森田宏幸です。
今日は2010年1月8日です。
「ぼくらの」の「13話によせて」を書きます。
「「12話によせて」」では、このシリーズを通してのテーマについて書きました。今日はその続きでもあります。
「ぼくらの」に関わる前、古物屋の知人が、私にこんな話をしてくれたことがあります。
「近頃、世の中のルールが変わったような気がする。見えないところで新しいしくみが決まったというか。これからはきっと、若い人たちが大変になる」
この知人は「生前葬」の話題の時に書いた同人誌の仲間のひとりでした。古物屋とは、取り壊される家屋などがあると出かけて行って、いらない物を引き取って売る商売です。この方は50代後半のベテランで、物の流通のことなどにくわしかった。それで酒を呑みながらふと、上のような話になったのです。
酒の席ということもあり、くわしい話は聞けませんでした。物の流通の隠れた場面で、どんなことが起こったのか、想像もつきません。でも、「これから若い人たちは大変になる」という言葉だけは、記憶に残りました。
こうした、成長経済の中で生きて来られた50代以上の先輩方と付き合っていると、自分たちとの違いと、さらには自分より若い人たちとの違いが意識されました。先輩方には余裕があるというか、どこか楽天的な感じが常にあって、それに比べると、30~40代の自分たちは余裕がない。さらに、若い人たちになるともっと、という気がしてならなかった。
私自身の実感では、90年代に入ってからが、どうも怪しい。若い人たちが犠牲になっている時代なのではないか、と、そんな気がしてました。児童虐待のことを言ってるのではありません。もっと、当たり前に自分たちが受け容れていることがら。社会のしくみや文化や産業の構造のことです。アニメーションや漫画などサブカルチャーのあり方も関係があります。
そんなことを思っている時にこの「ぼくらの」の企画と出会いました。「これはゲームだ」と言われて、騙されて死ぬことになる子どもたちの話を受け取って、この物語は、現代の若者たちを取り巻く状況を描いているのかも知れない、と思いました。
シリーズ構成を作りながら、生け贄、罪の償いなど、いろいろなテーマ性を模索したと「12話によせて」で書きましたが、結局、今は若い人たちが犠牲にされている、食い物にされている時代なのだ、というテーマが、この物語の根幹にしっくりくる、と私は考えました。
ただし、これをスタッフに説明するのは難しかった。上のような状況証拠を並べ立てるしかなかった。こうしたテーマというものは、物語の底流にあればよいものですから、困りはしないのですが。
実は、そんな私の考えを、なぞるように、しかも明快に書き表してくれている本と、制作が終わってしばらくたった去年の中頃、出会いました。堀井憲一郎(ほりい けんいちろう)著、「若者殺しの時代」(講談社現代新書)という本です。もっと早く読んでいればよかった。
この本の中で堀井氏は、次のように書いています。
(「まえがき」から転載始め)
ただ、「若者だってことだけで得をする時代」と「若者だってことだけで損をする時代」というものはたしかにある。
(転載終わり)
そして、その「若者が損をする時代」は、80年代に始まったとして、主に文化の面から、それを細かく考察しています。
これ以上のくわしい話は、本を読んでいただくのがいいと思うのですが、ひとつだけ、私が非常に感銘を受けた箇所があるので、引用して紹介します。
1989年にメディアを賑わせた「一杯のかけそば」騒動について、堀井 憲一郎氏が考察している部分からの引用です。
(22ページから、転載始め)
世の中には「自分は人を騙さない。でも人からも騙されずに生きていたい」というムシのいいことを考えてる人が多いこともわかった。
僕は、世の中には「騙す人と騙される人」の二種類しかないとおもっている。
1 騙す人。
2 騙される人。
これで全部だ。どっちかを取るしかない。
でも、世間のみんなはそうはおもっていないということを知った。みんなその中間のポジションを取りたがってるのだ。
無茶だとおもう。
騙されないためには、人を騙すしかない。
人を騙すのは、言葉ではない。関係性だ。気持ちのやりとりで相手の感情を自由に動かせる状況を作っておくだけだ。人を騙すときに会話は必要ない。会話なんかしてはいけないのだ。ペテンとは、ペテンにかかってくれる状態に相手を巻き込んでおいて、あとはただ通告するだけである。そこに会話は存在しない。そんなことは、ペテン師になるやつは子供の頃から知ってる。
だから、社会で生きていくには、二つに一つを選ぶしかないのだ。
一、騙す人間になる。
一、騙されるのはしかたがないとおもって真っ当に生きる。
どちらかを選ぶしかない。もちろん騙されるほうに立っても、大きく騙されることもなく生涯を終えられることもあるだろう。騙す側を選んでも、表立って人を騙すことなく、平穏に人生を過ごせる可能性だってある。でも、それは結果である。どっちのサイドにつくかはきちんと自分で決めないといけない。人生の成り行きは自分では決められない。そういうものだ。それは紀元前5世紀のギリシャでも、7世紀のゴート王国でも12世紀のバスラでも、21世紀の東京でも同じだ。人がいる限り同じである。
(転載終わり)
森田宏幸です。
この堀井氏の洞察には驚きました。と同時にとても納得できました。皆さん、とくに若い皆さんは、この堀井氏の洞察を生活の深いところで役立ててください。
「これはゲームだ」と言われて「ぼくらの」の子どもたちは騙された。マキのような子でさえも、苦しみながら死ぬことになった。そこに意味のある理由なんてあるのか? この世の中は騙すか、騙されるかしかないという現実感を持ってみれば、生け贄だとか、罪の償いだとかの高尚ぶった位置づけは意味がない、ということだと思いました。
今日はこれで終わりです。
今日は2010年1月8日です。
「ぼくらの」の「13話によせて」を書きます。
「「12話によせて」」では、このシリーズを通してのテーマについて書きました。今日はその続きでもあります。
「ぼくらの」に関わる前、古物屋の知人が、私にこんな話をしてくれたことがあります。
「近頃、世の中のルールが変わったような気がする。見えないところで新しいしくみが決まったというか。これからはきっと、若い人たちが大変になる」
この知人は「生前葬」の話題の時に書いた同人誌の仲間のひとりでした。古物屋とは、取り壊される家屋などがあると出かけて行って、いらない物を引き取って売る商売です。この方は50代後半のベテランで、物の流通のことなどにくわしかった。それで酒を呑みながらふと、上のような話になったのです。
酒の席ということもあり、くわしい話は聞けませんでした。物の流通の隠れた場面で、どんなことが起こったのか、想像もつきません。でも、「これから若い人たちは大変になる」という言葉だけは、記憶に残りました。
こうした、成長経済の中で生きて来られた50代以上の先輩方と付き合っていると、自分たちとの違いと、さらには自分より若い人たちとの違いが意識されました。先輩方には余裕があるというか、どこか楽天的な感じが常にあって、それに比べると、30~40代の自分たちは余裕がない。さらに、若い人たちになるともっと、という気がしてならなかった。
私自身の実感では、90年代に入ってからが、どうも怪しい。若い人たちが犠牲になっている時代なのではないか、と、そんな気がしてました。児童虐待のことを言ってるのではありません。もっと、当たり前に自分たちが受け容れていることがら。社会のしくみや文化や産業の構造のことです。アニメーションや漫画などサブカルチャーのあり方も関係があります。
そんなことを思っている時にこの「ぼくらの」の企画と出会いました。「これはゲームだ」と言われて、騙されて死ぬことになる子どもたちの話を受け取って、この物語は、現代の若者たちを取り巻く状況を描いているのかも知れない、と思いました。
シリーズ構成を作りながら、生け贄、罪の償いなど、いろいろなテーマ性を模索したと「12話によせて」で書きましたが、結局、今は若い人たちが犠牲にされている、食い物にされている時代なのだ、というテーマが、この物語の根幹にしっくりくる、と私は考えました。
ただし、これをスタッフに説明するのは難しかった。上のような状況証拠を並べ立てるしかなかった。こうしたテーマというものは、物語の底流にあればよいものですから、困りはしないのですが。
実は、そんな私の考えを、なぞるように、しかも明快に書き表してくれている本と、制作が終わってしばらくたった去年の中頃、出会いました。堀井憲一郎(ほりい けんいちろう)著、「若者殺しの時代」(講談社現代新書)という本です。もっと早く読んでいればよかった。
この本の中で堀井氏は、次のように書いています。
(「まえがき」から転載始め)
ただ、「若者だってことだけで得をする時代」と「若者だってことだけで損をする時代」というものはたしかにある。
(転載終わり)
そして、その「若者が損をする時代」は、80年代に始まったとして、主に文化の面から、それを細かく考察しています。
これ以上のくわしい話は、本を読んでいただくのがいいと思うのですが、ひとつだけ、私が非常に感銘を受けた箇所があるので、引用して紹介します。
1989年にメディアを賑わせた「一杯のかけそば」騒動について、堀井 憲一郎氏が考察している部分からの引用です。
(22ページから、転載始め)
世の中には「自分は人を騙さない。でも人からも騙されずに生きていたい」というムシのいいことを考えてる人が多いこともわかった。
僕は、世の中には「騙す人と騙される人」の二種類しかないとおもっている。
1 騙す人。
2 騙される人。
これで全部だ。どっちかを取るしかない。
でも、世間のみんなはそうはおもっていないということを知った。みんなその中間のポジションを取りたがってるのだ。
無茶だとおもう。
騙されないためには、人を騙すしかない。
人を騙すのは、言葉ではない。関係性だ。気持ちのやりとりで相手の感情を自由に動かせる状況を作っておくだけだ。人を騙すときに会話は必要ない。会話なんかしてはいけないのだ。ペテンとは、ペテンにかかってくれる状態に相手を巻き込んでおいて、あとはただ通告するだけである。そこに会話は存在しない。そんなことは、ペテン師になるやつは子供の頃から知ってる。
だから、社会で生きていくには、二つに一つを選ぶしかないのだ。
一、騙す人間になる。
一、騙されるのはしかたがないとおもって真っ当に生きる。
どちらかを選ぶしかない。もちろん騙されるほうに立っても、大きく騙されることもなく生涯を終えられることもあるだろう。騙す側を選んでも、表立って人を騙すことなく、平穏に人生を過ごせる可能性だってある。でも、それは結果である。どっちのサイドにつくかはきちんと自分で決めないといけない。人生の成り行きは自分では決められない。そういうものだ。それは紀元前5世紀のギリシャでも、7世紀のゴート王国でも12世紀のバスラでも、21世紀の東京でも同じだ。人がいる限り同じである。
(転載終わり)
森田宏幸です。
この堀井氏の洞察には驚きました。と同時にとても納得できました。皆さん、とくに若い皆さんは、この堀井氏の洞察を生活の深いところで役立ててください。
「これはゲームだ」と言われて「ぼくらの」の子どもたちは騙された。マキのような子でさえも、苦しみながら死ぬことになった。そこに意味のある理由なんてあるのか? この世の中は騙すか、騙されるかしかないという現実感を持ってみれば、生け贄だとか、罪の償いだとかの高尚ぶった位置づけは意味がない、ということだと思いました。
今日はこれで終わりです。
監督のお話また読みたいですbr>
お忙しい中更新も難しいと思いますbr>
ほとぼりが冷めたらぜひ、またお話し聞かせてください
現実を見ない、いい所の奥様方。
そんな、願望を現実と決め込んで、
実際の現実の醜さから目を背けてる人達。
その目の背け方の醜悪さを、貴方の信条に感じる。
貴方は他人と協調できないと言う。
現実を願望混じりでこうと決め込んで、
その思いこみと付き合っているのだから、
たしかに貴方に人は要らない。
なぜ、他人は必要ないと、はっきり言わないの?
迷惑なだけだよ、他人と付き合っているふりをしている、
貴方のような妄想家は。
みんな、貴方がどういうものかは分かってる。
駄々をこねるのは、独りだけでやりなさいな。
貴方のような妄想家は。
みんな、貴方がどういうものかは分かってる。
駄々をこねるのは、独りだけでやりなさいな。
http://ame-tk.net/2ch/260
言ってしまったものは訂正も取り消しもできないんだよ!
たとえ自分が思っていた意味以外に解釈されてもな!
フロイト先生もそういってるし。