みつばちマーサのベラルーシ音楽ブログ

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(3) 佐々木禎子さんが折った鶴の数 643羽説

2021年08月07日 | サダコの千羽鶴
 佐々木禎子さんが折った鶴の数は諸説あるのですが、ソ連圏で「サダコと千羽鶴の物語」が紹介された1958年には、ソ連の新聞記事に643羽と明記されてしまい、新聞のほか、マクシム・タンクが書いた詩がロシア語に翻訳された際にもこの数字がそのまま、文芸誌に記載されたので、ソ連国内に643羽説が広まったと思います。

 このソ連の新聞記者は643羽という数字をどこから聞いたのかと考えたら、当然日本のジャーナリストでしょう。あるいは日本語で書かれた記事を読んだのだと思います。英語やドイツ語で書かれた記事をロシア語に翻訳した可能性もありますが、そうすると今度は、その英語の記事を書いたアメリカ人だかの記者はどこからこの数字を聞いたのか、ドイツ人の記者は誰からこの数字をきいたのかという疑問が起こり、結局行き着く先は日本人の誰かが、直接あるいはメディア媒体を通じて間接的に外国人ジャーナリストにそう伝えた、ということになります。

 日本人がまちがった数字を伝えた、ということです。もしかすると通訳の翻訳のまちがいかもしれません。

 643羽説については興味深い資料を見つけました。広島平和記念資料館の公式サイトに、所蔵資料の紹介があります。
 これは1957年12月1日に発行された雑誌「少女」12月号に掲載された、折り鶴を読者から募る記事です。
 そしてこの記事の中でも「禎子さんがなくなるまでつくったつるは643羽でした。」と書かれています。
 残り357羽を読者から募集して霊前に供えようという雑誌企画ですね。ここでは折り鶴は平和のシンボルではなく、健康祈願、鎮魂の意味合いで募集されています。
 
 注意点は、まずこの記事が掲載された雑誌「少女」12月号が発行されたのは1957年12月1日なので、1955年10月25日に佐々木禎子さんが亡くなってから、どんなに遅くても1957年11月30日までのおよそ2年の間には、すでに643羽説が日本国内に流布していたという点です。
 
 もう一つの注意点は、この記事の説明として広島平和記念資料館が、
「禎子さんは1300羽以上の鶴を折りましたが、映画『千羽鶴』では643羽としたため、この記事でもその数が使われています」
と公式サイトに説明を記載している点です。
 これは広島平和記念資料館の間違いだと私は思います。
 映画「千羽鶴」(木村荘十二監督)は1958年に公開されたからです。
 
 1957年発行の雑誌の記事に「643羽」と書いてあるのは、1958年公開の映画のシナリオで「643羽」とされているから、という広島平和記念資料館の説明は矛盾しています。

 もっとも、この映画の撮影のために広島の少年少女が出演していて、広島でロケをしていたので、1957年には、まだ映画は完成しておらず公開されていないけれど、映画の内容が外部に漏れていて、それを聞いた雑誌「少女」の記者が「643羽」と書いたのですよ、だから元の情報は映画「千羽鶴」なのです・・・という可能性もありますね。
 ただ、可能性としては小さいです。

 雑誌「少女」の643羽は、映画「千羽鶴」から得た数字ではなく、別の情報源があったと思われます。
 映画監督あるいは脚本家もそちらの情報源を、正しい数字として脚本に書いてしまった可能性が高いです。
 または、脚本を書いているときに、
「もうちょっと具体的に何羽作ったとはっきり数字を出したほうが、表現としてインパクトがあるんだが・・・誰か知らないかなあ・・・。」
と探していたら、偶然耳にしたのが643羽だったのではないでしょうか。

 1957年にはすでに643羽説が都市伝説のように広がっていたのでしょう。それがそのまま1958年のソ連の新聞記事に記載されたのだと思います。
 あるいは映画「千羽鶴」が1958年に公開されて、そこに出てくる数字が、そのまま1958年5月5日以降発行されたソ連の新聞に掲載され、ベラルーシ人の詩人が自分の作品の中に記した・・・ということもありえます。

 結局643羽説がどこから生まれたのか特定することはできませんでした。日本にも住んでおらず日本に存在するかもしれない紙媒体の情報源を探すこともできない私としては、これ以上突き詰めて調べるのは難しいので、この作業は続けません。
 ご存知の日本の方がおられましたら、ご一報ください。このブログ上でご紹介させていただきます。

(4)に続く


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