みつばちマーサのベラルーシ音楽ブログ

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(4) ロシア語に翻訳されたドイツ語書籍

2021年08月07日 | サダコの千羽鶴
 佐々木禎子さんが折った鶴の数が643羽とするのは、ソ連圏内では新聞に取り上げられたことや、マクシム・タンクが詩に書いたことによって広まったと思います。
 
 少し話はそれますが、この数字について調べたことを書きます。

 「サダコと千羽鶴の物語」は当然のことながら1955年10月25日に佐々木禎子さんが亡くなった途端、世界に広がったものではありません。「訃報! あの佐々木禎子さんが死去。千羽鶴も甲斐無く・・・」などというニュースが1955年10月26日に世界を駆け巡ったわけではありません。
 やはり1958年5月5日に原爆の子の像が建立されてから、世界的なニュースになり、「サダコと千羽鶴の物語」も広がったと思います。

 世界的に広がるにはやはり日本語だけではなく外国語で紹介しないと詳細が分からないので、やはり外国語への翻訳あるいは外国語による紹介は大変重要です。

 その意味において「サダコと千羽鶴の話」を最初に外国で書籍の形で紹介したとされるのは、ロベルト・ユンク著「廃墟の光・甦るヒロシマ」とされています。
 ユンクはオーストリアのジャーナリストで、1956年に来日しています。その後単発的にドイツ語で新聞や雑誌に「サダコと千羽鶴の物語」を紹介する記事を書いた可能性は大いにあります。(私はドイツ語によるドイツ語圏での紹介は調べていません。)
 これでドイツ語圏に広がります。
 一方きちんとした本の形としての発表は1959年です。これが「廃墟の光・甦るヒロシマ」(原題 Strahlen aus der Asche)ですが、この中に643羽説などが書かれていたとしても、この本を情報源にしてドイツ語が得意だと自負するソ連の新聞記者が1958年に記事に書くことはできません。
 ちなみにこの本は世界14カ国で出版され、ロシア語訳が出版されたのは1962年です。(ロシア語の題名は「ЛУЧИ ИЗ ПЕПЛА」)

 次に外国語で「サダコと千羽鶴の話」を広めたきっかけになる本はオーストリアの作家カール・ブルックナーのドイツ語で書かれた本「サダコは生きる」(原題 Sadako will leben!)ですが、これも1961年発表で、多くの言語に翻訳されましたが、ロシア語訳(ロシア語の題名は「Садако хочет жить!」日本語に訳すと「サダコは生きたい!」で、ニュアンスが異なりますね。)も1964年に出版されました。
 この本にどんな数字が書かれていたとしても、1958年のソ連の新聞記者が情報源にできないのは明らかです。
 やはり643羽と1958年に新聞に書いたソ連の記者は日本で広がっていた643羽説を日本で、あるいは日本人経由で聞いて、あるいは映画「千羽鶴」の内容を聞いて、直接記事に書いた可能性が高いです。

 一方で、上記のドイツ語で書かれたオーストリア発の書籍2冊は、ロシア語にも翻訳された後はロシア語圏内(ソ連)で読まれたのですから、マクシム・タンクの詩や新聞記事だけでは得られない「サダコと千羽鶴の物語」を詳しく広めたと思います。
 この書籍が「サダコと千羽鶴の物語」の詳細をソ連で広める基礎になったと言えるでしょう。
 つまりドイツ語の作家の功績は大きいと言えます。しかし作者による創作部分もあるでしょう。

 画像はロシア語版「サダコは生きる」の表紙です。
 このようにロシア人画家によって、本に添えられた挿絵や表紙絵によって、佐々木禎子さんはおかっぱ頭でもなかったのに、いかにも外国人が想像しがちなステレオタイプの日本人の少女サダコの姿が、イメージとして次第に固まっていくわけです。

 しかし、ソ連の、特に子ども世代に「サダコと千羽鶴の話」を強烈に印象付けたのは映画でした。
(5)に続く。


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