内と外

中性よりの人間から見える世界から
「境界線」の性質を探ります

金になるの正体

2020-06-25 21:13:38 | ビジネス境界線
感情が動くところに金は流れる

まずそれを前提とします


感情は認識から生じます

認識が動くところに金が流れる



認識は信念から生じます

信念が動くところに金が流れる


信念は知覚から生じます

知覚が動くところに金が流れる



〜ここまでが心のメカニズムの領域





知覚はAから生じます

Aが動くところに金が流れる



AはBから生じます

Bが動くところに金が流れる


・・・・・



これを永遠に辿っていっても
ミクロの物理学のように
永久に終わらない気がします


でも大事なのは


「人間が捉えている領域」には
限度がある


それこそが大事だと考えます



この範囲で何か新しいものを行っても
それは人間の心を動かさない
という事です



例えば私は
YOUTUBERを職業として見たら
余りにも奴隷すぎる選択だと
ビジネスの観点からは考えます



人間の認識より後のものを「人工物」
と定義するなら

youtuberは
人工物の中の
人間によって飼い慣らされる
奴隷だからです

ここで飯を食って
ここで排泄をして
ここで寝る
をしつけられたペットと
<あくまでビジネスととらえるなら>
何も変わらない



人間社会が崖ギリギリでたどり着いた
秘境の楽園のオーナーは
既に確定しているからです


この楽園の最初のオーナーは
「人間の認識」より前の段階
何かの道理を堀りあてた
それを実現させた


他の人間にとって
それにはじめて触れた時

それは「人工物」ではなく
「自然」だと捉えたに違いない

人工物の中に自然を捉える不思議
そんな話しはよくあるが逆である


もともと「自然」を「人工物」に
変えた事を知っている開拓者以外だから

そんな卵から鳥が生まれる事を
不思議だと思う



人間の認識前の「自然」
これを開拓する学問自体は
随分と未発達な領域


それは「人間の生命」の機能によって
どうしても阻まれているからだ


この阻まれている領域から
人間にとって受け入れられるものを
発掘する

海賊のようなアプローチ


これこそが
結果金を生むのだと信じ始めた














自分という領域をどこにfixさせるか

2020-06-25 20:24:37 | ビジネス境界線
私がいるから私の領域は私

これが当たり前です


でもよくよく考えてみればみんな
私の領域=私 ではない
そんな行動をとっていることは
すぐに分かると思います


誰誰さんが困っていたから
私が使うはずの何かを分けた

会社のために休みたい休日を返上した


そういう類いものは
「私」が「私の領域」とはなっていない

これがなぜなのかといえば

「誰誰さん」や
「会社」が

「私の領域」とみなされているからだ

「損失を被る私」
「得をする私以外」

この構図が出来上がった時に
「私の領域」は私以外に広がる


意外となかなか気づかないのは
この逆のパターンもあることだ


「私の領域」が
「私」を中心として
「私」よりも小さくなってしまう
そんな場合である


疲れている事を気づかずに
仕事を頑張り続けた

健康だと思っていたら
診断で内臓っていると知った

したいと思っている事を進めているのに
何故か体の動きが遅い


これに気づくのはとても難しい

何故なら自分で気づくことが
基本的には出来ない状態だからだ

この時
「私の領域」は
「生命の私」の境界より狭まっている
と言える

「生命の私」の中に
「私の領域」があるという事は
「生命の私」を主体としてみれば
分裂している状態とも言える

一人の生命として
「私の領域」を統合できない

精神病にとってよくある症状である

先ほどと比べれば
「損失を被る私」
「得をする私の一部分」

と言えるだろう

自分自身の好きなところを
自分だと思い込んでいる
自分自身の嫌いなところは
ない(事実ではない)ことになっている


自分の嫌いな部分や過去を受け入れる
という手法が精神病の治療の中で
用いられるのは
まさにこの状態からの変化
自分自身が生命の自分全体と
一致していくような変化を
狙っているのだろう



社会の中でこのような状態の人は
「働けるか」
「生活ができるか」
という基準で病気かそうでないかが
決まると言っていい


だからどちらも問題ない人は
病気とは扱われないが
「統合されていない人間」として
とても目立った特徴を持つ

それに対しての理解がなければ
「一貫していない生命」に対して
「1の人間は一人の生命」
と当たり前に思っている常人からすると

腹をたてたり
信頼出来なかったり
恐怖を感じたり
遠くへ離れたいと感じたり

これが当たり前の反応になるのである




どちらのケースも
「生命の自分」という基本軸とは
別の存在である

「自分の領域」
すなわち
「主体となる私」

これがどこに設定されているかが
最も大事な論点である


「私の領域」は元来自由自在である
家族を背負える
会社を背負える
国を背負える
地球を背負える
宇宙を背負える

「私の領域」は誰でも
自由自在なのである

それはある意味
誰でも神(の目線)になれるという事

では何故それが人によって違うのか

それは
一つの生命として生きる
「生命の私」の性質がみんな違うから

その
「生命の私」が
「自由自在の私」と
常に拮抗しているから





















一人の人間を組織だと考える

2020-06-24 20:45:28 | ビジネス境界線
この考えまでにいくつかの経過があった

個人と組織 その矛盾について

精神病と個人の生命

一人の中に8人が存在するが
統合されている人との経験

一人の中に2人が存在するが
統合されていない人との経験

自分の中にいた生命の個人を
本当の自分自身だと思い
2年あやしてきたこと

今までの自分も
本当の自分であることがわかり

私の中にも
2人いた
ことがわかった


この複数の自分を統合すること

片一方だけの味方では
もう片方はすねる

だから統合出来なければ
一人の人間はうまくいかない


子供と大人でもいい
攻撃と守備でもいい
個人と社会でもいい

呼び方は何でもいいが
「それ」を
俯瞰の自分がまず認識する
それぞれの自分同士も存在を認識して
お互いに配慮をする
こうやってうまくバランスさせながら
いきることができれば
私の場合はうまく統合ができる


こう思ったときに何かと似ていると
気づいた

会社組織を1つに束ねるのと
とても似ているのである


一人の命は
一つの何かによって
出来ているわけではない

俯瞰した自分というのは
組織で言うところの
いわば一人のリーダーである

私という生命の社長が
俯瞰した自分であり

どうやってこの
「生命会社」を経営していくか
それが生きるということとも
言えるんじゃないか


私は今日から私という
生命の社長としてやっていく

そんな決心の話でした








2020-06-24 19:56:41 | 
家というのは大事である

家が自分にとって
どんな役割を果たしているかを
はっきりと感じる場面というのは
少ないかもしれない


でも
自分自身
アイデンティティ
そんな重要なものを
心の深い部分で形作っていることを
体験として知っている人は
自分自身を結構深く知っているとも
言えるだろう


自分自身を形作っている重要度を
理解するというのは

シンプルにいえば
失いたくない優先順位が
はっきりと見えることである


私の場合は
他人A<他人BCD<母親<家<仕事<家族
この順番であったことが
心を病んだ際にはっきりとわかった



本当に不思議なものだが
(目に見える)という感覚なのである

自分と自分でないものの境界線が
どんどん縮まっていく過程において
誰から何から順番に
自分ではなくなっていくかによって
この順番が言葉通り「視覚化」される


しかし心が回復するまでの課程で
母親<他人A<他人BCD<家族<仕事<
こう組み替えられていくにつれ
安定を取り戻していった


今の私にとって一番の土台である
家を変えようとしている

それは私にとって
大きな痛みを伴うことであり
同時に新しいチャレンジでもあり
大きな変化であることは
間違いない


今の家が好きすぎる
立地も広さも頑丈さも中庭も
面白い作りも

今の家の町も好きすぎる
便利すぎるし
うまい店ばっかりだし
程よく田舎だし
長い知り合いも点在しているし
静かである


でも一部はもう過去の記憶の
中だけにあるものと
なってしまったし

やっぱり
自分自身が大きく変わった事が
何よりでかい

すむ場所を決めてから
家族が必要なら探せばいいし
仕事を決めればいい

この優先順位で考えるようになった
今の自分にとっては
この町この家は少し退屈なのである


とにかく新しい何かを一歩を進めたい
そんな深い気持ちが止まらないのは

今の自分にあった
仕事
に近づきたいという

新しい要素というより
新しい自分にただ環境を合わせるだけの
行動を進めたいのだとわかった


こんなに引っ越したいのに
こんなに不安を感じるのは
そういうことだ






手入れのされた山

2020-06-24 19:20:59 | 
山だって生き物である

放って置かれた山と
人間の手が入った山では雲泥の差がある


細かくは分からないが
私が気持ちのよさを感じる山は
手入れがされている山だ

人間にとって住みやすく手が入っている
それは人間にとっては心地がよい

金持ちが住んでいることが多い
金持ちじゃなければ
手入れもできない

寂しさを感じる山には人の気配がない

原生林には人の住むところではない