My Life After MIT Sloan

組織と個人のグローバル化から、イノベーション、起業家育成、技術経営まで。

明治時代からグローバルなニーズを捉えて成功した日本の工業生産

2011-03-10 14:35:00 | 2. イノベーション・技術経営

今週は私は休暇で、論文のようなものを家に缶詰になって執筆している。
その過程で面白い話を見つけたのでご紹介。

日本ブランドの工業生産の輸出は、戦後のイトヘン・カネヘンとか、ソニーのトランジスタラジオやトヨタの車などで始まったイメージの人も多いかもしれないが、実は戦前からかなり盛んに日本ブランドの構築と輸出が行われていた。
その一つが、生糸(絹糸になる前段階の糸。これを撚ることで絹糸が出来る)の輸出である。

明治政府の「殖産興業」の政策の一つは、「貿易による外貨獲得」であった。
1868年(安政5年)に開国した日本が当時輸出できるものといえば、農産品の生糸と緑茶くらいだった。
が、緑茶の方は当時のグローバル市場ではインドの紅茶に徐々に敗退しつつあった(参考)。
生糸は、次第に農業器具の改善が進んで手工業化が進んでいた農村で農婦が繭から糸車などを使って生産するものだ。(日本史でやったでしょ?)
当時、世界の生糸のシェアの大半を持っていたのは、中国(清国)製の安い生糸だった。
糸車を使って手工業で生産していた日本製の生糸は、量も少なく、品質も安定しない。
中国製も糸車で生産されたものだが、莫大な量が出ていたわけである。

そこで明治政府は、この生糸の生産を国を上げて工業化することにした。
これが1872年(明治5年)の富岡製糸所の創設である。
その後も民間の投資により次々と機械式の生糸生産のための工場が設立されている。

当時、生糸の最大の消費国はアメリカだ。
輸入した生糸を撚って絹糸を作り、それを加工して絹織物を作る工業が東海岸を中心に大きく発展していた。
このころ、アメリカではイギリスより遅れて産業革命が起こっていた。
それまで水車などを使って作られていた絹糸や絹織物が、蒸気機関などで機械化されつつあった。
そうすると、今までと異なり、良質でかつ均質な生糸が必要となる。
そんなアメリカで一番人気があったのは、ほぼ100%機械式で生産されるイタリアの生糸だった。
この市場に、国を挙げて機械生産をはじめた日本の生糸が徐々に食い込み始めたのだ。

この日本産の機械式生糸のブランド構築とマーケティングを行ったのが、富岡製糸所の所長を長く務めた速水堅曹、そして民間の製糸所を設立した実業家、星野長太郎である。
アメリカで行われた万国博覧会で、日本の最高級の絹糸を出品し、日本品の名声を高めた。
また、米国の絹織物生産者に直接アプローチして、日本品の宣伝をし、営業を行い、販路を構築した。
これらの設立者や工場の所長自身が、彼らの不満やニーズを聞き、それを日本の製糸所での生産にフィードバックし、改良していった。
少しでも日本製の品質が落ちた、といううわさを聞けば、その話を聞きにいき、改善に努めたのである。
当時は、米国での絹糸の機械生産だって、完全に安定したものではなかった。
だから、単なる品質向上ではなく、その状況に対応した品質の向上が不可欠だったわけだ。
経営・マーケティング用語で一時期流行になった「カスタマーバック」を、彼らは普通にやっていたことになる。

また、当時は日本は生糸など競争の激しい商品しか持っておらず、顧客を持つ外国商人に大きくリベートを取られ、買い叩かれていた。
これを防ぐため、ただ輸出するだけでなく、需要家に食い込んで直接売っていく「直輸出」が国家的にも至上命題だった。
それを受けて、これらの人々が、現地の仲買人や絹織物生産者と直接取引を行う商社の設立を提唱し、実際に設立を行った。
この商社を活用して、直接営業に行き、販路を拡大するだけでなく、顧客のニーズを知り、自社のブランドを高めるということがより容易に出来るようになってきた。
日本産の品質は、当時高品質の製品を輸出していたフランスやイタリアに勝るという名声が徐々にいきわたり始めた。

その結果、1906-10年には米国市場で、日本製シェアが5割を超えるほどになった。
一方、需要家の変化を察知せずに、いつまでも手動での生糸生産を行っていた中国は敗退していった。
(参考:生糸輸出と日本の経済発展(山澤逸平 一橋大学研究年報、経済学研究1975年)

世界一高品質であるという日本ブランドも、単なる品質の向上ではなく、需要家の声を聞いて、そのニーズに対応する形で品質を上げたことで成立したのだ。
また、現地で直接海外の需要家にアプローチできる商社などの機能を構築したのも、非常に大きな役割を持つ。

このように、グローバルな(といっても当時はアメリカ市場がメインだったが)ニーズを拾うことにより、「高品質ブランド」を築くやり方は、今になって始まったわけじゃない。
最近、家電や半導体などの分野で韓国や台湾製などの躍進が目覚しく、日本の十八番だった「高品質ブランド」が奪われつつある。
しかし、日本は明治時代の頃からこういうことをやって、成功していたわけであり、こういうところにヒントがあるのではないか、と思うのだ。

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1 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
そんなに昔から! (kumasuke)
2011-03-12 17:15:22
明治時代からキチンとマーケティングをしていたということですね。当時は政府主導だったみたいですけど、非常に企業的な視点があったみたいですね。明治の人たちは理論的な考え方ができる方だったのでしょうか。すごい。

今のよく似た状況ですね。今の政府にもこういうことができると、関係省庁の方々もやりがいがあるでしょうし、面白いと思うのですが。
例えば、発電(原子力、風力等)、交通機関(EVと充電インフラ、鉄道)など国を挙げて力を入れるべき商品・技術があると思うので、頑張って欲しいです。
サービスもこれから伸ばす必要があるとは思いますが、日本は明治からモノ作りを得意としていたということだと思うので、得意分野を伸ばしていくことが、より強力な政策になるように思います。

余談になりますが、「電磁メタマテリアル」という初めて聞く研究領域があるのですが、昨年度から政府予算がついたみたいです。
昨日、その講演会があり、非常に地味ではありましたが(笑)、材料開発で革命的なことができる可能性が大きいと感じました。電気屋さんや機会屋さんの視点で研究に参入できるからです。
このような戦略的な技術に補助金を掛けた政府はなかなかやるじゃないかと思いました(上から目線ですいません)。
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