の洞察には驚きました。と同時にとても納得できました。皆さん、とくに若い皆さんは、この堀井氏の洞察を生活の深いところで役立ててください。
「これはゲームだ」と言われて「ぼくらの」の子どもたちは騙された。マキのような子でさえも、苦しみながら死ぬことになった。そこに意味のある理由なんてあるのか? この世の中は騙すか、騙されるかしかないという現実感を持ってみれば、生け贄だとか、罪の償いだとかの高尚ぶった位置づけは意味がない、ということだと思いました。
今日はこれで終わりです。
今日は2010年1月8日です。
「ぼくらの」の「13話によせて」を書きます。
「「12話によせて」」では、このシリーズを通してのテーマについて書きました。今日はその続きでもあります。
「ぼくらの」に関わる前、古物屋の知人が、私にこんな話をしてくれたことがあります。
「近頃、世の中のルールが変わったような気がする。見えないところで新しいしくみが決まったというか。これからはきっと、若い人たちが大変になる」
この知人は「生前葬」の話題の時に書いた同人誌の仲間のひとりでした。古物屋とは、取り壊される家屋などがあると出かけて行って、いらない物を引き取って売る商売です。この方は50代後半のベテランで、物の流通のことなどにくわしかった。それで酒を呑みながらふと、上のような話になったのです。
酒の席ということもあり、くわしい話は聞けませんでした。物の流通の隠れた場面で、どんなことが起こったのか、想像もつきません。でも、「これから若い人たちは大変になる」という言葉だけは、記憶に残りました。
こうした、成長経済の中で生きて来られた50代以上の先輩方と付き合っていると、自分たちとの違いと、さらには自分より若い人たちとの違いが意識されました。先輩方には余裕があるというか、どこか楽天的な感じが常にあって、それに比べると、30~40代の自分たちは余裕がない。さらに、若い人たちになるともっと、という気がしてならなかった。
私自身の実感では、90年代に入ってからが、どうも怪しい。若い人たちが犠牲になっている時代なのではないか、と、そんな気がしてました。児童虐待のことを言ってるのではありません。もっと、当たり前に自分たちが受け容れていることがら。社会のしくみや文化や産業の構造のことです。アニメーションや漫画などサブカルチャーのあり方も関係があります。
そんなことを思っている時にこの「ぼくらの」の企画と出会いました。「これはゲームだ」と言われて、騙されて死ぬことになる子どもたちの話を受け取って、この物語は、現代の若者たちを取り巻く状況を描いているのかも知れない、と思いました。
シリーズ構成を作りながら、生け贄、罪の償いなど、いろいろなテーマ性を模索したと「12話によせて」で書きましたが、結局、今は若い人たちが犠牲にされている、食い物にされている時代なのだ、というテーマが、この物語の根幹にしっくりくる、と私は考えました。
ただし、これをスタッフに説明するのは難しかった。上のような状況証拠を並べ立てるしかなかった。こうしたテーマというものは、物語の底流にあればよいものですから、困りはしないのですが。
実は、そんな私の考えを、なぞるように、しかも明快に書き表してくれている本と、制作が終わってしばらくたった去年の中頃、出会いました。堀井憲一郎(ほりい けんいちろう)著、「若者殺しの時代」(講談社現代新書)という本です。もっと早く読んでいればよかった。
この本の中で堀井氏は、次のように書いています。
(「まえがき」から転載始め)
ただ、「若者だってことだけで得をする時代」と「若者だってことだけで損をする時代」というものはたしかにある。
(転載終わり)
そして、その「若者が損をする時代」は、80年代に始まったとして、主に文化の面から、それを細かく考察しています。
これ以上のくわしい話は、本を読んでいただくのがいいと思うのですが、ひとつだけ、私が非常に感銘を受けた箇所があるので、引用して紹介します。
1989年にメディアを賑わせた「一杯のかけそば」騒動について、堀井 憲一郎氏が考察している部分からの引用です。
(22ページから、転載始め)
世の中には「自分は人を騙さない。でも人からも騙されずに生きていたい」というムシのいいことを考えてる人が多いこともわかった。
僕は、世の中には「騙す人と騙される人」の二種類しかないとおもっている。
1 騙す人。
2 騙される人。
これで全部だ。どっちかを取るしかない。
でも、世間のみんなはそうはおもっていないということを知った。みんなその中間のポジションを取りたがってるのだ。
無茶だとおもう。
騙されないためには、人を騙すしかない。
人を騙すのは、言葉ではない。関係性だ。気持ちのやりとりで相手の感情を自由に動かせる状況を作っておくだけだ。人を騙すときに会話は必要ない。会話なんかしてはいけないのだ。ペテンとは、ペテンにかかってくれる状態に相手を巻き込んでおいて、あとはただ通告するだけである。そこに会話は存在しない。そんなことは、ペテン師になるやつは子供の頃から知ってる。
だから、社会で生きていくには、二つに一つを選ぶしかないのだ。
一、騙す人間になる。
一、騙されるのはしかたがないとおもって真っ当に生きる。
どちらかを選ぶしかない。もちろん騙されるほうに立っても、大きく騙されることもなく生涯を終えられることもあるだろう。騙す側を選んでも、表立って人を騙すことなく、平穏に人生を過ごせる可能性だってある。でも、それは結果である。どっちのサイドにつくかはきちんと自分で決めないといけない。人生の成り行きは自分では決められない。そういうものだ。それは紀元前5世紀のギリシャでも、7世紀のゴート王国でも12世紀のバスラでも、21世紀の東京でも同じだ。人がいる限り同じである。
(転載終わり)
森田宏幸です。
この堀井氏の洞察には驚きました。と同時にとても納得できました。皆さん、とくに若い皆さんは、この堀井氏の洞察を生活の深いところで役立ててください。
「これはゲームだ」と言われて「ぼくらの」の子どもたちは騙された。マキのような子でさえも、苦しみながら死ぬことになった。そこに意味のある理由なんてあるのか? この世の中は騙すか、騙されるかしかないという現実感を持ってみれば、生け贄だとか、罪の償いだとかの高尚ぶった位置づけは意味がない、ということだと思いました。
今日はこれで終わりです。
監督のお話また読みたいですbr>
お忙しい中更新も難しいと思いますbr>
ほとぼりが冷めたらぜひ、またお話し聞かせてください
現実を見ない、いい所の奥様方。
そんな、願望を現実と決め込んで、
実際の現実の醜さから目を背けてる人達。
その目の背け方の醜悪さを、貴方の信条に感じる。
貴方は他人と協調できないと言う。
現実を願望混じりでこうと決め込んで、
その思いこみと付き合っているのだから、
たしかに貴方に人は要らない。
なぜ、他人は必要ないと、はっきり言わないの?
迷惑なだけだよ、他人と付き合っているふりをしている、
貴方のような妄想家は。
みんな、貴方がどういうものかは分かってる。
駄々をこねるのは、独りだけでやりなさいな。
貴方のような妄想家は。
みんな、貴方がどういうものかは分かってる。
駄々をこねるのは、独りだけでやりなさいな。
http://ame-tk.net/2ch/260
言ってしまったものは訂正も取り消しもできないんだよ!
たとえ自分が思っていた意味以外に解釈されてもな!
フロイト先生もそういってるし。
このアニメ自体そうですけどね
これまでと違い原作から解き放たれたアニメ版に期待です
とはいえ最近の原作も相当気合入ってますからね、勝負してるわけじゃないけど楽しみです
ダイチの顔が面白かった
いいじゃないですか、オリジナル展開。
ただ、マチが怪しいってサイン送りすぎじゃないですか。
ゴンゾのアニメで初めてシンクロ出来そうな感じがしてきたんで、
来週以降も期待します。
君には見えないように書いてある
ってのは嘘。空欄で間違い無い。
監督「俺はごちゃごちゃ言わないからアニメ見ろ」って意思表示なのでは。
まぁ、これも妄想でしかないわけだが。
お前には、あの悪意に満ちた文章が心の目で見えないのか?
言い訳すんなって言われたから書かないみたい。
ただ、意見・批判は受け付けるみたいだから、コメ欄に書く為の更新と思われる。
多分、正常な更新、監督のコメントがあるのは最終話終わってからじゃないのかな。
絵は空席バージョンで★
二番の歌詞の「永遠に空席だろう」のくだりを、是非とも活かして欲しいのだよ...!
私は13話好きです。
原作も読んでいますが、
正直ナカマ編、モジ編は原作を読んでいて、
原作のその話が好きで、という立場からも
アニメだけの視聴者でこの作品に触れていても
あまり好きな回ではなかった。
マキ編前編も正直なんだこれ…と思いつつ見ていましたが、後編は素直に感動しました。
新EDもとても良かった。
次回はキリエ編ですが、
次回からはまったくのオリジナル展開になるとのこと。
原作どおりの展開を望んでいるわけではありません。
アニメがどういう展開を迎えるのかとても楽しみです。
森田監督なりの命の描写を、こちらも真剣に見つめていきたいと思います。
って言われたんだろうな。
まぁしょうがないわな。
アニメは最近またおもろくなって来たんで
見てるよ。
直接コメントが書けて、制作に関わる人が読んでくれているような場所があるだけでも恵まれてるのにさ。
逆にアニメが終わってないのに中途半端にここがなくなる方が、今までコメントを書いてきた人に対して失礼だと思う。
新EDは正直笑ってしまいましたが。
でも、これもアリなのかな?うーん。
ものつくる大変さを知ってるのにバカにするの?
ものつくることを辞めるのですか?
ただ言われたことをただ言われたようにするだけの機械になるのですか?
人は反省する生き物で心が変わる生き物で心が分かる生き物で
誠意さえ見せれば分かる人もいるのかどうなのか
自分のすることはしたことはしていることはどうなのか
これからのことを考えて改めるべきなのかどうなのか
人は周りにあるものに引き寄せられるのか人格に引き寄せられるのか
視聴者は人なのか鴨なのか
13話、拝見致しました。
「向こうの世界の人々」の、自分達だけでなく戦う敵の事情までを全ての人々が知った上で戦いを応援し、相手の情に訴えようとする様子を描かれたことに、感心しました。
そして、マキの台詞に対し、ウシロに「向こうも違わない」と言わせてくれたこと、これが何より嬉しいことでした。
原作のマキ編は好きなエピソードですが、ただ、マキが100億人を殺すことを決意したときのあの台詞は、好きになれなかったのです。それは、人が戦争で敵を殺すときに言う台詞だからです。もちろん私も、自分がその立場になれば、まずそう考えてそのミッションを行います。しかし、ほとんど全ての人にとって、その台詞が圧倒的に正しさを持つからこそ、フィクションの作品でその台詞を目にすることに嫌な気分がしたのです。鬼頭先生の意図は、まさにその嫌な気分を読者に起こさせることにあったのだろうと推測していますし、そしてその嫌な気分を安易に起こさせないための仕掛けとして、巧妙にもラストに感動的な「命の光」を描かれたと私は思っています。
しかし、アニメではウシロに明示的に、マキの言葉のもつ裏の部分を指摘させたことで、原作と相乗的にこのシーンのもつ意味を高めさせることができました。これこそが違うメディアで作品化することの醍醐味の一つだと思いますし、森田監督のメッセージが伝わってきた部分でした。
そして、宇宙の消滅する過程を子供たちに見させるということで、違う形で戦いの持つ側面を子供たちに見させたという演出は。まさにアニメの強みを発揮した部分で、これも制作者の意図を感じられた、良い部分でした。
以下は気になる部分です。
キリエの登場シーンがダイチ編から不自然なほどに減っていることには、疑問を通り越して不満を持っている視聴者の方もいるのではないかと思います。今回も田中さんが子供たちを呼ぶシーンで、キリエだけが無視されたようなかたちになっていることには、同様の感想があるのかなと思います。「大人の事情」を勘ぐる人さえももしかしたらいるのかもしれません。この不自然さが、意図に基づいた狙った不自然さであることを、キリエの回となる15話に期待して待っています。
あと、今回のフィールドとなった世界では、全ての事情を皆が知っているのだから、戦場は無人の地になるべきなのではと思いました。この辺りは、演出企図を優先するか、整合性を優先するかで前者を取るべきという哲学に私は同意しますが、後者が気になるという人もやはり相当多いのだろうし、そう言う意味で難しい選択をされたなと思います。
最後に、新EDのVermilionは、石川さんにまた素晴らしい曲を提供して頂きました。石川さんはHPでこの作品への思い入れを語っていますが、自らの視点を作品世界に入れて作った楽曲の提供と、アニメの演出の一部が反映されたPVを曲の宣伝に使って頂いたことは、制作者として冥利に尽きることかと推察致しております。
以前のエントリで、OPと前EDには必ずしも満足をされていなかったと監督はお書きになっていましたが、今回のEDに関してはどのように評価されているのでしょうか。
鎖の発端を少々意外な感じのココペリで始め、末端を第一回のOPからして多くの人が怪しいと思っているだろうマチで隠しもせずに締めたこと、皆がいい顔の笑顔でいること、ウシロとカナが手を繋いでいることなど、いいEDだなと感じました。
長文、失礼致しました。完全オリジナルとなる第二クール、「もりたのぼくらの」を楽しみにしております。
本編の方も面白かった。
がんばってください。
社会の描き方を変える、みたいなことを仰ってましたが、こういう方向なのでしょうね。
原作は戦闘の間隔が狭いのですが、アニメのように挟まれる日常、及び動いている社会との触れあいがあるとまたキャラの立ち具合も変わってきますね。
終盤の外国人風の男に囲まれた時の、マチの対応や、アンコがカンジを呼ぶ声などもいい感じでした。
EDですが、途中までは出撃順でしたが、キリエあたりから変わりましたね。
キリエ・チズ・カコが繋がってるのは同じ学校だからっていうのでわかりますが、コモとマキも繋げて欲しかったですね。
アニメでは同じ学校じゃないという設定だと思いますが、なんとなく。仲良しですし。
ウシロ兄妹とアンコ・カンジはいいですね。
ダイチはこっち見過ぎw
アウェー地球の人々の反応の描写も、情緒がなさすぎるという度々指摘される原作の弱点を補う意味で良い補完です。
OPにあるシーンが変更されていたのは少々?な感じですが、オリジナルの表現もテーマ的にぼくらのから外れるわけではないので問題なし。
しかし、キリエがパイロットに選ばれてからも完全に無視されてるんですがw
これはぼくらのいじめですか?
田中の!って感じですね♪
でも面白いです。
監督に聞きたいんですけど新しいエンディングが
完成したときガンダムっぽいとは思いませんでしたか。
いや、すごくいいエンディングなんですが( ´・ω・`)
OPも変わるのかな?楽しみです。
こんなふうに感じるのは私だけ?
原作でも宇宙が消滅する設定ですよ。私は人間中心主義ではなく地球中心主義だなと思いました。
EDも変わって、いよいとオリジナル展開ですね。
EDの雰囲気に大分違和感を感じましたがオリジナルストーリーになっていくと合ってくるのでしょうか?
おそらく監督の意向に沿った雰囲気作りになったのだと想像致します。
これからは「ぼくらの」ではなく「もりたの」として拝見させていただきます。
枠だけでもアップして整理されているのでしょう
あとでご自分で感想のデータをとるにも見やすいですし、
視聴者も感想を書きやすく読みやすいでしょう
更新を止められているというよりは今は時間がないのだと
思われます
お気遣い感謝します
ご自愛を
>ED...最終回は『リトルバード』に戻して欲しいなぁ......
>絵は空席バージョンで★
>二番の歌詞の「永遠に空席だろう」のくだりを、是非とも活かして欲しいのだよ...!
激しく同意。
2番を不意打ち的に聞いたら、泣けてきたからなぁ。
思われます
んなわけねーだろ。
上層部や関係者から
終わるまでは余計なこと書くなって
言われたからに決まってる。
ところで前防衛大臣のようなケジメをつけないようだが、前農水大臣のようなケジメにする気なのか?
何を持って断罪しているんだよ。
馬鹿が調子ついているとしか思えない。
受けたんじゃねーのか?
気に入ってる作品の貴重な映像化の機会を台無しにされた。
少ないオツムでも、これで理解できただろ?
パクリっすか?
13話は、それなりに良かった気がします。
何となく負けた時系列ポンの映像に抵抗あった。
ただ、マキが死ぬシーンでアレンジ版のlittle birdが流れたのは非常に良い演出だったと思います。
それおまえが被害受けたわけじゃないジャンww
10万部も売れてないのに映像化してもらったことを感謝しろよw
アニメがインフレしてるせいでこういう思い上がってやつがいて面白いなw
ワンピースやナルトみたいに忠実にやって欲しいなら、もっと買えよ軽く100万部くらいww
ただアニメ作るにあたっての参考にしたいだけだろ。
相手のコメントに腹を立ててるか
気にくわないから、
もしくはただ単に荒らし目的らしいぜ?
>ケジメって言っている奴は何か被害でも受けたのか?
受けたんじゃねーのか?
気に入ってる作品の貴重な映像化の機会を台無しにされた。
これって最近の馬鹿親が学校に基地外論理で文句言うのと全く同じで笑えるw
マキの父親のさりげない言葉の演出や、宇宙の崩壊、新展開、とてもよかったです。
どこへ帰結するのか、本当に興味がつきません。
分岐する世界や世界の存在を扱うgameというと、方向性は違いますがハウル原作者の作品「バウンダーズ/この世で最も邪悪なゲーム」を思い出します。
それとはまた別に、ノアの方舟の寓話もなぜか頭を過ったりもしています。
もしももっと普遍的な描かれ方の物語になっていたら、名作文学と成りえたように感じました。SFのジャンルになると思いますが。
これは原作であれアニメ版であれ、落とし所がとてつもなく難しい話ですね。
今回大きく舵切りをされたという感じがしましたが、実際どうもっていかれるのか予想がつかないおもしろさがあります。
何となく方向性は見え隠れしている気もするのですが、それをどう演出して落とすか。
オリジナル展開とキリエの取り扱いがとても気になります。
アニメ制作と原作の発表されたタイミング、原作者との打ち合わせ、それによっても大分難易度も変化するように思います。
早く全話見てしまいたい欲求にかられていますが、毎週の楽しみが増えてうれしい限りです。
今後に生かせる有用な具体的批判意見が出せず申し訳ないと思っています。
スジが通っていれば些末な事にこだわらないので・・・
少しでも感心感激させられる場面や演出がある事が、読書でも鑑賞でも楽しみになっています。
そんな楽しみが今後も発見できる事を期待しています。
なんだかマキがアニメ版ぼくらのの中で一番幸せなそうな最期だったような気がします。
今までの子達は、なんだか原作よりも酷な最期だった気がしてたんで。マキ好きには嬉しい限りです。
あのアウェイの地球消滅のシーンもアニメならではな演出だと思うんで素晴らしいなと思いましたよ。
カンジの名台詞をマチに持っていかれちゃったのは残念でしたが。
EDも、ぼくらのを愛してくださっている石川さんの曲というだけで満足です。
でも、私もやっぱり最終回はリトルバードにして欲しいなと思ったり。
うん、良かったです。良かったですよ。マキが弟を抱いて亡くなるシーンまでは。
なんかもう…その後が…仲良かったはずのマキが死んだっていうのにコモ様家に帰ったらもうケロッとしてるし…キリエは紋章顔に出ちゃってなんか凄い可哀相な事になってるし…来週はキリエのターンなはずがキリエの出番なさそうな感じだし…キリエはぶられてるっぽいし…(泣)
監督はキリエがお嫌いなんですかね…?
まぁまだキリエ編やってないんでなんとも言えませんが。
それと…なんなんですかね。私個人としてはアニメ版のレギュラーキャラクターにまったく魅力を感じないんですが。
とくに今回の友達の死に無関心の様なコモとアンコには本気で腹が立ってきました。
原作とは親や家庭環境が違う子がいますので、それはそれでいいと思うし、性格も変わって当たり前だと思っています。
でも性格改変するにしても、もう少し魅力的な描き方があったんじゃ…。特にコモ…。
人間味は増したと思いますが、その分架空の物語の登場人物だからこそ出せるような魅力的部分が削られてる気がします。
長々すみません。
本当はこの辺で終わらせるべきなのですが、一つ気になったことがあったので最後に書かせていただきます。
この回に直接関わる話でないのであれなんですが…。
監督…チズの子供の椅子は何処ですか?
(以下、ネタバレします。すみません。)
原作では、マキはベビーベッドに座っていますよね。
原作読者の間では、『ベビーベッドはマキの物ではなく、本当はチズの子供のためのベッドだったんでは?』というのが定説になりつつありますし、
私もそうだと思っています。
ですから、アニメで椅子が大幅改変したときは、チズの妊娠、未契約者説カットかな、と思ってたんですがアニメで普通に出てきて本当に驚きました。
チズの子供もチズと同時に契約し、パイロットとして含まれてて、生まれてないにしろ一人分となっているんですからチズの子供用の何かがないとおかしいんでは…?
考えすぎですかね…?
以上です。
もし以前にどなたか同じことを質問していらしたり、監督からのお答えがすでにあったなら本当に申し訳ありません。
失礼しました。
必死だな
どうも完全オリジナル部分は穴だらけのアホ脚本で興醒めだわ…
ところでパイロットが足りないと思うんですが
そこらへんどうなるのですか?
誰かわかる?
コエムシが助けてくれる保障はないかと。
駒が足りなくなったら新たに補充するだけの話。
原作派でしたが、
オリジナル展開好きですよ!
斜め上の対応でぜひ子供たちを救ってください><
>少ないオツムでも、これで理解できただろ?
鬼頭さんの原作ファンがこんな低脳ばかりじゃないと思いたいね。
被害妄想どころか立派な基地外だこいつ…。
多分一部の粘着だけだと思うな。
アニメの内容批判する人はいっぱいいると思うけど、
監督の失言騒動が一段落した後に、監督批判や原作万歳しているコメント見ると、
だいたい内容が同じなんだよな。もちろん全部同じじゃないけど。
ほとんどの原作ファンは、もう冷静になっていると思うよ。
コエムシのネタバレ→戦闘→コアの皮むきって流れにした事は、
ちょっと好きになれない。
「戦闘→ネタバレ」より「ネタバレ→戦闘」の方が、
闘う意味に重みがでて良かった面はあるけど、
それならコアの皮むきは無かった方が良かったんじゃないかと。
原作の皮むきは何と戦ってたのかをハッキリさせる意味があったけど、
ネタバレした後にコアの皮むきじゃマキが悪趣味なだけに思えちゃうし、
キリエの助言の重みが全く違っちゃうわけで。。。
それ以外は結構良かったと思います。
とくに地球終了のシーンとか。
例えば、だんだん透明になって存在感が無くなり、やがて漆黒の宇宙に溶け込むイメージです。
その後、漆黒の宇宙に点々と光る星が消えていくシーンがありましたが、あれは私個人のイメージにピッタリでした。でも、爆発なら一瞬大きく光ってから消えるのでしょうけど・・・
それから宇宙空間に唯一の存在として漂うジアースのシーンは劇場版エヴァンゲリオンを思い出しました。いえ、偶然似てしまったことは分かっています。
キリエの扱いがあまりにも酷いと思います。
今回も突っ込みどころ満載だったけれど
マキが弟を抱いて、椅子に揺られて死ぬシーンと
別世界の地球が消滅するシーンは
良かったと思います。
EDが変わりましたね。
歌は相変わらず素晴らしいのですが
あの絵は何とかならないでしょうか・・・・(失笑)
出来れば修正をお願いしたいです。
なんだかんだ言っても、毎週楽しみにしてるので。
ただ、戦闘中にキリエのアドバイスが殆ど無かったのが気になりました。原作ではモジ死後から自分の番が来るまでの短い間ですがキリエは戦闘アドバイスの役割を担っていただけに、なんだかさもしいです。
アニメのキリエはとにかくはぶられてるという印象しかありません。そこのところは何か考えがあってのことなのでしょうか?
あと、一つ気になったのですがアニメではナカマ~マキの間アウェイでの戦いが続きますよね。心臓をナギに提供する必要があったモジの時はともかく、ナカマの時も地球の滅亡の瞬間に立ち会っていないのはどういうことなのでしょうか。
それから、色々反対意見も多いようですが私は新ED好きです。原作の筋書き(椅子)から解放されて先の見えないストーリー展開(無重力空間)への移行が1枚絵で表されていて「アニメのぼくらのはこれからだ!」という感じが出ていていいと思います。
個人的にはいつもどこか寂しそうな顔をしているキリエ、ナカマ、モジの三人が本当に嬉しそうに、或いは物凄く楽しそうに笑っている様子が見れて、見ているこちらも嬉しくなってきます。
森田監督が鬼頭氏の原作にどう決着をつけるのか、とても楽しみです!
しかしそれならば、街中なのに相手側から先に仕掛けてきたというのはどうかなと思いました。
コアの皮むきとコエムシの説明の順序の逆転は意図が掴めませんでした。原作キリエ編の「殺した相手を知っておいてほしい」を自主的にしたということでしょうか?
原作のカンジの台詞を言ったことも含め、マチのあのシーンは今後の伏線・・・と考えるのは考えすぎでしょうかね。
相手の宇宙が消滅する様を見せるシーンとマキの最期のシーンは好きです。
後半は好きではないですね。
監督は田中さんを中心とした大人たちを主軸にした展開にしようとしているように感じましたが、私はあくまで子供たちの視点で描いたほうが「ぼくらの」っぽい気がして好きなので。
キリエの出番があまりにも少ないのも伏線と考えておきます。(希望含む。いじめじゃないですよね?w)
それよりもどちらかといえばコモの扱いが酷いような・・・
原作ではコエムシさえ認める「普通の子」なはずなのに、マキが死んでもケロっとしているところといい(これはアンコもですが)、「いい生地」発言といい・・・
コモとアンコはもっと繊細に描いて欲しかったなぁ。
新ED、歌は好きですが絵はちょっと・・・特にダイチはこっち見すぎかとw
私も最終回の最後はlittle birdで締めてくれると嬉しいですね。
なんかアニメの仕事って大変らしいくらいしか
知りませんが、自分のつくったものを大勢から
こんなリンチみたいに言われなくちゃいけない
って、本当にアニメのファンって多いの?とか
思いましたね。
作る側の人だって、何も変わらない人間なん
だからこんなこと言われ続けたらモノを作る
なんてできないだろうに。
俺の好きな作品じゃない!お前は死んでしま
えみたいな言葉の暴力には辟易です。
自分もその内の一人です。
監督の件の発言等でいろいろとアニメに関しては諦めていたのですが、これはこれで新たな表現形態として受け入れられる面白さを含んでいると思います。
皆さんのコメにもあるように、マキのラストはよかった。
原作で非道であり続けることを選んだマキのラストは、つんのめるように床に崩れ落ちていることから、その死の側面に内在的に抱えてしまった悪がちらりと見えている(比較によって初めて見えた印象ですがw)。その点まだ運命に翻弄されている感の強いアニメ版では、亡くなり方も優しいイメージでした。
ただその意味では監督も以前仰っていたように、マキの内面描写があまりにも乏しいことを指している。
彼女を捨てた母親の存在。それについての思考は一切省かれ、今ある幸せな形のみにマキの目線は向いている。加えてウシロに対する恋心(と自分は解釈していますが)もイベントがないため見えなかったり。
「あたしはやっぱり、女の子なんだなぁ。」という台詞が無かったのは、やっぱり寂しかったです。
いくらそれでマキに残忍な未来が待っているとしても、彼女のアイデンティティにもう少し近づいてみて欲しかったです。
あとは皆さんがコメントされているように、コエムシの説明順番だとか、不憫なキリエとか、コモの性格改変(に近い)など。
気になる点はありますが、ほぼ同文なのでコメントは省略します。
恐らく今後は田中さんを主軸に据えて、彼女の視点を踏まえつつ話が進んでいくのかと推測しますが、やはりそれはアニメという体勢上仕方ないことなんですかね……。子供達に個別に視点を与えすぎて冗長になるよりかは、一つ引いたポジションで静観できる田中さんを使うほかありませんし。関さんは役に立たないしw
原作は自分の中で連続した一貫性のあるショートショート、として認識しています。それが子供一人一人に大きな存在感を与え、原作の魅力にもなっている。
アニメはそれを俯瞰する形で、統合した作品群として見ている。
この違いを元に、もちろん今後の展開次第ですが、とても楽しみなアナザーストーリーとして期待しています。
以上、原作厨の駄文でした。
私はアニメを5話くらいまで視てから原作を購入したのですが、批判の多い8話10話は多くの原作ファン同様に違和感を覚えました。これは、原作から切られた部分と残された部分の対応がとれていなかった為だと自分は考えています。(チヅとの関係の描写が少ないのに突然出てくる姉、何故か突然手を上げてもいいと言い出すナカマなど)
さて今回のマキ編ですが、コモとのお出掛けがカットされており、失礼ながら「改悪か」と思ってしまったのですが、12話13話と通して視て家族との関係に重きを置いた演出や別の地球の人々、そして世界の消滅といったアニメオリジナルの部分で非常に楽しませていただきました。
ひとつ気になった点も書かせていただきます。戦闘中のウシロの台詞、今までの態度からすると彼がほかの地球の心配までするとは到底思えません。原作を読んでいる身としては、あのセリフをキリエにあげられなかったかと考えてしまいます。
今後は完全にオリジナル展開に移っていくと思いますが、森田監督の『ぼくらの』楽しみにしています。
なら、何で11話で特攻無しになったんだ?
カンジの母親は、3話あたりで何か言ってたような気もするが、あの教授と同じなのか?
来週、キリエに出番はあるのか?
別の地球で戦っていて相手のパイロットも人間って分かったのに
コア引きずり出して剥いで
やっぱり人間だって確認してから
ビームでボンしたのは???です
なぜマキの残虐性を引き立たせる必要があったのでしょうか?
それと「目を閉じてて」ってシーンで
複線なんだろうけどマチが「見てる」って言うのは
改悪でした
カンジが言うから意味があるわけなのだけど・・・
次週も心配です
他の人がいってるみたいに
キリエがはぶられてることとか
畑飼先生がでてくるのかとか
とにかくこれ以上失敗しないように
がんばれ!!
まぁ、これだけ批判受けてりゃ当然か。
あとは勝手に論争してくれっていう意思の表しだな。
しかし前後の脈絡を理解せずに原作の名場面を切り貼りするのはやめて欲しいもんです。これが原作レイプというやつかと「もりたの」を見てはじめて実感しましたよ。
夜遅くに護衛も付けず子供達を出歩かせてるんですか。
あとあの子達や田中さんは、夜に子供一人だけで電車で行けるほど近い場所に住んでるんですよね。
となるとこの後の戦闘がもしもすべてホーム戦だったりした時なんかは同じ場所ばかりに被害が起こってかなり悲惨になるのでは?
てかもうキリエ顔に紋章でちゃったら親と最期の言葉を交わすことも残りの人生を普通に過ごす事もできませんね。
これが引っかかって今回普通に楽しめませんでした。
原作よりも良くなって当然なんだけどねぇ……
原作の悪い部分を補正して、
足りない部分を補うだけでより良い物になるのに
真逆の事をやっているんだよなぁ。
監督と構成、脚本、演出担当は小説版のアレンジを見て
少し勉強し直したほうが良いね。
なるほど、何故そうなるか教えてくれませんか?
非常に興味があります。
これは意味があるのかな?
人にものを聞く態度を学んでから出直してこい
ち、まさかコメントが同時になるとは思わなかったぜ。
原作もアニメも好きです。
喧嘩せずに応援しましょうよ。
13話に限った話ではないのですが、作品全体に関して個人的に気になっているところがあるので少々意見させてください。気になっているのは、このアニメの演出(?)が舞台演劇臭いところです。このアニメは画面に全員が一辺に映るコマが多いですが、そういうときに強くそれを感じます。例を挙げれば、みんなして一斉に下を向いて落ち込んだり、次の契約者のほうをみんなして見たりするあたりのシーンのことです。これらのシーンを見ると、この物語は正にゲームなんだと言わんばかりに感じられるので、そこらへんを改善してくれるともっと自然に見られるのになあと思いました。
もっとも、このゲーム自体が世界の命運を握っているにしてはとても閉鎖感が付きまとっているし、そもそもコエムシの真意やゲームの行き着く先がよく分からないので、誰かの手のひらの上で踊っているのかもという意味では演劇調な演出が製作陣の意図するところならばまあそうかと納得はできるのですけどね。
おおよその製作はほぼ終わっているかもしれませんが、最後までがんばってください。応援しています。
監督は本当に原作が嫌いなんだなと感じました。
今までの他のことは理由があるんだろうと、
無理やり納得させてきましたが、これだけは信じられない。
どんだけ文句付けたいんだよ。
そういう才能がないんだろう。
いっそもっと非道い内容に改悪してくれたほうがいいな。
そしたら他社で再アニメ化の可能性もあるし。
そういう意味では頑張ってくれていい。
アニメ映像的な面白さで(地球(宇宙)が消えるところなんかは、アニメならではだなーと)
ぼくらのはいつも映像を見ていて引き込まれます。後半もとても楽しみです。
でも今回、全然泣けなかったよ監督。ただの「いいお話」だったよ。
心を感じられなかったよ。
12話を見たときはすごく期待したのにな。
監督は原作だけじゃなくてキャラも嫌いですか?
そうじゃなかったらごめんなさい、でもキャラに対する愛情が伝わってこないです。私が鈍いのでしょうか。
原作が嫌いでもなんでもいいからもっとキャラを愛してあげてほしいです。
キャラを愛していることが見えれば、原作をどんなに変えても改悪改悪言われないのではないかと
監督の改変はキャラへの愛情を遠く忘れている気がする。
キャラを含めて嫌いだとか、それがなんだといわれたらそれまでですが。
キャラへの愛を忘れたら、人が離れていくのは当然ではないでしょうか
監督は人が好きじゃないのかもしれないと思えてきた。
そりゃそうか、こんな薄汚い叩き方をする人で溢れてるもんね・・・
ぼくらのの世界より現実のほうがよっぽどシビアだし不条理ですね
でもマキをもっと愛してあげて欲しかった
そしたらただの「いいお話」ではない、それを突き抜けたなにかに到達したのではないかと思いました。
原作嫌いでもいいから キャラを愛してあげて欲しいです。生意気言ってすみません。
あっぱれとしかいいようがないw
歌は微妙
もっとも大きな謎は、森田がのうのうと生き続けてる事じゃねーの?w
感想、励まし、疑問、批判、中傷をストレートにぶつけてる奴のが潔いやね
まぁ空気読めと
ここは中傷をぶつける場所ではない。
不規則発言もいい加減にしてください。
ここは視聴者が感想を書き込む事を目的に設置されたんだろ。
2007-07-07 02:30:34の指摘は正しい。
おまえは森田か?そうでないなら勝手に仕切るな!
原作と違う展開が、今後どうなって行くのか期待しています
平行世界の宇宙が消滅して、自分の世界に戻った時に
やはり自分の世界が大事というのは、当事者ならば当然思うことだと思います
消え行く隣の宇宙を見て、子供たちは決意を新たにしたことでしょう
自分だけが良ければいいのか?という難しいテーマも含まれていますが、そうしなければ滅ぶという究極的な選択でもあります
オリジナルの展開がどうなってゆくのか予想もつきませんが、期待感を持って見て行こうと思います
監督ならびにスタッフの皆さん、がんばってください
応援しています
http://shinki.squares.net/vote2/index.php?mode=vvr&tn=1
(*´ε`*)ミュミュミュ
騒ぎの後にいつまでも残ってるのって決まってそういう連中なんだよな。
社会不適合者が鬼の首取ったように騒ぎ立てて…。
13話から新EDだとか敵の謎が明らかになったなどというレビューの一節を見かけてからは、ネタバレ回避のため監督ブログのコメント欄を一切クリックしないままに12・13話を視聴しました。
すごかった。13話を見た後だと、新しいEDはもちろん1話からおなじみのOPすらどこか違うように感じられます。
赤く染まる地球から始まるOP映像、「この星の無数の塵の一つ」という歌詞。宇宙的な広がりと未熟なりに立ち向かう子供たちのパーソナルな部分がOPの映像からも曲からも感じられ、改めて感銘を受けました。
背後の宇宙のあちこちが赤く染まり、最後に見える赤い星を椅子の輪が囲む新EDも衝撃でした。
早くも子供たちの人数がほとんど半分となってしまいやるせない中、14話からがアニメ版のオリジナル展開だそうですね。
アニメ版の展開を最後までしっかり見届けたいと思います。
暑い日が続きますが、監督をはじめスタッフ皆様、どうかご自愛ください。
またお時間のある際に制作裏話などをお聞かせいただけますと、放送開始直前からこちらのブログを愛読している者としては非常に嬉しいです。
今が「若者が損をする時代」だと言うことは、若い人はみんな感じている事です。
例えばゆとりと呼ばれる世代の人たち。
彼らは自分たちが大人の勝手に決めたルールのせいで馬鹿にされていることを知っている。
就職氷河期世代の人たち。
彼らは自分たちがいくら努力しても、大人たちの失敗のせいで、就職できないと知っている。
リーマンショック以降の世代は、さらにその事を強く感じるでしょう。
日本の成長期に生きた大人たちは、その恩恵を受けて努力以上の幸福を手に入れ、それを今も確保し続けている。
大人たちが幸福を握り締めているせいで、若者は幸福を手にすることが出来ない。
JALの年金問題は象徴的な出来事でした。老人たちの過度な年金を確保するために、若者たちが苦労をし、会社が傾く。
老人たちは自分の事しか考えていなくて、若者が、会社が、社会が、そして世界がどうなってもいいと思っている。
そう、若者たちは考えているのです。
子供が世界を救うと言うストーリーは、かつて違和感がありました。
でも、今は現実感を持って受け入れられる時代なのだろうと思います。
実際、世界のゆがみを背負わされているのは子供たちです。
その歪みがジアースだと私は思います。
アニメにおいて後半登場した、榊原保に私は嫌悪感を覚えました。
もう、こう言ったタイプの大人を肯定的に描くのは無理なんです。
例えれば、天下りで大量の退職金を得た老人が、フリーターに向かって説教をするような気持ち悪さです。
こういった感覚のずれが、アニメ版全体の不協和音になっているのだと、今にして思いました。
森田宏幸です。
うたさんというハンドルネームは憶えています。
3年越しのコメント感謝です。
うたさんが書かれている
「日本の成長期に生きた大人たちは、その恩恵を受けて努力以上の幸福を手に入れ、それを今も確保し続けている。」
という理解の仕方を、
私も、今の50代から60代以上の先輩たちに対して実感として持っています。
私はその下の、今40代の世代ですが、
うたさんから見れば(原作を支持する感覚から見れば)、
同じような存在、旧世代に感じられるのは当然でしょう。
「旧世代の感覚だ」「古い」と言われるのは、痛いですが、
その評価を私は素直に受け容れています。
ここで無理に頑張っても、自分がゆがむだけだと思うので。
自分に声がかかる仕事の傾向が、その評価を正しく示していると思ってます。
今後は自分に不向きな仕事で無理はしません。
と、前置きした上でですが、
たとえば、JALの問題、
結局、年金は削られました。あきらめきった老人たちがテレビに映されていた。
そして、株価は1円になって、上場廃止。株主が責任をとらされた。
もちろん、それで、次世代が助かるわけでもなんでもないですが、
「老人たちは自分たちのことしか考えていない」というのは、言い過ぎです。
今また時代は変化の入り口に入ってます。
といって、あと数年は間違いなく苦しいけど。
世界のゆがみを体現したジアースは追い出すことが出来るのだ、というのが、
私の考えです。
タモツに、官僚の天下りや、退職金を得た老人のイメージを重ねましたか。
そのように見えたとは、参りました。
私に、力がなかったですね。
タモツというキャラクターは、
お金が一文もなくても、元気に生きていける人間を描いたつもりでした。
モデルは、私の絵画の師匠の梅原健二先生(http://blog.goo.ne.jp/moriphy/e/db6e86b3051ecd9a1b0f74fd367e7433)です。
梅原先生は、60代。上に書いた、私から見た旧世代ですが、
たいしたお金は(たぶん)持たず、
でもいつも元気に、子供から大人まで絵を教えている。
その人間的な魅力に、私は「ぼくらの」をやる前の数年、強い影響を受けていた。
上の記事に出てくる、古物屋(がらくた屋)の方や、「生前葬」(http://blog.goo.ne.jp/moriphy/e/c2842b0803f8dca6c79daeba74f75196)の鳥居哲男さんにも、私は同様の尊敬の念を持っています。(ただ、皆さんマイペースすぎるので、私は逃げ回っているという事実もありますが、、)
いずれも、自分の力で、自分の好きなように生きている人たちです。
生き方の達人だと思う。
いくら説教がましくても、自分たちは彼らに(彼らの世代に)、
生きる技術を教わるしかないと思いますよ。
「ああジジイどもが食い荒らしたおかげで俺たちの人生は狂わされた。」
老人たちは思う。
「ああ働きもしない若造たちの為に虎の子のヘソクリもパーだ。」
そんな事を言って他人の所為にして
お互いに仕事もせずに愚痴を垂れる。
サクシュされたと嘆いてるが
その実は働かない若(老)人が増えただけだと
言いたくないんだなw
ねえmoriphy
待ちに待ったwタモツの解説
またこんな所で始めるの?
そんなのは自分のオリジナル作品でやればよかったし人の物いじくってやるやり方じゃない。
萌え作品だったら出さなかったでしょう、自分の条件が一致したから無理矢理ねじ込んだ。
仮に恋愛物だったらタモツの存在は、好きな人に告白出来ない主人公にアドバイスをする人間で、彼が居たから主人公に恋人が出来ました、めでたしめでたし。
…誰も望んでいません。
いきなり出てきた知らないオッサンのおかげで悩み解決ありがとうございました、なんて展開、見てる人間ならびに原作ファんを馬鹿にしている
原作に気を使っておもしろい作品ができるとは思えない・・
未来を繋いでいかなければならない大人が守られ子供が幼くして消費されていく
私は子供が世界に捨てられていく時、黙っていられないだろう大人を多く知っていますし、だからこそ、こんな時代でもあたたかさがある
私は教員をしていたから実感としてあります
アニメのぼくらのにはそんな大人がいました
子供が消費される悲しみを持ち、ルールに抗おう、最後まで屈指ない大人がいました
それは当然のことで、どの時代、どんな場所でも、紛争がある所でも生じる感情です
ペンギンだって子供のために命を落とす
それが現実だと思うのです
子供に死を押し付けてはならないと最後まで抗った監督を私は支持します