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内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

一般神経質に対する私の特殊療法 -第二期 軽い作業療法-

2008-10-06 22:13:04 | 森田正馬先生の本
(1)自発的活動
 『第一日および二日の間は、空を仰ぐこと、高いところに昇ること、またたとえば竹ぼうきをもつぐらいのことでも、すべて筋肉を労する動作を禁じ、その他この期間は、たとえば無意味に散歩すること、体操したり、口笛を吹き唱歌したり、子供や、犬などと遊んだり、すべて気をまぎらせること、遊戯気分にことを禁じ、厳粛な精神的態度を保持して、身体的の不快感とか、強迫観念とかに対してはそのあるがまま、起こるがままに静かにこれを持ちこたえているという気持でやる。そしてその間に庭のすみや、木立の間の落葉を拾って掃除するとか、雑草をぬき、根笹の枯葉を取るとか、あるいは気が向けば、アリや植物を観察するとかいうことをやらせるのである。』(神経質の本態と療法 p.110)

 第一期の絶対臥褥に引き続き、第二期に入ってもここまで行動を制限させられたら、退屈でしかたなくなってしまうのでしょうね。でも、この退屈というのが大事なようです。

 『この療法による退屈ということは、患者に一見まったく無価値のようなことにも、容易に手を下して実行するようにならせるものである。それは飢えている時には何でもがおいしいようなもので、茶漬と香の物との味がなんともいえないことに、ぜいたくな人が思いも及ばないようなものである。』(p.111)

 そして、2日目くらいから軽い作業に入っていくようです。

 『もしこの仕事が、自発的でなく、他動的に仕事を課せられた場合、たとえば広大な場所の庭掃除など、患者は、その完全欲のために仕事の結果を予想し、その成功に対する予期感動に支配されて、かえって困難と不成功を感じ、実行に着手することができないようになる。およそ神経質者あ何事をなすにも、時間割と仕事の予定の見積もりとに時間を費やし、これを大げさに考え、大儀に思い、ただもうわずらわしさを感じてひとり、気分のいらいらするものである。それ故、神経質の療法には常に患者の体験によって、この予期恐怖を打破することが必要である。』(神経質の本態と療法 p.111)

 『なお患者が仕事をするのに、どんなことをすれば自分の病気に有効であるか、どうすれば苦痛を転換することができるかなどと考えて、仕事を探してまわる時には、患者はますます仕事のないことに苦しむようになる。また、患者が自分で工夫して、興味を起こそう、精神を統一しよう、注意を緊張しようというふうに考えては、その仕事は、ますます机上論的、模型的になり、実際に適応しないようになるから、指導者はこのような点にも注意して、なんでも手早く、尻軽く、仕事に手をつけるということを実行させなければならない。』(神経質の本態と療法 p.112)

(2)気分本位の打破
 『また患者がその苦痛を訴えるのに対しては、いわゆる不問療法によって知らぬふりをし、これを放任し、あるいは患者が、「頭が軽くなった、精神が爽快になった」などと述べるのに対しては、「これはただ一つの自覚に過ぎない。病症ということから見れば、苦痛と同一である。爽快ののちには、その反動として常に必ず不快のくるものである。真の健康は、快と不快との感じを脱却した時にある。胃部に何者をも感じない時に、はじめて胃の健康がある」ということを説得する。このように私は、患者の自覚症にこだわるような症候的療法を超越して、快も不快もともに、その気分本位を打破する根本的療法をとるのである。』(p.114)

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 要約すると、作業に当たっては、患者に作業を指示するのではなく、本人が自発的に作業に取り組むことが大事。その時に尻軽く仕事に手を出す。ただし、症状を治すためということではなく、その症状そのものに対するこだわりをなくしていく、というようなことになるのでしょうか。

 森田先生が、実に極め細かく患者を診てらっしゃることに、感嘆してしまいます。 

一般神経質に対する私の特殊療法 -第一期 臥褥療法-

2008-10-04 00:35:43 | 森田正馬先生の本
 『この療法は、しいてこれを分ければ、四期として見ることができる。すなわち、
 第一期 臥褥療法 
 第二期 軽い作業療法
 第三期 重い作業療法
 第四期 複雑な実際生活

 本療法の実質は、心身の自然療法であって、これをまた体験療法とも見ることができる。京都の宇佐玄雄はかつてこれを自覚療法と名づけたことがある。

 第一期 臥褥療法

 この期間は、まったく患者を隔離して、面会、談話、読書、喫煙、その他すべての気をまぎらすようなことは禁じて、食事、便通のほかは、ほとんど絶対臥褥(絶対安静)を命ずるものである。(中略)この方法は、はじめいわゆる苦悶性神経症に対して、私が患者に強制的、安静臥褥療法を実行して認めたところの効果から思いついて、やり始めたことである。すなわち、苦痛、煩悶は、複雑な外界の刺激を去り、安静にして、そのまま放任しておけば、感情の自然の経過によって消失するものである。ということを知ったからである。のちに白隠禅師の法語集中にある内観法とか、悟道に入るの法とかを読むようになって、これを思い合わすところがあるようになった。しかし、これに対する私の心理的説明は、宗教的なものとはまったくその趣を異にするものである。』(神経質の本態と療法 p.103)

 私は是非一度、この絶対臥褥を経験してみたいと思っています。これは自分でやろうと思ってもできないことです。一人暮らしの人でも、食事の用意をしなくてはなりません。家族と一緒に過ごしている人は家族の協力が得られたら自宅で出来るかもしれませんが、でもやはり診てくださるお医者さんが居てこそ、煩悶に身を任せられるように思うのです。

 内観は10年ほど前に経験したことがあります。5日間ほど、寝るとき以外はずっと半畳くらいのスペースで過ごします。内観は内観で大変良い経験ができました。でも、これと絶対臥褥とは、全然違うものだと思います。内観は積極的に考えますが、絶対臥褥はまったくの受け身ですから。

本療法の原理 -無所住心ー

2008-10-02 20:03:28 | 森田正馬先生の本
 『なお、私たちの健康な注意作用について考えると、禅に「まさに無所住にして、その心を生ずべし」という言葉がある。無所住心とは、私たちの注意が一点に固着、集注することなく、しかも全精神が常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態であろう。この状態にあって、私たちははじめて事に触れ、物に接して、臨機応変、すぐにもっとも適切な行動で、これに対応することができる。(中略)
 およそ神経質の症状は、注意がその方にのみ執着することによって起こるものであるから、その療法は、患者の精神に自然発動をうながし、その活動を広く外界に向かわせ、限局性の注意失調を去って、けっきょくこれを無所住心の境地に導くことにあるのである。これが私の神経質に対する特殊療法の発足点である。』(神経質の本態と療法 p.98)

 今意識しているのは、プラスαの感覚を味わうこと。例えば座っていて立ち上がる時、足の裏が床に触れる。その感覚を味わってみる。外に出たときに、顔にあたる風を感じてみる。臭いを感じてみる。なんだ、面倒くさいことをと思われるかもしれませんが、いつもよりプラス1つだけなので、案外楽です。
 そうしていると、注意がいろんなところに向いてくる。その注意は常に現実、事実に向いたもの。「全精神が常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態」と森田先生がおっしゃることも、神経質の私には初めは意識してやらないと、いつの間にか症状のことばかり考えてしまうのです。主観の中に閉じこもってしまいます。だから、プラスα何かを感じてみるということを大事にしています。

 私もこのブログで書いたことで三日坊主に終わっていることも多いです。でも、森田はやっぱり本を読んで学ぶものでなくて、体得するものだと思います。なので、色々試しているのです。皆さんも小さなチャレンジをしてみませんか? 

本療法の原理 -境遇の選択-

2008-10-01 22:01:12 | 森田正馬先生の本
 森田先生の本を読んでいると、たまに深い森の中に迷い込んでしまったような感覚に襲われるときがあります。例えば以下のような文章です。
 (ちょっと長い引用で申し訳ありません。)

 『それ故、思想の矛盾を打破するということは、寒さは当然これを寒いと感じ、苦痛、恐怖は当然これを苦痛、恐怖し、煩悶はそのまま煩悶すべきである。いたずらに人工的の拙策をもてあそんではならない、ということに帰着する。これはつまり私たちが自然に服従すること、事実すなわち真理に絶対服従する意味である。
 こういうことは患者の取るべき主観的態度であり、心の置きどころである。しかしなお、ここに注意すべきことは、この心も態度も、患者がこうなろうとする目的またはこうなればいいという結果の状態であって、こうなることのできる手段とか条件は、これとはまた別のことである。すなわち、もし患者がみずから直接に、読んで字のごとく、どうすれば、自分が自然に服従することができるかと工夫し、あるいはみずからこの態度になろうと努力すれば、これはもう自然ではない。なぜなら、工夫、努力は、すでに自己を第三者として、客観的に取扱おうとするものであり、自己そのものではないからである。そこで、この精神的態度となり得るような条件はほかでもない。外界の事情、境遇の選択がこれである。』(神経質の本態と療法 p.90) 

 『以上述べたところは、神経質の症状を注意失調の方面から観察したものである。これに対する療法としては、一般に精神の自然発動によって、意識の末梢性を自然に復帰させるようにはからなければならない。たとえば作業療法により、欲望の発動のままに調子に乗って、心は仕事の目的の方にのみ向かって自己観察の余地がないように導くようなものである。
 ところが、ここに注意すべきことは、神経質の個々の症状については、その症状の成立した以上はすでに注意の執着となっているものであるから、かえって注意をその方に集注せしめることのほうがむしろ自然で、意識末梢性の理にも合うことである。すなわちその症状は、患者の現在においては、当然これに執着し、苦痛とし、恐怖すべき境遇にあるのだから、患者がいたずらに否定し排除しようと努力することは不自然であり、いたずらに自己観察にふけり、思想の矛盾にとらわれて、注意の対象と自己批判との間の精神葛藤を起こすようになるのである。それ故患者の症状に対しては、当然これに注意を集注させ、純一に苦痛を感じさせる方がよい。そのときは、注意はいつともなしに無意識的注意の状態となって、みずからその苦痛を感じないようになるのである。』(神経質の本態と療法p.95)

 わかるんだけれども、実際にどう行動すればいいのか、どう考えればいいのか。ちょっと思い悩んでしまう事はないでしょうか。私もそうでした。
 宇佐先生が「知性は精神の外部機構」と表現されるように、心の中というのは普通の論理が通らない世界。自分でどうしようと思っても、思うようになるものではない。つまり、心が落ち込んだのを自分でなんとかしようとしても、それはできないこと。できないと諦める。それが事実だから仕方がない。そうすれば、もはや気分をよくしようとか、なんとかするはからいがなくなる。
 そうすると、今の自分の心がどうなっていても、それはそれとして放っておけるのです。この「知性は精神の外部機構」というのを理解して、私自身どれだけ救われたことでしょう。
気分転換ということを目的にはしないで、心のことは放っておいて、音楽聴いたり、からだ動かしたりとかは積極的にやっていいんではないでしょうか。

 森田先生の本は好きなのですが、言葉にとらわれてしまうことがあって、どうしていいかわからなくなることがあります。そういう時、宇佐先生の本のことを思い出すと、森の中で星を頼りにまた歩き出せるのです。

神経質の療法 -思想の矛盾-

2008-09-30 19:21:56 | 森田正馬先生の本
 『私の見解によれば、神経質の療法は当然、精神的療法であって、その着眼点は、ヒポコンドリー性基調に対する陶冶または鍛錬療法と、精神交互作用に対する破壊または除去療法でなければならない』(神経質の本態と療法 p.73)

『思想の矛盾とは、かくありたい、こうならねばならぬと思想すること、事実すなわち、その予想する結果とが反対になり、矛盾することに対して、私が仮に名づけたものである。』(p.74)

 思想の矛盾ということが、心底わかったら、それだけで神経症は治ってしまうのかもしれません。説明を読んで、なるほどと思いますが、ではどうしたらいいのかということになるかと思います。

 『以上述べたことから、神経質の療法については、この思想の矛盾を打破すべきことが、一面の着眼点でなくてはならないことを知るべきである。それなら、この思想の矛盾は、どうしてこれを打破することができるか。一言でいえば、いたずらに人工の拙策を放棄して、自然に服従すべしということである。』(p.86)

 人間は言葉を持つことによって文明を築き上げてきましたが、言葉の持つ弊害というのが、まさにこの思想の矛盾なのではないかと思っています。つまり、言葉によって実際にないものを作り上げてしまう。猿や犬には神経症はなさそうです。神経症という面からすると、猿や犬などの動物を見習ったほうがいいのかもしれません。(もっと小さな蟻とかもまた然り)
 禅で一番大事なのは「莫妄想」だと聞きます。坐禅によって妄想を断ち切るのでしょうか。しかし凡人である私達は、坐禅の代わりに行動によって妄想を断ち切る。それが森田療法なのではないか。今はそのように捉えています。禅と森田療法というのは相通ずるものがあると思います。自分だけの理解で申し訳ないのですが、莫妄想と絡めると思想の矛盾が自分には理解しやすいのです。(莫妄想の説明がなくて申し訳ないですが。)

 『このように私たちの思想の矛盾の多いことは、もっぱら思想が、体験的、主観的の事実と一致せず、これを客観化して、いたずらに外界に投影、拡張して、ますます事実と遠ざかるようになったためではなかろうか。禅で悪智と称するのも、たぶん、このようなことであろうかと思われる。』(p.86)

神経質の原因的関係

2008-09-27 01:10:18 | 森田正馬先生の本
 『私は神経質をヒポコンドリーになりやすい気質であり、先天性の素質であるという。それならこの先天性という意味はどういうことかというに、それが遺伝原質を血統から直接に受けたものであるか、あるいは子宮内発育中に、ある事情から起こるか、または生後の疾病や養育上の関係から、この気質を得るようになるものであるかということについては、これを確定する正確な材料をまだ持たない。この研究は将来に待たなければならない。』(神経質の本態と療法 p.56)

 『丸井博士は、フロイトの精神分析法から研究を進めて、小児期の養育が神経症の発生には重大な関係があるということを唱えている。下田博士も、神経質は、小児期の不良の養育によって生成されるものであるというふうに、後天的の影響を大へん重大視している。これはもちろん、だれしも承認すべき事実である。(中略)しかしこれも、あるいは影響するというほどの相違で、本態的の区別ではなく、根本的の原因として断定ことはできないようである。』(p.57)

 『神経質の先天的素質ということについても、いろいろ軽い重いの差がある。良い境遇にあって養育も適当であっても、なお幼児から神経質性気質の著名なものがある。これに反して一方には、従来はほとんどその気質として認められるほどのものがなくて、後天的にある機械的原因から、本病を発することがある。』(p.58)

 森田先生の見解としては、はっきりとは断言できないにしても、神経症になるのは先天性の気質によるものであって、養育環境は多少は影響するものの決定的なものではない、ということでしょうか。ただし、先天性の気質はなくても、後天的に神経症になるということはあるということです。

 私の子どもも、小さい時から人見知りで、人に抱っこされるのを極端に嫌がり、親に似て恥ずかしがり屋だったりという気質を備えています。一方で、私のような大人にも平気で話しかけてくる子どももいます。これはやはり養育というよりも、やはり先天性の気質と言えるのではないかと思います。

 養育があまり影響しないのだったら、どう育ててもいいのかということになるかもしれませんが、そういう気質を持っていたとしても将来的に神経症になりにくいような育て方というのはあるように思います。

 私が今大事だと思っていることの一つには、まず友達と遊べる環境を作ってあげること。引っ越す前は近所に友達がいなかったので、ずっと親とだけ遊んでいる状況だったのですが、今は近所に同年代の子どもが多く、私なんかと遊ぶよりも、友達と朝から暗くなるまで、ずっと外で遊んでいます。外で友達と遊びまわるのがとても好きみたいです。これは引越ししてよかったなあと思っていることです。

 もう一つ、我が家にはテレビがありません。実家に帰ったときにだけテレビを見るくらい。テレビゲームもありません。テレビは思慮分別のついた大人が見るのはいいかもしれませんが、暴力場面だったり、小さい子どもにとってはあまりいい環境とは言えないと思います。何よりもただ受け身になってしまうのが問題のように思っています。テレビを見ないで子供たちは夜とかは何をしているかというと、折り紙をしたり、絵を書いたり、編み物をしたりして過ごしています。からだを動かすこと、感受性を高めること。それは、きっと主観的・観念的になることよりも現実的に生きる力につながってくように思うのです。
 実際のところ、うまい具合にそうなるかどうかはわかりませんが。

神経質の分類

2008-09-26 00:09:47 | 森田正馬先生の本
 最近は、「神経質の本態と療法」(森田正馬著)を毎日1章ずつ読んでいます。そこで気になった箇所や考えたことなどを、ここに書かせていただいています。
 今日の箇所は「神経質の分類」について。森田先生の言葉では、次の3つに分類しています。
 1.普通神経質
 2.発作性神経症
 3.強迫観念症

 今日は、三番目の強迫観念症のところの説明で気になったところを抜粋します。

 『強迫観念とは、患者がある機会から、ある感覚または感想に対して、これをヒポコンドリー性に病的異常とみなし、これを感じないよう、考えないようにとする反抗心から起こる心の葛藤に名づけたものである。すなわち、精神の葛藤がなければ、強迫観念はない。それ故、本症の治療では患者に純粋にその苦痛を苦痛として味わわさせ、その反抗心を没却すれば、すでに強迫観念はなくなるのである。』(p.54)

 そうか~、「精神の葛藤がなければ、強迫観念はない」のか~と、しばし空を見つめ、考えた。
 森田療法の入院治療では、最初に絶対臥褥といって、気休めになることは一切禁止される期間を過ごすようです。まさにこの時に「苦痛を苦痛として味わわせ」るのかもしれません。私は入院経験がないのでわかりませんが。
 反抗心が没却する、というのは言葉ではなんとなくわかりますが、まだ実感としてはしっくりきてません。

 私の場合には、自分の表情にすごくこだわりがあります。人と話をしていても、自分の表情のことばかりを気にしていたりします。これが「感じないよう、考えないようにとする反抗心」なのかどうかはわかりません。

 ある理想と現在の自分とを比較するということが多いです。それが葛藤になります。人との対応についても、理想の関係というのをまず思い浮かべ、そこからかけ離れている自分に絶望していたりします。

 でも、最近この理想の自分というのを持ち出さずに、そのままの自分が「ああ、これが自分なんだ」とそのまま感じられる瞬間というのがあります。

 いずれにしても、「苦痛を苦痛として味わ」うというのはなかなか難しいですね。苦痛に対しては手を出さずに放っておく、ということでしょうか。

注意の執着

2008-09-24 19:11:00 | 森田正馬先生の本
 『神経質患者が、夢が多いといったり、一定の強迫観念が絶えず念頭に現れるというのは、単に注意の執着による意識の関係から説明することができる。』(神経質の本態と療法 p.48)

 『強迫観念も、まったくこれと同じで、不潔なり赤面なり、これと同様の感想は、普通の人でも同じく出没しているけれども、常人は日常生活における精神流転中にすぐ忘れ、またはまったく意識するかしないで、新しい刺激の方に意識が変転してゆくから、これに懸念している暇がないのである。』(p.49)

 『神経質患者の頭重、不眠または強迫観念などのようなものは、すべてもともと常人の普通の感覚、感想が、患者のみずから病的なりとする誤った考えによって、自己暗示的に固着したところの信念である。つまり患者は注意をこれに固着するとき、周囲に対する注意の自由自在な活動を失って、無意識的注意となったものであって、患者はこれに執着して、まったくこれを事実と信ずるようになったものである。』(p.47)

 多くの人には意識にも上らないようなことでも、注意の執着があると意識されてしまうというのが森田先生の説明だと思います。

 『たとえば病児を抱き寝している母親は、その子が少しセキをしても、たちまち目をさますけれども、雷の音には、かえって覚醒しないようなものである。しかしこれは、雷の音にさめないのではない、ただ注意の圏外に脱出して、すぐ忘れるからである。』(p.43)

 ということは、注意の執着がなくなったら、つまり症状が「注意の圏外に脱出」してしまったら、精神交互作用は成り立たなくなる、ということ。

 たとえば、何かに夢中になっているような時などは症状については忘れてしまっている。あるいは、いろんなことに注意が向けられているような場合にも、注意の執着がなくなっている。

 『このように常に新しい内外刺げきの変化に応じて、いわゆる知情意の四角八面の連合作用が発動し、さらにその観念、気分および活動は、ただちに刺激となって、絶え間ない精神の活動、流転となるのである。しかもこの変転は、意識または無意識の状態のいかんにかかわらず起こることは、ちょうど昼夜の別にかかわらず、見えると見えないとにかかわらず、自然現象は絶えず変化流転して、川は流れ、動物ははっているようなものである。』(p.42)

 自然現象も、精神現象も、常に流転している。にもかかわらず、注意の執着により、ある特定の現象ばかりを意識の中に拾い集めてしまう。

 なので、最近私が意識しているのは、本来流転している自然現象、精神現象の流れを感じてみる、あるいは掃除やら洗濯やら体を動かしてみることによって、「周囲に対する注意の自由自在な活動」を取り戻そうということです。

 たとえ掃除であっても、それに集中した瞬間があったなら、その一瞬の間は全治しているということが言えるのだと思います。ひとつひとつの行動を大切にしてみること。その小さな行動が常に全治への道へとつながっていると思うのです。

精神交互作用説

2008-09-23 08:07:03 | 森田正馬先生の本
 ヒポコンドリー性基調だけでは神経症にはならない。これに「精神交互作用」が加わったときに生ずる。
 『神経質において精神交互作用説というのは、ある感覚に対して、注意を集中すれば、その感覚は鋭敏となり、この感覚鋭敏は、さらにますます注意をその方に固着させ、この感覚と注意とがあいまって交互に作用して、その感覚をますます強大にするという精神過程に対して名づけたものである。』(神経質の本態と療法 P.29)

 『さて、このように、すでにその執着にとらわれて、一定の症状を構成するようになってしまえば、患者は常にその自覚に執着し、主観の内に閉じこめられて、たとえば「鹿を追う猟師は山を見ず」というように、常に注意はそのことのみにかぎられて、他のことは見えない。』(p.39)

 森田先生はここで「執着」という言葉を使われています。この言葉のほうがわかりやすいかもしれません。
 ここでのポイントは、「主観の中に閉じこめられて」ということになるかと思います。精神交互作用でひとつのことにとらわれてそれに執着している時というのは、自分の中だけで思考がぐるぐる状態になっている。そして現実と離れてしまっている。

 私も若いとき、いつも自分の主観の中だけに閉じこもっていました。たぶん頭で考えていることの80%位は症状に対する思いとか過去にしてしまったことの後悔とかでした。今は20%くらいでしょうか。

 以下、精神交互作用についての森田先生の言葉を挙げておきます。
 『強迫観念についても、はじめは、常人にも当然あり得るような現象を、患者が自分で異常病的の苦痛と考え、恐怖を起こし、予期感動をともなうことから、精神交互作用によって、次第にその症状を憎悪させるものである。』(p.39)
 『すでに精神交互作用によって、症状が発展してしまった後では、たとえば常習頭痛であっても、めまいであっても、強迫観念であっても、患者はちょうど夢の中で、その実在を信じているように、常に主観の内に閉じこめられ、これに対する絶え間ない苦悩に悩まされるようになる。』(p.30)

ヒポコンドリー性基調

2008-09-22 23:23:08 | 森田正馬先生の本
神経症に何故なるか。
 『私は神経質という病名をたて、その本態的条件としては、ヒポコンドリー性基調があり、その症状発展の条件としては、精神交互作用があるという説をたてて、これを説明してきたが、これによりはじめて治療上の着眼点も得られたし、的確な治癒成績もあげることができるようになったのである。』(神経質の本態と療法 p.21)
 
  森田先生は、「ヒポコンドリー」について以下のように説明しています。
『ところでヒポコンドリーとは、心気性すなわち疾病を恐怖する意味であって、人間の本性である生存欲のあらわれである。したがって、これはすべての人が持っている性情であるが、その程度が強すぎるときに、はじめて精神的傾向となり、異常となり、ますます神経質の複雑、頑固な症状を呈するようになる。』(p.25)

 ということなので、結局森田療法とは、以下のようなものということになる。
 『このように神経質の病理が定まれば、その療法は、その本性であるヒポコンドリー性基調を鍛錬しまたは破壊するという手段に、その着眼点をおかなければならない。』(p.27)

 このヒポコンドリーの語源は、『hypo(ヒポ)は下で、chondor(コンドル)は軟骨であって、胸骨端の心か部(みぞおち)ということである。心配、不安のときには、ここに普段と変わった感じをうけるのであるから、ヒポコンドリーとは、本来ものを気にするという意味から起こった言葉である。』(p.25)

 私が毎日、不安を感じる場所が、まさにこのヒポコンドルの部分です。まさに言い得て妙。

 「ヒポコンドリー性基調を鍛錬し破壊」するのは、やはり現実に即した具体的行動ということになるのでしょう。社会に出てのいろんな経験も、たとえそれが落ち込み経験であったとしても、きっと鍛錬に役立っていることと思います。