『漱石俳句かるた』解説
あ あまくさのうしろにさむきいりひかな
明治三一年、小天旅行の折の作。天草の島に日が沈むのを詠んだもの。「天草」という言葉は、キリシタン禁制、天草・島原の乱などのかなしい歴史を背負っている。そうしたイメージを「天草の後ろ」に込めて、冬の「寒き入日」と取り合わせることによって、冬の一情景をみごとに表現している。季語「寒し」=冬
い いかめしきもんをはいればそばのはな
明治三二年作。「学校」の前書がある句。旧制五高の表門は赤レンガの堂々とした立派な造りである。当時はその表門から校舎のある中門のあいだには畑があった。当時九州の最高学府である赤い門と蕎麦の白い花との対比がすばらしい。季語「蕎麦の花」=秋
う うみをみてじゅっぽにたらぬはたをうつ
明治三一年作。「花岡山」という前書がある。花岡山は熊本市の南西にある小山である。それに連なる大地の一角で、「十歩に足らぬ」ほどの小さな畑を打ちながら、時々仕事の手を休めて、海を見る農民のつつましく静かな暮らしぶりが描かれている。季語「畑打ち」=春
え ゑいやっとはえたたきけりしょせいべや
明治二九年作。「書生」とは他人の家に住みこみ、衣食住の世話になりながら勉学にはげむ学生のこと。のちに漱石自身五高生を書生として部屋に置くことになる。勉強の進みぐあいがうまく行かないいらだちを蠅に向けている様子が「ゑいやっと」によく表現されている。季語「蠅」=夏
お おんせんやみずなめらかにこぞのあか
明治三一年末、小天旅行の折の作。前書は「小天に春を迎へて」。白楽天の「温泉の水滑らかに凝脂を洗ふ」という句を踏まえている。『草枕』の主人公が「温泉という名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持ちになる」と言っていることからもわかる。小天温泉の質のよさと歳末のあわただしさから逃れてきてほっとした気持ちがよく出ている。季語「去年の垢」=冬
か かしこるひざのあたりやそぞろさむ
明治三二年作。「倫理講話」の前書がある。倫理科の授業は各学年各学級と合わせて週一回行われていた。「かしこまる膝」という表現によって、その授業が五高生にとっては厳しいものであったことがわかる。「かしこまる」と「そヾろ寒む」とが呼応して、倫理講話の緊張感が伝わってくる。季語「そヾろ寒む」=秋
き きしゃをおいてけむりはいゆくかれのかな
明治二九年作。阿蘇のような広大な景色を詠んだもの。見渡すかぎりの枯野のなか、石炭を焚いて黒い煙を棚引かせながら勢いよく走っている汽車の様子を「汽車を遂て這行」という擬人化して描いているところがおもしろい。季語「枯野」=冬
く くさやまにうまはなちけりあきのそら
明治三二年作。「戸下温泉」(阿蘇)という前書のある句。阿蘇の小高い草原に放牧されている馬を描いている。「放ちけり」には、旅人としての漱石の解放感が投影されている。澄み切った「秋の空」も、その解放感にさわやかさを添えている。季語「秋の空」=秋
け げがきするおうばくのそうなはそくひ
明治三〇年作。「字」という前書きがある。「夏書」とは、夏の期間修行するなかで写経を行うことである。「即非」という黄檗宗のお坊さんの名前がおもしろく、いかにも禅宗らしいところに興味を覚えて詠んだもの。漱石は禅宗に人並ならぬ関心を持っていて、最初の精神的な危機を迎えたとき参禅している。季語「夏書」=夏
こ こがらしやうみにゆうひをふきおとす
明治二九年、五高生を引率して天草・島原へ修学旅行したときの作。天草灘に沈む夕日を詠んだものと思われる。そう思うと、水平線しか見えない海原に夕日を吹き落とすくらいの「凩」が吹いても不思議ではない。広大でダイナミックな自然を描いてみごとである。季語「凩」=冬
さ さっとうつよあみのおとやはるのかわ
明治三一年作。「白川」という前書きがある。白川は熊本時代四番目の転居地である井川端町の家の近くを流れている川である。夜の網掛けの雰囲気を「颯と」という擬態語で表現している。白川の春ののどかな感じがよく出ている。季語「春の川」=春
し しぐるゝはへいけにつらしごかのしょう
明治二九年作。平家の落人が住んでいるという「五家荘」。郷土史に関する関心度をはかることのできる句である。源平合戦をよく詠んでいる漱石にとって、これも歴史句の一つ。都育ちの平家にとって、「時雨るゝ」五家の荘という秘境での生活はつらいだろうとおしはかっている。季語「時雨」=冬
す すみれほどなちいさきひとにうまれたし
明治三〇年作。転生への願いを美しくかれんな「菫」に託した句。のちに文豪と称される人の言葉としては意外に思われるが、漱石は決してはなやかで世慣れた人物は好きではなかった。「菫ほどの」より「菫ほどな」と小休止したほうが「菫」のやさしい感じがよく出てくる。季語「菫」=春
せ せんせいのそぜんをふくやあきのかぜ
明治三二年作。「教室」という前書のある句。「疎髯」とはまばらに生えている頬のひげのこと。漱石自身の授業風景かどうかわからないが、頬ひげに焦点をあてていることで、先生の日頃の厳しい表情が見えてくる。そして、「疎髯を吹く」としたところが、厳しいながらもちょっとこっけいな教師の授業風景が浮かび上がってくる。季語「秋の風」=秋
そ そりばしのちいさくみゆるふようかな
明治二九年、鏡子夫人を伴った北九州の旅の句。前書は「太宰府天神」。心字池に架かっている遠くの朱色の「反橋」と大きな花弁を持つ優雅な「芙蓉」との取り合わせが太宰府天満宮の美しくおごそかな境内の様子を表している。季語「芙蓉」=秋
た だいじじのさんもんながきあおたかな
明治二九年作。熊本市南部にある曹洞宗の古刹大慈禅寺。あたり一面の青田のなかに参道の長い「門」に焦点をあてることによって、「大慈寺」のたたずまいが見えてくる。「青田」の青と「山門」の色との対比も、「大慈寺」の風格のあるさまをよく表現している。季語「青田」=春
ち ちくごじやまるいやまふくはるのかぜ
明治三〇年、実家久留米に帰っていた親友菅虎雄を見舞い、高良山から発心公園の桜を見学した折の作。「丸い山」はやわらかな「春の風」が吹くのにふわしく、この二語によって、山といってもそう高くない山が想像されて、筑後平野の風景の特色がみごとにとらえられている。季語「春の風」=春
つ つきにいくそうせきつまをわすれたり
明治三〇年作。「妻を遺して独り肥後に下る」という前書によれば、「月に行く」は月の夜に熊本にもどるということである。月のあまりの美しさに妻を忘れてしまったという意味である。実際は流産した妻鏡子のことが気になっている句という。この逆説的な表現に、漱石の男のはにかみといきあるさまが見られる。季語「月」=秋
て てらまちやどべいのすきのぼけのはな
明治三二年作。「寺町」という語によって、「土塀」が昔ながらの立派なものであることがわかる。その隙間から木瓜の花が顔をのぞかせているのを詠んだもの。「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」の句のように、木瓜に拙を守る自分を重ねた漱石の目には、「寺町」・「土塀」の古風さにひきつけられたのであろう。季語「木瓜の花」=春
と どっしりとしりをすえたるかぼちゃかな
明治二九年作。前書「承露盤」より。あらゆる修辞法を使って「南瓜」の特徴が描かれている。まず「どつしりと」という擬態語によって南瓜の大きさ・量感が表現され、「尻を据えたる」という擬人法は南瓜の安定感をよく表している。「尻」の一語はこの句のこっけい感をかもし出している。季語「南瓜」=秋
な ながきひやあくびうつしてわかれゆく
明治二九年作。「松山客中虚子に別れて」という前書にあるとおり、五高に赴任する途中、高浜虚子との別れに際して詠まれたものである。「永き日」と「あくび」との取り合わせによって、春の日永ののどかさが感じられ、「あくびうつして」には二人に気安い関係がそれとなく表現されている。季語「永き日」=春
に にりくだるふもとのむらやくものみね
明治二九年作。「雲の峰」とは入道雲のこと。二里下ったところにある麓の小さな村を見下ろしているのを詠んだもの。その山の上には大きな「雲の峰」がそびえている。大と小との対比がおもしろく、「雲の峰」が立派であればあるほど「麓の村」のつましさがいっそう感じられる。秘境の生活を思いやった句。季語「雲の峰」=夏
ぬ ぬかるみのなおしずかなりはるのくれ
明治三〇年作。「泥海」はぬかるみと読むのはあて字。「泥海」という字面から有明のような海の干潟のことを詠んだものと推測される。「春の暮れ」という言葉によって、鉛色の海面の静けさと「猶」といったことで「泥海」の静けさとが重なって、春の夕暮れの海の静かな雰囲気がひしひしと伝わってくる。季語「春の暮れ」=春
ね ねぎのこのえぼしつけたりふじのはな
明治三一年作。前書は「藤崎八幡」。藤崎八幡宮は井川端町にあり、軍神としても有名である。祢宜とは神主のもとで働く神職。その子供が子供にとっては大きめの「烏帽子」をかぶっているというのである。藤棚の下を通って行く子供の父の職業にふさわしいみやびやかさが表された句である。季語「藤棚」=春
の のぎくいちりんてちょうのなかにはさみけり
明治三二年、阿蘇の旅の作三四句中の一つ。旅の途中、手折った野菊を句帳かなにかの手帳のあいだにしおりのように差し挟んだという。風流心を楽しむ若き日の漱石の姿が浮かび上がってくる。季語「野菊」=秋
は はるのあめなべとかまとをはこびけり
明治三三年、「北千反畑に転居」という前書にあるとおり、六度目の引っ越しをすることになる。このあたりは藤崎宮に近く、今も静かな住宅地である。「鍋と釜」とは家財道具一切を指しているが、「鍋と釜を運びけり」といったところに、引っ越しの身軽さと引っ越し慣れした気分とが感じられる。季語「春の雨」=春
ひ ひとにししつるにうまれてさえかえる
明治三〇年作。「冴返る」とは、ゆるんだ寒さががぶりかえすという意味。寒気の中にすくっと立っている鶴に、生まれ変わった人間の姿を見ている。漱石にとって「鶴」は孤高の象徴であるという。「冴返る」という季語と鶴への転生という言葉とがよく響き合い、純粋な美へのあこがれが読み取れる。季語「冴え返る」=春
ふ ふるいよせてしらうおくずれんばかりなり
明治三〇年作。半透明の「白魚」のかよわさと美しさを詠んだものである。四ッ手網などで掬い取られた「白魚」に焦点をあてて、一瞬の景を「崩れん許り」という比喩によって的確に表現している。季語「白魚」=春
へ へやずみのぼうつかいおるつきよかな
明治三二年作。「部屋住」とは書生のこと。経済的に苦しい学生は他人の家に住み込み、家の雑用をするかわりに勉学に励むことができた。漱石も書生を抱えていて、その一人を詠んだもの。月の美しい夜に勉強にうんだ「部屋住」が「棒」(竹刀)を振って、体をほぐし、鍛えている情景が思い浮かべられる。季語「月夜」=秋
ほ ぼけさくやそうせきせつをまもるべく
明治三〇年作。『草枕』の主人公に「世間には拙を守るという人がいる。この人が来世に生まれ変わるときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」と言わせている。頑固者の意である「漱石」という号にしても、「拙を守る」という言葉にしても、決して上手な生き方を望まない人生態度を表明したものである。季語「木瓜の花」=春
ま まくらべやほしわかれんとするあした
明治二九年作。「内君の病を看護して」という前書によると、「枕辺」で看病して夜明けを向かえたが、その七月八日の朝は年に一度の逢瀬を楽しんだ牽牛と織女が別れて行く「星別れ」であったというのである。妻の病気に対する不安と妻への思いを込めている句である。季語「星別れ」=秋
み みずぜめのしろおちんとすさつきあめ
明治三〇年作。歴史上のできごとを句にするのが好きであった漱石が水攻めした豊臣秀吉の故事を踏まえて詠んだものである。大洪水を起こしそうな梅雨のなかの熊本城から実際にヒントを得たのかも知れない。「城落ちんとす」と比喩することによって、「五月雨」の量感をダイナミックに描き出している。季語「五月雨」=夏
む むしうりのあきをさまざまになかせけり
明治三〇年、一時上京した折の作。「虫売」が虫籠に入れている多くの虫がいろいろな鳴き声を響かせているのを詠んだもの。虫がそれぞれその虫特有の鳴き方をしているのを「秋をさま 鳴かせけり」ととらえているところがおもしろい。季語「虫売り」=秋
め めいげつやじゅうさんえんのいえにすむ
明治二九年、三度目に移り住んだ合羽町(現坪井)での作。「十三円」とは家賃のことであるが、新築でありながら粗雑な普請であったことに対しての不満が込められている。しかし、「名月」という季語によって、その不満をよそに自然に親しもうとする風流心が表されている。季語「名月」=秋
も もちをきるほうちょうにぶしふるごよみ
明治二九年作。日常生活の一端を切り取って詠んだもの。のし餅を切る感触を「鈍し」と表現したことによって、日数の少なくなった暦という意の「古暦」とともに、暮れの生活のあわただしくもけだるい雰囲気をうまく伝えている。季語「古暦」=冬
や やすやすとなまこのごときこをうめり
明治三二年、長女筆子が生まれたときの印象の句である。「海鼠の如き」には赤ん坊の得体の知れない姿がよくとらえられている。「安々と」という言葉はむろんのこと、父親として初産の安心感を詠んだものと思われる。季語「海鼠」=冬
ゆ ゆけどはぎゆけどすすきのはらひろし
明治三二年作。「阿蘇の山中にて道を失ひ終日あらぬ方にさまよふ」という前書がある句。このときの体験が「地にあるものは青い薄と、女郎花と、所々にわびしく交る桔梗のみ」という『二百十日』の作品に生かされている。萩と薄だけが生い茂っている草原のひろがりと次々にわき起こる不安とが「行けど」のくり返しで表現されている。季語「萩・薄」=秋
よ ようやくにまたおきあがるふぶきかな
明治三二年の正月、宇佐・耶馬渓・日田の約一週間の旅をし、前書によれば「峠を下る時馬に蹴られて雪の中に倒れければ」ということが起こった折の作であるという。日田に下る大石峠でのできごとであった。吹雪のなか起き上がった人物に焦点をあてて、白黒の無声映画の一場面を思わせる印象鮮明な句である。季語「吹雪」=冬
ら らちもなくぜんしこえたりころもがえ
明治三〇年作。「埒もなく」はだらしくなくという意味であるが、決して悪い意味ではなく、軽快な夏の服装になった禅宗の格の高いお坊さんの、いかにも高僧らしい様子を表したものである。当時の禅ブームのさなか禅宗への関心の深さを知ることのできる句である。季語「更衣」=夏
り りょうじょうのくんしとかたるよさむかな
明治三〇年作。「梁上の君子」とは中国の故事成語で、ドロボーの意味であるが、ここではそれから転じてネズミのことである。屋根裏でガサゴソと音を立てているネズミに向かって語り掛けている人のさまは、「夜寒」の季語とあいまって、わびしくもあり、こっけいでもある。季語「夜寒」=秋
る るりいろのそらをひかえておかのうめ
明治三二年作。前書「梅花百五句」の一句。「瑠璃色」とは紫がかった紺色のことであり、青色と同意である。よく晴れ渡った青い空のもと、梅の白い花びらがいっそう際立って見えるという色の対照を表現している。見晴らしのよい「岡の梅」の気品とすがすがしさを詠んだものである。季語「梅」=春
れ れっしけんをましてかげろうむらむらとたつ
明治三〇年作。浅草観音の境内の様子を「子供の時から常に陽炎っていた」と『彼岸過迄』で書いていることや、浅草観音の実在の大道芸人を詠んでいる「抜くは長井兵助の太刀春の風」の句があることから、この句もその大道芸人を描いているのかも知れない。大道芸人扮する「列士」に磨かれた「剣」から陽炎がたっている様子を表現している。季語「陽炎」=春
ろ ろうたんのうときみみほるこたつかな
明治三二年作。「老 」は老子のことである。しかし、ここでは老人一般のイメージとして受け取ってよい。耳が遠く、感じのいい老人が耳の垢を取っている姿にひかれて作った句である。冬の一時をくつろいでいる雰囲気が「火燵」という季語によく現れている。「老 」という言葉には、その老人をうやまう気持ちが表されている。季語「火燵」=冬
わ わくからにながるるからにはるのみず
明治三一年作。「水前寺」という前書のある句。水前寺成趣園の池は、阿蘇の伏流水である清水が湧き出ている。つぎつぎに湧いて流れる水のさまを「湧くからに流るゝからに」と的確に表現している。特に「からに」のくり返しが湧水のリズムを捉えている。「春の水」=春
三島由紀夫における〈老い〉の問題
初出 「方位」17号 三章文庫 1994・9
初めに
三島由紀夫(大正十四年~昭和四十五年)の場合、今もなお生きていて、老大家として文壇に声名をほしいままにしている姿を想像できるだろうか。このような想像は繰り返しようのない歴史において禁物であるが、ここで三島についてこう問うてみたい誘惑に駆られるのは私だけであろうか。三島には老大家として名をはせる条件は十分に整っていたといえる。生前の三島はすでに世界の作家として知名度は高く、ノーベル賞候補にも川端康成、井上靖とともに再三推挙されていた。
しかし、三島由紀夫は自らの生涯を四十五歳で終止符を打っている。これは動かしようのない厳然とした事実である。そのことをどう考えたらよいのだろうか。昭和四十二年一月元旦の「年頭の迷い」と題する『読売新聞』の文章のなかで「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋晴堅が、私と同年で死んだという発見であった。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合う」と述べていることから、三島の脳裏では四十代前半という年齢もまんざら捨てられたものではなく、《英雄》としての死を可能ならしめる、まさしく「英雄たる最終年齢」と意識されていたようである。つまり、三島は、衰弱死とか病死とかいった一般的で、しかも自然的な終焉を拒否し、四十五歳という「英雄たる最終年齢」で自決して果てたのである。
従って、このような事情から言えば、「三島由紀夫のような作家には、いくつかの傑作をものにし、功成り名遂げて、今や筆を捨て悠々自適の老後を送るといったことは考えられないであろう」(「三島由紀夫論」『特集三島由紀夫』・ユリイカ十月号) という岸田秀氏の指摘を待つまでもなく、老大家としての三島はこの世に存在しえず、想像してみることすら無意味であるといえまいか。三島自身、「一体、作家の精神的発展などというものがあるかどうか、私は疑っている」(「一八歳と三十四歳の肖像画」の冒頭) と述べていることも、〈老い〉になんらの意味も見出だせない彼の、作家としての至極当然な言葉であろう。そこに、〈老い〉を拒否した三島由紀夫の作家像を想定してみるのも悪くない。
一 〈老い〉について
老いが同時に作家的主題の衰滅を意味する作家はいたましい。肉体的な老いが、彼の思想と感性のすべてに逆らうような作家はいたましい。
この文章は、谷崎潤一郎について書かれた作家論(「谷崎潤一郎」「日本文学全集」一二・昭四一・一〇)である。〈老い〉と〈作家〉との関係を究明したこの作家論は、三島が一流の批評家であったことを余すことなく示しているが、それ以上に三島の〈老い〉に対する思想を谷崎の文学を通して披歴している点で注目に値する。それは、年齢と能力との関係において、両者が「衰滅」という言葉で言い表されているように下降していくものであると捉えている点である。芸術が年齢とともに成熟、ないし醸成するものであるという一般的な考え方と照らし合わせてみても、彼のこの認識の特異性は明らかであろう。
この文章のすぐ後に続いて、「(私は自分のことを考えるとゾッとする)」と書いていることからも窺えるように、この文章が、この文章を書いた時の四十一歳という年齢を考慮に入れながら本音で語っているものであることはまちがいなく、この時点での三島が作家としての〈老い〉の問題を真正面から考えようとしていたことを証拠だてるものである。
二 二つの作家像
しぶとく生き永らえるものは、私にとって、俗悪さの象徴をなしていた。私は夭折に憧れていたが、なお生きており、この上生きつづけなければならぬことも予感していた。
この文章は、「林房雄」(『新潮』昭三八・二) という作家論の中の一節である。この作家論もまた、「谷崎潤一郎」論と並んで〈老い〉に関する記述が多く見られる。それは、この二人の作家が「しぶとく生き永らえるもの」の〈象徴〉として存在しているという、まさしくその長生きの秘訣を文学の上からも知って置きたい気持ちがあったからであろう。
このように、両者の作家論に共通するのは、三島が〈老い〉を「俗悪さの象徴」とみなし、〈老い〉に対する異常なまでの生理的とも言うべき嫌悪をあらわにしていることである。それと同時に、〈老い〉を否定する三島が〈夭折〉への憧憬に触れていることも注意すべきである。つまり、三島由紀夫の中では〈老い〉への嫌悪と〈夭折〉とは表裏一体のものとして把握されているのである。
三島由紀夫の〈夭折〉への願望についてはしばしば言及されているが、特に磯田光一は評論家としてのデビューを飾った『殉教の美学』(昭39・2) のなかで、三島の〈夭折〉の哲学を明らかにしている。そこで、磯田が〈夭折〉の三島文学における意味を「三島の不幸は、そして彼の本質的な悲劇は、『生』と『死』とを意味づける原理の崩壊によって、つまり、彼から『美しい夭折』の可能性をうばった『敗戦』によってもたらされたのである。そして、彼を作家たらしめたものも、この『不幸』以外の何ものでもなかった」と述べ、美しい〈夭折〉への挫折と、その不幸が三島の作品のモチーフとなっていることを指摘している。これまでの多くの論考も、三島が〈夭折〉への願望を一貫して持ち続けているかのように述べている。
しかし、次のような文章(『私の遍歴時代』)に接すると、三島が〈夭折〉への願望を一貫して持ち続けていたとは言いがたい。
早くも、若さとか青春とかいうものはばかばかしいものだ、と考えだしている。それなら「老い」がたのしみか、と言えば、これもいただけない。
〈夭折〉願望はそもそも「若さ」や「青春」という時代の真っ只中にいて、それ以外の人生を知らない無知からくるものであって、この文章を書いた三十八という歳の三島は自分の青春時代がようやく遠ざかってみえてきていたはずである。そして、思い返せば、三十歳を越えてから鍛え始めた肉体はいや応なく頑強になっていったであろうから、同じ頃『林房雄』論の中で述べているように「なお、生きており、この上生きつづけなければならぬ」ということを当然意識しなければならない。
私も二、三年すれば四十歳で、そろそろ生涯の計画を立てるべきときが来た。芥川 龍之介より長生きをしたと思えば、いい気持ちだが、もうこうなったら、しゃにむに長生きをしなければならない。(中略)人間、四十歳になれば、もう美しく死ぬ夢は 絶望的で、どんな死に方をしたって醜悪なだけである。それなら、もうしゃにむに生きるほかない。
従って、この「純文学とは? その他」(『風景』六月号・昭37) という文章もまた、三十七歳の時に執筆されていることから、「もうしゃにむに生きるほかない」生を前に立ち尽して、人生上の選択を余儀なくされている三島由紀夫の姿が浮かび上がっており、この時期が彼にとって〈老い〉を迎えるべきか否かを決定しなければならない人生の《迷いの時代》であったといえる。
人生の選択を強いられた《迷いの時代》の三島由紀夫の脳裏には、日本のさまざまな作家像の中からは次の二つのタイプをくっきりと浮かび上がらせていたにちがいない。
一つは「しぶとく生き永らえ」ながら、文学的な成熟をなしえた〈長寿〉型の作家、例えば、谷崎潤一郎のような作家である。
もう一つは、短命であるがゆえに文学史上に光茫を放った〈夭折〉型の作家、立原道造ような作家である。〈夭折〉には、病死、不慮の死、あるいは自殺の類いがあることを付加して置きたい。
〇 〈長寿〉型の作家=谷崎潤一郎
野口武彦氏がすでに「当人は四五歳で自殺するくせに、七九歳まで長生きして『変態小説』を書き続けた谷崎のことがよくわかっていたのだ。というより、作者をその年齢まで長生きさせた谷崎文学の本質に、心のどこかでは羨望の気持ちさえ持っていたのかもしれない」(「谷崎潤一郎」『近代小説の読み方?』有斐閣・一九七九・八)と述べているが、これは、三島の「谷崎潤一郎」論の次のような文章を踏まえての言葉であろう。
谷崎氏のかかるエロス構造においては、老いはそれほど恐るべき問題ではなかった。(中略)老いは、それほど悲劇的な事態ではなく、むしろ老い=死=ニルヴァナにこそ、性の三昧境への接近の道程があったと考えられる。小説家としての谷崎氏の長寿は、まことに芸術的必然性のある長寿であった。この神童ははじめから、知的極北における夭折への道と、反対の道を歩きだしていたからである。
野口氏が指摘したように、三島由紀夫は〈長寿〉的な作家としての谷崎の本質を恐ろしいくらいに掴んでいた。それは谷崎の〈長寿〉が「老い=死=ニルヴァナ」という三者の「性の三昧境」を芸術的に昇華したところに必然的に生じるのを見抜いていることである。それほど彼にとって谷崎は〈長寿〉的な作家の典型的な存在だったと言えるだろう。
また別の機会に書いた「私のきらいな人」(「話の特集」七月号・昭41) という文章では、
私の来たるべき老年の姿を考えると、谷崎潤一郎型と永井荷風型のうち、どうも後者に傾きそうに思われる。(中略)しかし、私は荷風型に徹するだけの心根もないから、精神としては荷風型に近く、生活の外見は谷崎型に近いという折衷型になることだろう。
と述べている。この文章で大切なことは、三島が〈老い〉を迎えるとしたら、谷崎潤一郎の名前を挙げていることである。つまり、三島由紀夫は一時期にしろ、芸術的成熟にあこがれを持ち、谷崎等の〈長寿〉型の生活を心に描きながら、〈老い〉というものを仮想したこともあったのだということを提起して置きたい。
〇 〈夭折〉型の作家=立原道造
ここで立原道造を例として取り上げるのは、三島が自決する数ヶ月前、岸田今日子氏に「詩人として生涯を終わるためには、立原道造のように夭折しなくては………」と語ったとされているからである。三島由紀夫がこのようなことを吐露した背後には、三好達治が立原を追悼して作った「暮春嘆息」という次の詩を思い浮かべていたにちがいない。
人が 詩人として生涯ををはるためには
君のやうに聡明に清純に
純潔に生きなければならなかつた
さうして君のやうにまた
早く死ななければ!
三島が語ったという言葉とこの詩の冒頭の一行とは驚くほど似通っている。というより、三島のあの割腹自殺がまさしくこの詩句の内実に添うかたちで実行されたと言ったらよいだろうか。三好の詩を参考にして言えば、特に「聡明に」「清純に」「純潔に」という言葉が表象している〈純粋性〉に魅かれていたのかもしれない。三島の自決を先取りしたとされる『奔馬』という作品のなかで、拘置されている主人公飯沼勲に対して刑事がいさめる場面があるが、勲はそこであまりにも「純粋すぎる」と評されている。三島由紀夫もまた、勲と同じく、〈純粋さ〉への篤い忠誠心と言えば言える性格の持ち主であったことは疑いのないところである。
三 三島由紀夫の選択
三島由紀夫は遅かれ早かれ選ばなければない人生の岐路に立たされて、二つの作家像の一方を強引に選んだ。それはもちろん、立原のような〈夭折〉型の作家であり、しかも実際は芥川龍之介のように自殺という形である。自己の〈純粋性〉保持という形での死を選んだのは、三島が「谷崎氏は、芥川の敗北を見て、持ち前のマゾヒストの自信を以て、『俺ならもっとずっとずっとうまく敗北して、そうして長生きしてやる』と呟いたにちがいない」(「谷崎潤一郎」昭29・9)と述べているように、〈長寿〉型の作家のずるさを見通しているからであり、端的に言えばそれが我慢ならかったからである。ただ、三島にとって四十代での死は〈夭折〉とは言いがたく、むしろ《英雄としての死》として〈老い〉に対処したと言えるだろう。
このように、三島の作家論を中心とした読み取りでは、三島由紀夫が〈純粋さ〉への憧れから〈夭折〉型の作家を選び、〈老い〉のずるさを拒否したのは明らかである。しかし、単にそれだけの説明で事足れりとすることができるだろうか。この〈老い〉の問題は、彼にとってもっと本質的なものを抱えているような気がする。
三 《老醜》について
美しい人は夭折すべきであり、客観的に見て、美しいのは若年に限られているのだから、人間はもし老醜と自然死を待つ覚悟がなければ、できる限り早く死ぬべきなのである。
「アポロの杯」
三島由紀夫は〈老い〉が人間的成熟をもたらす面を無視して、ひとえに《老醜》と一体化されたものとみなしている。ここでもまた、三島自身のちに『二・二六事件と私』で語っている「老年は永遠に醜く、青年は永遠に美しい」という「生来の癒しがたい観念」を吐露しているのである。
従って、三島由紀夫にあっては、〈夭折〉への願望は〈老い〉への嫌悪によって導き出されており、〈老い〉への拒否は《老醜》への嫌悪と深く結び付いているということである。
〇 祖母夏子の存在
三島由紀夫のこの《老醜》に対する嫌悪感の根は、その経歴によれば、乳幼児期を「病気と老いの匂ひのむせかへる」(『仮面の告白』) 中で過ごすことになる、「誰が見ても異常としか言いようのない環境であった」(岸田秀・前掲書)祖母の存在にある。父平岡梓氏の「倅・三島由紀夫」の中に描かれている祖母夏子は、《老醜》そのものの権化とも言うべき老婆の姿である。
…‥かくて生まれ落ちるとすぐ産みの親 の私と別れて、絶えず痛みを訴える病床の祖母のそばで成長するという、こんな異常な生活が何年も続くことになりました。私はこれで公威の暗い一生の運命はきまってしまったと思いました。
‥‥遊び相手としては男の子は危ないといって、母[祖母]の部屋には、母[祖母]があらかじめ銓衡しておいた三人の年上の女の子を呼びました。/したがって遊びは おのずからママゴトや折紙や積み木などに限定され、それ以外の男の子らしい遊びなど以ての外でありました。
‥‥外は明るいのに家の中は暗くしめっぽいので、少し外気を吸わせ陽の光にあててやろうとこっそり連れ出そうとしますと、母[祖母]はとたんに目をさまし、禁足されて、またもとの障子を締め切った暗い陰気な母[祖母]の病床の間に連れ戻されてしまいました。
この祖母の幼い三島に対する行為は老人特有のエゴイスティックな心情によるものであり、結局老人の孤独性に帰せられるべきものであって、まったく同情できないことはない。しかし、年端も行かない三島を独占し、恣意的に支配した事実は彼が抵抗しえない子どもであったがためにあまりに悲惨すぎはしないか。父梓氏に限らず、「公威の暗い一生の運命はきまってしまった」と思うのはこれまた当然である。
いずれにしても、その当時の三島は、あまりにも自己中心的で支配欲の強い祖母の枕許でじっと耐えながら、《老醜》の悲惨なさまをしっかと見据えていたにちがいない。この体験は幼児体験であるだけに後々までも根深く痕跡を残し、「人間はもし老醜と自然死を待つ覚悟がなければ、できる限り早く死ぬべきなのである」という認識を育て上げた。
終わりに
三島由紀夫の自死が反時代的で、しかも日本刀による矯激な割腹自殺であったことから、内外をはじめ各方面に甚大な反響を呼び起こした。時の首相佐藤栄作が「盾の会」の国粋的活動に好意を持っていたにもかかわらず、「気が狂ったとしか思われない」と発言したことは、当時の一般大衆の反応を代弁してみせたといっても過言ではない。しかし、三島の血みどろな自裁への直接行動の経過がその後次第に明らかにされるに従って、例えば、その当日、市谷駐屯地の東部方面総監室の屋上で自衛隊員に決起を呼びかけたとき、現代文明の利器たるハンド・マイクを持っていなかったことが失笑の対象にもなったが、それこそが現代文明に対するアンチ・テーゼを投げかけているのだということが了解されて、実は一連の行動は用意周到に考え抜かれたものであることがわかってきた。
三島由紀夫の自決がそれ自身の思想と不可分のものであり、またその帰結であったことは今や疑うべくもない。作家の自殺というものが芥川の例を引くまでもなく、往々にして文学的営為の行き詰まりによる窮死に求められるが、三島の場合はむしろ〈老い〉の思想をふくめた思想の完結、つまり萩原朔太郎が芥川に対して言った言葉よろしく「実に彼は、死によってその『芸術』を完成し、合わせて彼の中の『詩人』を実証した」(「芥川龍之介の死」)といえるものではなかったか。
従って、三島由紀夫の意識的になされた自死が文学者における〈思想〉と〈行為〉の課題を投げ掛けていることを指摘して置きたい。
註一 拙論「三島由紀夫と〈熊本〉」(『熊本の文学 第三』審美社・平5)参照。ここでは、三島由紀夫がその自決の規範として神風連を想定して いることに触れている。
註二 小島千加子氏が元「新潮」の編集者として回想した文章(「毎日新聞」平1・7・12) のなかで、「初対面の日、人間の美しさに話題が及び、先代菊五郎未亡人が六十を過ぎても男に惚れられるほど美しく、男に限らず、女でも、名妓であったような人はある種の老いの美が出てくるものだ、(中略)と語った。「美は、美であることによってすでに一徳を成す」という定見を持つこの作家は、その時まだ、老いの美を許容する若さの真只中にいた」と述べている。〈老いの美〉にしろ、〈老い〉による芸術的成熟にしろ、若き日の三島はまだ〈老い〉にある種の幻想を抱いていたことは確かである。
註三 三島由紀夫の遺書とも言うべき『豊饒の海』第四巻の最終巻「天人五衰」の結末部分において、輪廻転生の認識者として《老醜》を曝した本多繁邦の前に、綾倉聡子が「老いが衰えの方向でなく、浄化の方向へ一途に走っ」た美しさで現れる。これは、今となっては三島の〈老い〉に対する悲痛な願望ではなかったかと思わずにはおられない。