みつばちマーサのベラルーシ音楽ブログ

ベラルーシ音楽について紹介します!

(5) 映画「こんにちは、子どもたち!」(1962年)

2021年08月07日 | サダコの千羽鶴
 ロベルト・ユンク著「廃墟の光・甦るヒロシマ」のロシア語版がソ連国内で出版された同じ年にソ連映画「こんにちは、子どもたち!」が公開されます。

 監督はマルク・ドンスコイ。子ども向けの映画です。
 舞台はソ連で有名なサマーキャンプ場、アルテク。ここにはソ連中から子どもたちが集まり夏休みのキャンプ生活を楽しみます。さらにはソ連以外の国からも子どもたちが招待されてやってきます。
 その子どもの数の多いこと。団塊世代が集結したのかと思うぐらい。そして子どもたちの出身の旗が掲揚されているのはオリンピック会場さながら。

 年齢設定は10ー14歳ぐらい。いろんな国の子どもたちが共同生活を送るので、当然揉め事も起きます。有色人種への差別、第二次世界大戦の記憶がまだ多く残っていた60年代。「僕のお父さんは○○人と戦っていたんだ。」と○○人の子どもに言ったり、ささいなことで口喧嘩、それが枕投げ戦争になったりするのですが、騒ぎを起こし、仲が悪いのはとにかく男子。
 男子のお行儀が悪すぎるのに対し、女の子たちはみんな不思議なほど仲良しで、何の問題も起こさない。
 男子たちがまとまらないので、心を痛めるキャンプ場長。一応このキャンプ場長さんの女性が、キャスティングで言うと主役ということになっています。子ども向けの映画ですが、大人が主役ですね。
 
 ちなみに人種差別でいじめられている子に優しくするのは、ソ連出身の子どもである、という設定が多いです。
 喧嘩をするのもソ連の子どもが数の上で圧倒的に多いので、そうなっていますが、アメリカ人の男子が、ミサイルやモデルガンのおもちゃをたくさん持ってきて、男子がみんな大喜びで遊んだり、喧嘩をしたり、海水浴に行ったら、仲の悪い男子二人が水中でどっちが長く息を止められるか競争をして溺れかかり、
「敵に勝ちを譲ってはいけないって父さんに教えられたんだ。」
などと言い訳をするのを、
「まあまあ、男子はこんなもんですよ。(男は戦争が好きなんですよ。)厳しく叱らないでくださいよ。」
と男性の引率者がへらへら笑いながら、庇おうとするのを、女性キャンプ場長は、
「子どもがおもちゃと言えど兵器で遊ぶなんて反対です。子どもの遊びは社会の鏡ですよ。」
とびしっと言う。

 これも一種の男女差別になりはしないかと思うのですが、監督はとにかく、自分も男なのに、男子は争い事が好きであって、生まれつきの本能みたいなものであり、どうしようもないんですよ、でもね、これを平和に導いてくれるのは、女性なんです、女性。だからキャンプ場長は女性という設定にしてみました。そう、女性が世界を平和にし、男どもの頭を冷やしてくれるんです。という女性讃歌の映画を作りたかったようなのです。ちなみに脚本を書いたのは女性。

 男子は戦争好きの頭軽いという設定(人種差別を受けている男の子を優しく庇う男の子もいますが。)なので、常に男子はキャンプ場で問題を起こす。それを何とかまとめたいと悩むキャンプ場長。
 と、そこへ日本から少女、イネコがやってきます! これも女性ですね。
 
 このイネコ(たぶん漢字だと稲子さん)は着物を着て、子犬(秋田犬ではなく狆?)を胸に抱え、おかっぱ頭に大きなリボン、そしてロシア語ペラペラ。その可憐さに、その場にいた多国籍子ども集団が、男女年齢問わず、一瞬でめろめろになります。
 映画を見ていた日本人のおばさん(私)すらハートを射抜かれましたよ。萌えるという動詞の持つ意味が分かりました。

 イネコさん役は、ナターシャ・キシドさん。名前はロシア風ですが、純粋に日本人です。この映画が初出演で唯一の出演作品なのですが、それが信じられないほどの堂々とした演技で、キャスティング大成功ですね。
 はっきり言って、この映画の主役ですよ。主役のキャンプ場長より、他の国の子どもより、ずっと目立つように撮影されています。

 初登場シーンからして特別。夜中にふと目を覚ました男子が、暗がりの光(スポットライト風)の中で、着物姿のイネコを見る。隣で寝ていた男子を起こして、
「おい、妖精がいたぜ。ほら、あそこに・・・。」
「誰もいないぞ。」
「おかしいなあ。」
 着物の長い袖が妖精の服に見えたようなのです。
 翌朝、朝食の時間に、
「新しいお友達が日本から来ましたよ。」
と紹介されてキャンプ場の食堂に扇子をひらひらさせながら登場するイネコさん。ひと目見て、でへへーとなってしまう男子たち。
「あの妖精だ!」
「同じテーブルに入れてあげる人は誰ですか。」
とキャンプ場長が尋ねると、みんな、はい!はい!と手を上げる。
 大勢いる子どもの中で極端にイネコさん一人が大人気。

 切れ長の奥二重のまぶた、長めのおかっぱ、内側からにじみ出てくる美しさ。
 サマーキャンプが舞台なので出てくる水泳のシーンでは水着姿ですが、一人日傘代わりの番傘をさす。子どもたちのために日本語の歌まで披露。
 稲子さんの周りに群がる子どもたち。性別関係なし。
 上品で、優しくて気遣いもできて・・・と完璧日本人少女です。

 この稲子さんを見ているだけで、当時のソ連人が頭の中で作っていた日本人少女のイメージをそのまま監督は表現したことが分かります。
 ある意味ステレオタイプだし、
「着物着て子犬を抱えて日本からソ連のサマーキャンプ場に来る子なんかいるか?」
と突っ込みを入れたくなる日本人もいると思います。(他にもたくさん突っ込みどころが多い映画なんですが、多すぎて一つ一つここに書けない・・・。)
 しかし、インターネットも普及していない当時のソ連の子どもからすると、この動いてしゃべって、歌うイネコの姿が、記憶に強烈にインプットされました。

 さて、もてもてのイネコさんはかつての敵国であるアメリカの男の子から、しゃべる人形をプレゼントされたりします。ケンカばかりしていた男子もイネコさんのほうばかり見ているので、キャンプ場は一気に平和になります。
 あるとき、キャンプ場の近くにある山へ子どもたちは登山に行きます。そこで空を見ていたイネコは、もくもくとした雲が沸き起こるのを見て、
「あの雲はいや! こんな空はいや!」
と悲鳴を上げて倒れてしまいます。
 実はイネコさんは広島出身で、原爆の被爆者だったのです。雲が原爆のきのこ雲に見えて、記憶がフラッシュバックしたのでした。
 担架でキャンプ場に運ばれたイネコさんは、被爆のために白血病になったと突然診断されます。
 病気を治すためにモスクワからドクター二人がヘリに乗って、キャンプ場にやってきます。
 そのうち一人は日本人の医師、ウシハラ(牛原?)教授。この教授の役を演じているのが、ナターシャ・キシドさんのお父さん、ヤコブ・キシドさんなのです。名前はロシア風ですが純日本人です。
 この共演したキシド親子については後述します。

 牛原教授は、イネコさんを励まそうと、折り鶴を作れば病気は治るよと教えます。病床で鶴を作り始めるイネコ。完全に佐々木禎子さんがモデルになっています。
 しかし、この映画の中ではなぜか千羽鶴ではなく、30万羽作ったら元気になれると説明しました。
 30万羽・・・とても一人では作れません。
 そのためイネコを助けるんだとキャンプ場の子どもたちが立ち上がります。喧嘩も差別も戦争ごっこもすっかり忘れて、紙で鶴を作り始めます。
 折り鶴もあれば、切り紙で鶴を作る子どもも。キャンプ場の近くに住む地元住民の子どもまで噂を聞きつけ、鶴を作って届けます。
 こんなにキャンプ場の子どもの心が一つにまとまったことがあったでしょうか。
 折り鶴は山のように増え、そのてっぺんに日の丸が立てられます。
(日本人は、この映画を絶対見るべき・・・とまでは言いませんが、存在ぐらいは知っておいてほしいと思いながら、この記事を書いています。)

 イネコの病気によって、キャンプ場の子どもたちは一致団結、みんな仲良しになります。
 しかし病状は悪化するばかり。
 骨髄移植しか方法はない、とフランスとドイツからその第一人者がヘリで飛んできて、キャンプ場の中で移植手術を決定。
 ドナーは、
「日本に原爆を落としたのは私の母国、アメリカ。だから私がドナーになります!」
と子どもを引率してきたアメリカ人女性が手を挙げる。
 他人同士だし、ちょうど合う骨髄を持っているとは限らないのでは・・・というつっこみはさておき、手術は成功。

(「サダコと千羽鶴の物語」がソ連で広がったのは、米ソ冷戦時代で「原爆を落としたアメリカという国はひどい。」というイメージを広げる隠れた意味があった・・・という意見もあるのですが、この映画を見ていると、アメリカ人の男の子がイネコさんに絵英語でしゃべるアメリカン・ボーイのお人形をプレゼントしたり、アメリカ人女性が骨髄ドナーになったりと、とてもアンチ・アメリカ意識をソ連の子どもに刷り込もうとしているようには見えません。)

 ところが突然イネコの容態は悪化。日本語でお母さん・・・と呼びながら痛みに苦しむイネコさん。(このあたりから私の涙腺は緩みっぱなしに。)

 次に音楽でイネコを励まそうと、子どもたちはコンサートを始める。自分の国の民族衣装を着て、踊ったり歌ったりする。
 病室で子どもたちの歌声に耳を傾けるイネコさん。しかし、その両目の光がだんだん薄れてゆき、イネコは死んでしまいます。

 このシーンを見ていて、泣いたソ連の子どもは何百万人といるでしょうね。

 映画では仲良くなったキャンプ場の子どもたちが別れを惜しみながら、それぞれの故郷に帰っていくシーンになります。人種を超えた友情、子どもが戦争の犠牲にならない平和な世界を作ることを約束し合います。ドナーだったアメリカ人女性はイネコさんが飼っていた犬をもらってアメリカへ。
 日の丸が立てられていた折り鶴の山に風が吹き、鶴は空へ撒き散らされます。
 そして、ここから合成の映像になるのですが、世界中の空に紙の鶴が数え切れないほど飛んでいきます。
 やはり鶴は平和のシンボルで、それが世界中に飛んでいく・・・このラストシーンを監督は撮りたかったんだろうなあと思います。

 この映画はこんなに日本のアイテムが出てくるのに、日本では未公開です。
 日本の歌も挿入歌で入っています。こんなにたくさんの多国籍の子どもが出演しているのに、映画のポスターは手書きのイラストで大きく日本人少女の顔と空を飛ぶ白い鶴が飛んでいます。でもこのイラストの女の子はイネコさんに似ていません。

 この映画を見たい人はYoutubeで「Здравствуйте, дети!」1962で検索してください。日本語字幕などはついていないオリジナルが見られます。

 監督が佐々木禎子さんをイネコのモデルにしているのは明らかです。
 そのイネコを演じたナターシャ・キシドさんとそのお父さん、ヤコブ・キシドさんについて。
 この映画はソ連映画を紹介するサイトで、詳細を知ることができます。
 ここで出演者の情報も分かります。
 
 それによると、ヤコブ・キシドさんは他にもソ連映画に日本人の役で出演しており、そのときはヤコブ・キシダという表記だった。(本名は岸田さん?)
 ヤコブやナターシャはロシアに住んでいたときの通称名で、本名ではない可能性が高い。
 ヤコブ・キシドさんは戦前サハリンに住んでいたが、戦後レニングラード(今のサンクト・ペテルブルグ)に家族で引っ越した。レニングラード大学で働いていた。
 キシド一家はロシアに約20年住んでいたが、日本に帰国した。
 ナターシャ・キシドさんはロシア語の通訳になった。
 結婚されたので、現在の名字はキシドでもキシダでもない可能性が高い。

 ・・・お二人とも今は芸能人などではなく一般人として暮らしておられるので、上記サイトに載っている内容をあまり詳しく訳していません。
 ただ、このサイトのコメント欄に一人のロシア人女性が、
「ナターシャと中学2年生から高校1年生まで同じクラスだった。どうしたらいいのか分からないけどナターシャに連絡を取りたい。ナターシャはとてもかわいくて成績優秀でおとなしく、控えめな子だった。」
と2019年に書き込んでいるんですよね。
 ナターシャ・キシドさんはロシア語ができるのですから、もしこのコメント欄を見たら、私を友達が探している・・・とすぐ分かると思います。
 ただ、このロシア人女性、現在住んでいるところをアメリカのミルウォーキーにしているんですよね。ロシアからアメリカに移住したのかもしれません。そうすると連絡を取り合うのが難しいかもしれませんが、コメント欄の書き込みから2年経って、連絡がついたのかなあ・・・とベラルーシで勝手に思っています。

 おそらくお二人とも1950年代のお生まれで、今60歳代か70代初めぐらいだと思うのですが、それでも懐かしくてナターシャに会いたいとロシア人の友達から言われているので、本当に魅力的な人なんだろうなあと思います。

 画像は映画「こんにちは、子どもたち!」からのスクリーンショット。隣の女性はキャンプ場長さん。
 つまりですね、このキャンプ場長さんのような、母性を体現しているような女性と、イネコさんのような純粋な心を持った少女が、世界を平和に導くんですよ、とこの監督は言いたかったのでしょう。

 映画の影響は大きいですね。
 ソ連の子どもたちに消えない印象を与えたイネコ。
 そのモデルになった佐々木禎子さん。
 映画によってソ連(ロシア語圏)の中で「千羽鶴を折る病気の日本人少女」のイメージが広まり、固定化されていったと思います。つまり視覚的なアイコン化です。
 
(6)に続く
 

(4) ロシア語に翻訳されたドイツ語書籍

2021年08月07日 | サダコの千羽鶴
 佐々木禎子さんが折った鶴の数が643羽とするのは、ソ連圏内では新聞に取り上げられたことや、マクシム・タンクが詩に書いたことによって広まったと思います。
 
 少し話はそれますが、この数字について調べたことを書きます。

 「サダコと千羽鶴の物語」は当然のことながら1955年10月25日に佐々木禎子さんが亡くなった途端、世界に広がったものではありません。「訃報! あの佐々木禎子さんが死去。千羽鶴も甲斐無く・・・」などというニュースが1955年10月26日に世界を駆け巡ったわけではありません。
 やはり1958年5月5日に原爆の子の像が建立されてから、世界的なニュースになり、「サダコと千羽鶴の物語」も広がったと思います。

 世界的に広がるにはやはり日本語だけではなく外国語で紹介しないと詳細が分からないので、やはり外国語への翻訳あるいは外国語による紹介は大変重要です。

 その意味において「サダコと千羽鶴の話」を最初に外国で書籍の形で紹介したとされるのは、ロベルト・ユンク著「廃墟の光・甦るヒロシマ」とされています。
 ユンクはオーストリアのジャーナリストで、1956年に来日しています。その後単発的にドイツ語で新聞や雑誌に「サダコと千羽鶴の物語」を紹介する記事を書いた可能性は大いにあります。(私はドイツ語によるドイツ語圏での紹介は調べていません。)
 これでドイツ語圏に広がります。
 一方きちんとした本の形としての発表は1959年です。これが「廃墟の光・甦るヒロシマ」(原題 Strahlen aus der Asche)ですが、この中に643羽説などが書かれていたとしても、この本を情報源にしてドイツ語が得意だと自負するソ連の新聞記者が1958年に記事に書くことはできません。
 ちなみにこの本は世界14カ国で出版され、ロシア語訳が出版されたのは1962年です。(ロシア語の題名は「ЛУЧИ ИЗ ПЕПЛА」)

 次に外国語で「サダコと千羽鶴の話」を広めたきっかけになる本はオーストリアの作家カール・ブルックナーのドイツ語で書かれた本「サダコは生きる」(原題 Sadako will leben!)ですが、これも1961年発表で、多くの言語に翻訳されましたが、ロシア語訳(ロシア語の題名は「Садако хочет жить!」日本語に訳すと「サダコは生きたい!」で、ニュアンスが異なりますね。)も1964年に出版されました。
 この本にどんな数字が書かれていたとしても、1958年のソ連の新聞記者が情報源にできないのは明らかです。
 やはり643羽と1958年に新聞に書いたソ連の記者は日本で広がっていた643羽説を日本で、あるいは日本人経由で聞いて、あるいは映画「千羽鶴」の内容を聞いて、直接記事に書いた可能性が高いです。

 一方で、上記のドイツ語で書かれたオーストリア発の書籍2冊は、ロシア語にも翻訳された後はロシア語圏内(ソ連)で読まれたのですから、マクシム・タンクの詩や新聞記事だけでは得られない「サダコと千羽鶴の物語」を詳しく広めたと思います。
 この書籍が「サダコと千羽鶴の物語」の詳細をソ連で広める基礎になったと言えるでしょう。
 つまりドイツ語の作家の功績は大きいと言えます。しかし作者による創作部分もあるでしょう。

 画像はロシア語版「サダコは生きる」の表紙です。
 このようにロシア人画家によって、本に添えられた挿絵や表紙絵によって、佐々木禎子さんはおかっぱ頭でもなかったのに、いかにも外国人が想像しがちなステレオタイプの日本人の少女サダコの姿が、イメージとして次第に固まっていくわけです。

 しかし、ソ連の、特に子ども世代に「サダコと千羽鶴の話」を強烈に印象付けたのは映画でした。
(5)に続く。

(3) 佐々木禎子さんが折った鶴の数 643羽説

2021年08月07日 | サダコの千羽鶴
 佐々木禎子さんが折った鶴の数は諸説あるのですが、ソ連圏で「サダコと千羽鶴の物語」が紹介された1958年には、ソ連の新聞記事に643羽と明記されてしまい、新聞のほか、マクシム・タンクが書いた詩がロシア語に翻訳された際にもこの数字がそのまま、文芸誌に記載されたので、ソ連国内に643羽説が広まったと思います。

 このソ連の新聞記者は643羽という数字をどこから聞いたのかと考えたら、当然日本のジャーナリストでしょう。あるいは日本語で書かれた記事を読んだのだと思います。英語やドイツ語で書かれた記事をロシア語に翻訳した可能性もありますが、そうすると今度は、その英語の記事を書いたアメリカ人だかの記者はどこからこの数字を聞いたのか、ドイツ人の記者は誰からこの数字をきいたのかという疑問が起こり、結局行き着く先は日本人の誰かが、直接あるいはメディア媒体を通じて間接的に外国人ジャーナリストにそう伝えた、ということになります。

 日本人がまちがった数字を伝えた、ということです。もしかすると通訳の翻訳のまちがいかもしれません。

 643羽説については興味深い資料を見つけました。広島平和記念資料館の公式サイトに、所蔵資料の紹介があります。
 これは1957年12月1日に発行された雑誌「少女」12月号に掲載された、折り鶴を読者から募る記事です。
 そしてこの記事の中でも「禎子さんがなくなるまでつくったつるは643羽でした。」と書かれています。
 残り357羽を読者から募集して霊前に供えようという雑誌企画ですね。ここでは折り鶴は平和のシンボルではなく、健康祈願、鎮魂の意味合いで募集されています。
 
 注意点は、まずこの記事が掲載された雑誌「少女」12月号が発行されたのは1957年12月1日なので、1955年10月25日に佐々木禎子さんが亡くなってから、どんなに遅くても1957年11月30日までのおよそ2年の間には、すでに643羽説が日本国内に流布していたという点です。
 
 もう一つの注意点は、この記事の説明として広島平和記念資料館が、
「禎子さんは1300羽以上の鶴を折りましたが、映画『千羽鶴』では643羽としたため、この記事でもその数が使われています」
と公式サイトに説明を記載している点です。
 これは広島平和記念資料館の間違いだと私は思います。
 映画「千羽鶴」(木村荘十二監督)は1958年に公開されたからです。
 
 1957年発行の雑誌の記事に「643羽」と書いてあるのは、1958年公開の映画のシナリオで「643羽」とされているから、という広島平和記念資料館の説明は矛盾しています。

 もっとも、この映画の撮影のために広島の少年少女が出演していて、広島でロケをしていたので、1957年には、まだ映画は完成しておらず公開されていないけれど、映画の内容が外部に漏れていて、それを聞いた雑誌「少女」の記者が「643羽」と書いたのですよ、だから元の情報は映画「千羽鶴」なのです・・・という可能性もありますね。
 ただ、可能性としては小さいです。

 雑誌「少女」の643羽は、映画「千羽鶴」から得た数字ではなく、別の情報源があったと思われます。
 映画監督あるいは脚本家もそちらの情報源を、正しい数字として脚本に書いてしまった可能性が高いです。
 または、脚本を書いているときに、
「もうちょっと具体的に何羽作ったとはっきり数字を出したほうが、表現としてインパクトがあるんだが・・・誰か知らないかなあ・・・。」
と探していたら、偶然耳にしたのが643羽だったのではないでしょうか。

 1957年にはすでに643羽説が都市伝説のように広がっていたのでしょう。それがそのまま1958年のソ連の新聞記事に記載されたのだと思います。
 あるいは映画「千羽鶴」が1958年に公開されて、そこに出てくる数字が、そのまま1958年5月5日以降発行されたソ連の新聞に掲載され、ベラルーシ人の詩人が自分の作品の中に記した・・・ということもありえます。

 結局643羽説がどこから生まれたのか特定することはできませんでした。日本にも住んでおらず日本に存在するかもしれない紙媒体の情報源を探すこともできない私としては、これ以上突き詰めて調べるのは難しいので、この作業は続けません。
 ご存知の日本の方がおられましたら、ご一報ください。このブログ上でご紹介させていただきます。

(4)に続く