内と外

中性よりの人間から見える世界から
「境界線」の性質を探ります

前向きコストについて

2021-10-30 18:57:44 | ビジネス境界線
株式会社を主に
営利企業は決算書からは
離れられない

いわば通信簿としての
その役割は
この位置にかわるものはなく
企業情報の最たる交換手段であることは
言わずも知れた社会の現実である

だからこそ
この決算書については
「それ」自体についての

見せ方のノウハウ
読み方のノウハウ
分析手法や利用方法など
あらゆる方面から

経営者
専門家
ハウツー本
コンサル
研究者

といった様々な立場から
数字そのものの「それ」
について
色々な論理が語られる


こうなってくると
ある一定必ず現れるのが

数字を数字として捉える

という見方をする考えだ


この数字とこの数字を足して
この数字の6倍以内なら安全とか


この数字が一定ラインを切る事は
絶対に許されない

といった

いわゆる数字遊びの世界である


そういったものの中に
例えば

決算書というのは
利益をどれだけ増やすかが大事だ
利益を増やすには
売上を上げて
費用を減らせばいい

という考えがある


これは日本ではかなり有名な
プロ経営者の論理だが
これを教科書のように聞いて

その通りだ
と実行する会社が後をたたない

こんな幼稚園生でもわかる理論を
純粋に受け止めてそうすることで
利益が増えると考えて
実行している愚者がいることは
本当に全くもって信じられないことだ


決算書というのは
一定期間の企業活動を表した結果であり
いわば企業の生命力を表した
生々しい数字である事を
まず理解する必要がある

一人の人間で考えてみるなら
簡単な話だ

例えばサラリーマンにとってみれば
売上という給与をあげて
経費というあらゆる支出を削る
そうすれば貯蓄が増える
という理論となる

計算式としては合っているが
これを自分が実行するとなると
不可能であることは
誰でもわかることだ

サラリーマンが
給与をあげるため方法は
1成果連動型の契約を選び結果を出す
2圧倒的な組織へのコミットを達成する
3圧倒的な能力を身につけて交渉する
4副業

1 2 4は職場環境が変わらない限り
自分でコントロールしようと
すれば転職し続けるかない
転職というのは
コストもかなりかかる事だと
理解している人は結構少ない

引越に伴うあらゆる費用
仕事服
損失となった賞与や退職金
など100万を軽く超えてくることも多い

また副業は言わずもがなだが
結果やコミットで収入を得るために
は時間が犠牲となることが多い

この犠牲にした時間により
外食が増える
クリーニング代がかさむ
タクシー代が増える
車が必要になる
室内乾燥機が必要になる
体を壊したら医療費もかさむ

とあらゆる生活面でコストが
増えてしまうのは想像に固くない


3 については職場以外で
技術を身につけたり勉強したり
することだ
その上で会社と交渉をするという
大きな砦も最後に残っている

これもまたお金がかかる


要するに
売上を増やすために
何かしら行動を起こすと
お金がかかるというのは
正常な事であり

何かの目的をもって
行動した証そのものが
そのコストであるとも言える

その結果売上が上がるかもしれない
しかしそのバランスはどうだったか?

これをふりかえる事が
出来るのが損益計算書である

結果的に利益が増えることもあれば
逆に貯金が減ってしまったということも
充分に考えられる


売上をあげるために使った費用
というのは同じ費用でも
意味が全く違うものだ


決算書には
この目的がある費用と
関係のない費用が
混在している


前者は
組織が一つの生命体として生きる上での
売上と全く同質の生命力であって
これをコストカットする
という愚行は
絶対にしてはいけない行為だ
それはいわば自殺行為である

むしろそういう

前向きな意思を持った支出
金額が大きいほど
活力に満ちているといって
よいだろう



















バーベキューに真剣に向き合う

2021-10-22 21:01:31 | ビジネス境界線
海の前で一人でバーベキューしていたら
貴婦人から

「一人でなんていいですね〜」
と最上の笑顔を頂いた

一緒にいた旦那さんは
そそくさと前を歩いていったが


自分が楽しくてやっているものに
賛同されるというのは
すごく良かった嬉しいものだ

私の中の10%くらいは
疑い人格によって
散歩の邪魔だということではないか
というひねくれ人格の
捉え方をしたが

貴婦人の立ち振舞いや
表情から確実に本心であると
私は90%思い嬉しくなった

女の人は
なかなか一人で
自分のやりたいと思う事を
出来ない社会は間違いなくある


私の友達も
海で一人で焚き火をしていただけで
警察を呼ばれた

おじさんだったら普通だけれど
女の人だとおかしいと
感じてしまう暗黙の感覚が
あるからだ


おそらく貴婦人は
そんな社会の中で自分は出来ないけど
それはとてもやってみたいという
感情があり
しかもそれを自分でわかっており
しかもそれをやっている他人に対して
瞬間的にいいですねと笑顔で言える
そういう心理的な成熟を
感じれずにはいられなかった



それもそうだが
何でこんなささいな事に
思いが膨らむかというと

それだけ自分は
1人バーベキューというものが
とてつもなくナイーブで
自分だけにコミットした
自慰行為のような立ち位置の
楽しみだからだ


当然人の目にさらされる事で
人目を気にしてしまう自分はいる


しかし
それを上回る欲望がそこにはあるのだ


何がそんなに私を
1人バーベキューに駆り立ててしまうのか


まず他の人でも共通しているだろう
・解放感
ご飯は基本的に外で一人で食べたい

次に
・時間軸からの脱却

一人に限らず
バーベキューは時間という概念から
解放される


肉をひたすら食べるという
・非日常行為

この辺りから一人でやることによって
さらにストイックな効果が
得られ始める

家でも外食でも
肉はいっぱい食べることが出来ない

しかしバーベキューというのは
他の素晴らしい要素のせいで
肉をひたすら食べ続ける
という行為が体を無視して
可能になってしまう

要するに
一般人よりも肉が食べられない私が
一般人くらいに肉が食べられる
という非日常
それを楽しんでいる要素がある

バーベキューだと
このくらい食べられちゃうでしょ
という謎のフードファイターを
1人だと楽しめるのである


・何でも試せる

1人なので何でもok
こんな楽しい事はない

何か食材を準備して
炭で焼いてみて
食べてみて
うまい あるいは まずい を試す

この一連のサイクルは
いわば「研究」「開発」に相当する


誰かとバーベキューするとき迄に
新しい楽しみ方を試したい

という気持ちが
1人バーベキューの背中を
ぐんぐん押してくる


・見せびらかし

これは実際ある
1人でやろうと思うきっかけには
全くならないが
実際始めたら周りが羨ましそうに
通りすぎていく

いいでしょ〜

という気持ち
要するに
やりたいけどできない他人
やりたいと思ったら出来てしまう自分

この恵まれた環境を感じてて
次回もついやってしまう
原動力の一部は担っているだろう

・準備が圧倒的に楽しい

自分のためだけに
分が本気で考えて
準備するのですから
そりゃそうだ

しかし自我が確立するまでは
自分にとって最も苦手な
行動だった

他人のためには動けるが
自分のためにはどうしていいか
わからない

それが生命に近い自我を
手に入れられなかった人間の
地獄のような苦しみの原因である


しかし
自分のために生きられるようになる
という自我が育てば

自分のために何かをする
という行為が全て最高に感じるように
なる


一人バーベキューは
そうなる途中の人にとっても
潜在的にそうなりたいと
考えている人にとっても

最高の成長剤となるのである
















「本当の自分」という言い回し

2021-10-21 00:31:08 | ビジネス境界線
私自身もこういう言葉の概念を
真剣に考えていた事があります


本当の私はどこにあるのか
それを探さなければ
幸せになれないのではないか


こういう類いのものです


よく使われるフレーズで
内観的な世界を売りにする
色々な商売で
見聞きすることが多いですね


こういうものを扱うものは
一昔前まではなかなか社会のなかでは
目に触れずらいポジションだっただろうと思いますが
ネット社会になってからは
こういう世界も距離がすぐ近くに
いつもある世界となりました


私が考えるに
本当の自分という概念は
少しおかしい
というのが自分の結論です


何故なら
私が私と思っているものは
一つの何かではないからです

すなわち本当の自分
という単数で捉える概念に
強烈な違和感を覚えます



一言でいうなら

大中小織り混ぜた自我の複合体と
生命活動によるホメオタシスとの関係性

これこそが本当の自分であると
私は今断言しています


自分とは組織であります

組織のパワーの源は
主体であり
主体を持つものが
自我という一単位であり
人間世界の最小単位であります


この自我が集まって出来た組織が
私が私と思う私であり

この組織と
生命としてのホメオタシスの関係性で

私の今の調子

というものが決まってきます



例えば

最近全てが怖いくらいにうまくいく
という状況は

生命のホメオタシス
という現象を

自我組織が「自分と近い」と思える
お互いの関係性の時に起こります

私が私と思うものと
体の生理現象が
一致に近ければ近いほど

それは
生命のホメオタシス=現実
現実=私

という構図となり
私と世界が一致した状態になるのです


反対に


生命のホメオタシスと
私と思う私がずれればずれるほど
人間の持つ5感は不快な現象が増えます

これが生きづらさ
すなわち不幸と呼ばれるものとなり
そのような自己認識となります



おそらく「本当の自分」という言葉で
題材にしている色々な商売が
伝えようとしていることは

このメカニズムのことなんだと思います



これは勿論理解できるし
問題ないのですが


研究的な視点で考えると
どうしても少し乱暴な売り方かなと
思っています


本当の自分というものを
確固たる私が一つ
という捉え方をしてしまいがちで
この誤解はどちらかといえば逆に

ホメオタシスと
自我の集合体の不一致を
生み出してしまい
すなわち不幸になる可能性が
充分に秘められてしまって
いるからです


自分の中の多様性を認め感じる事で
私が私と思うものは
そ矛盾した要素も取り込み
一つの組織として
生命のホメオタシスとの一致に近づく
事ができるのですが

この辺りが無視された世界から
「本当の自分」というワードが
発されていることが
少なくないと感じています


私という組織が
範囲を狭めたり広げたりする行動は
主体が大きく変わる行為だと
いうことになります


この変幻自在な自我組織をもってして
生命のホメオタシスとの一致を
初めて追い続ける事が
出来るのです


あるときには本当の自分であったものが
あるときにはそうでなくなることが
あります

これは自我組織主体からの視点ですが


生命のホメオタシスの変化に柔軟に
自分というものの認識を追従させる
事が出来るための
自我という機能の一つのデザイン
であるとも言えます

これがスムーズにいかなければ
硬直した自我組織の範囲によって
生命のホメオタシス由来の
苦しみが生まれてしまいます


常に生命のホメオタシスに
自我が追い合わせていくことこそ
時刻表一致であり
人間の生命にとっては
最も大きい幸せとなります




自分の理論を実証する方法

2021-10-19 09:26:45 | ビジネス境界線
思えば仕事以外の私は
こればかり最近考えている
事がわかった

自分が開発しようとしているもの
それをどこで使い実証するのか
ということである

職場で権力のある立場ならどうか
学会で発表すればいいのか
概念的なものは学問では
扱ってもらえないのではないか
お坊さんになって説くのはどうか
ビジネス界として
結果で証明すればいいのか


こんな考えが
自分の次のキャリア選択の
重要な一部になっていたことを
認識した


操作主義に救われた私は
今のところ学問の世界と
ビジネスの世界で
ある程度進めたいと
まとまり始めた




操作主義に救われる

2021-10-19 09:09:03 | ビジネス境界線
心理学を勉強していて
どうしてももやもやしたものを
感じていた


科学とは
学問とは

という根本的な部分である


私は内観や主観的な方法で
心を探求しようとする
ヴントがおかしいと思わない
もともと心理学というのは
そういうもののはずである

それが否定されて今日の
科学的な心理学が
積み重なっていったのは

目的として
客観性すなわち
より多くの人に
出来るだけ同じ概念を
伝えるために最も優れた方法である
科学こそが学問とすべきだ

という大前提があるため

心の研究
というスタートから
学問である制約として

反対を受けたのだろうと推測する



そんななか私は
行動主義的な考え方は理解はできるが
どうもなじまなく

全ての実験や実験結果から
得られたことに対して
心の内側を想像して

こういう心の動き=この結果の反応

という風に
必ず対応する内観的な方法で
心の状態を置き換えて
理解するようにしていた


科学である限り
この心を内側から見た世界については
扱うことは出来ないかと

一種の科学の限界に諦めムードだったが
今日勉強した中に
新行動主義の前にあった
操作主義というものを学んだ

そしてこの考えが
今の科学の扱う範囲を
とてつもなく広げた重要なもので
あることも知った

例えば
重力や引力といった観察ができない
概念もこの考えによって
科学の対象と出来るように
意識や感情といった観察ができない
概念もまた同様に
科学の対象とできるのだ

私が悩む必要もなく
そういった概念も
既に科学の対象にはなれるのだ

一方で
精神分析の自我構造や
動機づけとか
結構妄想度がやばいんじゃ?
と思われるものが
普通に理論体系化されている謎も
すっきりした


そのものが観察できなくても
別の方法でそれを説明できれば
それは科学として扱える


ということが
大きな収穫だった