みつばちマーサのベラルーシ音楽ブログ

ベラルーシ音楽について紹介します!

(17) まとめ ロシア語圏における「サダコの千羽鶴の物語」 

2021年08月11日 | サダコの千羽鶴
 1958年からロシア語圏で語り継がれる「サダコの千羽鶴の物語」は今もどこかで新しい作品が作られているはずです。
 その形は、詩、文学、歌、映画などの形を取っています。今では動画配信です。
 プロの詩人やミュージシャンだけではなく、子どもでもアマチュアでも、自由に詩を作ったり、歌を歌ったり、動画にしてシェアしています。
 学校の平和教育でも教材になっています。
 インスピレーションを与える「サダコと千羽鶴の物語」はこれからもロシア語圏で日本文化の一つとして創作され続け、それに触れる世代が続くでしょう。

 何かを信じて折り鶴を作り続けていた佐々木禎子さんのひたむきな姿は、視覚的にインパクトがあります。黒髪、着物姿、折り鶴を手にした様子は、異国情緒も相まって、外国人の意識の中でアイコン化されやすいです。
 ロシア語圏のばあいは、鶴が魂のシンボルであったことから折り鶴というアイコンも鎮魂のシンボルとして受け入れられやすく、サダコのイメージをさらに強め、人々に受け入れやすかったと思われます。
 そしてロシアでも鳩ではなく鶴が平和のシンボル、日本のシンボルとして定着しつつあります。これが外国の文化の広がりと言えます。

 広島平和記念資料館のサイトでアンケート調査の結果を見ることができます。
 あなたは「サダコと千羽鶴」の物語を知っていますか?という質問に対し、日本人は61%が知っていると答え、外国人は93%が知っていると回答しているのです。
 ただし、広島に千羽鶴を寄贈した外国人に質問しているので、当然知っている人が多いだろうという予想はされていたでしょう。
 どこか外国へ行って、そのへんを歩いている人100人をつかまえて、「サダコと千羽鶴の物語を知っていますか?」ときいたら、93人が「はい」と答えるとは思えません。

 しかし、日本人の「サダコの千羽鶴の物語」が外国でも広がっていることは明らかです。
 例えば「アンネの日記」を多くの日本人が知っているのと同じことです。アンネ・フランクは日本の中学校の教科書にも載っています。
 ロシア語圏だけでもこんなに長くそして多く語り継がれています。

(上記の広島平和記念資料館のサイト、企画展5の項目66「サダコと折り鶴が広まっている国・地域」に旧ソ連の国はウクライナ、カザフスタン、ロシアは入っていますが、ベラルーシは入っていませんね・・・。ロシアと同一視されているのかなあと思ったのですが広まった国は黄色に塗られれた世界地図の画像も掲載されているので、ヨーロッパの部分を拡大して見たけれど、ベラルーシとバルト三国は塗られていませんね。
 旧ソ連の国で(あくまで推定ですが)最初に「佐々木禎子の鶴」という題名にフルネームを入れた詩を書いたのはベラルーシ語だったので、この地図を見ると悲しくなります。

 ちなみにこの広島平和記念資料館の企画展「サダコと折り鶴」は2001年に行われました。だからその時点での状況をデータにしたのかもしれないですが、「佐々木禎子の鶴」が書かれたのは1958年で、他にも「ソ連で『サダコと千羽鶴の物語』が広がっていました。」という内容の展示物がこの企画展で展示されているのだから、項目66「サダコと折り鶴が広まっている国・地域」の世界地図は旧ソ連の国は全部黄色に塗っておかないと変です。説明文と地図の表示が合っていないですよ。
 ソ連が崩壊して、ベラルーシやバルト三国が独立した途端、「サダコと折り鶴が広まっている国・地域」から外されるのは間違いだと思います。

 リトアニアなんて杉原千畝のおかげで親日国だし、ソ連崩壊まではロシア語圏の国だったから、歌や文学で「サダコの千羽鶴の物語」が広がっていたと思うのですが・・・。リトアニアで自国内における「サダコの千羽鶴の物語」の広がりを研究している人が発表してくれたら、日本人にも知ってもらえると思いますが、リトアニア語だと私は分からないので調べられませんし、旧ソ連の国とは言え、そこまで徹底的にリトアニア事情を調べる気はないです。)
 
 
 ロシア語圏、主に旧ソ連で「サダコの千羽鶴の物語」は広がり、進化し、語り続けられていることを日本人は知りません。
 そんなの知らなくても生きていけると言う日本人も多いし、外国でどう思われているか私に関係ない、と言う人も多いでしょう。
 しかし、せっかくですので私が調べて分かったことだけですが、このブログに日本語で載せておきます。
 ネット上で読めるようにしておけば、いつか1人ぐらいは、関心のある日本人が読んでくれるかなと思いますし、私は学術調査のエキスパートでもなく、著作権の関係で文学作品を和訳したわけでもないのですが、このブログが資料・情報として誰かのお役に立てるかもしれません。

 これでロシア語圏における「サダコの千羽鶴の物語」の広がりについてのご紹介については一応終わります。
 でもまた新しい「サダコの千羽鶴の物語」を見つけたら、このブログでご紹介します。
 読んでくださった方、ありがとうございました。
 

(16) 歌「平和の鶴」(2013年)と「サダコの鶴」(2014年)

2021年08月11日 | サダコの千羽鶴
 2013年には歌「平和の鶴 Журавли мира」という曲がロシアのルイビンスクのバンド FLIGHT(2010年結成)によりリリースされます 。
 アルバム「Fall to Rise」 に収録されていますが、このバンドを紹介する音楽サイトで試聴できます。歌詞も掲載されています。

 このバンドはオルタナティヴ・メタル・バンドだそうです。なので、歌詞を全てシャウトしています。
 「平和の鶴」を聞きましたが、タイトルが与える印象とは裏腹に、ずっと激しくシャウトしています。
 公式サイトに歌詞を掲載してくれて助かりました。聞いているだけでは何を歌っているのか私は聞き取れないです。
 
 歌詞を文字で読むと冒頭に「8月の朝、日出づる国で」など広島の原爆に関する歌であることが分かるよう書いてあり、歌詞にも「太陽に向かって飛んでゆけ!」「毎日毎日紙を折りながら、自分の健康と人々を平和を祈ったサダコ」と出ています。
 はっきり「サダコと千羽鶴の物語」の歌です。
 そしてこの歌の歌詞では佐々木禎子さんが折った折り鶴の数は644羽説が採られています。
 ロシア語版「サダコと千羽鶴」の644羽説が21世紀になっても延々と伝わっています。
 歌詞の内容は文字で読むと、原爆の恐怖、生と死、平和希求、鎮魂の言葉が並び、作詞者が真摯に原爆や「サダコの千羽鶴の物語」を歌いあげようとしていることが伝わってきます。
 激しいシャウトの歌声も、平和への強い願い、魂の叫びとも取れます。
 オルタナティヴ・メタルというジャンルは、聞いている人に訴えかけるという意味で強烈なインパクトを与えます。
 「サダコの千羽鶴の物語」の持つ苦しみや悲しみ、病苦や闘病、サダコの死にたくない!という気持ちなどを表すには適している音楽のジャンルだと思えました。

 「サダコの千羽鶴の物語」をモチーフにした歌は、美しいバラード調が多いのですが、2010年代になると、「侍の娘」といい、アーティストも自由なスタイルで作曲するように多様化していきます。

 2014年にはロシアのバンドFahrenheitが「サダコの鶴」という曲をYouTube上で動画配信しています。
Fahrenheitというバンドについて調べてもあまり詳しく分からなかったのですが、サハ共和国のヤクーツクのバンドで、
 ボーカルの スラヴァ・シフツェフさんがリーダーのようです。
「サダコの鶴」はYouTubeで試聴することができます。
「Песня "Журавлики Садако". Группа "Fahrenheit", вокал - Слава Сивцев」で検索してみてください。
 こちらは美しいギター弾き語りの歌です。
 テーマは「サダコの千羽鶴の物語」なのですが、さらっとこういう曲を作る事ができるんだろうなあと驚きです。
(失礼ながら、スラヴァ・シフツェフさんのプロフィール写真を見ると、ロシア人には見えませんでした。ヤクート人でしょうか。間違っていたらすみません・・・。大国の少数民族が、サダコの千羽鶴の歌を作って歌い続けてくれているのは、ありがたいことですし、注目に値します。
 こうして遠いところのミュージシャンの歌もインターネットのおかげで、世界中で視聴できる時代になりました。
 これも文化の広がりに有効なツールで簡単に情報を得られる時代にどんどん変わったと実感できますね。

 「サダコの千羽鶴の物語」も様々な角度からアプローチされてきて、それでいいんだよという許容度も広がったと思います。
 アーティストの皆さんは真摯に向き合っている姿勢が感じられて、日本人としてロシア語の歌を作ってくれて嬉しく思います。


 (それにしてもほぼ毎年のように「サダコの千羽鶴の物語」をモチーフにしたロシア語の歌が作られているとは驚きです。アーティストにインスピレーションを与える何かがサダコさんにあるのかなあと思いました。)


 画像は「平和の鶴」が収録されているFLIGHTのアルバムのジャケット。音楽紹介サイトからお借りしました。

(17)に続く。

(15) 歌「侍の娘」と「Song for Sadako Sasaki」 (2012年)

2021年08月10日 | サダコの千羽鶴
 2012年に佐々木禎子さんに捧げられた歌がロシアで2曲発表されました。

 一つはタンボフのミュージシャンの曲「日本の鶴 Song for Sadako Sasaki」です。「日本の鶴」という歌はもう1971年に作られたので、タイトルに差別化を図らないと、同じような題名ばかりになってしまいますね。
 と思えてくるぐらい大量の「サダコの千羽鶴の物語」がロシア語圏内に生まれているのです。
 
 「日本の鶴 Song for Sadako Sasaki」は作詞タチヤーナ・クルバトワ、作曲オリガ・エゴロワ、作曲パーベル・エゴロフ、歌アントニーナ マシェンコワです。
 YouTubeのオリガ・エゴロワのチャンネルで視聴できます。
「Песни Ольи Егоровой.Японский журавлик.Song for Sadako Sasaki」で検索してみてください。
 歌手の声がとてもきれいです。声域が広くて、熱唱系バラードで、平和希求、鎮魂のメッセージが熱唱されています。動画の映像も広島の原爆やサダコの千羽鶴の物語に忠実であろうという真摯な姿勢が感じられます。反戦ソングのお手本のような歌です。

 タンボフのミュージシャンが作った歌ということで思い出すのはタンボフの詩人イワン・クチンの「千羽の白い鶴」です。


 同じく2012年にロシアのサンクト・ペテルブルグのバンド、スプリン(2014年結成)が「Дочь самурая(侍の娘)」という楽曲をリリースしました。
 この歌はアルバム「Обман зрения 」に収録されており、佐々木禎子に捧ぐと献辞されています。
 しかし、歌詞にはサダコの名前もないです。「田んぼの上を飛行機が飛ぶ」という歌詞はあるので、日本の上空を飛んでいるエノラ・ゲイのことを歌っているのかと予想はできます。「真剣になれ、侍の娘!」というフレーズもありますが、これがサダコのことを指しているのかも不明。日本人の少女という意味で侍の娘という表現を使っているように思えます。

 そしてメロディーはSong for Sadako Sasakiのような今までの「サダコの千羽鶴の物語」にありがちなバラード調ではなく、ロック調です。時代ですねえ。
 21世紀のロシアのロックバンドが、「佐々木禎子に捧ぐ! 『侍の娘』!」と歌って、ファンは「クール!」と喜び、しゃれたプロモーションビデオまで作ってしまう時代になりました。
  
 さて、この歌のプロモーション・ビデオですが、TouTubeで視聴できます。
 歌詞の内容より、動画のほうがある意味において日本らしかったです。
 関心のある方は「Дочь самурая Сплин」で検索してください。
 
 舞台はロシアのどこかの高校。なぜかチャイナドレス姿の先生が、生徒に習字を教えている。書いている言葉は日本語で「侍の娘」。そこへ日本人の転校生が入ってくる。これこそ侍の娘。その姿は本当に原宿にいそうな女子高生。その子も習字を始めたら、後ろの席の誰かが半紙を丸めて投げ、日本人女子が書いた習字の紙は破れてしまう。クラス中に起こる嘲笑。(いじめ・・・)
 侍の娘は立ち上がり、周囲にガンを飛ばす。喧嘩が始まるのかと思いきや、日本人女子は半紙を折って、鶴(日本と平和のシンボル)を作る。何してんの?と覗き込むロシア人高校生。誰も喧嘩はしなかった。(かと言って侍の娘が敗北したのではない。)

 いやあ、すてきな内容の動画ですね。そうそう、喧嘩やいじめ(戦争)より、平和ですよ、平和。
 
 はっきり言って、献辞があるところ以外、「サダコの千羽鶴の物語」に直接通じる部分は少ないですが、今の時代、世界に平和を!と叫んだり祈ったりするより、まずは「クラスに平和を! 人種差別はやめよう!」と若者世代にロックで訴えるほうが、世界平和につながるのですよ・・・というミュージシャンの姿勢にとても共感できました。

 2010代にロックバンドのメンバーになっている世代が、侍の娘といえば日本人女子でしょ、日本人少女と言えばサダコでしょ、サダコといえば折り鶴でしょ・・・という発想になるほど、「サダコの千羽鶴の物語」が頭にインプットされるようになりました。
 ただ、もうサダコはおかっぱ頭に着物姿のステレオタイプではなく、その時代の最先端ファッションに身を包んだティーンエイジャーに変身までしているのです。

 そして、侍の娘は強い侍の子どもなんだから、精神的に強い日本人少女という意味が込められていると思いました。
 病と闘いながら折り鶴を作り続けた佐々木禎子さんは精神的に強い少女であるという捉え方です。
 そして、人種や性別に関係なく精神的に強い侍の娘にみんななれと、応援している歌なのだと感じました。
 だからこの歌は「強い精神力を持っていた佐々木禎子さん」に捧げられているのです。

 Song for Sadako Sasakiはソ連時代からの流れに続く典型的反戦ソングです。ある意味ステレオタイプです。しかし「侍の娘」は世界平和に目を向けているのではなく個々の心の中に向けて、メッセージを送っています。精神的な闘いに注目しています。
 個人としての強さがテーマです。これも「サダコの千羽鶴の物語」が持つ一面だと言えます。佐々木禎子さんは病床で黙々と鶴を作っていました。「世界が平和になりますように。」と考えながら折っていたのではなく、「自分の病気が治りますように。」とあくまで個人的な願いのために鶴を折っていたはずです。そして最後まであきらめようとしませんでした。
 「サダコの千羽鶴の物語」は世界平和という大きな目標を持っているように見えますが、その出発点はただ1人の少女のプライベートな願いという小ぢんまりとしたものでした。
 ただ小さい出発点から、今はグローバルに広がったということです。
 そして捉え方も多様化していきました。


 余談ですが・・・この動画の中で転校生の役をした人が、かわいいし、本当に東京に行ったら道端で会えそうというぐらい、日本にいそうな女の子なので、どこの誰なのかネットで調べてみました。
 するとこの歌がリリースされたときのロシアの芸能ニュースサイトで「ロシアに留学中の本物の日本人が出演した。」と書いてある記事を見つけて、やっぱり日本人なんだ! と思い,さらに調べると「モスクワに住んでいるクリスチーナ・リーさん」であることが分かりました。名字がリーって・・・本当に日本人なの? 私のカンではちがいますね・・・。
 クリスチーナ・リーさんがネットで公開しているお誕生日から計算すると、動画の撮影当時は16歳か17歳。(高校生でロシアに留学?)母国語もロシア語みたいなので、生まれも育ちもロシアという東洋系の方ではないかなと思いました。日本人ではなさそう。
 でもクリスチーナ・リーさんはかわいい。折り鶴も上手に折れる。新しいサダコ像になりました。人種などもうどうでもよいと思いました。

 画像はスプリンのYouTube公式チャンネルからのスクリーンショットです。
 おかっぱ頭の女子小学生が折り鶴を持っているというステレオタイプから、スタイリッシュな女子高生に進化しましたね。

(16)に続く。
 

(14) 詩と俳句 2010年以降

2021年08月10日 | サダコの千羽鶴
 ソ連が崩壊し、15の共和国が独立国家として歩み始めます。
 経済的にも混乱し、文化などに心の余裕もない時期がしばらく続きました。
 この時代は目の前の問題に精一杯で、第二次世界大戦の反戦アイコンを思い出すことも少なくなった時期でした。ロシア語圏における「サダコと千羽鶴の物語」の広がりが停滞した時期です。

 一方で、ソ連時代の表現の自由の制限もなくなりました。
 そしてインターネットの時代が始まります。
 ロシア経済が持ち直すと、余裕も生まれました。

 その結果、詩作が趣味です、というロシア人(ロシア語創作者)が、プロアマ問わず、詩を作ってはサイトに投稿し、広く読んでもらうという新しい表現の場が生まれました。
 そんな中で「サダコの千羽鶴の物語」をテーマにする詩人が驚くほどたくさんいることが分かりました。

 日本人の私からすると、まず思ったのは、ロシア人(ロシア語創作者)は詩が好きだということです。日本人の感覚では、ピンとこないと思います。
「趣味は何ですか。」
と尋ねると、
「詩を書くことです。」
と答える人がたくさんいます。ただし、詩というものにすごく高いレベルをみんな(聞く側、読む側)が求めるので、詩作が趣味でも、自信のない人は「趣味は詩を書くことです。」となかなか言いません。「趣味は詩を書くことです。」と堂々と答える人は、相当自信がある人です。
 誕生日に詩を書いてプレゼントするのは普通。もらった側もすごく喜びます。
 学校の国語の授業のテストは詩の暗唱ばっかりです。
 プロの詩人はすごく尊敬され、大統領選挙に出馬する人もいます。詩人から政治家に転身する人も多いです。(マクシム・タンクルスラン・ガムザトフもそうですね。)

 「佐々木禎子さんに捧げられたロシア語の詩がこんなにあるんですよ。」と言われても、多くの日本人は「詩? ふーん。」で終わってしまうと思いますが、ロシア語圏では、詩という文化に重きを置いているということだけは認識してもらったうえで、この記事を読んでほしいです。

 さてこのように詩という文学スタイルがレベルの高いものとされているロシア語圏で、プロアマ問わず「サダコの千羽鶴の物語」を詩題に選んで書いては、ネット上で公表する人が多いので、びっくりしました。
 私がネットで検索しただけで18作品ですが、実際にはもっとたくさんあると思います。また今日書いている人も世界のどこかにいると思います。
 多すぎるので詩の内容は著作権の問題もあるし訳しません。でもタイトルは作品発表年の古い順からざっと訳してみます。

「鶴(複数形)」作品中にサダコと明記。2010年の作。

「少女、佐々木禎子とその記憶に捧ぐ」2011年8月号の雑誌に掲載。

俳句形式(三行詩)で題名はないが、「佐々木禎子さんと長崎と広島で白血病で亡くなった全ての子どもたちに捧ぐ」と献辞。

「サダコ・ササキに捧ぐ」

「ああ、人々よ!」作品中にサダコと明記。ロシアの女子高校生が作者。

「鶴(複数形)」佐々木禎子に捧ぐと献辞。

「千羽鶴」黒い雨、白血病という言葉が作中にあり、406羽の折り鶴を作ったともありますが、これも詩人としての語感で書いた数字と思われます。 

「鶴よ、鶴」作中にサダコ・ササキと明記。

「サダコ」5行詩なので、題名はあるけれど短歌形式の詩と思われます。

「佐々木禎子と千羽鶴」

「少女サダコへの祈り」600羽と少し折ったと作中に書かれています。担当医の名前は「マコト・オサム」にしているので、クチンの詩「千羽の白い鶴」が下敷きにした作品だと思われます。

「サダコ・ササキの記憶に捧ぐ」

「鶴(複数形)」勇気ある日本の少女サダコ・ササキに捧ぐ、と献辞。作中に664羽折ったとあります。

「サダコ」作品最後に佐々木禎子さんの紹介文まで書いてあります。ここでも664羽折ったと説明しています。

「サダコ・ササキ」

「鶴(複数形)」作品中にサダコと明記。

「折り鶴は幸運のシンボル」作品中にサダコと明記。

「鶴」佐々木禎子に捧ぐと献辞。2019年の作。

 こんなにロシア語でサダコの名前が詩の中に出てくるのです。
 詩という言葉の力によって鎮魂ができるとロシア語詩人は考えているのだと思いました。また反戦の声を上げることもできるし、平和を訴えることもできると信じているのでしょう。

 日本人の感覚では分かりにくいかもしれません。
 例えば、日本人で「私の趣味は俳句です。句会の会員です。」「短歌を作ることです。」という人が、「アンネの日記」を読んで、
「すごく感動した! やっぱり人種差別も戦争も反対だ! この気持ちを俳句にしよう! 『ああ、アンネ・・・』」と句や短歌を書き始める人はあまりいないと思うんですね。

(とここまで書きながら、いや、もしかしたらいるかも、と思ってネットで検索したら、アンネという名前をちゃんと入れた日本人歌人による日本語の短歌を一首だけ発見しました。)

 ところが、ロシア語圏では「サダコの千羽鶴の物語」を読んで、「すごく感動した! この気持を詩にしよう! 『ああ、サダコ・・・』」と作品にしてしまう。しかもそうしている人がとても多い。

 他にも日本人が句会で「今日のお題は『戦争反対・平和への願い』です。」というのはあっても、個人の名前を入れよう、というのはあまりないのではないかと思います。「今日は『アンネ・フランク』という言葉を入れた短歌をみんなで作ってみましょう。」ということ、あるのでしょうか?
 ところがロシア語圏では、詩の中に人名、しかも外国人の名前が「サダコ!」「ササキ!」と繰り返し多数登場するのです。

 このように日本人の想像していないことがロシア文学界では当たり前のように続いているのです。
 それにしても佐々木禎子さんのご遺族は、禎子さんの名前がこんなに詩の中で書かれていることも、献辞を捧げられていることも知らないんですよね。
 驚くのか、サダコはとっくに世界的反戦アイコンになっているから今更何とも思わないのか、それとも嬉しく思うのか、あるいは不愉快に感じるのか、私は遺族ではないから分かりません。
 でももし遺族だったら、とりあえずどんな作品に名前を(ある意味無断で)書かれているのか気になるとは思います。
 もっとも佐々木禎子さんのことを悪く書いているロシア語作品は私が知っている限りではありません。

 また上記の詩の大部分は、アマチュア詩人、つまり詩作が趣味という一般人が書いているうえ、ソ連も崩壊した後のロシア語圏に住んでいる普通の人々が自ら「サダコの千羽鶴の物語」をモチーフにして書いたものです。
 ここにソ連時代のような「原爆を落としたアメリカは非道な国である」という宣伝を文学作品でするようにというプロ詩人への、政府からの隠れた指示はありません。
 ソ連はなくなり、核兵器ちらつかせながら牽制し合う米ソ冷戦時代は終わり、国家公務員でもないアマチュア詩人が書く「サダコの千羽鶴の物語」は純粋に鎮魂、戦争反対、平和希求の内容ばかりです。
 さらにネットの力により、大量に発信され、数え切れないほど多くの人が目にするようになりました。

 こうして大量の「サダコの千羽鶴の物語」がロシア語で詩に書かれる中で、曲をつけられる作品も再び出てきます。

(15)に続く。


(13)  児童文学「四人の少女への心」と文学賞(1988年)と四人の少女記念賞(1989年)

2021年08月10日 | サダコの千羽鶴
 1986年チェルノブイリ原発事故が発生してから、被爆して白血病に罹る子どもが増えたベラルーシとウクライナでは、別の視点で「サダコと千羽鶴の物語」を紹介する流れが生まれました。
 
 すでにロシアの児童文学作家ユーリー・ヤコブレフ(1922-1995)が1962年に「白い鶴」という短いお話を書いていましたが、同じくヤコブレフが1988年に「四人の少女への心」という文学作品を発表しました。
 この作品はユーリー・ヤコブレフ選集に収録されています。

 「白い鶴」より量も内容もずっと多いです。
 作家のヤコブレフは反戦をテーマにした児童文学作品を執筆するにあたり、当時すでに反戦のアイコンとなっていた4人の少女を選びます。そしてそれぞれを主人公にした4つの短編を書き、まとめて「四人の少女への心」を発表しました。
 今回私は原題「Страсти по четырём девочкам」を「四人の少女への心」と訳しましたが、「心」というより「情念」とか「魂の叫び」などに訳したほうがいい言葉です。でも、原題そもそもが児童文学作品らしいタイトルではないのですよ。
 作者の反戦、平和を求める気持ちが前面に押し出されているタイトルです。

 この選ばれた四人の少女は、ターニャ・サヴィチェワ、アンネ・フランク、サマンサ・スミス、佐々木禎子です。
 アンネ・フランクは日本でも有名ですが、ターニャ・サヴィチェワ(「ターニャの日記」を書いたロシアの少女)は知らないという日本人が多いと思いますので、リンク先を貼っておきます。

 それと他の3人とは違ってサマンサ・スミスは戦後生まれなので、どうしてこの作品で選ばれているのか分からない、という人のためにもリンク先を貼っておきます。
 サマンサ・スミスはソ連では反戦のアイコンとして当時すでに有名で、
「この本を読んでいるみなさんも、サマンサちゃんのように平和を愛する心を持った人に成長してくださいね。戦後生まれのお手本ですよ。」
と作者は言いたかったのだろうと思います。

 さて、この本の第4章に佐々木禎子さんが登場します。ほとんど作者の想像の世界が書かれており、その分悲しくも美しい文章で、一人称が多用され(サダコの独白シーンが多い。)子ども読者の涙を誘う文章です。
 見つけにくいのですが、ロシア語でこの作品の第4章だけ読みたいという人のためにリンク先を貼っておきます。
 
 ここでは折り鶴の数にはこだわっておらず「あと一羽・・・あと一羽足りない。」とサダコが独白しているだけです。
 要するに999羽作ったという設定になっています。これも作者の文学者としてそうした、ということだと思います。


 ソ連時代、「サダコの千羽鶴の物語」をロシア語で紹介することは、原爆の残酷さを広めることでした。児童文学の形では、子どもに教えることになりますが、それが奨励されたのは、裏に反アメリカ思想があり、「原爆を落とすのなんてひどい国だね、アメリカは。」という意識を子どもに刷り込ませる隠れた意図がソ連政府にあったから、ともされています。その裏で核実験をソ連国内(今のカザフスタン)で何百回も行い、核兵器を製造して、核こそが戦争抑止力になるとか国民に説明をしておきながらです。

 ソ連時代のプロの作家は、原則全員国家公務員みたいなものなので、政府の命令に従って文学作品を作っていました。
 皮肉にもそのおかげで「サダコの千羽鶴の物語」も広がりました。
 しかし、この「四人の少女への心」には、アメリカ人のサマンサ・スミスが選ばれています。サマンサは平和大使であり、ソ連にも訪問したことのある米ソ友好のアイコンであり、反核のアイコンでもありました。
(佐々木禎子さんやアンネ・フランクのように10代で亡くなったのが選ばれた理由かもしれませんが。)

 そのサマンサが選ばれたのは、反アメリカ思想に基づいて児童文学作品を作らなくてよくなってきた傾向がソ連時代末期には出てきた、ということです。
 1985年にレーガンとゴルバチョフが初めて握手を交わしたことも影響を与えたと思います。
 核兵器をちらちら見せながら、相手を威嚇する米ソ冷戦時代は終了し、核の削減交渉が始まります。
 そしてソ連崩壊後は文学者の自由な表現が増えていきます。


 さて、この「四人の少女への心」が発表された翌年、1989年にソ連の平和擁護ソビエト委員会付属「世界の子供に平和を」委員会が「4人の少女記念賞」という文芸賞を設立しました。
 この4人の少女もターニャ・サヴィチェワ、アンネ・フランク、サマンサ・スミス、佐々木禎子となっています。
 世界平和、そして反戦をテーマにした優れた文学に与えられる賞です。
 第一回受賞者はロシア人ではなくアメリカの作家、パトリシア・モンタンドンです。
 メダルも作られ、さらに年の明けた1990年1月にモスクワで授与式が行われました。
 そのニュースが1990年にソ連の子ども向け新聞「ピオネールスカヤ・プラウダ」紙に掲載されました。
 画像は「4人の少女記念賞」のメダルの写真と4人の少女の紹介記事です。
広島平和記念資料館サイトではこの賞は1988年に設立されたと説明されていますが、誤りです。)

 この新聞記事内では、644羽折り鶴を折ったことになっています。ヤコブレフ作の「四人の少女への心」では999羽でしたが、新聞記者はコア作の「サダコと千羽鶴」で書かれた数字をそのまま写したようですね。

 残念なことにこの賞は1990年の第1回授与式が最初で最後でした。
 当時はペレストロイカの時代で、いよいよソ連が崩壊へと進んでいった時代です。
 国内の混乱のため「4人の少女記念賞」は1回の授与で終わってしまい、ソ連という国家も消えました。
 
 (14)に続く。

 

(12) 子ども向け新聞記事 (1988年)

2021年08月09日 | サダコの千羽鶴
 1986年、チェルノブイリ原発事故が発生。放射能が拡散し、原爆ではなく原発事故によって数えきれないほどの人が被曝しました。その多くはベラルーシ人とウクライナ人です。
 被曝や白血病が身近な問題になりました。
 このころから放射能被曝による健康被害について、身をもって体験する、そして深く考えるベラルーシ人やウクライナ人が増えたと思います。
 広島や長崎の原爆という言葉が、今までとは違う響きを持つようになったのは1986年以降でしょう。
 白血病で命を落とす子どももベラルーシやウクライナで増えていきます。
  
 こうして子ども向けの文章で「サダコと千羽鶴の物語」がロシア語で紹介されることが増えました。

 例えば1988年5月31日付の新聞「ピオネールスカヤ・プラウダ」紙に「サダコの千羽鶴」という記事が掲載されています。
 プラウダというのはソ連共産党機関紙で1912年創刊。ソ連政権樹立後は最大部数を誇る新聞となりソ連中で購読されました。そのプラウダの姉妹紙で、子ども向けの新聞「ピオネールスカヤ・プラウダ」がありました。ピオネール対象の新聞ということです。つまり、対象年齢は小学校3年生以上高校生までという設定です。

 そんな子ども向けの新聞などで、「サダコの千羽鶴の物語」は紹介されますが、チェルノブイリ原発事故後は、「原爆や戦争の犠牲になった子」という面ではなく「核や放射能の犠牲になった子。ベラルーシやウクライナでも白血病で死んでいる子がいる。」という面でとらえられるようになったと思います。

 画像は1988年5月31日付の新聞「ピオネールスカヤ・プラウダ」紙に掲載された「サダコの千羽鶴」の記事です。子ども向けに折り鶴のイラストも添えられています。
Статья в газете «Пионерская правда» от 31 мая 1988 года «Тысяча бумажных журавликов Садако»

(13)に続く。

(11) 佐々木禎子さんが折った鶴の数 644羽説

2021年08月09日 | サダコの千羽鶴
 佐々木禎子さんが折った鶴の数は少なくとも1300羽以上だったことがご遺族の話から分かっていますが、いろいろな数の説があります。
 ベラルーシ(ロシア語圏)では新聞記事の内容により、643羽説が広がっていましたが、1980年代以降は644羽説が広がりました。
 そのきっかけになったのは1977年にアメリカの児童文学作家エレノア・コアが英語で「Sadako and the Thousand Paper Cranes サダコと千羽鶴」という本を書いたからです。その中で「サダコは折り鶴を644羽作った。足りなかった分は二人の友人が作って棺に入れた。」と書かれているのです。
 英語の影響力は大きいです。
 ここから644羽説が世界中に広がりました。
 一方で、千羽作ろうと思ったけど644羽しか作れなかった。残りは356羽。これを友達二人が一晩で作り上げ、サダコのお葬式に持って行ってお棺に入れた(きっちり千羽の鶴といっしょにサダコは天国へ旅立った。)・・・というのは現実味がありません。
 単純計算で1人178羽の折り鶴を納棺に間に合うよう折りまくったことになります。
 また356羽の折り鶴を持ってきてお棺に入れた友達など存在していなかったことは遺族の証言から明らかです。

 やはり、このアメリカ人作家は、あくまで想像の世界、創作の世界でこの作品を執筆していると、念頭に入れてこの本を読むほうがいいです。
 それにしてもどうして644羽という数字を作者は選んだのでしょう。そういう数字を英語で書かれた新聞で読んだとか、643羽と聞いたことがあったが、英語で発音すると643より644のほうがきれいに聞こえる(ような気がする)ので、644という数字にしようという考えがエレノア・コアの頭の中に浮かんだ可能性もあります。

 実話を元にしたフィクションですよという前提があれば、折り鶴の数字なんていくらでも作者の好きなように書けるのです。
 でも純粋な子どもの読者は、これが正しいんだと思いこんでしまいます。

 ともかく英語で書かれ、さらに英語からの翻訳をするのは多くの翻訳家ができるので、この本は多くの言語に翻訳され、世界中に広がっていきます。もちろん日本語訳も出版されました。
 ロシア語版は1981年に初版が発行されたようです。(すみません、調べたけれど確証が得られませんでした。)

 こうしてロシア語圏には1980年代以降、644羽説が広がっていきます。
 画像はロシア語版「サダコと千羽鶴 Садако и тысяча бумажных журавликов」1987年度再版の表紙です。
"Садако и тысяча бумажных журавликов : Повесть : [Для мл. шк. возраста] Элеонора Корр; Перевод с англ. М. Кулиса; [Предисл. М. Дудина; Рис. С. Спицына] Л. : Дет. лит : Ленингр. отд-ние, 1987.

 明らかに原爆の子の像をイラストにしています。英語版の表紙は着物を着たサダコが折り鶴を持っていたりしてカラフルで、平和への希望が表れているのですが、ロシア語版はやはり「鎮魂」というイメージの絵が描かれていますね。
 ロシア語版では、出版社の判断で「小学生対象文学作品」とされています。

(12)に続く。


(10) 歌「折り鶴」 (1979年?)

2021年08月09日 | サダコの千羽鶴
 次にまた「サダコの千羽鶴の物語」を歌にした作品「Бумажные журавлики」が発表されました。
 直訳するとタイトルは「紙の鶴(複数形)」ですが日本語訳は「折り鶴」にしておきます。
 この曲が発表された時期を調べたのですが、はっきり分かりませんでした。
 おそらく1979年だと思いますが、確証がないです。ただどんなに遅くても1982年までには完成していたことが分かっています。
 すでに発表されていた歌「日本の鶴」(1971年)を踏まえた上で作られた楽曲ですね。

 注目すべきは作詞作曲歌がカザフスタンの女性という点です。
 作詞作曲はイリーナ・グリブリナ(1953−)、歌はローザ・ルィムバエワ(1957−)です。

 この歌を視聴したい方はYouTubeで検索してください。Бумажные журавлики Роза Рымбаева Ирина Грибулинаでヒットします。

 著作権などの事情により、私は歌詞は訳しません。
 ただ、言えることは、歌詞の中に佐々木禎子という名前は出てきませんが、「女の子は千羽鶴を作りながら死と対話していた。」「日本であの子は死んでしまった。」「広島の心の痛み、そして涙」というフレーズが出ています。
 明らかに「サダコの千羽鶴の物語」を歌詞にしています。

 歌「日本の鶴」は作詞者が男性で、日本から帰ってきた友人から「サダコの千羽鶴の物語」を聞いたから、シェアしたいという意思が全面に出ていました。
 この「折り鶴」は作詞者が女性なので、子どもに対する母性愛を前面に出した歌詞となっています。
「戦争で運命を変えられた広島の子どもたちのことを忘れないで」「子どもたちは済んだ目で空を見上げる。地上には悲劇が起こる。」
という内容の歌詞があり、本物の鶴ではなく、紙で作った鶴に対して、「空へ飛んでゆけ!」と呼びかけるのは、よくある表現ですが、さらに「いろんな色の紙の翼で地球を抱きしめて!」とサビで繰り返します。

 やはり詩の内容が女性的、母性的だと思います。
 旧ソ連時代、カザフスタンのセミパラチンスク核実験場では1949年から1989年の40年間に合計456回の核実験が繰り返されていました。健康被害も報告され、1991年8月29日に正式に閉鎖されます。
 ロシア語ですが、カザフスタン人によって書かれ、歌われた「折り鶴」は広島の原爆のことを歌っていますが、その背景には祖国にある核実験場のことがあったと思われます。 

 当時のソ連社会の構造、時代背景(戦後の時代、冷戦時代)を考えると、自国とは離れた国(日本)で被爆して死んだ少女のことを歌うことによって、暗に自国の核実験推進政策を批判しようという意図のある表現者がいてもおかしくありません。
 
 この歌そのものはヒットして反戦反核の歌として、ラジオで流されソ連中に広がっていきます。
 また米ソ冷戦時代においては、広島と長崎の原爆は悲劇であるからそのことを題材に反戦ソングを作るのは、
「こんな非道なことをした残酷なアメリカ。われわれの敵国はこんなにひどい国ですよ。」
と宣伝したいソ連としては、利用できる都合のいい歌です。
 だからラジオで全国に流されます。
 歌を作った人たちは、アメリカへの批判ではなく、純粋に戦争のせいで死んだ子どもの鎮魂、平和を求める気持ちで作っていたとしてもです。

 ところで、カザフスタン人がロシア語で「折り鶴」をいう曲を作ったと思われる1979年にはモンゴルで「ヒロシマの少女の折り鶴」という歌が作られました。その後毎年8月6日になると、ウランバートルの国営ラジオ局が放送します。
 こんな歌があるということが日本も知られたのは1992年になってからです。
 詳しくは「折り鶴は世界にはばたいた」(うみのしほ作 PHP出版)第4章に書かれています。
 要約すると、モンゴルから日本へ音楽留学していたオユンナさんが、新聞の取材で「モンゴルではみんな知っててよく歌います。」と紹介し、「日本人が知らないのでびっくりしました。」と話した。
 その後、日本のテレビ局の記者がオユンナさんに取材、さらに作詞作曲者を探してモンゴルへ取材。作詞者ヤオホラン・インへに取材。
 その説明によると、1977年にモンゴルの保養地で日本人の留学生と出会った。その日本人は折り鶴をインへさんにプレゼントし、佐々木禎子さんの千羽鶴の話をした。(その日本人が誰なのかテレビ局の取材では分からずじまい。)
 インへは「ヒロシマの少女の折り鶴」という詩を書いた。ダリザリフ・ダッシンニャムという軍所属の歌手が作曲。
 日本のテレビ局がドキュメンタリー番組を制作し、1993年に放映。
 このモンゴル語の歌は日本でも知られるようになりました。広島平和記念資料館にも所蔵されています。
 
(上記の引用先の文献で、76ページにモンゴルはソ連の影響下にあり、「ソ連ではサダコの本は出版されていない。」と書かれています。これが取材したテレビ局の1993年の認識として書かれたものなのか、本書が執筆された1998年の著者の認識によるものなのかはっきりしません。しかし、「ソ連ではサダコの本は出版されていない。」というのは間違いです。こちらの記事を御覧ください。1962年と1964年のソ連時代、すでにロシア語の本が出版されています。1979年までに佐々木禎子さんのことは1958年以降から新聞にも掲載されていたし、サダコに捧げる詩や歌が複数存在していました。)

 私としてはオユンナさんが「モンゴルではみんな知っててよく歌います。日本人が知らないのでびっくりしました。」と言う気持ちがよく分かります。
 一方で、「日本人が知らなくて当然。モンゴルの人が日本語で『こんな歌がありますよ!』と言わないと日本人は、関心がないから、知らないままになるでしょ。」
とも思いました。

 幸いモンゴル語の「ヒロシマの少女の折り鶴」はドキュメンタリー番組まで作られ、日本に知られるようになりました。
 やはり、取材や調査をして、報道する人が現れたからですよ。この歌は運が良かったのです。
 運がないばかりに、世界では知られているのに、日本人が把握していない「サダコの千羽鶴の物語」をモチーフにした芸術作品がまだ数多く埋もれていると思います。

 ロシア語(とベラルーシ語)に関しては、私が掘り起こすつもりで、このブログ記事を書いています。

(11)に続く。
 
 

(9) 歌「日本の鶴」(1971年)

2021年08月08日 | サダコの千羽鶴
 前回紹介した歌「鶴」より、はっきりと佐々木禎子さんをモデルにした歌が1971年に発表されました。

 「Японский журавлик」日本語の訳すと「日本の鶴」です。ロシア語だと単数形で、鶴は一羽しかいません。
 ウラジーミル・ラザレフ作詞 (1936-)
 セラフィーム・トゥリコフ作曲 (1914-2004)
 ガリーナ・ネナシェワ歌 1971年 (1941-)

 この歌をベラルーシの子どもたちに聞かせています。

 歌詞の内容は、序文に書いたように翻訳しませんが、要約してみます。

 日本へ行って帰ってきた友人がお土産に折り鶴をくれた。そして、被爆した少女のことを話してくれた・・・
 少女は千羽鶴を作ったら元気になれると、作り続けたが死んでしまった。
 折り鶴は永遠に生きる日本のお土産(贈り物)になった。

 明らかに「サダコの千羽鶴の物語」がモチーフです。
 そして、導入部分に「私は日本に行ったことはないけど、日本に行った友達が教えてくれた話ですよ。」とはっきり書いています。
 やはり、タンクやクチンと同じく「この話をシェアしますよ。」というメッセンジャーとしての作品の書き方です。客観的と言えます。
 ガムザトフの詩「鶴」のように冒頭から「私はこう思う。」という詩は主観です。

 やはり外国人で、被爆者でもない詩人としては、客観的にならざるを得ないのかもしれません。
 ある意味、冷静です。
 しかし、この歌を聞いて涙ぐむベラルーシ人の子どももいます。

 作詞者のウラジーミル・ラザレフは、何から着想を得てこの詩を書いたのでしょう。映画「こんにちは、子どもたち!」を見たのかもしれないし、新聞記事を読んだのかもしれないし、過去の詩人の作品を読んだのかもしれません。
 しかし、歌詞に書いたことが事実だとすると、実際に日本へ行った友達がいて、その友達が折り鶴をくれて、
「日本にいたときに広島へ行ったんだよ。平和記念公園にも言って、そのとき白血病になった女の子の話を聞いたんだよ。」
と語って聞かせたことになります。

 当時はソ連時代で冷戦時代でもあったので、ソ連人で日本に来ることができた人は非常に少なかったです。1971年の芳名帳など調べたら、ウラジーミル・ラザレフの友達が誰なのか分かりそうですが、遠いベラルーシに住んでいる私には難しいので調べることはしません。
 その前に本人に直接聞くほうが早いと思って調べたら、ウラジーミル・ラザレフは1999年にアメリカへ移住していました。フェイスブックとかしていたら、ロシア語で質問できると思ったのですが、そういったものはされていないようなので連絡がつきません。
 (序文に書いたように、徹底的には調べる気はないです。)
 
 この歌もYouTubeで「Японский журавлик Ненашева」検索すると視聴することができます。関心のある方はどうぞ。

 画像は1971年にリリースされた「日本の歌」がB面に収録されたレコードです。
 こうして1971年から「サダコの千羽鶴の物語」は歌の力を借りて、ロシア語圏に広がることになります。

(10)に続く。

(8) 歌「鶴(複数形)」(1968年)

2021年08月08日 | サダコの千羽鶴
 1968年には、ついに音楽作品が誕生します。
 タイトルは「Журавли」そのまま「鶴」です。ただし複数形なので「たくさんの鶴」という意味です。
 しかし、この歌の内容は佐々木禎子さんや「サダコの千羽鶴の物語」にはあまり関連がないように私には思えます。しかし、佐々木禎子さんに関係がある曲と言われています。

 作詞者はダゲスタンの国民的詩人、ルスラン・ガムザトフ(1923-2003)。
 ベラルーシのマクシム・タンクもそうなのですが、旧ソ連の国民的詩人は政治の世界に進出する人が多いです。日本人の感覚では分からないでしょうが、こちらでは、詩人のステータスは高くて、詩人はつまり言葉遣いが上手だから演説も巧みで、知的であり、作品の内容によって人格も判断できるとされ、大統領選挙に出馬する人もいるのですよ。

 原爆投下から20年目経った1965年に、ガムザトフも詩人としてではなく、ソ連ダゲスタン共和国の政治家として、招かれて広島を公式訪問しました。
 タンクは政治家になる前に新聞記事を読んで「佐々木禎子の鶴」を発表していますが、その後政治家になってから、公式来日しています。
 一方ガムザトフは政治家になってから広島を訪問し、それがきっかけで「鶴」という詩を書いています。
 広島の平和記念公園訪問中、「サダコの千羽鶴の物語」を聞いて、とても感銘したので、「鶴」という詩を書いたというエピソードが残されている割には、サダコという名前や千羽鶴といったキーワードは書かれていない作品です。

 ガムザトフはこの詩をアヴァル語(ダゲスタン共和国で使用されている言語)で書いたのですが、1968年にナウム・グレブネフによりロシア語に翻訳されました。やはりタンクの「佐々木禎子の鶴」のように、ロシア語に翻訳されることで絵、多くの人に読んでもらえる可能性を考えたのでしょう。
(ちなみにガムザトフは「サダコの千羽鶴の物語」はテーマにしていない「広島の鐘」という詩も書いています。)

 そしてヤン・フレンケリャによって曲がつけられ、マルク・ベルネスが歌いました。その結果、大ヒット。
 外国語にも訳され、世界に広がっていきます。
 日本語訳は複数の訳詞が存在します。その中でも一番有名なのは鮫島有美子が歌っている中村五郎訳です。

 ロシア語オリジナルも、日本語版もこの歌はYouTubeで検索すればたくさんヒットします。
 ハミングの部分がラララーだったりルルルーだったりいろいろありますね。

 しかし、歌詞の内容は戦争で死んだ兵士への哀悼です。鶴もロシア語だと当然複数形なのは戦死者がたくさんいるからです。千羽鶴だから、複数形ではないです。
 そして鶴は戦死した兵士の魂のシンボルとしています。
 歌詞の中で、「兵士は大地に横たわることなく、白い鶴の姿に変身した(あの世に飛んで行った)と私は思う。」とはっきり書いているのです。

 戦後10年経ってから病死した日本人少女のイメージはこの詩にはありません。
 この戦死した兵士も、人種などはっきり書いているわけでもありません。
 第二次世界大戦戦死者への哀悼の歌です。
 しかし、広島を訪問したとき、詩人が「サダコの千羽鶴の物語」を聞いて感銘を受けて詩作したエピソードがある作品だそうなので、広島平和記念資料館にも、この曲は資料として所蔵されています。
 明らかに「佐々木禎子」という名前が作品中に書かれているロシア語(あるいはベラルーシ語の)文学作品は広島平和記念資料館には所蔵されていません。

 一方でこの歌は世界的にも有名で、千羽鶴云々というより、戦死した全ての兵士への哀悼の歌、つまり平和希求の歌の一つと考えられているので、広島平和記念資料館で所蔵の資料になり、視聴もできるのは当然です。
 
 私が注目したのは、この歌の中に登場する鶴は折り紙などではなく、死んだ兵士の魂をシンボルであるということです。
 「サダコの千羽鶴の物語」を来日中に知って感銘を受けたので、この話をシェアしたくなったという立場で書かれた詩ではありません。
 日本人とロシア語圏の人を結ぶメッセンジャーとして詩を書いたタンクやクチンとは、種類が異なる詩です。

 今、千羽鶴は平和のシンボルになっていますが、それは佐々木禎子さんが亡くなって何年も経ってからです。意外と最近できた「伝統」で、そもそも日本では千羽鶴は願い事を叶えてくれるかもしれないラッキーアイテム(お守り)でした。
 また鶴は千年、亀は万年と日本では古来から言われていたから千羽の鶴は、長寿のシンボルでした。
 佐々木禎子さんだって、病室で「世界が平和になって。」と願いながら鶴を作っていたのではなく、自分の病気が治りますようにと思いながら作っていたはずです。
 世界平和を願って鶴を作るのは万人のためですが、自分の病気が治りますようにというのは、個人的な願いで、自分だけのためのものです。

 「サダコの千羽鶴の物語」がだんだんと1人の女の子の病気治癒や鎮魂のためのものではなく、平和のシンボルに変化していくわけです。
 しかし、1968年の「鶴」という歌に出てくる鶴は、大勢の戦死者の魂のシンボルです。
 私はこれは作詞者は「サダコの千羽鶴の物語」に触発されて書いたのではなく、1957年のソ連映画「鶴は飛んでゆく」などの影響のほうが強いのではないかと思います。

 映画「鶴は飛んでゆく」(ミハイル・カラトーゾフ監督。グルジア人)は第二次世界大戦中、恋人が戦争に行ってしまったロシア人女性の悲恋の物語です。この映画はカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを獲得し、日本でも上映されました。そのときの邦題は「戦争と貞操」です。(こういうダジャレみたいながっかり邦題をつけるのはなぜなのでしょう? 最初から原題「Летят журавли」をそのまま直訳して「鶴は飛んでゆく」でいいと思うんですが。)

 この映画のラストシーンでは、戦争が終わっても帰ってこない恋人を駅で待ち続けるヒロインが、とうとう戦死したことを知らされ、モスクワの空を見上げると、鶴が飛んでいくのを見た・・・ので、タイトルが「鶴は飛んでいく」なのです。
 映画の冒頭のデートシーンでも二人仲良く鶴が飛んでいくのを見ますが、これは楽しかった思い出でもあり、二人の不吉な未来を暗示させるものでもあります。

 やはりこの映画でも、当然鶴は長寿のシンボルでも平和のシンボルでもありません。
 鶴は「死者の魂」「美しく去っていくもの」「過ぎ去るもの」の象徴です。
 
 TouTubeのコメント欄でも映画「鶴は飛んでゆく」を見ると、歌「鶴」を思い出すという書き込みをしているロシア人がいます。
 映画は1957年に作られ、詩は1968年です。作詞者がこの映画を見て、「戦死した兵士の魂は白い鶴になって飛んでゆくと私は思う。」という詩の着想を得た可能性は大いにあります。

 逆に言うと、1957年の映画の監督は、鶴をモチーフに使ったのでしょうか。
 鶴はもともと、ロシアでは母国や夫婦愛のシンボルなのだそうです。
 だから、映画「鶴は飛んでゆく」で、登場するわけです。
 ロシアで平和のシンボルは、鳩だと思います。
 そしてコウノトリは、赤ちゃんを運んでくるので、生命や人間のシンボル(ベラルーシではコウノトリはもともと人間だったという伝承があります。)ですね。

 ロシアでは「戦士した兵士の魂は鶴になって祖国に帰ってくるという伝説があります。」という情報もネットで読みましたが、「兵士」という言葉に引っかかります。
 ソ連軍兵士のことなのか、中世時代の騎士のことなのかでずいぶん与える印象が変わります。そういう伝説があるとしても、20世紀に作られた伝説のように思えます。

 どちらにせよ、世界的に有名な歌ですが、「サダコの千羽鶴の物語」とは関連が非常に薄い歌だと思います。
 この歌がロシア語圏で「サダコの千羽鶴の物語」を広める役割を持ったとは思えません。

(9)に続く。

(7) 詩「千羽の白い鶴」 イワン・クチン (1966年)

2021年08月08日 | サダコの千羽鶴
 詩の世界では「サダコの千羽鶴の物語」は延々とモチーフに選ばれます。
 1966年はロシアのタンボフを代表する有名な詩人イワン・クチンが「千羽の白い鶴」を発表します。
 映画「こんにちは、子どもたち!」や佐々木禎子さんを紹介するドイツ語の本のロシア語訳、同じロシアの児童文学作家ヤコブレフの作品「白い鶴」に触発された可能性もありますね。

 このクチンの詩はとても長いです。子ども向けの作品ということになっていますが、驚くほど長いです。
 全文を読みたい方は、タンボフの図書館のサイトで公開されていますので、リンク先を貼っておきます。こちらです

 この詩の中には、何羽の折り鶴を作れたといった数字はないです。
 しかし、はっきりと、作品中に佐々木禎子さんの名前が書かれています。
 ただ、「サダコは名字、ササキは名前」という行があって、苦笑いしてしまいましたが。
 また、「ドクター・マコト・オサム」という主治医まで作品の中に登場。
 佐々木禎子さんの主治医は沼田丈治先生です。
 この漢字の「治」は「オサム」と読めなくともないですが、全くちがう名前ですね。
 1966年以前に、サダコの主治医の氏名は、マコト・オサムにしている文献があったのかどうかは私は確認できませんでした。
 作者が言葉の響きがいいなどの理由で、勝手に命名したのかもしれません。
 詩人なので、外国語であっても言葉の響きを大切にする場合が多いです。史実として正しいかどうかは二の次という考えの文学者もいますよ。

 この詩も冒頭は日本ではなくロシアなのです。
 (おそらくタンボフの)ピオネール会館にテーブルが置いてあって、そこに一羽の折り鶴が置かれていた・・・と導入部分があり、サダコの千羽鶴の物語や広島の原爆について、ロシアの子どもたちに教えてあげるよ、という感じで詩が綴られていきます。
 
 タンクのベラルーシ語の詩も冒頭が新聞記事の引用です。
「こういう広島の少女の話を知ったから、ロシア語圏の皆さんにもシェアしますよ。私は詩を使って、情報伝達する役割なんです。」
というのがタンクにもクチンにも共通する詩作の手法です。
「私は日本人ではないし、広島に行ったわけでもない。でもサダコの話を広く世界に、せめてロシア語圏には、文学を通して広めたい。」
というメッセンジャーのような立場にいるんですね。
 ある意味、当事者ではない(被爆者でもないし、原爆を投下した側の国の人間でもない)ことを明確にして、客観的に書いています。
 もちろん詩人としての自分の感情や、訴えたいことも織り交ぜています。

 こうして詩の世界での「サダコの千羽鶴の物語」はまだ初期の段階にあり、「知らない人が多いので、紹介しますよ。」という姿勢で書かれたものが主流でした。

 ただ、21世紀を生きている私から言わせると、戦争の過去の話なんて、語り続けないとすぐ忘れられます。戦争の記憶がある世代はどんどん減ってゆき、知らない世代がどんどん増えていきます。
 サダコの千羽鶴の話なんて知らないという世代が生まれてくるので、やはり紹介するという形を取るなら、このような初期のタイプの詩作品が常に求められると思います。

 次の段階としては、詩にメロディーがつけられ、歌に変化していきます。
(8)に続く。
 




(6) ロシア語で書かれたお話「白い鶴」 (1962年)

2021年08月08日 | サダコの千羽鶴
 ついにロシア語で書かれた「サダコの千羽鶴の物語」で、しかも児童文学が、ドイツ語で書かれた「サダコは生きる」のロシア語訳が出版され、映画「こんにちは、子どもたち!」が公開されたのと同じ1962年に発表されました。

 ユーリー・ヤコブレフ(1922-1995)が書いた「白い鶴 Белые журавлики」というとても短い子ども向けのお話です。
 訳すと少年少女新聞というロシアのサイトで全文読めます。リンク先はこちら
 とても簡潔にまとめられていて、小学校低学年向けのロシア語の「サダコの千羽鶴の物語」のお手本のような文章です。
 ここでは折った折り鶴の数にはこだわっていません。
 気になったのは、冒頭で「サダコは名前で、ササキは名字」と紹介しているのに、「ササキは鶴を作り続けた。」と、サダコと呼ばずに名字でずっと呼んでいるので、日本人としては違和感があります。
 子ども向けの文学作品なので、名前のサダコのほうで統一してほしかったです。
 
 ヤコブレフはロシアのペトログラード出身。第二次世界大戦中は出征していたソ連兵士でした。
 「白い鶴」は短くて分かりやすく、ソ連やロシアの学校の平和教育教材として使われるようになりました。
 こうして、「サダコの千羽鶴の物語」はロシア語圏の学校教育の現場でも広がっていきます。
 1962年以降、佐々木禎子さんの紹介が子ども向けのお話を教材としてソ連の学校で行われるようになったのです。

 画像は1962年に発行された「白い鶴」の表紙です。
 短編集の表題にこの話の題名が選ばれています。

(7)に続く。

(5) 映画「こんにちは、子どもたち!」(1962年)

2021年08月07日 | サダコの千羽鶴
 ロベルト・ユンク著「廃墟の光・甦るヒロシマ」のロシア語版がソ連国内で出版された同じ年にソ連映画「こんにちは、子どもたち!」が公開されます。

 監督はマルク・ドンスコイ。子ども向けの映画です。
 舞台はソ連で有名なサマーキャンプ場、アルテク。ここにはソ連中から子どもたちが集まり夏休みのキャンプ生活を楽しみます。さらにはソ連以外の国からも子どもたちが招待されてやってきます。
 その子どもの数の多いこと。団塊世代が集結したのかと思うぐらい。そして子どもたちの出身の旗が掲揚されているのはオリンピック会場さながら。

 年齢設定は10ー14歳ぐらい。いろんな国の子どもたちが共同生活を送るので、当然揉め事も起きます。有色人種への差別、第二次世界大戦の記憶がまだ多く残っていた60年代。「僕のお父さんは○○人と戦っていたんだ。」と○○人の子どもに言ったり、ささいなことで口喧嘩、それが枕投げ戦争になったりするのですが、騒ぎを起こし、仲が悪いのはとにかく男子。
 男子のお行儀が悪すぎるのに対し、女の子たちはみんな不思議なほど仲良しで、何の問題も起こさない。
 男子たちがまとまらないので、心を痛めるキャンプ場長。一応このキャンプ場長さんの女性が、キャスティングで言うと主役ということになっています。子ども向けの映画ですが、大人が主役ですね。
 
 ちなみに人種差別でいじめられている子に優しくするのは、ソ連出身の子どもである、という設定が多いです。
 喧嘩をするのもソ連の子どもが数の上で圧倒的に多いので、そうなっていますが、アメリカ人の男子が、ミサイルやモデルガンのおもちゃをたくさん持ってきて、男子がみんな大喜びで遊んだり、喧嘩をしたり、海水浴に行ったら、仲の悪い男子二人が水中でどっちが長く息を止められるか競争をして溺れかかり、
「敵に勝ちを譲ってはいけないって父さんに教えられたんだ。」
などと言い訳をするのを、
「まあまあ、男子はこんなもんですよ。(男は戦争が好きなんですよ。)厳しく叱らないでくださいよ。」
と男性の引率者がへらへら笑いながら、庇おうとするのを、女性キャンプ場長は、
「子どもがおもちゃと言えど兵器で遊ぶなんて反対です。子どもの遊びは社会の鏡ですよ。」
とびしっと言う。

 これも一種の男女差別になりはしないかと思うのですが、監督はとにかく、自分も男なのに、男子は争い事が好きであって、生まれつきの本能みたいなものであり、どうしようもないんですよ、でもね、これを平和に導いてくれるのは、女性なんです、女性。だからキャンプ場長は女性という設定にしてみました。そう、女性が世界を平和にし、男どもの頭を冷やしてくれるんです。という女性讃歌の映画を作りたかったようなのです。ちなみに脚本を書いたのは女性。

 男子は戦争好きの頭軽いという設定(人種差別を受けている男の子を優しく庇う男の子もいますが。)なので、常に男子はキャンプ場で問題を起こす。それを何とかまとめたいと悩むキャンプ場長。
 と、そこへ日本から少女、イネコがやってきます! これも女性ですね。
 
 このイネコ(たぶん漢字だと稲子さん)は着物を着て、子犬(秋田犬ではなく狆?)を胸に抱え、おかっぱ頭に大きなリボン、そしてロシア語ペラペラ。その可憐さに、その場にいた多国籍子ども集団が、男女年齢問わず、一瞬でめろめろになります。
 映画を見ていた日本人のおばさん(私)すらハートを射抜かれましたよ。萌えるという動詞の持つ意味が分かりました。

 イネコさん役は、ナターシャ・キシドさん。名前はロシア風ですが、純粋に日本人です。この映画が初出演で唯一の出演作品なのですが、それが信じられないほどの堂々とした演技で、キャスティング大成功ですね。
 はっきり言って、この映画の主役ですよ。主役のキャンプ場長より、他の国の子どもより、ずっと目立つように撮影されています。

 初登場シーンからして特別。夜中にふと目を覚ました男子が、暗がりの光(スポットライト風)の中で、着物姿のイネコを見る。隣で寝ていた男子を起こして、
「おい、妖精がいたぜ。ほら、あそこに・・・。」
「誰もいないぞ。」
「おかしいなあ。」
 着物の長い袖が妖精の服に見えたようなのです。
 翌朝、朝食の時間に、
「新しいお友達が日本から来ましたよ。」
と紹介されてキャンプ場の食堂に扇子をひらひらさせながら登場するイネコさん。ひと目見て、でへへーとなってしまう男子たち。
「あの妖精だ!」
「同じテーブルに入れてあげる人は誰ですか。」
とキャンプ場長が尋ねると、みんな、はい!はい!と手を上げる。
 大勢いる子どもの中で極端にイネコさん一人が大人気。

 切れ長の奥二重のまぶた、長めのおかっぱ、内側からにじみ出てくる美しさ。
 サマーキャンプが舞台なので出てくる水泳のシーンでは水着姿ですが、一人日傘代わりの番傘をさす。子どもたちのために日本語の歌まで披露。
 稲子さんの周りに群がる子どもたち。性別関係なし。
 上品で、優しくて気遣いもできて・・・と完璧日本人少女です。

 この稲子さんを見ているだけで、当時のソ連人が頭の中で作っていた日本人少女のイメージをそのまま監督は表現したことが分かります。
 ある意味ステレオタイプだし、
「着物着て子犬を抱えて日本からソ連のサマーキャンプ場に来る子なんかいるか?」
と突っ込みを入れたくなる日本人もいると思います。(他にもたくさん突っ込みどころが多い映画なんですが、多すぎて一つ一つここに書けない・・・。)
 しかし、インターネットも普及していない当時のソ連の子どもからすると、この動いてしゃべって、歌うイネコの姿が、記憶に強烈にインプットされました。

 さて、もてもてのイネコさんはかつての敵国であるアメリカの男の子から、しゃべる人形をプレゼントされたりします。ケンカばかりしていた男子もイネコさんのほうばかり見ているので、キャンプ場は一気に平和になります。
 あるとき、キャンプ場の近くにある山へ子どもたちは登山に行きます。そこで空を見ていたイネコは、もくもくとした雲が沸き起こるのを見て、
「あの雲はいや! こんな空はいや!」
と悲鳴を上げて倒れてしまいます。
 実はイネコさんは広島出身で、原爆の被爆者だったのです。雲が原爆のきのこ雲に見えて、記憶がフラッシュバックしたのでした。
 担架でキャンプ場に運ばれたイネコさんは、被爆のために白血病になったと突然診断されます。
 病気を治すためにモスクワからドクター二人がヘリに乗って、キャンプ場にやってきます。
 そのうち一人は日本人の医師、ウシハラ(牛原?)教授。この教授の役を演じているのが、ナターシャ・キシドさんのお父さん、ヤコブ・キシドさんなのです。名前はロシア風ですが純日本人です。
 この共演したキシド親子については後述します。

 牛原教授は、イネコさんを励まそうと、折り鶴を作れば病気は治るよと教えます。病床で鶴を作り始めるイネコ。完全に佐々木禎子さんがモデルになっています。
 しかし、この映画の中ではなぜか千羽鶴ではなく、30万羽作ったら元気になれると説明しました。
 30万羽・・・とても一人では作れません。
 そのためイネコを助けるんだとキャンプ場の子どもたちが立ち上がります。喧嘩も差別も戦争ごっこもすっかり忘れて、紙で鶴を作り始めます。
 折り鶴もあれば、切り紙で鶴を作る子どもも。キャンプ場の近くに住む地元住民の子どもまで噂を聞きつけ、鶴を作って届けます。
 こんなにキャンプ場の子どもの心が一つにまとまったことがあったでしょうか。
 折り鶴は山のように増え、そのてっぺんに日の丸が立てられます。
(日本人は、この映画を絶対見るべき・・・とまでは言いませんが、存在ぐらいは知っておいてほしいと思いながら、この記事を書いています。)

 イネコの病気によって、キャンプ場の子どもたちは一致団結、みんな仲良しになります。
 しかし病状は悪化するばかり。
 骨髄移植しか方法はない、とフランスとドイツからその第一人者がヘリで飛んできて、キャンプ場の中で移植手術を決定。
 ドナーは、
「日本に原爆を落としたのは私の母国、アメリカ。だから私がドナーになります!」
と子どもを引率してきたアメリカ人女性が手を挙げる。
 他人同士だし、ちょうど合う骨髄を持っているとは限らないのでは・・・というつっこみはさておき、手術は成功。

(「サダコと千羽鶴の物語」がソ連で広がったのは、米ソ冷戦時代で「原爆を落としたアメリカという国はひどい。」というイメージを広げる隠れた意味があった・・・という意見もあるのですが、この映画を見ていると、アメリカ人の男の子がイネコさんに絵英語でしゃべるアメリカン・ボーイのお人形をプレゼントしたり、アメリカ人女性が骨髄ドナーになったりと、とてもアンチ・アメリカ意識をソ連の子どもに刷り込もうとしているようには見えません。)

 ところが突然イネコの容態は悪化。日本語でお母さん・・・と呼びながら痛みに苦しむイネコさん。(このあたりから私の涙腺は緩みっぱなしに。)

 次に音楽でイネコを励まそうと、子どもたちはコンサートを始める。自分の国の民族衣装を着て、踊ったり歌ったりする。
 病室で子どもたちの歌声に耳を傾けるイネコさん。しかし、その両目の光がだんだん薄れてゆき、イネコは死んでしまいます。

 このシーンを見ていて、泣いたソ連の子どもは何百万人といるでしょうね。

 映画では仲良くなったキャンプ場の子どもたちが別れを惜しみながら、それぞれの故郷に帰っていくシーンになります。人種を超えた友情、子どもが戦争の犠牲にならない平和な世界を作ることを約束し合います。ドナーだったアメリカ人女性はイネコさんが飼っていた犬をもらってアメリカへ。
 日の丸が立てられていた折り鶴の山に風が吹き、鶴は空へ撒き散らされます。
 そして、ここから合成の映像になるのですが、世界中の空に紙の鶴が数え切れないほど飛んでいきます。
 やはり鶴は平和のシンボルで、それが世界中に飛んでいく・・・このラストシーンを監督は撮りたかったんだろうなあと思います。

 この映画はこんなに日本のアイテムが出てくるのに、日本では未公開です。
 日本の歌も挿入歌で入っています。こんなにたくさんの多国籍の子どもが出演しているのに、映画のポスターは手書きのイラストで大きく日本人少女の顔と空を飛ぶ白い鶴が飛んでいます。でもこのイラストの女の子はイネコさんに似ていません。

 この映画を見たい人はYoutubeで「Здравствуйте, дети!」1962で検索してください。日本語字幕などはついていないオリジナルが見られます。

 監督が佐々木禎子さんをイネコのモデルにしているのは明らかです。
 そのイネコを演じたナターシャ・キシドさんとそのお父さん、ヤコブ・キシドさんについて。
 この映画はソ連映画を紹介するサイトで、詳細を知ることができます。
 ここで出演者の情報も分かります。
 
 それによると、ヤコブ・キシドさんは他にもソ連映画に日本人の役で出演しており、そのときはヤコブ・キシダという表記だった。(本名は岸田さん?)
 ヤコブやナターシャはロシアに住んでいたときの通称名で、本名ではない可能性が高い。
 ヤコブ・キシドさんは戦前サハリンに住んでいたが、戦後レニングラード(今のサンクト・ペテルブルグ)に家族で引っ越した。レニングラード大学で働いていた。
 キシド一家はロシアに約20年住んでいたが、日本に帰国した。
 ナターシャ・キシドさんはロシア語の通訳になった。
 結婚されたので、現在の名字はキシドでもキシダでもない可能性が高い。

 ・・・お二人とも今は芸能人などではなく一般人として暮らしておられるので、上記サイトに載っている内容をあまり詳しく訳していません。
 ただ、このサイトのコメント欄に一人のロシア人女性が、
「ナターシャと中学2年生から高校1年生まで同じクラスだった。どうしたらいいのか分からないけどナターシャに連絡を取りたい。ナターシャはとてもかわいくて成績優秀でおとなしく、控えめな子だった。」
と2019年に書き込んでいるんですよね。
 ナターシャ・キシドさんはロシア語ができるのですから、もしこのコメント欄を見たら、私を友達が探している・・・とすぐ分かると思います。
 ただ、このロシア人女性、現在住んでいるところをアメリカのミルウォーキーにしているんですよね。ロシアからアメリカに移住したのかもしれません。そうすると連絡を取り合うのが難しいかもしれませんが、コメント欄の書き込みから2年経って、連絡がついたのかなあ・・・とベラルーシで勝手に思っています。

 おそらくお二人とも1950年代のお生まれで、今60歳代か70代初めぐらいだと思うのですが、それでも懐かしくてナターシャに会いたいとロシア人の友達から言われているので、本当に魅力的な人なんだろうなあと思います。

 画像は映画「こんにちは、子どもたち!」からのスクリーンショット。隣の女性はキャンプ場長さん。
 つまりですね、このキャンプ場長さんのような、母性を体現しているような女性と、イネコさんのような純粋な心を持った少女が、世界を平和に導くんですよ、とこの監督は言いたかったのでしょう。

 映画の影響は大きいですね。
 ソ連の子どもたちに消えない印象を与えたイネコ。
 そのモデルになった佐々木禎子さん。
 映画によってソ連(ロシア語圏)の中で「千羽鶴を折る病気の日本人少女」のイメージが広まり、固定化されていったと思います。つまり視覚的なアイコン化です。
 
(6)に続く
 

(4) ロシア語に翻訳されたドイツ語書籍

2021年08月07日 | サダコの千羽鶴
 佐々木禎子さんが折った鶴の数が643羽とするのは、ソ連圏内では新聞に取り上げられたことや、マクシム・タンクが詩に書いたことによって広まったと思います。
 
 少し話はそれますが、この数字について調べたことを書きます。

 「サダコと千羽鶴の物語」は当然のことながら1955年10月25日に佐々木禎子さんが亡くなった途端、世界に広がったものではありません。「訃報! あの佐々木禎子さんが死去。千羽鶴も甲斐無く・・・」などというニュースが1955年10月26日に世界を駆け巡ったわけではありません。
 やはり1958年5月5日に原爆の子の像が建立されてから、世界的なニュースになり、「サダコと千羽鶴の物語」も広がったと思います。

 世界的に広がるにはやはり日本語だけではなく外国語で紹介しないと詳細が分からないので、やはり外国語への翻訳あるいは外国語による紹介は大変重要です。

 その意味において「サダコと千羽鶴の話」を最初に外国で書籍の形で紹介したとされるのは、ロベルト・ユンク著「廃墟の光・甦るヒロシマ」とされています。
 ユンクはオーストリアのジャーナリストで、1956年に来日しています。その後単発的にドイツ語で新聞や雑誌に「サダコと千羽鶴の物語」を紹介する記事を書いた可能性は大いにあります。(私はドイツ語によるドイツ語圏での紹介は調べていません。)
 これでドイツ語圏に広がります。
 一方きちんとした本の形としての発表は1959年です。これが「廃墟の光・甦るヒロシマ」(原題 Strahlen aus der Asche)ですが、この中に643羽説などが書かれていたとしても、この本を情報源にしてドイツ語が得意だと自負するソ連の新聞記者が1958年に記事に書くことはできません。
 ちなみにこの本は世界14カ国で出版され、ロシア語訳が出版されたのは1962年です。(ロシア語の題名は「ЛУЧИ ИЗ ПЕПЛА」)

 次に外国語で「サダコと千羽鶴の話」を広めたきっかけになる本はオーストリアの作家カール・ブルックナーのドイツ語で書かれた本「サダコは生きる」(原題 Sadako will leben!)ですが、これも1961年発表で、多くの言語に翻訳されましたが、ロシア語訳(ロシア語の題名は「Садако хочет жить!」日本語に訳すと「サダコは生きたい!」で、ニュアンスが異なりますね。)も1964年に出版されました。
 この本にどんな数字が書かれていたとしても、1958年のソ連の新聞記者が情報源にできないのは明らかです。
 やはり643羽と1958年に新聞に書いたソ連の記者は日本で広がっていた643羽説を日本で、あるいは日本人経由で聞いて、あるいは映画「千羽鶴」の内容を聞いて、直接記事に書いた可能性が高いです。

 一方で、上記のドイツ語で書かれたオーストリア発の書籍2冊は、ロシア語にも翻訳された後はロシア語圏内(ソ連)で読まれたのですから、マクシム・タンクの詩や新聞記事だけでは得られない「サダコと千羽鶴の物語」を詳しく広めたと思います。
 この書籍が「サダコと千羽鶴の物語」の詳細をソ連で広める基礎になったと言えるでしょう。
 つまりドイツ語の作家の功績は大きいと言えます。しかし作者による創作部分もあるでしょう。

 画像はロシア語版「サダコは生きる」の表紙です。
 このようにロシア人画家によって、本に添えられた挿絵や表紙絵によって、佐々木禎子さんはおかっぱ頭でもなかったのに、いかにも外国人が想像しがちなステレオタイプの日本人の少女サダコの姿が、イメージとして次第に固まっていくわけです。

 しかし、ソ連の、特に子ども世代に「サダコと千羽鶴の話」を強烈に印象付けたのは映画でした。
(5)に続く。

(3) 佐々木禎子さんが折った鶴の数 643羽説

2021年08月07日 | サダコの千羽鶴
 佐々木禎子さんが折った鶴の数は諸説あるのですが、ソ連圏で「サダコと千羽鶴の物語」が紹介された1958年には、ソ連の新聞記事に643羽と明記されてしまい、新聞のほか、マクシム・タンクが書いた詩がロシア語に翻訳された際にもこの数字がそのまま、文芸誌に記載されたので、ソ連国内に643羽説が広まったと思います。

 このソ連の新聞記者は643羽という数字をどこから聞いたのかと考えたら、当然日本のジャーナリストでしょう。あるいは日本語で書かれた記事を読んだのだと思います。英語やドイツ語で書かれた記事をロシア語に翻訳した可能性もありますが、そうすると今度は、その英語の記事を書いたアメリカ人だかの記者はどこからこの数字を聞いたのか、ドイツ人の記者は誰からこの数字をきいたのかという疑問が起こり、結局行き着く先は日本人の誰かが、直接あるいはメディア媒体を通じて間接的に外国人ジャーナリストにそう伝えた、ということになります。

 日本人がまちがった数字を伝えた、ということです。もしかすると通訳の翻訳のまちがいかもしれません。

 643羽説については興味深い資料を見つけました。広島平和記念資料館の公式サイトに、所蔵資料の紹介があります。
 これは1957年12月1日に発行された雑誌「少女」12月号に掲載された、折り鶴を読者から募る記事です。
 そしてこの記事の中でも「禎子さんがなくなるまでつくったつるは643羽でした。」と書かれています。
 残り357羽を読者から募集して霊前に供えようという雑誌企画ですね。ここでは折り鶴は平和のシンボルではなく、健康祈願、鎮魂の意味合いで募集されています。
 
 注意点は、まずこの記事が掲載された雑誌「少女」12月号が発行されたのは1957年12月1日なので、1955年10月25日に佐々木禎子さんが亡くなってから、どんなに遅くても1957年11月30日までのおよそ2年の間には、すでに643羽説が日本国内に流布していたという点です。
 
 もう一つの注意点は、この記事の説明として広島平和記念資料館が、
「禎子さんは1300羽以上の鶴を折りましたが、映画『千羽鶴』では643羽としたため、この記事でもその数が使われています」
と公式サイトに説明を記載している点です。
 これは広島平和記念資料館の間違いだと私は思います。
 映画「千羽鶴」(木村荘十二監督)は1958年に公開されたからです。
 
 1957年発行の雑誌の記事に「643羽」と書いてあるのは、1958年公開の映画のシナリオで「643羽」とされているから、という広島平和記念資料館の説明は矛盾しています。

 もっとも、この映画の撮影のために広島の少年少女が出演していて、広島でロケをしていたので、1957年には、まだ映画は完成しておらず公開されていないけれど、映画の内容が外部に漏れていて、それを聞いた雑誌「少女」の記者が「643羽」と書いたのですよ、だから元の情報は映画「千羽鶴」なのです・・・という可能性もありますね。
 ただ、可能性としては小さいです。

 雑誌「少女」の643羽は、映画「千羽鶴」から得た数字ではなく、別の情報源があったと思われます。
 映画監督あるいは脚本家もそちらの情報源を、正しい数字として脚本に書いてしまった可能性が高いです。
 または、脚本を書いているときに、
「もうちょっと具体的に何羽作ったとはっきり数字を出したほうが、表現としてインパクトがあるんだが・・・誰か知らないかなあ・・・。」
と探していたら、偶然耳にしたのが643羽だったのではないでしょうか。

 1957年にはすでに643羽説が都市伝説のように広がっていたのでしょう。それがそのまま1958年のソ連の新聞記事に記載されたのだと思います。
 あるいは映画「千羽鶴」が1958年に公開されて、そこに出てくる数字が、そのまま1958年5月5日以降発行されたソ連の新聞に掲載され、ベラルーシ人の詩人が自分の作品の中に記した・・・ということもありえます。

 結局643羽説がどこから生まれたのか特定することはできませんでした。日本にも住んでおらず日本に存在するかもしれない紙媒体の情報源を探すこともできない私としては、これ以上突き詰めて調べるのは難しいので、この作業は続けません。
 ご存知の日本の方がおられましたら、ご一報ください。このブログ上でご紹介させていただきます。

(4)に続く