こころの平和から社会の平和へ

水島広子の活動報告や日々思うことを述べさせていただきます。この内容はメールマガジンで配信しています。

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(8)

2006年07月13日 | アティテューディナル・ヒーリング(AH)
 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

☆☆☆ 

 私たちは今でもドナヒューのテープを学びの道具として使っています。深い感動があり、見た人にはパワフルな影響を与えます。子どもたちはまっすぐで正直です。フィル・ドナヒューはこの経験にとても強く影響を受けたため、約1年後にカリフォルニアにやってきて、センターについてのショーをもう一度やりました。彼は10回のショーができるくらいの題材を得たといい、今でも子どもたちの何人かと連絡をとっています。

 シカゴから帰ってくると、私たちの静かな小さなセンターは大騒ぎになっていました。電話は一日中鳴りっぱなしです。アメリカ中から電話がかかってきて、助けを求めているのです。手紙が殺到しました。私たちは圧倒されながら、最善を尽くして手紙に返事をしたり電話をとったりしました。ドナヒューの番組の最後に、パット・テイラーが「私たちはサービスを有料にしようとは夢にも思いません・・・でも、寄付は決してお断りしません」と言いました。これがきっかけとなって、寄付が殺到しました。高額のものも小額のものも。私たちは反応の大きさの見当がつきませんでした。すごかったのです。

 私たちは全くのボランティア組織でした。今や公的な寄付が入ってくるようになったので、法的にNPOになる必要がありました。自力でそれができるかどうかを見てみようと私たちは決めました。弁護士に法外なお金を払わずにすむようにです。それは本当にとても単純でした。私たちはカリフォルニア州サクラメントに行きました。そして、NPO法人化を申し込みました。私たちは1977年1月20日に国務長官の事務所に行き、その日のうちにNPO法人格を得ることができました。事務所の人は、基本定款を簡潔な形で作るのも手伝ってくれました。それは、カリフォルニア州法のもとで、私たちの目的をはっきりと述べたシンプルな文書です。基本定款は、私たち、当時は3人だった理事会メンバーによって署名されました。

 団体規約も作りました。ほかの団体の形式を調べて自分たちのセンターに必要なものを採用したのです。私たちの団体規約は10ページからなり、1981年11月23日の理事会で採択され、事務局長のウイリアム・テッドフォードによって署名されました。私たちが踏まなければならなかったもう一つの公的なステップは、カリフォルニア州税務局に行って非課税の対象となることでした。これは、すでにNPO法人格をとっていたので、難なくできました。

☆☆☆

(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテュー
ディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

アメリカ報告24 ――ハワイ報告・イハラ議員(その2)

2006年07月13日 | 活動報告
 ようやくコスタリカから帰ってきましたが、今回は、前回に続いてハワイのイハラ議員についてのご報告です。

 1951年生まれのイハラ議員は日系3世ですが、すでに日本語は全くしゃべらず、日本というよりは、むしろ幼少期を過ごしたドイツの影響を受けているようです。
 1986年から1994年までは州議会下院議員、1994年から現在は州議会上院議員をつとめています。

 イハラ議員は民主党所属です。ハワイは民主党が強く、州議会は民主党が多数派ですが、イハラ議員の改革志向は民主党議員であっても眉をひそめられることも多いそうで、「そういう意味ではあなた(日本で野党であった私)と同じ立場」と言っていました。

 イハラ議員は幅広くいろいろな成果を上げていますが、中でも大きなものは、上院に「共同議長制」を取り入れたことでしょう。

 ハワイの上院の委員会は、それまで一人議長制をとっていました(もちろん日本もこれです)。そのために、議長は法案についての全権限を持つ王様のようなものでした。イハラ議員によると「一人の人間がすべてのカードを持っており、情報を知らせないことによって委員会を支配していた」のです。

 1997年の議会で、イハラ議員は、マイク・マッカートニー上院議員(この人もジェリー・ジャンポルスキーの親しい友人です。ジェリーによると、イハラ議員かマッカートニー議員のどちらかが、やがてハワイ州知事になるだろうとのことです。マッカートニー氏は現在は上院を離れて、公共放送の仕事をしています)と力をあわせて、共同議長制を実現しました。それとともに、テーマごとに20あった委員会を10に減らしました。共同議長は、それまでの一人議長の2倍の権限を持つことになったのです。

 イハラ議員とマッカートニー議員は、問題が起こると、二人で出向き、共同議長の両方と話をするようにしました。そのことによってグループの力動を育てようとしたのだとイハラ議員は言います。一人が一人を操作したり説得したりするのではなく、話し合い力を合わせて解決するという文化を作ったということです。

 この動きは最終的には強く支持され、イハラ議員とマッカートニー議員は1997年に賞すら受賞していますが、必ずしも最初から理解されたわけではありません。権限を手放したくなかった古い体質の議員の反発はもちろんのこと、ロビイストからも、「二人の議長に話さなければならず、手間が増えた」と苦情が出たり、マスコミにも当初は批判的に報道されたりしたそうです。

 でも、共同議長制は、多くの成果を生みました。議長は、自分の同僚の共同議長の要求を拒否することがほとんどないために、吊るされたままの法案(審議されないままの法案。日本の国会はこれがあまりにも多い)が圧倒的に減りました。同僚の共同議長が「この法案の審議をしたい」と言えば無視することができないからです。

 また、情報の共有は、議会の運営をわかりやすく民主的にしました。これは政治文化を大きく向上させるものです。

 イハラ議員にとって、情報の共有、政治プロセスの透明性というのは、キーワードのようです。「結果がよければ手段は正当化される」という政治文化が民主主義を阻害しているという信念のもと、手段をいかに有権者が見られるようになるかということに心を砕いているのです。政府の情報にメディアがもっとアクセスできるようにメディアを積極的にサポートしてもいます。

 ここまでは政治家としてのイハラ議員の輪郭で、これだけでも十分に感銘を受けるわけですが、イハラ議員の本当の特徴はその人間としての姿勢にあります。次回に続けます。