(1)自発的活動
『第一日および二日の間は、空を仰ぐこと、高いところに昇ること、またたとえば竹ぼうきをもつぐらいのことでも、すべて筋肉を労する動作を禁じ、その他この期間は、たとえば無意味に散歩すること、体操したり、口笛を吹き唱歌したり、子供や、犬などと遊んだり、すべて気をまぎらせること、遊戯気分にことを禁じ、厳粛な精神的態度を保持して、身体的の不快感とか、強迫観念とかに対してはそのあるがまま、起こるがままに静かにこれを持ちこたえているという気持でやる。そしてその間に庭のすみや、木立の間の落葉を拾って掃除するとか、雑草をぬき、根笹の枯葉を取るとか、あるいは気が向けば、アリや植物を観察するとかいうことをやらせるのである。』(神経質の本態と療法 p.110)
第一期の絶対臥褥に引き続き、第二期に入ってもここまで行動を制限させられたら、退屈でしかたなくなってしまうのでしょうね。でも、この退屈というのが大事なようです。
『この療法による退屈ということは、患者に一見まったく無価値のようなことにも、容易に手を下して実行するようにならせるものである。それは飢えている時には何でもがおいしいようなもので、茶漬と香の物との味がなんともいえないことに、ぜいたくな人が思いも及ばないようなものである。』(p.111)
そして、2日目くらいから軽い作業に入っていくようです。
『もしこの仕事が、自発的でなく、他動的に仕事を課せられた場合、たとえば広大な場所の庭掃除など、患者は、その完全欲のために仕事の結果を予想し、その成功に対する予期感動に支配されて、かえって困難と不成功を感じ、実行に着手することができないようになる。およそ神経質者あ何事をなすにも、時間割と仕事の予定の見積もりとに時間を費やし、これを大げさに考え、大儀に思い、ただもうわずらわしさを感じてひとり、気分のいらいらするものである。それ故、神経質の療法には常に患者の体験によって、この予期恐怖を打破することが必要である。』(神経質の本態と療法 p.111)
『なお患者が仕事をするのに、どんなことをすれば自分の病気に有効であるか、どうすれば苦痛を転換することができるかなどと考えて、仕事を探してまわる時には、患者はますます仕事のないことに苦しむようになる。また、患者が自分で工夫して、興味を起こそう、精神を統一しよう、注意を緊張しようというふうに考えては、その仕事は、ますます机上論的、模型的になり、実際に適応しないようになるから、指導者はこのような点にも注意して、なんでも手早く、尻軽く、仕事に手をつけるということを実行させなければならない。』(神経質の本態と療法 p.112)
(2)気分本位の打破
『また患者がその苦痛を訴えるのに対しては、いわゆる不問療法によって知らぬふりをし、これを放任し、あるいは患者が、「頭が軽くなった、精神が爽快になった」などと述べるのに対しては、「これはただ一つの自覚に過ぎない。病症ということから見れば、苦痛と同一である。爽快ののちには、その反動として常に必ず不快のくるものである。真の健康は、快と不快との感じを脱却した時にある。胃部に何者をも感じない時に、はじめて胃の健康がある」ということを説得する。このように私は、患者の自覚症にこだわるような症候的療法を超越して、快も不快もともに、その気分本位を打破する根本的療法をとるのである。』(p.114)
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要約すると、作業に当たっては、患者に作業を指示するのではなく、本人が自発的に作業に取り組むことが大事。その時に尻軽く仕事に手を出す。ただし、症状を治すためということではなく、その症状そのものに対するこだわりをなくしていく、というようなことになるのでしょうか。
森田先生が、実に極め細かく患者を診てらっしゃることに、感嘆してしまいます。
『第一日および二日の間は、空を仰ぐこと、高いところに昇ること、またたとえば竹ぼうきをもつぐらいのことでも、すべて筋肉を労する動作を禁じ、その他この期間は、たとえば無意味に散歩すること、体操したり、口笛を吹き唱歌したり、子供や、犬などと遊んだり、すべて気をまぎらせること、遊戯気分にことを禁じ、厳粛な精神的態度を保持して、身体的の不快感とか、強迫観念とかに対してはそのあるがまま、起こるがままに静かにこれを持ちこたえているという気持でやる。そしてその間に庭のすみや、木立の間の落葉を拾って掃除するとか、雑草をぬき、根笹の枯葉を取るとか、あるいは気が向けば、アリや植物を観察するとかいうことをやらせるのである。』(神経質の本態と療法 p.110)
第一期の絶対臥褥に引き続き、第二期に入ってもここまで行動を制限させられたら、退屈でしかたなくなってしまうのでしょうね。でも、この退屈というのが大事なようです。
『この療法による退屈ということは、患者に一見まったく無価値のようなことにも、容易に手を下して実行するようにならせるものである。それは飢えている時には何でもがおいしいようなもので、茶漬と香の物との味がなんともいえないことに、ぜいたくな人が思いも及ばないようなものである。』(p.111)
そして、2日目くらいから軽い作業に入っていくようです。
『もしこの仕事が、自発的でなく、他動的に仕事を課せられた場合、たとえば広大な場所の庭掃除など、患者は、その完全欲のために仕事の結果を予想し、その成功に対する予期感動に支配されて、かえって困難と不成功を感じ、実行に着手することができないようになる。およそ神経質者あ何事をなすにも、時間割と仕事の予定の見積もりとに時間を費やし、これを大げさに考え、大儀に思い、ただもうわずらわしさを感じてひとり、気分のいらいらするものである。それ故、神経質の療法には常に患者の体験によって、この予期恐怖を打破することが必要である。』(神経質の本態と療法 p.111)
『なお患者が仕事をするのに、どんなことをすれば自分の病気に有効であるか、どうすれば苦痛を転換することができるかなどと考えて、仕事を探してまわる時には、患者はますます仕事のないことに苦しむようになる。また、患者が自分で工夫して、興味を起こそう、精神を統一しよう、注意を緊張しようというふうに考えては、その仕事は、ますます机上論的、模型的になり、実際に適応しないようになるから、指導者はこのような点にも注意して、なんでも手早く、尻軽く、仕事に手をつけるということを実行させなければならない。』(神経質の本態と療法 p.112)
(2)気分本位の打破
『また患者がその苦痛を訴えるのに対しては、いわゆる不問療法によって知らぬふりをし、これを放任し、あるいは患者が、「頭が軽くなった、精神が爽快になった」などと述べるのに対しては、「これはただ一つの自覚に過ぎない。病症ということから見れば、苦痛と同一である。爽快ののちには、その反動として常に必ず不快のくるものである。真の健康は、快と不快との感じを脱却した時にある。胃部に何者をも感じない時に、はじめて胃の健康がある」ということを説得する。このように私は、患者の自覚症にこだわるような症候的療法を超越して、快も不快もともに、その気分本位を打破する根本的療法をとるのである。』(p.114)
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要約すると、作業に当たっては、患者に作業を指示するのではなく、本人が自発的に作業に取り組むことが大事。その時に尻軽く仕事に手を出す。ただし、症状を治すためということではなく、その症状そのものに対するこだわりをなくしていく、というようなことになるのでしょうか。
森田先生が、実に極め細かく患者を診てらっしゃることに、感嘆してしまいます。