1986年チェルノブイリ原発事故が発生してから、被爆して白血病に罹る子どもが増えたベラルーシとウクライナでは、別の視点で「サダコと千羽鶴の物語」を紹介する流れが生まれました。
すでにロシアの児童文学作家ユーリー・ヤコブレフ(1922-1995)が1962年に「白い鶴」という短いお話を書いていましたが、同じくヤコブレフが1988年に「四人の少女への心」という文学作品を発表しました。
この作品はユーリー・ヤコブレフ選集に収録されています。
「白い鶴」より量も内容もずっと多いです。
作家のヤコブレフは反戦をテーマにした児童文学作品を執筆するにあたり、当時すでに反戦のアイコンとなっていた4人の少女を選びます。そしてそれぞれを主人公にした4つの短編を書き、まとめて「四人の少女への心」を発表しました。
今回私は原題「Страсти по четырём девочкам」を「四人の少女への心」と訳しましたが、「心」というより「情念」とか「魂の叫び」などに訳したほうがいい言葉です。でも、原題そもそもが児童文学作品らしいタイトルではないのですよ。
作者の反戦、平和を求める気持ちが前面に押し出されているタイトルです。
この選ばれた四人の少女は、ターニャ・サヴィチェワ、アンネ・フランク、サマンサ・スミス、佐々木禎子です。
アンネ・フランクは日本でも有名ですが、ターニャ・サヴィチェワ(「ターニャの日記」を書いたロシアの少女)は知らないという日本人が多いと思いますので、リンク先を貼っておきます。
それと他の3人とは違ってサマンサ・スミスは戦後生まれなので、どうしてこの作品で選ばれているのか分からない、という人のためにもリンク先を貼っておきます。
サマンサ・スミスはソ連では反戦のアイコンとして当時すでに有名で、
「この本を読んでいるみなさんも、サマンサちゃんのように平和を愛する心を持った人に成長してくださいね。戦後生まれのお手本ですよ。」
と作者は言いたかったのだろうと思います。
さて、この本の第4章に佐々木禎子さんが登場します。ほとんど作者の想像の世界が書かれており、その分悲しくも美しい文章で、一人称が多用され(サダコの独白シーンが多い。)子ども読者の涙を誘う文章です。
見つけにくいのですが、ロシア語でこの作品の第4章だけ読みたいという人のためにリンク先を貼っておきます。
ここでは折り鶴の数にはこだわっておらず「あと一羽・・・あと一羽足りない。」とサダコが独白しているだけです。
要するに999羽作ったという設定になっています。これも作者の文学者としてそうした、ということだと思います。
ソ連時代、「サダコの千羽鶴の物語」をロシア語で紹介することは、原爆の残酷さを広めることでした。児童文学の形では、子どもに教えることになりますが、それが奨励されたのは、裏に反アメリカ思想があり、「原爆を落とすのなんてひどい国だね、アメリカは。」という意識を子どもに刷り込ませる隠れた意図がソ連政府にあったから、ともされています。その裏で核実験をソ連国内(今のカザフスタン)で何百回も行い、核兵器を製造して、核こそが戦争抑止力になるとか国民に説明をしておきながらです。
ソ連時代のプロの作家は、原則全員国家公務員みたいなものなので、政府の命令に従って文学作品を作っていました。
皮肉にもそのおかげで「サダコの千羽鶴の物語」も広がりました。
しかし、この「四人の少女への心」には、アメリカ人のサマンサ・スミスが選ばれています。サマンサは平和大使であり、ソ連にも訪問したことのある米ソ友好のアイコンであり、反核のアイコンでもありました。
(佐々木禎子さんやアンネ・フランクのように10代で亡くなったのが選ばれた理由かもしれませんが。)
そのサマンサが選ばれたのは、反アメリカ思想に基づいて児童文学作品を作らなくてよくなってきた傾向がソ連時代末期には出てきた、ということです。
1985年にレーガンとゴルバチョフが初めて握手を交わしたことも影響を与えたと思います。
核兵器をちらちら見せながら、相手を威嚇する米ソ冷戦時代は終了し、核の削減交渉が始まります。
そしてソ連崩壊後は文学者の自由な表現が増えていきます。
さて、この「四人の少女への心」が発表された翌年、1989年にソ連の平和擁護ソビエト委員会付属「世界の子供に平和を」委員会が「4人の少女記念賞」という文芸賞を設立しました。
この4人の少女もターニャ・サヴィチェワ、アンネ・フランク、サマンサ・スミス、佐々木禎子となっています。
世界平和、そして反戦をテーマにした優れた文学に与えられる賞です。
第一回受賞者はロシア人ではなくアメリカの作家、パトリシア・モンタンドンです。
メダルも作られ、さらに年の明けた1990年1月にモスクワで授与式が行われました。
そのニュースが1990年にソ連の子ども向け新聞「ピオネールスカヤ・プラウダ」紙に掲載されました。
画像は「4人の少女記念賞」のメダルの写真と4人の少女の紹介記事です。
(広島平和記念資料館サイトではこの賞は1988年に設立されたと説明されていますが、誤りです。)
この新聞記事内では、644羽折り鶴を折ったことになっています。ヤコブレフ作の「四人の少女への心」では999羽でしたが、新聞記者はコア作の「サダコと千羽鶴」で書かれた数字をそのまま写したようですね。
残念なことにこの賞は1990年の第1回授与式が最初で最後でした。
当時はペレストロイカの時代で、いよいよソ連が崩壊へと進んでいった時代です。
国内の混乱のため「4人の少女記念賞」は1回の授与で終わってしまい、ソ連という国家も消えました。
(14)に続く。
すでにロシアの児童文学作家ユーリー・ヤコブレフ(1922-1995)が1962年に「白い鶴」という短いお話を書いていましたが、同じくヤコブレフが1988年に「四人の少女への心」という文学作品を発表しました。
この作品はユーリー・ヤコブレフ選集に収録されています。
「白い鶴」より量も内容もずっと多いです。
作家のヤコブレフは反戦をテーマにした児童文学作品を執筆するにあたり、当時すでに反戦のアイコンとなっていた4人の少女を選びます。そしてそれぞれを主人公にした4つの短編を書き、まとめて「四人の少女への心」を発表しました。
今回私は原題「Страсти по четырём девочкам」を「四人の少女への心」と訳しましたが、「心」というより「情念」とか「魂の叫び」などに訳したほうがいい言葉です。でも、原題そもそもが児童文学作品らしいタイトルではないのですよ。
作者の反戦、平和を求める気持ちが前面に押し出されているタイトルです。
この選ばれた四人の少女は、ターニャ・サヴィチェワ、アンネ・フランク、サマンサ・スミス、佐々木禎子です。
アンネ・フランクは日本でも有名ですが、ターニャ・サヴィチェワ(「ターニャの日記」を書いたロシアの少女)は知らないという日本人が多いと思いますので、リンク先を貼っておきます。
それと他の3人とは違ってサマンサ・スミスは戦後生まれなので、どうしてこの作品で選ばれているのか分からない、という人のためにもリンク先を貼っておきます。
サマンサ・スミスはソ連では反戦のアイコンとして当時すでに有名で、
「この本を読んでいるみなさんも、サマンサちゃんのように平和を愛する心を持った人に成長してくださいね。戦後生まれのお手本ですよ。」
と作者は言いたかったのだろうと思います。
さて、この本の第4章に佐々木禎子さんが登場します。ほとんど作者の想像の世界が書かれており、その分悲しくも美しい文章で、一人称が多用され(サダコの独白シーンが多い。)子ども読者の涙を誘う文章です。
見つけにくいのですが、ロシア語でこの作品の第4章だけ読みたいという人のためにリンク先を貼っておきます。
ここでは折り鶴の数にはこだわっておらず「あと一羽・・・あと一羽足りない。」とサダコが独白しているだけです。
要するに999羽作ったという設定になっています。これも作者の文学者としてそうした、ということだと思います。
ソ連時代、「サダコの千羽鶴の物語」をロシア語で紹介することは、原爆の残酷さを広めることでした。児童文学の形では、子どもに教えることになりますが、それが奨励されたのは、裏に反アメリカ思想があり、「原爆を落とすのなんてひどい国だね、アメリカは。」という意識を子どもに刷り込ませる隠れた意図がソ連政府にあったから、ともされています。その裏で核実験をソ連国内(今のカザフスタン)で何百回も行い、核兵器を製造して、核こそが戦争抑止力になるとか国民に説明をしておきながらです。
ソ連時代のプロの作家は、原則全員国家公務員みたいなものなので、政府の命令に従って文学作品を作っていました。
皮肉にもそのおかげで「サダコの千羽鶴の物語」も広がりました。
しかし、この「四人の少女への心」には、アメリカ人のサマンサ・スミスが選ばれています。サマンサは平和大使であり、ソ連にも訪問したことのある米ソ友好のアイコンであり、反核のアイコンでもありました。
(佐々木禎子さんやアンネ・フランクのように10代で亡くなったのが選ばれた理由かもしれませんが。)
そのサマンサが選ばれたのは、反アメリカ思想に基づいて児童文学作品を作らなくてよくなってきた傾向がソ連時代末期には出てきた、ということです。
1985年にレーガンとゴルバチョフが初めて握手を交わしたことも影響を与えたと思います。
核兵器をちらちら見せながら、相手を威嚇する米ソ冷戦時代は終了し、核の削減交渉が始まります。
そしてソ連崩壊後は文学者の自由な表現が増えていきます。
さて、この「四人の少女への心」が発表された翌年、1989年にソ連の平和擁護ソビエト委員会付属「世界の子供に平和を」委員会が「4人の少女記念賞」という文芸賞を設立しました。
この4人の少女もターニャ・サヴィチェワ、アンネ・フランク、サマンサ・スミス、佐々木禎子となっています。
世界平和、そして反戦をテーマにした優れた文学に与えられる賞です。
第一回受賞者はロシア人ではなくアメリカの作家、パトリシア・モンタンドンです。
メダルも作られ、さらに年の明けた1990年1月にモスクワで授与式が行われました。
そのニュースが1990年にソ連の子ども向け新聞「ピオネールスカヤ・プラウダ」紙に掲載されました。
画像は「4人の少女記念賞」のメダルの写真と4人の少女の紹介記事です。
(広島平和記念資料館サイトではこの賞は1988年に設立されたと説明されていますが、誤りです。)
この新聞記事内では、644羽折り鶴を折ったことになっています。ヤコブレフ作の「四人の少女への心」では999羽でしたが、新聞記者はコア作の「サダコと千羽鶴」で書かれた数字をそのまま写したようですね。
残念なことにこの賞は1990年の第1回授与式が最初で最後でした。
当時はペレストロイカの時代で、いよいよソ連が崩壊へと進んでいった時代です。
国内の混乱のため「4人の少女記念賞」は1回の授与で終わってしまい、ソ連という国家も消えました。
(14)に続く。