ご無沙汰してます。5月半ばに筆を取って以来、また仕事がハンパなく忙しくなってしまい、まったくブログ記事を書けずにおりました・・・。忙しいのはあと3週間くらい変わらなそうですが、今日はアナウンスも兼ねて筆を取りました。
6月19日に、「グローバル・エリートの時代-個人が国家を超え、日本の未来をつくる」を講談社より発売します!
(Amazonで予約可能です)
グローバル・エリートの時代 個人が国家を超え、日本の未来をつくる | |
倉本 由香利 | |
講談社 |
こちらの本は、ブログからではなく、まったくの書き下ろしです。私がMBAにいた2年前に講談社さんに声をかけられて以来書き続けて、漸く今年の2月に書き終えました。ブログを書くのはあんなに早くて量も多いのに、本を書くのは何故そんなに時間がかかったのか、と思う人も多いと思いますが、色々と調べて考えを深めているうちに時間がかかってしまいました。MBAのときも企業のケーススタディなど一部のネタについて書いてたのですが、その後3ヶ月のプロジェクトの合間に1週間休みを取って書く、ということを3-4回繰り返して漸く仕上げました。結構面白い仮説や提言を載せているので、楽しめると思います。
本の内容と議論の背景については、出版社に怒られない程度に、出版前にこのブログでも書いていこうと思います。(結構いろんなことを書いたので、このブログにちょっと書いたからってネタバレするほどではないということもあり)
まずは恐らく多くの人が気になるであろう「何故、いまグローバル化なのか」「エリートとは何ぞや」の二点について書こうと思います。
■何故、いま「グローバル化」なのか-いまグローバル化の質が大きく変わっている
現在の日本は、「グローバル化」という概念に関しては完全に二極化していると思う。商社、製造業、小売業、そして飲食や銀行などのサービス業など、日本企業に勤めている人の多くは、企業全体で海外売上高比率を上げるとか、グローバル化を進めるといった課題に取り組んでおり、「グローバル化」が日々の仕事の一部になっている人々がいるだろう。その一方で、グローバルなんて遠い話題で、日々の生活にまったく関係ないところで仕事や生活をしている人たちも多いと思う。前者は「何故、いまさらグローバル化なの?」と思うだろうし、後者は「何故、グローバル化なの?普通の日本人には関係ないし・・・」と思うだろう。
今回、私が「グローバル化」を題材として取り上げた理由は二つある。ひとつはグローバル化の質が、以前とは大きく変わってきているということだ。これは前者の「いまさらグローバル?」という人たちへのメッセージだ。世界経済の主軸が新興国に移るにつれ、グローバル化に必要なスキルが大きく変わってきている。だから敢えてグローバル化を取り上げたいと考えた。
「グローバル化(Globalization)」という言葉は、1970年頃から論文や学術書などで使われるようになった。その後、1980年代後半からビジネスの世界でも盛んに使われるようになった。しかし、この頃は世界経済における先進国のシェアが9割を超えており、企業にとってのグローバル化とは、他の先進国に進出することだった。アメリカ、ヨーロッパ、日本のどの国の企業にとっても、まず狙うべきは自国の巨大市場、そして同じ技術や製品を活かして進出できる先進国のほかの国に行くことだった。この傾向は2000年代に入っても余り変わらず、2003年にBRICという言葉が作られたけれど、海外進出の際に先進国が中心となる状況は大きくは変わらなかった。
ところが、今後は世界経済の主軸は新興国となる。2005年ころから「世界の工場」だった中国は、世界一の消費国としての道を歩み始めた。IMFの統計によれば、来年2013年には、新興国のGDP合計が、先進国のGDP合計を超えるという。更には、(統計にもよるが)2025年から30年のころには、先進国トップ7カ国のG7のGDP合計を、新興国トップ7カ国(BRIC+メキシコ、インドネシア、トルコ)のGDP合計が上回るとされている。
新興国への進出を第一に考えることは、先進国への進出とはまったく異なっている。なぜなら、電力、水道、インターネット、道路などの社会のインフラが整っておらず、会社も個人も払うお金を余り持っていないにもかかわらず、先進国と同等に戦えるだけの非常に高い品質を求めてくるからだ。先進国企業は、新興国企業や個人のニーズを十分に汲み取って、生産や開発までフィードバックをかけて、スペックを絞った安価な開発・生産が求められ、迅速な意思決定をする必要があり、そこには新興国の人材を大量に使うことが必要になるだろう。また、研究開発などでも新興国の人材を出来るだけ活用し、先進国の研究開発ネットワークを十分に活用しながら、現地からのイノベーションを生むことが求められる。このように、かつて先進国に進出していた時代とは異なり、組織そのものがグローバル化しなければ、他のグローバル企業に太刀打ちできなくなってくるだろう。
ではどうすればよいのか。日本企業は、どのようにして組織のグローバル化を果たせばよいか、そのために個人はどのように意識を変えていく必要があるか、ということを書こうと思ったのが、この本を書き始めたきっかけだった。
■何故、いま「グローバル化」なのか-新興国の経済成長を取り込むことが、日本経済復活の鍵に
「グローバル化」を題材として取り上げたもうひとつの理由はグローバル化を進めないと、もう日本で雇用も生まれないし、日本経済が復活することもない、というところまで来ていると考えていることだ。「普通の日本人には関係ない」と思っている人に対して、そうではない、いま世界で起こっているのは、成長する新興国の富を取り込んでいかなければ、先進国は生き残りが出来なくなってきていることを示そうと思ったことだ。
日本は今後、人口が減少していき、それに伴って内需も減少していくと考えられる。日本企業が、日本国内市場だけに頼っていては、売上規模は小さくならざるを得ない、そうなれば、日本国内で雇用される人も減少していき、平均給与が下がるから人々がお金を使わなくなり、市場規模が小さくなり・・という負のスパイラルに陥ることは明らかである。一方で、新興国市場はGDPが年間で5-10%くらい成長しており、まさに日本の1960年代の「高度経済成長期」にある。
重要なのは、この新興国の人々が必要としているもの、欲しいと思っているものは、彼ら自国の技術やサービスだけでは得られないということだ。日本が持つ、水、バイオ、ナノテクあらゆる分野の要素技術や、ものづくりの生産技術、「おもてなしの心」にあふれるサービスなど、日本人にしか提供できないものが多い。これらを提供しつつ、新興国のニーズと結びつけて、市場を獲得していくことをまじめにやっていくことで、これらの国の成長が日本企業の売上につながり、日本経済に取り込んでいくことが出来るだろうし、これが日本人の新たな雇用を生むことにもつながるだろう。そのためには、日本人で、これらの新興国との橋渡しをして、ニーズを刈り取り、営業をし、事業開発を行い、現地の人々や企業とのネットワークを築く人々がいなければ、成り立たない。
いくつもの新興国が経済的に発展する今、色んな文化的背景を持つ人々と、(英語やその国の言語はもちろんとして)、彼らを理解し、柔軟に対応し、時には問題解決をして、リードしながら働いていくことが出来る人たちが、多く必要になるだろう。私は「グローバル・エリート」と呼んでいる。「グローバル・リーダー」という良くある言葉を使わなかったのは、別にリーダーである必要はないと思ったからだ。普通に現場で、あるいは中間管理層で、いろんな国の人たちと普通に働いて、彼らの力を生かせる人たちがもっと必要になる。こういうグローバル・エリート層が増えて、新興国の富を日本経済に取り入れることが出来なければ、日本経済が復活することは難しいだろうと思っている。
■なぜ「エリート」という言葉を使うのか
最後にそういう人材を何故「グローバル・エリート」と名づけたかについて。「エリート」という言葉に嫌悪感を持つ人は多いらしく、このタイトルが決まった後も、「エリート」という言葉の部分に引っかかる方、「そういう面白い内容だったら何故エリートという言葉を使ったの?」といって下さる方、たくさんの人にあった。でも私としては、もともと「エリート」という言葉は、何らかラッキーなものを持つ人は、その力を他の人たちのために活かしていくことができる人たちである、というところから来た言葉であることにこだわった。
それに、全ての人に「グローバルに働ける人材になれ!」というのは、ちょっと嘘ではないか、と思ったのだ。全ての日本人が、多様な文化的背景を持つ人々と働いて、その彼らの能力を活かして、仕事をしていくことが出来るわけではない。努力は必要だが、その努力が出来る環境にある人、小さな頃から教育の機会を与えられた人、若いときからグローバルな環境で働くことが出来て、その力がついている人のほうが、グローバルに活躍するのにはギャップが少ないだろう。
ノブリス・オブリージュ(noblesse oblige : 何らかの特権を持つ人々は持たない人々に対して貢献をしなくてはならないという考え方)という言葉があるように、教育や仕事の上での機会を与えられ、グローバルに働く能力がある人は、その力を発揮してグローバルに活躍する(グローバルに出稼ぎする)ことで、そうでない人との雇用を生み出したり、社会的基盤を支える屋台骨としての日本経済に貢献したりすることが求められるのではないか、と思っている。言ってみれば「現代版出稼ぎ」を、その能力がある人がやるべきだと思っている、ということだ。
それから「グローバル・エリート」はこの現代社会においては、そこまで選ばれた存在ではない。先ほども書いたように、別に「リーダー」である必要はなく、色んな文化の人たちと抵抗なく働けて、日本の技術やサービスをトレーニングしたり、広めたり、営業したり、新興国の人たちの力を活かして何かを作ったり、そういうことが出来る人全般を指している。豊かな国である日本には、努力さえすれば、そういうことが出来るポテンシャルを持つ人がたくさんいる。
もっとも、グローバル・エリートたち自身は、別に「ノブレス・オブリージュ」みたいな義務感を持って働く必要は必ずしもない。いろんな国の人たちに出会って、苦労しながらも色んな学びを得ていくのは楽しいことだ。そうやってグローバルな環境で働くことを楽しいと思うグローバル・エリートたちが増えることが、ひいては日本経済の再成長につながっていくと思っている。
周知のように自動車産業は国内市場は縮小
しつつあり、私の勤務先も積極的にアジアに進出しています。
そんなわけでグローバル化は他人事ではなくなってきています。
書籍を拝読させていただき、自分はグローバル化とどのように向かい合うかいろいろ考えたいと思います。
これからの日本人の在り方を本質的に捉えられた著書だと感じております。
今までのグローバリゼーションでは、他の欧米先進国との差異が、あまり必要とされて来なかったと思いますが、これからは、世界を牽引する新興国がアジアに集中している事実を踏まえ、日本らしさを生かした上手なグローバル戦略が必要とされます。
社会人のみならず、中高大学生にも理解して考えて頂きたいテーマだと思います。
>豊かな国である日本には、努力さえすれば、そういうことが出来るポテンシャルを持つ人がたくさんいる。
まさにその通りだと思います。かつての日本人企業戦士ががんがん海外出ていったわけだから、出来ないわけないないですよね。ほんと内向きなマインドが問題で、そこを倉本さん達オピニオンリーダーが啓蒙していくことを期待します。
このことと、倉本さん言っている「エリート」はつながっているのではないかと思った。精神の崇高さは有能さの代替にはならない。
そういう意味で、倉本さんがエリートは、「ノブリス・オブリージュ」で駆動してほしいと言ったとき、最初は抵抗感があった。だが、よくよく考えると意味のあることではないかと思えてきた。
例えば、グローバルエリートではなく、ローカルエリートかもしれないが、ライブドアのホリエモンもコムスンの折口氏も失脚した。一般から見れば彼らはただの金の亡者にしかみえなかった。
また、国内企業の例ではないが、Foxconnも労働環境の過酷さと自殺率の高さが糾弾の的になっている。
能率のいいシステムを維持するには、リーダーは、ただの金儲けのために働いているのではないと一般の人に理解してもらう必要がある。
その意味で倉本さんが、ノブリス・オブリージュという概念を持ち出して来たのには、結構良いことではないか。と思うようになってきた。
後は、実際に、リーダーがノブリス・オブリージュでやっていると信じさせる仕掛けが必要だろう。
また、一般の人々にこの概念を普及させるには、もっと簡単な言葉を使ったほうが良いかもしれない。
海外を基点に放浪生活をしているので紙の本はどうしても重荷になってしまいます。
E媒体の予定はあるのでしょうか?
日本では、官僚などの上層から普通の会社員さらにはDQNと呼ばれる人々に至るまで、一般に思われているよりもずっと多くの人がただただ献身的な努力をされています。
おてんとさま労働とは良く言ったもので、高貴であることとはあまり関係がありません。ただ、何を目標として努力をするのか、どういう戦略でどういう作戦としての目標を設定するのか?という部分が未熟である為に目的が同一組織の部門間ですら場が違えばバラバラになり、それが相互の不信へと繋がって、さらに場による目標がバラバラになるという構造的な悪循環があると思います。
「エリート」と呼ばれる人々の少なからぬ方々が既に「ノブリス・オブリージュ」のような感情によって駆動されているのに、それが信頼されず、しばしば高慢で自己中心的な人物の集まりのように思われていることに問題があるのだと思います。
それは一般の「庶民」の側から見ても対称な構造があって、やはりそれぞれの場の目標に対しては一生懸命働いているのに、「勝手な不平不満ばかり上にぶつけてくる」ような存在として扱われてしまうことに問題があると思います。
したがって、もし「ノブリス・オブリージュ」のようなものを「エリート」に求めるのだとすれば、それは「場を越境」し分離した場をつなぎ合わせていく作業なのだと思います。
このようなバラバラな場のバラバラな目標という構造的な問題を打破することは相当な困難と軋轢を伴ってしまうかもしれません。しかし、これは我が国がグローバルな競争に耐えていく為には必要なことだと思います。
だからこそ「エリート」はまず「エリート」という場の境界を取り除き、自ら様々な場の中に入っていく必要があるのではないでしょうか?例えばDQNと呼ばれる人達と「エリート」の間の壁を取り払うのだとするのならば、まずは「エリート」の肩書きを取り払うことが必要なのだと考えます。
1.経済のグローバル化により、英語のみならず、外国語習得の重要性が高まっている。
2.日本は、経済のグローバル化にあわせた、経済の構造改革が不可欠(解雇規制を緩和し、労働力の流動化、転職しやすい環境にすることなども含む。)
ただ、最近のマスメディアの論調もそうですが、「人口減少の日本が今後も経済成長するためには新興国の需要を取り込むしかなく、そのためにグローバル化が必要」という主張には、少し違和感を覚え、そのまま100%賛同することができません。
もちろん、成長する新興国の需要を取り込むことは必要です。
しかし、その新興国は、高度成長期の日本と同じく「追いつけ追い越せ」の成長過程にある国々だと思います。
日本がそれら新興国の需要に頼るということは、いまだに日本という国が、戦後50年の「キャッチアップ体制」から抜け出せないことを意味します。
早い話、日本は人口も減少する「過疎国」で将来性もないから、外国に出稼ぎに行くしかない、という負け犬的な話でしかないと思います。
私は、日本そのものの経済構造改革を実行し、日本に人材やマネーが集まるようにすることがまず第一にやるべきことだと思います。
日本再生のために最初に議論することは、これ以上、日本を「アジアの中の過疎国」にしないことではないでしょうか。
私はかつて趣味でIT関連のサイトを作ったことがあり、そのサイトは100万アクセス近いアクセスを集めましたが、その当時思ったのは、日本のIT技術のレベルが極めて低いということでした。
同時に、日本のIT業界にオリジナリティや独創性といったものを、ほとんど感じることができませんでした。
成熟した経済である日本経済が今後も成長するためには、イノベーションが不可欠であり、そのためには、高度な知識を持つ人材の開国を進め、移民も真剣に議論するしかないと思います。
IT業界も独創性のある優秀な人材を日本に輸入することで、化学反応が起こり、そこから、グローバルスタンダードとなるような技術やビジネスモデルが生まれるかもしれません。
海外の知識を導入することの重要性は、不動産鑑定の世界でも同じで、不動産証券化のための鑑定評価は、証券化先進国のアメリカでやっていたことがそのまま日本に伝わました。
以上、グローバル化というなら、まず人材を含む経済の開国を第一に行うべきであり、それにより日本経済は再生できると思います。
有難うございます。楽しんで頂ければ幸いです。
自動車サービス業なのですね。サービス業は私がこの本で書いている「第一のグローバル化」を漸く迫られてきた業界だと思っています。でも日本の強みが発揮できる余地のあるところだと思っております
@hirokoさん
>これからは、世界を牽引する新興国がアジアに集中している事実を踏まえ、日本らしさを生かした上手なグローバル戦略が必要とされます。
これはまったく同感です。私もこれからアジアのさまざまな国々が大きくなる今後は、日本人の得意な調整型のリーダーシップがグローバルなプロジェクトなどをまとめるのに必須となってくると思っています。
これを本の中では「プル型のグローバル化」と読んでいます。アングロサクソン的な、自国のやり方を相手に採用させる「プッシュ型」は難しくなると思っています。
>社会人のみならず、中高大学生にも理解して考えて頂きたいテーマだと思います。
本当にそうですね。そして中高大のころからグローバル・エリートとなるための教育を授けていきたいとおもっています
@wgaraiさん
有難うございます。グローバル化の現場での実行だけでなく(こちらは仕事でやってます)、「言論によって変えていく」という部分も担えるのであれば、やっていきたいと思っています。
@HWさん
>また、一般の人々にこの概念を普及させるには、もっと簡単な言葉を使ったほうが良いかもしれない。
そうかもしれません。「エリート」という言葉には色々反発があるかもしれません。
でもだからこそ、定着する可能性があるんじゃないかと思ってこの言葉を選んでます。2011年の始めころに作った言葉でした。
英語ではGlobal Eliteはグローバルに金儲けするインテリ層の意味で昨年頃から多少定着しつつあるようですが、私としては、ノブレス・オブリージュの意味合いのあるこの言葉、この意味で定着させたいと思っています
@ツバメさん
>新興国、途上国で働くのもいいけれど、お給料が気になる。日本で年収500万円は普通かもしれないが、たとえばミャンマーだったら。
結局単純労働者となってしまうと、稼ぎはどの国に行っても小さくなってしまいますね。たとえば日本とミャンマーをつなぐ役割を果たすことで、大きな付加価値を与えられれば、その付加価値からいくばくかはもらえるので、その人の給与も上がる、ということだと思います。
橋渡し役のニーズは非常に高いのに対して、現状では人材が足りてないからこそ、価値が高く評価されうると思っています
有難うございます!電子書籍は7月27日に全国の電子書籍販売サイトから販売されるそうです。紙より遅く設定してるのは正直残念ですけどね・・。
どうぞ宜しくお願いします
@Vaccajさん
こちらの考察は非常に参考になります。有難うございます。
>もし「ノブリス・オブリージュ」のようなものを「エリート」に求めるのだとすれば、それは「場を越境」し分離した場をつなぎ合わせていく作業なのだと思います。
まさにそうだと思います。ただし、その役割は「エリート」の役割なのだと思っています。
「エリート」は本人の所属を示しているのではなく、「役割」に過ぎない、と思っています。もちろん役割は能力に従いますが。社会の中で、たまたまそういう能力を得られたものが「グローバル・エリート」という役割を果たす。
グローバル・エリートとローカル・サポーター(国内でコモディティ的な仕事に従事する人を私は項呼んでいます。)の間に貴賎はなく、能力の差に応じた役割に過ぎないと。だからこそ、ローカル・サポーターが失業したり、所得が少ないときに、稼ぎが大きくなる傾向が高いグローバル・エリートがそれを支援するという構造になるんだと思います。
@yoochanさん
コメント有難うございます。実は「グローバル出稼ぎ」たるグローバル・エリートのやる仕事の一番大きなところは、新興国の市場を開拓し、ニーズを聞き、それを日本国内で持っている技術などにつなげること、次に日本が持つ技術を新興国で展開し、生産や応用開発を出来るだけ新興国でも行えるように展開することだと思っています。
わたしはこの本の中で、明治時代から始まっている販売のグローバル化を「グローバル化の第一の波」、生産拠点などを次々海外に移す生産のグローバル化を「グローバル化の第二の波」、そして新興国の人材なども活用して組織そのものがグローバル化する過程を「第三のグローバル化」と呼んでいます。そのグローバル化した組織において、新興国出身の人材なども含めて束ねて、活躍できる人材が「グローバル・エリート」なのです。
まさにおっしゃっている「人材を含む経済の開国」とはこの第三のグローバル化に当たるのではないかとおもいます。