内と外

中性よりの人間から見える世界から
「境界線」の性質を探ります

高松あいさんのバッハ

2024-06-27 23:22:28 | ビジネス境界線
バッハの無伴奏が好きで
youtubeで色々なバイオリニストの
演奏をたまに聞いていました

やっぱり好き嫌いはかなり別れ
演奏テクニックがうまい方でも
のぺっと何も伝わってこないものから
ミスタッチや乱暴な音が多くても
グッとくるものまで
様々でした

その中で高松あいさんの動画が出て来て
一曲聞いただけでファンになりました

バッハの無伴奏のたくさんの曲を
動画にしていて
どんどん聞いてしまい止まらない
すっと入ってくる

なぜなのかを考えたら
私自身のバッハの曲から感じる
バッハという人の捉え方と
高松さんの演奏がとても近いからでした

私は一生懸命それを
ギターで引き続けていますが
自分が受け止めているバッハを
自分が表現することの10%もできない
もどかしさがあります

それを自分の代わりに
表現してくれているから
とてもグッときたのでした


凄くいいじゃんと思い
高松さんの事を調べてみると
どうやらテクニック面で比較され
たくさんかかれていました

どんな楽器でも
やっぱりそういう評価軸で判断する人は
本当に多いのだなと少し残念でした

バイオリンの世界では
音程を正確にとることや
綺麗な音をいつでも出せることが
どうやら重要視されているようでした


高松さんの演奏のグッとくるポイントは
一曲を通して感じる
圧倒的な安定感です

感情が乗ってきても
テンポのよれを感じさせない
一曲を通して通っている
太い芯のような何かが
一切揺らがない安定感を作り出していて
そこからバッハらしさを感じるのです

私の場合はそれに加え
感情が乗ってくるポイントが
共感できることが更にぐっとくる

音が痩せたり
ミスタッチがあったり
音程がぶれても
そんなことは

全体の芯
=バッハという人の捉え方
=バッハという人の表現

この等式が成り立つレベルの
演奏テクニックがあるなら
それ以上のレベルの重要性は
低くなります

重要なのは
バッハという人の捉え方自体を
演奏から聞かせてもらう事だと思います


捉え方自体が自分と合っている
捉え方自体が自分とは合わない

クラシックは
そういう観点で
演奏家の演奏を聞かせてもらう事が
楽しいのだと私はやっと
最近わかりました


5年くらい前までの私は
バッハの捉え方が全く別でした

どちらかと言えば
演奏家が自由に解釈して
自分自身の感情を乗せるような演奏
(ロック!)の方を魅力に感じていました


だから独特な演奏でも
その演奏家の個性が自分にあっていれば
素晴らしい表現だと感じ
心地よく感じていました


ただ何年も同じ曲をひいては
他の方の演奏を聞き
ということを繰り返していると
だんだんバッハ本人の方に
自分の意識が近づいていくのです

いつの間にか私は
演奏家個性派から
バッハ本人表現派
(クラシックの世界では本来当然)
に変貌をとげていました


ギターでは
バイオリンよりも
同時に引ける音の数が多いため
ギター用に譜面を起こす人の
バッハの捉え方によって
バイオリンの原曲に音が
足されていることが多いです

作者も迷うポイントらしいですが
「バッハは演奏する楽器に応じて
同じ曲でも音を足していた
だからギターにおいても同じ考えで音を足した」
そういう考えの元
検討の末足したらしいですが

最近私はこの音を足したバッハが
どうしても気持ち悪くなり
全ての曲から余分な音を削除して
原曲に近くなるように
全曲練習しなおすことにしました


これも自分の捉えているバッハの曲
として違和感を感じるからであり

何より「無伴奏」なのに
音足しちゃ台無しだろとも思います


音がないからこそ
無限に音の可能性が頭の中で広がる
あの数々の曲の魅力は

バイオリンの制約の中で生んだ
のではなく

どちらかというと
曲の美しさを生んだあとに
バイオリンに無理やりひかせた
ようなイメージを私は感じます

だからギターの演奏でも
原曲に忠実に演奏された
音を足していないものを聞いたときに
これだ!
という衝撃的な美しさを感じました


高松さんの演奏がぐっときたのも
何も足さず拡大解釈はせず忠実にという
この感覚に近い解釈を
感じたからかもしれません