みつばちマーサのベラルーシ音楽ブログ

ベラルーシ音楽について紹介します!

文化の広がり サダコの千羽鶴について 序文

2021年08月06日 | サダコの千羽鶴
 ベラルーシの詩人、ジャルハイが1957年に「広島」というベラルーシ語の詩を書いていたことについてすでに投稿しました。
 その前からも、その後も絵本「おりづるの旅 さだこの祈りをのせて」(うみのしほ・作 狩野富貴子・絵 PHP研究所・出版)を使って、ベラルーシの小学生を対象におりづるのワークショップを続けています。
 そんな中、いわゆる「サダコの千羽鶴の物語」がロシア語、つまりソ連圏でどれぐらい広がっているのか気になりました。
 ここで言う「サダコの千羽鶴の物語」とは、「広島の原爆により被曝し、白血病になった少女、サダコ(モデルは佐々木禎子さん)が快癒を願って千羽鶴を折ったが、願いは叶わず死んでしまった。」というストーリーのことです。

 以前「おりづるの旅」をゴメリの児童図書館に寄付したとき、司書の方が、こんな歌がありますよ、とわざわざかけてくれた歌で「日本の鶴」という歌があったのです。
 それを今度は私がミンスクの児童図書館で小学生に聞かせていたのですが、「日本の鶴」というタイトルの歌なのに、日本人の私が知らなかったのです。

 それも日本人として恥ずかしいかなと考え、ロシア人がロシア語で作った歌、しかも1971年の発表で、今からちょうど50年前の歌であることから、ロシアとベラルーシ、つまりソ連圏で、どれぐらい「サダコの千羽鶴の物語」は広がっているのか、もう少し詳しく調べることにしました。

 その結果、驚くほどいろいろな作品に登場していたことが分かりました。
 堂々と「佐々木禎子さんに捧ぐ」と献辞が冒頭に書かれている作品もあります。
 しかし、佐々木禎子さんはもう故人なので、当然ですが自分にロシア人がロシア語で詩を書いて捧げていても知るよしもありません。
 見方を変えると、故人だからと、作品を作る側が勝手に献辞して、売名行為をしているようにも見える場合もあります。
 献辞した外国人は佐々木禎子さんのご遺族には、もちろん連絡をしないので、こんなにたくさんのロシア語作品が禎子さんに捧げられていることをご遺族も知りません。
 ご遺族も、ああ、どんどん勝手に故人の名前を使ってもいいよ、売名行為に使ってもいいよと思われているかもしれません。
 外国語だから、世界中で佐々木禎子の名前を使っていても、いちいち把握しようがないと思われているでしょう。

 また別の考え方では、例えば大学の先生で、日本の文化の一つとして、佐々木禎子さんの名あるいは「サダコの千羽鶴の物語」がどのぐらい世界に広がっているのか研究している人がいれば、ご遺族は把握しなくてもいいわけです。
 しかし、私は大学で文化学を教えているような身分でもないですし、誰かに研究してくださいと強要するわけにもいきません。
 このような資料を収集、保管すべき広島平和記念資料館の所蔵リストにもなく、資料館側も、経年劣化が進んでいる被爆者の遺品収集に注力しているせいか、世界に広がる平和運動に関しては、外国語の文化資料には熱心ではありません。

 また著作権の問題があり、ロシア語作品の内容を日本の方にお知らせしたくて、日本語に翻訳したくとも、原作者やあるいはその遺族の許可がいちいち必要なので、翻訳する気力が私にはありません。

(ちなみに詩「広島」の作者シャルハイ・ジャルハイの著作権については、ベラルーシの著作権保護協会に連絡して、公式回答ももらい、すでに著作権そのものが消滅していることを法的に確認済みです。)

 それに日本人に
「佐々木禎子さんのことがロシア語で作品になっているんですよ。」
と言ったところで、ふーん・・・ぐらいの反応しかなさそうです。
 逆にベラルーシ人に
「ベラルーシの○○が日本語に翻訳されて、日本人は知ってるんですよ。」
と教えてあげたら
「え、本当?! うれしいなあ。ありがたい。」
と大喜びするんですが。
 まあ、日本人の意識だと
「日本の○○がロシア語に翻訳されて、ロシア人は知っているんですよ。」
とロシア人に言われても、
「そりゃそうだよ。日本の○○は、有名で人気で優れた作品なんだから。」
と驚かないでしょう。

 日本人が驚かないこと自体を、いいとか悪いとかこのブログ上で議論するつもりはありません。

 ともかく、私自身はロシア語圏における「サダコの千羽鶴の物語」の広がりについて、広く日本人に、原爆被爆者に、研究者に、ご遺族に知らせようとは思いませんでした。

 一方で、今回いろいろ調べているときに感じたのは、やはりインターネット上で情報を残していると、いつか誰かがどこかで調べ始めたときに、見つけてもらえやすいということです。
 紙媒体で発表されたものの、その後デジタル化されていない情報は、今鎖国状態になっているベラルーシで、調査の対価(調査費用、発表への対価や評価、発表そのものの機会)もない私には探す労力を考えるとやる気が起きません。
 もちろん今回私が見つけられなかったものは存在していないもの、とは言えません。かと言って調査し尽くすこともできません。

 つまり中途半端なんですよね。内容も日本人に知らせても反応がなさそうだから、和訳する気力もないし、広島の平和運動関係者の依頼だったら、著作権の問題をクリアしてでも翻訳するけれど、日本人は世界で佐々木禎子さんがどのように扱われているのか関心がないので依頼もしてこないでしょう。

 このような事情により、完全網羅したわけでもなく、和訳もなく、自分の備忘録として、以下の記事を投稿します。
 もちろん心の片隅では、もしかしたら遠い将来、どこかの誰かが私のブログ(デジタル媒体情報)を見つけてくれて、サダコの千羽鶴の話の広がりの一枝として読んでくれる日が来るかもしれないとも考えています。
 そして、今回の私の記事の執筆を佐々木禎子さんの鎮魂に繋げたいです。
 さらに、今のベラルーシで生きる者として、私自身が戦争反対の立場でいる人間の表明にします。

広島の原爆投下から76年の今日から少しずつ記事を投稿します。ご興味のある方は御覧ください。
 (1)の記事はこちらです
 


最新の画像もっと見る