めいすいの写真日記

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山口百恵主演 映画「伊豆の踊子」・・・ 日本青春文学の傑作

2020-06-23 | 映画

                     1974年制作 NHK BSシネマ2020.6.22

大正末期、伊豆への旅に出た一高生の川島は、天城街道で旅芸人の栄吉一座と道連れになる。やがて若い踊り子、薫(かおる)との淡い恋が始まる・・・・。 
  川端康成の代表作の6度目の映画化で、当時15歳のアイドル山口百恵の初主演映画である。
 相手役、一高生川島には三浦友和が起用された。薫を演じる山口百恵の桃割れの髪結いと和服姿がよく似合う。本当に恋をしているからなのか、初々しく、可憐な感じが出ている。三浦友和も学生らしさと爽やかさを出して好演している。以後2人は次々と映画やテレビドラマなどでの共演を続け、ついには結婚へと至ることになるが、結果的に見事なキャスティングになり、良いコンビにもなった。

製作:堀威夫、笹井英男
監督:西河克己
原作:川端康成
脚本:若杉光夫
撮影:萩原憲司
音楽:高田弘

時間 1時間23分

出演
薫(踊子):山口百恵
川島(旧制一高生):三浦友和
のぶ(千代子の母):一の宮あつ子
栄吉(かおるの兄):中山仁
千代子(その女房):佐藤友美
百合子(雇いの女):四方正美
茶屋の婆さん:浦辺粂子
おきみ(酌婦):石川さゆり
ナレーター :宇野重吉

  見る前までは、どのような映画になるのだろうと思っていたが、
 小説に書かれている出来事を描写した部分の出来映えは予想を超えて素晴らしい。一高生川島と踊り子薫の淡い恋心がひしひしと伝わってくる。ノーベル賞作家、川端康成の名作をよく再現していると思う。

 しかし、小説に無い出来事を追加した分については疑問を感じずには、いられなかった。
(その1)
 湯ヶ野で、踊り子薫が手紙のやりとりで再会を楽しみにしていたおきみ(石川さゆり)。飲み屋につとめていたが、始めは探し求めたが行方が分からず、やっと探し当てたが、彼女はあばら屋で隔離され、結核?で死の間際にあった。薫が修善寺のお守りを渡し、元気づけようとするが、入ってきた飲み屋の女に追い出され、「いつまでいるとあんたもこんなことになるんだよ」といわれる。旅立ちの朝、おきみは死亡、お守りは踏みにじられ、棺おけが人夫、二人だけで運び出されて、人知れず山の中に遺体は葬られるシーンが映し出される。
  旅すがら、そのことを知らない薫は、景色の良いところで「おきみちゃん、早く治ってね-」と叫び、その声がこだまする。そして2度目の主題歌が流れる。・・・・・・。
 この話は湯ヶ野に入る前から薫が会うのを楽しみにしている様子が伝えられ、あまりに悲哀のある内容で行く末の悲劇を暗示する話には辟易とした。

 さらに、石川さゆりは「天城越え」を歌った大スター。こんな扱いをしていいのかな。山が燃えていない。

(その2)
 二人の波止場での別れのシーンの後の最終シーン。
 川島が懐から薫にもらった櫛を手に取る。すると「あんな者、どこで泊まるやら分かるものですか、旦那様、お客があればあり次第、どこにだって泊まるんでございますよ。今夜の宿のあてなんぞごさいますものか」と旅の始めの茶屋の婆さんの声。
 原作では「甚だしい軽蔑を含んだ婆さんの言葉が、それならば、踊り子を今夜は私の部屋に泊まらせるのだ、と思ったほど私を煽り立てた」とある。

 続いて踊り子薫が踊るシーン、背中いっぱいに刺青が彫られたヤクザものに絡まれ、抱きつかれて、背中の刺青が大写しにされて「終」となる。
 これまで、入れ積みをした男に抱きつかれるシーンなど無かったのに、なぜあえてここに出し最終シーンとしたのか?
 あまりにも旅芸人を卑下するやり方だ。川端康成は原作では、旅芸人一家をもっと温かい目で見守っていたと思う。
 私には、疑問を感じるどころか、せっかくここまで積み上げてきた素晴らしい映画が瓦解してしまうような気持ちになった。

 下田の波止場で、黙りこくっていた薫が離れた汽船の汽笛が鳴った瞬間、堤防にある灯台方向に突然走り出す。薫は始めは手を振っていたが白いものを振り始める。それに気がついて、川島は一高の制帽を振り、「おーい」、「おーい」と叫ぶシーン、ここで「終」となったら、どんなにか良かったろうと思う。
  脚本家が決めたのか監督が決めたのか、残念なことではあった。
 15歳で主役として初演し、かいがいしく熱演した山口百恵が気の毒に思えた。

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名作をポケットに 「伊豆の踊子」   NHK BSシネマ2020.6.22

                          映画監督 大林宣彦

 山口百恵主演 映画「伊豆の踊子」の直後に放映された30分番組

(番組の解説)
 旅芸人への淡い恋心を綴った川端康成の小説「伊豆の踊子」、主人公、私と踊り子との出会いと別れを描いた作品。
 康成が実際に体験したことを忠実に書いたものであると言われている。
 明治32年大阪に生まれた康成は15歳までに全ての両親を失う。その後上京し旧制一高に進学した康成は、孤独な生活でゆがんでしまったという性格に耐えきれず、飛び出すように伊豆に旅立つ。20歳(数え)、大正7年、秋深い11月のことだった。なお、踊り子薫は14歳

 この番組は私の「伊豆の踊子」 に持つ心情に近いものだった。川端康成の文章を解説する大林さんの言葉に共感できた。
 川端康成は、孤独で歪んだ心が次第に素直になっていくのを感じていたのだという。
  
 以下に記載したのは、大林さんが取り上げた、小説の中の文章(漢数字は章番号)

一 
    踊り子は十七くらいに見えた。私には分からない古風な不思議な形に大きく髪を結っていた。それが卵形の凜々しい顔を非常に小さく見せながらも、美しく調和していた。   
 
  彼等を送り出してきた婆さんに聞いた。
 「あの芸人は今夜どこで泊まるんでしょう」
 「あんな者、どこで泊まるやら分かるものですか、旦那様、お客があればあり次第、どこにだって泊まるんでございますよ。今夜の宿のあてなんぞごさいますものか」
 甚だしい軽蔑を含んだ婆さんの言葉が、それならば、踊り子を今夜は私の部屋に泊まらせるのだ、と思ったほど私を煽り立てた


 女の金切り声が時々稲妻のように鋭く通った。私は神経を尖らせて、いつまでも戸を開けたままじっと座っていた。太鼓の音が聞こえるたびに胸がほうと明るんだ。
 「ああ、踊り子はまだ宴席に座っていたのだ。座って太鼓を打っているのだ」
 太鼓がやむとたまらなかった。雨の音の底に私は沈み込んでしまった。
 やがて、皆が追っかけっこをしているのか、踊り廻っているのか、乱れた足音が暫く続いた。そして、びたと静まりかえってしまった。私は眼を光らせた。この静けさがなんであるかを闇を通して見ようとした。踊り子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった。

 彼に指ざされて、私は川向こうの共同湯の方を見た。湯気の中に七、八人の裸体がぼんやり浮かんでいた。
 仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出してきたかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸に飛び下りそうな恰好で立ち、両手をいっぱいに伸ばして何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊り子だった。若桐のように足のよく伸びた白い肌身を眺めて、私は心に清水を感じほうっと深い息を吐いてから、ことことと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで、真裸で日の光の中に飛び出し、つま先で背一ぱいに伸び上がるほどに子供なんだ。私は朗らかな喜びでことことと笑い続けた。頭が拭われたように澄んできた。微笑がいつまでとまらなかった。
 踊り子の髪が豊かすぎるので、十七、八に見えていたのだ。その上、娘盛りのように装わせてあるので、私はとんでもない思い違いをしていたのだ。


  私の噂らしい。・・・・・・。顔の話らしいが、それが苦にならないし、聞き耳を立てる気にもならない程に親しい気持ちになっているのだった。暫く低い声が続いてから、踊り子の言うのが聞こえた。
「いい人ね」
「それはそう、いい人らしい」
「ほんとにいい人ね。いい人はいいね」
 この物言いは単純で明けっ放しなしな響きを持っていた。感情の傾きをぽいと幼く投げ出して見せた声だった。私自身にも自分をいい人だと素直に感じることが出来た。晴れ晴れと眼を上げて明るい山々を眺めた。瞼の裏がかすかに痛んだ。二十歳(はたち)の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に耐えきれないで伊豆の旅に出て来ているのだった。だから、世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは言いよう無く有り難いのだった。


   艀(はしけ)が帰って行った。栄吉はさっき私がやったばかりの鳥打ち帽を必死に振っていた。ずっと遠ざかってから踊り子が白いものを振り始めた。

   涙がぽろぽろ鞄に流れた。頬が冷たいので、カバンを裏返しにしたほどだった。私の横に少年が寝ていた。河津の工場主の息子で入学準備に東京へ行くのだったから、一高の制帽をかぶっている私に好意を感じたらしかった。少し話してから彼は言った。
「何かご不幸でもおありになったのですか」
「いいえ、今人に分かれてきたんです」
  私は非常に素直に言った。泣いているのを見られても平気だった。私は何も考えていなかった。ただ清々しい満足の中に静かに眠っているだけだった。

(付記)私が読んで良いなと思った文章

 四  
 私はひとつの期待を持って講談本を取り上げた。果たして踊り子がするすると近寄ってきた。私が読み出すと、彼女は私の肩に触るほどに顔を寄せて真剣な表情をしながら、眼をきらきら輝かせて一心に私の顔を見つめ、瞬きひとつしなかった。これは彼女が本を読んでもらう時の癖らしかった。さっきも鳥屋とほとんど顔を重ねていた。私はそれを見ていたのだった。この美しく光る黒眼がちの大きい眼は踊り子の一番美しい持ち物だった。二重瞼の線が言いようなく綺麗だった。それから彼女は花のように笑うのだった。花のように笑うという言葉が彼女にはほんとうだった。

   五
   踊り子は道にしゃがみながら、桃色の櫛で犬のむく毛梳いてやっていた。
 「歯が折れるじゃないか」とおふくろがたしなめた。
 「いいの、下田で新しいのを買うもの」
 湯ヶ野にいる時から私は、この前髪に挿した櫛をもらっていくつものだったので、犬の毛を梳くのはいけないと思った。      



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